【短編版】されど悪役令嬢はタヌキに愚痴る
21/01/21 連載はじめました↓
『されど悪役令嬢はタヌキに愚痴る』
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【02/01/08 続編書きました】↓
悪役令嬢の愚痴はとどまるところを知らない
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『いで湯 令嬢の湯』
そう描かれた暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
僕は声の主を探した。
いた。彼女は番台に頬杖をついていた。
入ってきたのが僕だとわかると、暇そうにしていた女性は、僕を目だけで見た。
「なんだ、またタヌキか」
彼女は美しい人だ。
光沢があって軽くウェーブした黒い髪。
日光を知らないような白い肌。
憂愁を含んだ翡翠の瞳。
簡素だけど品のある黒いドレス。
その上に着ているのが『令嬢の湯』と書かれたハッピでなければ。
そのまま王都の舞踏会に出ても許される美貌である。
「タヌキとは。お客に対して随分ご挨拶ッスね」
「心配してやってんのよ。毎日毎日、石炭相手に顔真っ黒にしてきて。汚いままの手でそこら触って汚さないでよね」
「タヌキは綺麗好きなんだよ。するものも山の中に一箇所にまとめてする。知らなかった?」
「四の五の言い訳すんな。ここでチンポ丸出しでひっくり返らないよう水分だけはちゃんと摂るのよ?」
「はいはい。乙女に汚いもの見せないように気をつけますから」
「わかりゃよろしい、5Gね」
僕は一枚1Gの銀貨を五枚手渡した。
まいど、と手慣れた声で彼女が言った。
僕は脱衣所で素っ裸になると、前を隠しながら浴場に入った。
「おう、ニーベル! 今日は遅かったじゃねぇかよ!」
僕が入るなり、湯船に浮かんでいた緑色の禿頭が大声で言った。
この温泉の名主を自称するオーク、ヤエレクのおやっさんだ。
「やぁヤエレクのおやっさん。我慢比べはしてるかい?」
「いんや、今日は誰も挑戦者がいねぇ。――どうだ、久しぶりにやるか?」
ヤエレクはガハハと笑った。
ヤエレクはこの近所にある製材所の親方である。
オークの怪力でなければ切り倒せない、樹齢何千年とかの雑木を切り、それを王都向けに加工するギルドを経営している。
彼が言う『我慢比べ』の詳細はこうだ。
この『令嬢の湯』には、山からの源泉を直接引き込んだ、摂氏47℃にもなる熱い湯の湯船がある。
挑戦者が現れると、ヤエレクのおやっさんと挑戦者はここに浸かる。
この熱い湯により長く浸かっていられたほうが勝ち。
負けたほうが、番台で売っている一本2Gのフルーツ牛乳を奢る、という他愛もないゲームだった。
人間やエルフの皮膚は弱い。
この源泉の湯に浸かっただけで皮膚が真っ赤になるほどだ。
だからオークのおやっさんの方が絶対的に有利なのである。
それは半ば『勝負』という名目で、おやっさんが新参者にフルーツ牛乳を奢らせるための方便なのだ。
だが僕はそういう結果が見える勝負が嫌いだった。
初めての勝負の時、僕は死ぬ気で熱さを我慢し、結果僕が勝った。
以来、おやっさんと僕の勝負は12対11で僕が勝ち越していた。
ヤエレクのおやっさんはそれが悔しいのである。
「よっしゃ、久しぶりにその勝負、受けて立つよ」
僕はかけ湯を身体にかけながら言った。
そう言った僕に、湯船に浸かったり、身体を洗ったりしていた客が色めき立った。
「おっ、ニーベルとヤエレクのおやっさんが勝負するってよ!」
「マジかよ! 人間のくせによくやるぜ!」
「みんな、賭けやろうぜ! 俺はおやっさんにフルーツ牛乳1本!」
