それから五年が経ちました。
ロダール王国の東、ブルーム辺境伯領。
その地を訪れたものが言う。
彼の地には天使が住んでいると。
透明感のある肌にほんのり色づいた頰。
ブルーム一族の証である紫の瞳の中でも、紫水晶のような透明感のある美しさ。
艶のある腰まで伸びた、美しい亜麻色の髪。
伸びやかに育ったしなやかな肢体。
愛らしいえくぼの浮かぶ笑顔は、見る者の心を魅了する。
その天使、もといリーリエラ・ブルーム辺境伯令嬢は、一ヶ月後に迫った10歳の誕生日を前に兄を相手に体術の修行に励んでいた。
「破ッ!」
「突きが浅い!懐に入ったなら一撃で仕留めろ!捕まるぞ!」
「退路が単純すぎる。追撃を食らって終いだな」
「ひゃあ!」
「エラ捕まえたー」
「馬鹿ガオっ!」
両足首を片手でまとめて掴まれ、逆さに吊り下げられた状態のエラは悪態を吐いた。
「まだまだだな!」
にかっと笑う20歳のオレガリオは、妹と同じ亜麻色の長い髪を少し高い位置で結び、青紫色の瞳は意志の強さを秘めて輝く。
まだ少し幼さを残した青年は、腹筋を使って上体を起こし自分の太い首にしがみついてくる可愛い妹を笑いながら抱きしめた。
「子供相手に調子に乗るな、オレガリオ」
冷たい声でそれを咎めるのは21歳になったばかりのルートヴィヒ。青灰色の髪は短く刈ってはいるが、光に透けると紫になる青の瞳が冴え冴えと澄んだ美貌は変わらぬまま。しかしその体躯は辺境の兵士に見合った逞しいもの。
「別に乗ってないって!けど、エラも大分使えるようになったよなー」
「ほんと?ルートヴィヒ兄様もそう思われますか!?」
苦笑するガオの言葉に、エラがルートヴィヒの返事を期待するように目を輝かせる。
「……その程度では、子供を拐おうとする悪党どもにも太刀打ちできまい」
返ってきた冷たい言葉に、思わずガオが文句を言おうとするのを止めて、エラは拳を握ってルートヴィヒを見上げた。
「はい!ルートヴィヒ兄様!もっと頑張ります!」
「…………兄妹とはいえ、いつまでも馴れ馴れしくするものではない」
「っ、ごめんなさい」
踵を返しながら向けられた鋭い眼差しに、エラはひゅっと首を縮め、慌ててガオの首にしがみついていた腕を外す。
去っていくルートヴィヒの後ろ姿を眺めながら、残された二人は大きなため息を吐いた。
「……ごめんな、エラ。俺がルー兄を差し置いて、次期当主に指名されたから」
三年前の冬の王が笏を掲げる月のルートヴィヒの成人の儀、当然ルートヴィヒを次期当主とする宣言が為されるものと誰もが思っていた。
領主としても兵士としても優秀なルートヴィヒは、誰が見てもその座に相応しい。
だが結果、それは為されなかったのだ。
そして冬の王が冠を抱く月のオレガリオの成人の儀。
家出中のルートヴィヒ不在のその場で、現当主である父が後継にオレガリオを選ぶと宣言したことで、兄の廃嫡は決定的となった。
「それは当主であられる父様の判断です。ガオの、オレガリオ兄様のせいじゃないですよ」
「そのせいでルー兄があんな感じになったのは事実だ。俺みたいな脳筋に、当主なんて向いてないのはみんなわかってるんだから、面白くなくて当然だよ。
……けど、エラのことあんなに可愛がってたのにな」
エラは黙って、もう一度ガオの首にしがみついてその分厚い肩に顔を埋める。
そう、ルートヴィヒは表情こそ冷たいが、ガオとエラにとっては優しい兄だった。
だが、成人の儀以来、すっかり様子が変わってしまった。
弟妹だけでなく母にも自らの愛称呼びを禁じ、エラに向けていた笑顔も消えた。それどころか、食事時も口を聞かず黙々と済ませてあっという間に食堂を去るし、公務の他では同じ空間で過ごそうともしない。
やたらと太刀筋が荒れたと思えば、一年近くも家を飛び出し、帰ってきたと思えば剣の腕と仏頂面にはますます磨きがかかっており、今では弟妹の前に姿を見せることすら滅多になくなってしまった。
今日の鍛錬に付き合ってくれたのは、辺境領の領主一族が年齢ごとに課せられている、技の習得の見届けのため。公務のようなものだ。
