王都二日目・王都市場にて
✳︎✳︎✳︎で視点切り替え
ルートヴィヒ→リーリエラ
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「いい女だったよー」
ほんの僅かグラスを宙に掲げたヴィート様が、とろりと溶けた青の瞳に苦いものを浮かべる。
「ちゃんと愛してあげられなかったのを、悔やんじゃうぐらいにはさぁ」
床に片膝を立てて座り、ぐらぐら揺れるワインの瓶を傾けて私の持ったグラスを満たす。こぼれる前に手を添えて止めると、ちゃぷちゃぷ瓶を揺らして子供のように瓶の口を覗き込む。
「俺が守りたいものを一緒に守るから、自分の作りたいものを一緒に作ってくれって口説かれた、十年間」
残りのワインを煽って、空になった瓶と共にごろりと床に転がり、ふふふふふ、と気味の悪い笑みを零す。
「なのに先に逝くなんて、詰めが甘いよねぇ。守るものだけ増やして、残してさぁ」
酒臭い呼気と共に紡がれるのは、亡くした伴侶への愚痴か懺悔か。
「ルー。ルートヴィヒ。俺一人で守れるものなんて、そう多くないんだよ?」
「……泣き言か」
「ほんと泣きたい。死んだらあの世で絶対怒られる」
どうやらこの男の奥方は、ずいぶんと遣り手であったらしい。
最上の愛を実の姉に捧げる男の心に、確実に居場所を残した女性を心の内で称賛する。
べそべそと泣きながら眠りに落ちる男を、夢の中へとため息で見送り、窓の外、白み始めた空を眺めた。
昨日までの旅に僅かな仮眠をとっただけで、今まで飲み明かしていたのだから、流石に眠い。
だが生まれてこの方、家を出ていた一年ですら欠かすことのなかった朝の鍛錬の習慣が、酒精が満たした体を疼かせるから仕方ない。
与えられた客室に戻り、エラの発案の伸縮素材の鍛錬着に着替えて、先に休ませたので体調万全といった顔をした護衛のリュークと共に庭に出た。
「随分と飲まれましたね」
軽く筋を伸ばしながらリュークが苦笑する。
「飲まされた。悪いが合わせてくれ」
「御意」
領を離れたからか、杯を重ねた相手が同じような性質だからか、日頃秘めていたものを随分と吐き出してしまった。
どこかふわふわした気分でしばらく型通りの組み手を合わせ、休憩をとる。酒精で体温が上がっているせいか、いつもより汗がすごい。
「羽織るものがある方が良さそうですね。部屋から取ってきます」
「……ああ、すまぬ」
構わないと言うか否か迷ったが、汗まみれで他家をうろつくのもどうかと思い、頼むことにする。
太陽の匂いのするティオルで汗を拭い、水を飲もうと革袋に手を伸ばしたところで、屋敷の方から甘やかな気配が近付いてくるのを感じた。
酒精の回った頭にこみ上げる愛おしさのまま、愛称を呼び微笑みかける。丸くした目を潤ませ、はにかんで頰を染めるエラが尊い。
隣の虫を牽制し、室内用のドレス姿のエラに丁度いい護身用の体捌きの稽古をつけていると、虫が顔色を無くして目を見開いているのが目に入り、思わず嗤った。
可憐さだけで引き寄せられる愚かな虫には、エラの馥郁たる香りは毒だろう。
お呼びでないと、早目に気付かせて差し上げたのはヴィート様への温情だ。
自らの愛と、妻と娘を犠牲にあの男が守ろうとした、レイド伯爵家ーー姉と過ごした場所を、次に守るのはこの息子なのだから。
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「肉うまっ」
屋台でカテラが買ってくれた、焼いた串肉にかぶり付く。まだ朝に近い時間からはなかなか胃に重いけど、兄様に稽古をつけてもらったからか、体が肉を欲している。
屋台のおっちゃんが、マリブと家畜牛の交配種だと教えてくれた。道理でマリブより脂があっさり……え、待って。普通の牛いんの?