「俺はニーベルに2本賭けるぜ!」
ゴブリンだのコボルトだのエルフだの。
ギャラリーは前を隠すこともなく集まって口々に騒ぎ出した。
粗方の掛け額が決まったところで、ヤエレクが腕を組んだ。
「今日という今日はお前にオークのしぶとさってのを見せてやるぜ」
「またまた。おやっさんには悪いけど、僕が勝つよ」
僕たちは同時に湯船に入った。
そして十分後――僕らは両方とも湯当たりして失神し、ゲームはノーゲームとなった。
◆
「ううーん……」
僕は深い眠りから覚めた。
まだ体中に熱病のような嫌な熱さは感じるが、起き上がれないほどではない。
目だけで自分の体を見ると、自分は風呂場ではない、どこか部屋の中に寝かされていた。
「ひっくり返らないように気をつけろ、っつったでしょ?」
呆れ顔で言ってきたのは彼女。
この湯の湯守りである令嬢――ダニエラだった。
慌てて見回すと、ダニエラ姉さんの聖域である湯守の管理室だった
そこに僕は股間に布をかけられた状態で寝かされていたのである。
「だ、ダニエラ姉さん……」
「あんたも大概だけど、ヤエレクのおっさんもなかなかアホね。たかが2Gのフルーツ牛乳一本のために死ぬ気? おかげで見なくてもいいチンポを10本近く見る羽目になったわよ」
「だはは……かたじけない」
もうわかっていることと思うが。
ダニエラ姉さんはめちゃくちゃ口が悪い。
だが彼女の暴言にはどこか品というものがある。
そして、妙なあたたかさも。
元々、彼女はさる有力な貴族の令嬢だったという。
だが、何かがあって、王都にいられなくなった。
姉さんは王都を追放されたらしい――。
まことしやかにそう囁くゴブリンやスライムもいた。
他はオークだのハーフエルフだのゴブリンだの傷痍軍人だの。
この村は王都や街にいられなくなった人間ばかりだ。
彼女が街にやってきたときのことはよく覚えている。
ヤエレクのおやっさんなんかは事あるごとに言う。
豪華なドレスを土埃に塗れさせて。
艶のある肌をガリガリにこけさせて。
この街に来た彼女は死人同然だった。
その彼女を拾ったのが、先代の湯守の親爺さんだった。
人間だった親爺さんは彼女を孫娘同然に可愛がった。
湯守の親爺さんも、大昔は宰相クラスの政治家だったそうだ。
政争に敗れ、政治家としてのアキレス腱を切られてからここに流れ着いた。
貴族令嬢であった彼女の中に、自分と同じ孤独を見ていたのかも知れない。
そしてその親爺さんが2年前に亡くなると、彼女が跡を継いだ。
名もなき野湯には、爺さんの遺言に従い、彼女は気に入ってない『令嬢の湯』という名前がつけられた。
フルーツ牛乳だの、サウナだの、露天風呂だの。
彼女が湯守になってからというもの、この場所は大きく変わった。
口は悪いけど、優しくて面倒見のいい彼女。
みんなが彼女を慕った。
そしてこの『令嬢の湯』は、今や東方の辺境イチの人気スポットに成長した。
「――姉さんはどうして王都を追放されたの?」
番台で本を読む姉さんに背を向けながら。
僕は何の気なしに訊ねてしまっていた。
姉さんは分厚い本のページを捲る手を止めた。
そして、面倒くさそうにため息をついた。
「乙女の過去を探るからには覚悟はできてんでしょうね」
「覚悟って?」
「男ならわかんでしょうが」
「どんな種類の覚悟?」
「逆に訊くけどどんな覚悟なら売る?」
「そうだな――よしわかった」
僕は冴えた声で言った。
「僕は姉さんの過去を聞きたい。その代わり、僕が将来大病患って危険な手術をしなきゃいけなくなったときは、泣き言ひとつ言わないで手術を受けると約束するよ。たとえ成功確率が二割しかなくて、失敗したら一生逆立ちして街一周できなくなったとしても」