そして、エラは試練を達成できなかった。
「……失敗したから呆れられたのかも」
「ルー兄は努力してできないことを貶める人じゃない。
それに、エラの旋脚はほとんどできてるよ。ほんとにもうあと一歩……やっぱ王都のお披露目会の準備と重なって、時間が足りないのが地味に痛いなー」
「ううん、それはずっとわかっていたことだから、言い訳にならないよ」
王都のお披露目会ーー王家主催の、国内の十歳になった貴族を集めた舞踏会の開催時期は、春の女神が目覚める月の大人達の春の訪れを寿ぐ園遊会の前日に行われ、春の女神が微睡む月生まれのエラは十歳になったばかりのタイミング。
ダンスやマナーはさらう程度で済んだが、上位貴族の名前、役職、家族構成などを暗記しなければならない。辺境領で暮らしていると王都の貴族達を知る機会もないので、それこそ一から。
でもそれは、誕生日はもちろん、お披露目会も日程が決まっているのだから、生まれた時から分かっていたこと。10歳の試練の難易度が高いことも。
「わかってるのに教育するの忘れてたとか、うちの大人達どうなってんだよ……」
「おまえもだけどな」
「ごめんて。耳元でその低音ボイスやめて」
年齢の離れた兄を持つせいで、両親はもとより家令ですら、お披露目会なんてうちもう済ませてますから気分で、エラのことを思い出したのが二年前。
それから慌てて王都の貴族事情をまとめてリスト化する作業。それができるまでは、ルートヴィヒ、ガオと使ってきた資料で覚えようと思ったら、それはルートヴィヒの書き込みとガオの落書きで碌に読めたものではなかった。
わかったことといえば、ルートヴィヒは産業であるとか役職であるとか、関連のある事柄をまとめて覚えるタイプで、ガオは意外とポイントを掴んだ絵を描くということ。
いらん。その情報いらん。
見たものを映像で記憶できていた前世の頭脳があればなぁ、と数年ぶりに考えてため息をつきながら、新しい資料に並ぶ文字を眺めてなんとか詰め込んでいるーーの、だが。
鍛錬の度に記憶からこぼれ落ちていくような気がして捗らないし、机の前でじっとしていると落ち着かないし、呆れるほどに集中力がない。
そして、幼児なんてとっくに卒業したはずなのに、一日十二時間睡眠が欠かせない。
「この体、ポンコツが過ぎる」
悩ましげなため息を吐いた少女は、長い睫毛を伏せて兄の首に抱きついた。
「ちょ、何言ってんのこの子」
絶世の美女になるだろう妹の発言に眉を顰めながら、兄はまぁ可愛いからいいかと、抱っこしたまま屋敷に向かって歩き出した。
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「ルートヴィヒ」
自室に戻る途中、呼び止められたルートヴィヒは足を止め、声の主を振り返る。
「辺境伯様、なにか」
他人行儀な呼び方にほんの少し瞳を曇らせ、父であるサムザラム・ブルーム辺境伯はその大柄な体でルートヴィヒの側まで歩み寄る。
「エラの王都行きの同行だが」
「お披露目のエスコートは次期当主であるオレガリオが相応しいでしょう」
サムザラムの言葉にかぶせるようにして、ルートヴィヒが目を鋭くする。
その反応はわかっていたとばかりに受け流し、サムザラムは息子を見下ろした。
「お前に頼みたい」
「…………」
目に不満の色が浮かぶ。
表情の乏しいルートヴィヒが、益々心の内を出さなくなって三年。これで愛想があれば貴族らしいと言えるのだろうがと内心で思いながら、例え不満であっても久しぶりに見せる感情に、思わずサムザラムの頰が緩んだ。
「お前は優秀だ。辺境に籠もる必要はない」
「……私がここに残るのが不都合なのでしたら」
「お前、ほんっと捻くれたなぁ」
ルートヴィヒがムッとして、サムザラムが笑う。
「エラの初めての社交だ。お前がついていてくれたら安心ってだけだよ」
「マナーもダンスも問題ないはずです」
「豪勢な料理が出るだろう」
「…………」
父の遠い目に、ルートヴィヒは今度こそ沈黙した。