「辺境では飼うより狩る方が手っ取り早いですよ」
「カテラ、それは攻撃力的な目線だよね?これから先の安定供給を考えると、それもどうだろう……」
鍛錬の後、お酒臭い兄様が朗らかに笑いながら護衛のリュークに引きずられて行った後、ヴィンセント様にお願いしてレイド家の護衛二人を借り、カテラと一緒にお忍びスタイルで市場に連れてきてもらった。
リュークに来てもらおうかと思ったんだけど、レイド家で酔って眠る兄様を一人にするのはよくないとのこと。……ああ、うん、そうかも。
レイド家の護衛さんは、もっと貴族のお嬢様が行くような高級店街を回るものだと思っていたようで、庶民御用達の朝市で二本目の串肉を強請る私を見ながら、若干オロオロしていらっしゃる。
ですが、気にせずいろんなものにこっそり鑑定かけて、市場調査に励もうと思います。
なんせ明日と明後日は、逃げようのない貴族イベントが待っているのだもの……はぁ、憂鬱。
目についた珍しい食材や素材なんかを鑑定してはメモをとり、カテラにも世間話めいた聞き取り調査をお願いしながら、ずらりと並んだ簡易テントの出店を回る。
一番の狙いは調味料。護衛さんに聞いたら、王都の塩の種類は豊富ですよって返ってきた。その種類が純粋な塩の成分のことじゃなく、ハーブソルトとか加工品であることを祈る。届かなそうだけど。
百近い数の出店に新鮮な野菜や食材が並ぶ朝市は、昼までには片付けられてしまうらしい。ちょっと出遅れたし、制覇は諦めよう。
お父さん設定をお願いした30半ばだという護衛のジョエルさんに、邪魔にならない道端に寄って抱っこをせがみ、高いところから辺りを見回す。
縦に伸びた大通りにひしめく人々。横道の細い路地にもお店があるのか、そちらにも人が流れている。
「三つ目より向こうの横道は、少々治安が良くない場所に繋がる道なので行っちゃダメですよ」
「はーい、パパ」
「パ……」
私の目線を辿って注意してくれるジョエルさんの敬語を、パパ呼びで制する。こういうのはなりきらないとダメなんだよ、パパ。
「……ちょっといかがわしく見えるのは俺だけですかね?」
「ジョエルパパの人相とエラ様の天使っぷりの落差のせいですね、わかります」
もう一人の若手の護衛のマルクさんとカテラがひそひそ話すのをなんともなしに眺めていると、視界の隅にふと見覚えのある人影を捉えた。
「……あれ、ヴィオラ嬢?」
「え?どこです?」
「あそこ。奥の、黒いローブ」
人並みの向こう、人がまばらな場所。すっぽりと身を覆う黒いローブ姿の人影を指差す。
「うーん?中身が見えないですね。護衛も付いてませんし。ちなみに、なぜお嬢様だと思われました?」
「歩き方。骨格のバランスと重心移動……だけど、なんとなくだから違うかも。ごめんなさい」
俯きがちに人目を避けるようにキョロキョロしてるのが逆に目立つ。怪しさが半端ない。
あんな不審者を自分達の仕える家のご令嬢だとか言ったら失礼だよね。
「いえ……昨夜、お屋敷のとある場所で見かけたお嬢様の動きに似てはいますし」
「……とある場所って、もしかして客室の」
「黙秘します。申し訳ありません」
それ以上の追求はやめて、地面に下ろしてもらう。
嫌がらせに利き手と逆の方の手を繋いでやった。はぐれると困るし一石二鳥だ。
あわあわしているジョエルパパにニヤニヤしていると、カテラとマルクさんがなんとも言えない顔でこちらを見ていた。
とりあえず不審者のことは忘れて、市場調査を再開する。トマトとかナスとか夏野菜に似たものがあると嬉しいのだけど、今のところ見当たらず。できれば苗も。育ちが早いものだと、苗では毒が抜けないかもしれないから種も。
「全体的に、いいお値段ですね」
こそっとカテラが囁いてくるのに頷く。商品には目立つ値札がついているのだけど、ブルーム領内の価格の三倍くらいじゃなかろうか。
ちなみにロダール王国の通貨は金貨、銀貨、銅貨が大中小と大きさで十倍ずつ価値が上がる。中は大と同じ大きさで真ん中に穴が開いている。
単位はダール。小銅貨が一ダール。貨幣価値は円と同じくらいの感覚だから助かる。
「運送費と……あとは税金とか?」
ブルーム領内の流通にしか関わっていないけど、今後、領外にいろいろ広げようと思ったら、ちゃんと経済のことも勉強しないといけないなぁ。
いや、別に勉強が嫌いなわけじゃないんだよ?