「回収まで何年かかる条件よ、クソタヌキ」
ダニエラ姉さんは頬杖をつきながら答えた。
「私はさる公爵家の一人娘なの。ここに流れ着く前はリストランテ魔法学園にいたわ」
「リストランテ魔法学園? そりゃ凄い。王国の才媛が集まる学校だね」
「そう。そんで私は、十二歳の頃から婚約者がいたのよ」
「情報が渋滞するなぁ。姉さん、婚約してたんだ」
僕はちょっと面白くなくて、下唇を突き出し気味に言った。
「その婚約者って?」
「ディートリッヒ王太子」
「――嘘だ」
「嘘じゃないわ」
姉さんは僕の茶化した声を鋭く否定した。
「私、本当にディートリッヒ王子の婚約者だったのよ」
とても嘘ではなさそうな声音だ。
姉さんは窓の外に浮かんだ下弦の月を遠い目で眺めた。
「あいつのことならケツの穴の皺の本数まで知ってるわ。高慢で、ナヨナヨしてて、そのくせ顔だけはいい。だけど悲しいぐらいに脳みその容量が足りないチンカス男よ」
「理想的な男じゃないか。誇り高くて優男で、おまけにいい男で、とどめに賢くないから扱いやすいなんて」
「男は馬鹿な方が扱いやすいというよりは、世の男はおしなべてみんな馬鹿よ」
「でも物事には限度というもんがある」
「その通り」
「そして、馬鹿ではあるけど、それで姉さんを傷つけるつもりがない奴もここにいる」
僕が言うと、姉さんは言った。
「卒業パーティの日に言われたのよ。大勢の目の前で。『ダニエラ、君との婚約は破棄する!』ってね」
「酷いな」
「酷いのはここから」
姉さんの目が鋭くなった。
姉さんはまるでその憎い元婚約者が目の前にいるというかのように。
番台の前の、お土産品がうず高く積んである辺りを睨みながら。
「あいつ、浮気してたのよ。しかも相手は平民の小娘。なんだか魔法の才能があるから特例で学園に入学してきたっていう、みそっかすの小娘よ」
「平民?」
「えぇ、平民。あの脳みそチンカス男には新鮮だったんでしょう。あの子、あの男が何言っても顔真っ赤にしてたし。女を完全に手玉に取ってると思い込みたいアホ男と、都会の男に憧れるアホな田舎娘。需要と供給がガッチリ合ったのよ」
「ゲロが出そうな話だね」
「ゲロが出んのはこれからよ。――あのドチンカス野郎、婚約破棄した後、私に言ったのよ。『君は王都から追放だ』ってね」
「なんで」
「いくらなんでも公爵令嬢の娘に婚約破棄するんだし、私がなにかとんでもない悪事に手を染めてたから、婚約破棄して追放する、そういう話にしたかったんでしょ。あの田舎娘を階段から突き落としただの、黒魔術で呪っただの、やった覚えもないことまくしたてられて、私は言い訳も弁明も抗議も許されずに、たったひとりでここに追放されたってわけ」
「そんな馬鹿なことが――」
流石に僕が憤ったときだった。
ダニエラ姉さんがふっと、僕に向かって悲しげに微笑んだ。
「そんな馬鹿な、って思ってくれてありがとうね。でも本当なの。王都では王子が白って言えばカラスも白になんのよ。私は『カラスは黒い』って反論したけど――逆に王子様のお怒りを受けてこのざまよ」
話が終わったようだった。
考えるうちに胸がむかついてきた。
もし――この世に。
ダニエラ姉さんぐらい綺麗で、可愛くて、賢い人間を。
それを頭から否定できる人間がいるなら。
そしてこんな辺境に追放できる人間がいるなら。
そんな事のできる人間がいるなら。
そんなのって一体どんな人間なのだろう。
僕だったらそんな愚かなことはしない。
この孤独な麗人のことを一生かけて知りたいと思うだろうに。
その王子様とやらはそう思わなかったのだろうか――。
「おい、光ってるぞ」
はっ、と僕は我に返った。