けど、琴音の時に苦労しなかった暗記とか計算とか、基礎的なところにもリーリエラはつまずいてしまうので、集中が切れやすい。
当たり前にできてたことができないって、能力以上に大変だ。
まだ10歳だしって希望的観測もあるけど、多分そうじゃない。じい様が言ってたみたいに、琴音の頭の出来が良すぎたんだ。
でも、もう私はリーリエラなんだから、この体でできるようにならなきゃならない。挑戦あるのみだね!
気を取り直してジョエルパパに税率のことを尋ねると、王都の外から入ってくるときに十五パーセントの関税がかかると教えてくれた。それはなかなかだ。
「あとは、市場に店を出すのに一区画五千ダールと、売上の三十パーセントの支払い義務がありま……ある」
「ええ?じゃあ税金とか引いたら、ブルーム領での売値と同じくらいになるってことか。でもここまでの運送費とか王都に入るのにもお金いるよね?」
「加工品だったりすると王都内に倉庫を借りてる商人もいるよ。一日二、三千ダールくらいかな」
飄々と敬語を外すマルクの実家は商会関係らしく、他にも内部事情をホイホイ教えてくれた。
市場の運営は商会組合で、区画料と上がりの十パーセントをとり、残りをロダール王国府に納めるとか。
え、結局儲かるの?儲かるからお店出すんだよね?
脳内をするする泳いで逃げる数字を必死で追いかけていると、不意に目の前を影がよぎった。
反射的に飛び退き、ジョエルが私の前に出る。カテラが私の背後につき、マルクは周りを警戒。
流れるような動きにホッと息をつく。
「子供です、……倒れたのか?」
「可視範囲に不審者なし。捨ておきますか?」
罠の可能性もあるからマルクの提案はもっともで、狙われてる可能性がある時なら私もそうする。
膝をついて蹲っているのは女の子だ。特別貧しい格好でもない。裕福そうでもないけど清潔感はある。
『鑑定』ーー人間のステータスは状態くらいしかわからないけど、『状態異常(狂乱)』の文字が浮かんだ。……初めて見るな。狂乱っていう割に大人しい。……あ、パニック状態ってことかな?それだと『混乱』だろうか。よくわからんがまぁいいか。
「大丈夫、介抱してあげて」
「はい。……あなた、気分が悪いの?少し触るわね」
カテラが抵抗のない少女の背を支え、顔色とまぶたの裏、脈拍を確かめる。
「意識はありますが、聞こえてないみたいです。血の気がないので貧血のようですが、全身が微かに硬直。あとはまぶたに痙攣が……毒ではないのですね?」
カテラの確認に頷く。カテラには、キノコ毒事件以来、勉強しまくったので詳しいということにしてある。
「まさか、伝染するような病では」
「それは大丈夫」
ジョエルが声を潜めて私を遠ざけようとするのを否定し、マルクが周りを警戒してくれているのを確認して、少女の側に近付いた。
眼球の動き、顎の動き、手足の硬直。そして、狂乱ーー
「とりあえず、気付けを」
「はい」
カテラが片手でポケットを探り、取り出した気付けの丸薬を少女の口に放り込む。
「っっっっ!!?ぃぎゃっっっ!!??」
「あ、戻った」
状態異常が消えた少女が、口元を押さえて目を見開き、再び地面に突っ伏してもがき出す。
「にっ、にがっ、にがああああ!!」
そう、この気付け薬は効果覿面なくらい苦いんだよねぇ。しばらくなにも考えられないくらい苦い。