僕の全身がなんだかホタルイカみたいに弱々しく発光していた。
あはは、と僕は取り繕う笑い声を上げた。
「ごめんごめん、変なもの見せちゃって」
「変なものならもう見たわ。アンタの茶色い奴をね」
「やけにリアルな指摘しないでよ」
「そうしてほしいならもっと毒気のないちんちんしてきな――もう湯冷めしたんでしょう? 帰りな」
「はいはい。姉さん、このタオル返すよ」
「あんたのちんちん隠したタオルじゃない。後日洗って返しなさい」
「あはは、敵わんな。じゃあまた来るからね」
「はいはい」
僕は急いで服を着て、姉さんに手を振った。
姉さんは本から顔を上げずに、代わりに、すい、と右手を挙げた。
◆
王都から使者が来た。
そのニュースに辺境の温泉街が朝から沸騰していた。
僕も鍛冶屋の親方にことわって使者とやらを見に行った。
使者はきちんとした礼装をしていた。
髪をピッチリとなでつけた、胡散臭い男だった。
使者はあからさまに僕たち住民を煙たがりながら『令嬢の湯』に入っていった。
ダニエラ姉さんがその使者に対応した。
使者はダニエラ姉さんを小馬鹿にしたように眺め、そして言った。
『ディートリッヒ・フォン・ラビリシアン殿下の聖旨をここに申し伝えるものなり。ダニエラ・フォン・アルヴィス公爵令嬢。先年身罷られた前王太子妃リネス・タイラー様に行った不法・非礼行為の数々の罪一等を赦し、王都への帰還を許すものである』
その一言で始まった『聖旨』なる言葉。
要するに、姉さんの罪を許す、王都へ戻ってこい、という内容だった。
中には「王の意向を無視するなよ」、という内容の、低劣な脅しつきで。
それを聞いている最中。
姉さんはずっと下を向いて震えていた。
悔しくて悔しくて仕方ないはずなのに。
彼女はずっと唇を噛んで俯いていた。
長い長い『聖旨』が終わると、使者は明らかに馬鹿にした口調でこう言った。
「公爵令嬢ともあろうものが、こんな場末の風呂屋の湯守とは……嫁入り前の乙女が男の裸を見て暮らしているなどと王都で噂になってもよいのか? 恥を知りたまえ」
――もしその言葉に、ヤエレクのおやっさんがブチ切れて使者をボコボコにぶん殴らなければ。
今頃その使者はボロ雑巾の死体になって街の入り口に飾られていたことだろう。
オークの豪腕で強かに殴られた使者とその取り巻きは死なずに済んだ。
それぞれ前歯がごっそり折れ、鼻が曲がっただけで、街の人間の怒りは治まった。
今に見ておれ、という捨て台詞を残して、使者は這々の体で帰っていった。
◆
「人間はなんで婚約したりするのかしらねぇ」
「タヌキと婚約したって仕方がないから」
「私の場合、タヌキと婚約してた方がマシだったわよ」
「そうかな」
「そうよ」
濡れた頭をタオルで拭きながら、僕は番台に座る姉さんの愚痴に付き合っていた。
「でも姉さん、よく我慢したね。僕が聞いててもあの使者とかいう奴の言葉、相当頭にきたけど」
「あんなんまだマシな方よ。あの脳みそチンカス男に投げつけられた言葉に比べりゃね」
「具体的にはどんな事言われたの?」
「もっと女らしく振る舞え、僕を小馬鹿にしてるのか、男を立てることを覚えろ、おはよう、おやすみ、こんにちは――そんなところよ」
姉さんの愚痴はとどまることがなかった。
そこで姉さんは番台の側からフルーツ牛乳を2本取り出し、一本を僕に、もう一本を自分の目の前に置いた。
「ホント私、なんで公爵令嬢なんかに生まれちゃったのかしらね」
「タヌキに生まれても仕方がないだろ?」
「私の場合、タヌキに生まれた方がマシだったわよ」
「僕は姉さんがタヌキだったら嫌だな」
「喜ばす発言のつもり?」
「かなり本気のね」
「喜ばしてくれるつもりなら……ちょうどいい働き口があるわよ」