「……ここまで強力な気付け薬を常備されているので?」
「鍛錬中に意識が飛んだままだと危険ですから」
気付けの味を知っているのだろう、自分まで口を曲げるジョエルの疑問にあっさり答え、カテラは続いて蜂蜜飴を少女の口に入れた。
虫型の魔物、魔熊蜂の蜂蜜なので何もしなくても無毒。この国には砂糖がないので甘味料として養蜂もされている。そうだ、砂糖きびとか大根とかないかなぁ。
「意識を失うような鍛錬を……?」
「辺境ですから」
愕然とした顔をする護衛二人に、カテラはあっさりと言ってのけた。もちろんカテラも相当使える。
「大丈夫?状況がわかるかしら?」
必死にもごもご口を動かしている少女に声を掛けると、青い瞳がこちらを向く。
貴族によくあるサファイアブルーではなく、落ち着いた紺碧の知性を感じさせる瞳だ。焦げ茶色の髪はあまり手入れは良くないが、可愛らしい顔立ちをしている。
「あっ、え、ええと……?」
目をパチパチと瞬き、私やカテラ、ジョエルや周りを見回したあと、私に視線が戻ってきた。え、なんかめちゃくちゃ見られてる。
「え、天使……?」
「え、そんなに重症だった?大丈夫、生きてるよ!」
意識はあるように見えたけど、三途の川とか渡りかけてたんだろうか。無事でよかった。
少し開けた場所に移動し、貧血の回復にと屋台の果実水を奢ってあげる。
「ご迷惑をおかけしてすみません。たまにあるんです。頭の中にいろんなことがわーっと流れて、動けなくなることが。落ち着くと忘れちゃうんだけど」
木のコップを両手で持って、美味しそうに少しずつ飲む少女は困ったように眉を下げた。
「そうなんだ。なら、脳貧血みたいな感じだったのかな?」
その感覚は覚えがある。琴音が幼い頃、目に入るもの全てが刺激になって、頭の処理能力超えたみたいになったことがある。思考回路はショート寸前的な感じ。あの時はじい様に頭叩かれて我に返ったっけ。アナログな治し方……っというか荒療治。
動けなくなるほどなら、よほど脳の消費カロリーが多いのだろうな。琴音を超える脳の出来かもしれない。なんて羨ましい……。
まぁ、成長と共に折り合いがつくだろう。それまでは糖分摂取がよさそうだけど、一般市民には難しいのかもしれない。さっきも蜂蜜飴の食いつきが……あれは気付け薬のせいか。
果物は割と甘いけど、屋台の蜂蜜使ったお菓子は贅沢品みたいだし、やっぱ砂糖栽培したいなぁ。
「あの、私、そろそろ戻らないと」
「あ、うん。大丈夫そう?」
名残惜しそうに果実水を飲み終えた少女が、慌てたように立ち上がる。手にした買い物カゴになにか入っているし、お使いだったのかもしれない。
「はい、本当にありがとうございました!」
「念のため、お家まで送りましょうね。レディ」
「え!?あ、は、はい!……えっと、それじゃあ」
マルクが爽やかな笑顔を浮かべて少女をエスコートしていくのを見送り、ジョエルを見る。
「念のため、です。マルクが戻るまでゆっくり飲んでください」
身のこなしとかも怪しくはないと思うけど、誰かの指示で近付いた可能性も捨て切れないってことか。
私は半分ほど残ったコップを両手で抱え、にっこり笑う。
「はぁい、パパ」
「……いい子だ、リリ」
あ、いいノリですね。