僕は口に持っていきかけたフルーツ牛乳を止めた。
「ねぇ――明日私に付き合う気、ない?」
僕は言った。
「どういった意味の付き合う?」
「とにかく一日付き合ってくれりゃいいのよ。私を満足させるようにね」
「温泉はどうする?」
「そんなの、適当に誰かが管理すりゃいいでしょ。ヤエレクのおっさんの前で小銭くすねるような馬鹿はここにはいないわ」
「ちなみに訊くけど――俺に拒否権は?」
「拒否してもいいけど」姉さんは視線を僕の手元に落とした。
「フルーツ牛乳代は払ってもらうからね。一本3万G、分割なしの即金で」
僕は嘆息した。
「今日、親方になんて言おうかな」
「そんなのアンタの方で考えなさい。それじゃ明日七時、ここに集合ね」
ダニエラ姉さんはそう言ったっきり、番台の奥に引っ込んでいってしまった。
◆
翌日。
僕らは街の坂道を二人並んで歩いていた。
日差しがきつくて、蝉の煩い日だった。
姉さんは遠い目をしながら街を眺めた。
「ここも変わったわね」
「あぁ、全部姉さんが来てからだよ」
それは嘘ではなかった。
この街の湯守になって三年、姉さんはあれこれとこの寂れた街を改造し始めた。
それも自分が手を下さずに、である。
温泉に入りに来た客に、あそこの木陰にはベンチがあればいいわね、とか、あの宿屋はもっとこうすれば素敵よね、と、世間話のような口調で話すのだ。
そうすると遅くとも半年後にはこの街は姉さんの言った通りに改造され、見違えるように活気を取り戻す。
僕ら街の人間はダニエラ姉さんが大好きだったのだ。
「あそこなんて、元は寂しいところだったのに、今や立派な公園だ」
「そうね」
「そこの宿屋も」
「うん」
「あっちの方の商店街だって、みんな姉さんの愚痴が発端でしょ?」
「私はただ愚痴っただけよ。この街がよくなったのはみんなの努力の結果」
「おっ」
「なによそれ」
「姉さんが人を褒めるところ、初めて聞いたかも」
ダニエラ姉さんは僕の脇腹を拳でどついた。
それから僕らは、特に何をするでもなくぶらぶらと街を散策した。
特定の飯屋には入らず、温泉に繋がる道に出た屋台のものをあれこれ食べて歩いた。
姉さんはまるで熱に浮かされたように街を歩き回った。
ようやく日も暮れかかってきた。
僕らは小高い丘の上に来て、夜景になりつつある街をぼんやりと見ていた。
「疲れたね」
「えぇ、疲れたわ」
「それで、姉さんはこれからもっと疲れるところに行くつもりってわけか」
僕は本題に入る口調で言った。
姉さんは答えず、代わりにこういった。
「あのチンカスのことだもの。私が言うこと聞かないなら癇癪起こすに違いないわ。この街に火ィつけられたらたまったもんじゃない」
はっ、と姉さんは鼻で笑った。
「あの小娘、死んでたのね。人のもの奪るなら最後まで責任持って飼えっつーの。見抜けなかった方が間抜けだっつうのに」
「王妃様が死んだからって、なんで姉さんが王都に戻らないといけないんだ?」
「アンタが一人暮らししてて、孤独に耐えきれなくなったらどうする?」
「そうだな……猫でも飼うかな。そんでタヌキとして育てる」
「その猫が私よ」
「なるほどね」
本当に胸がムカついた。
ディートリッヒ王子は人間を何だと思ってるのだ――などとは言うまい。
王子は――腐っているのだ。
「姉さんは、ディートリッヒ王子が好きだったことある?」
ぽつり、僕が訊くと、姉さんは即答した。
「そうなれるように努力はした」
それきり、姉さんは膝を抱えた腕に顎を埋めて黙ってしまった。
今度はアンタの番だぞ、という威圧感を言外に感じて、僕は口を開いた。
「ここに僕を呼んだのはなんで?」
「アンタに釘刺すためよ」
わかんなかったの? というように、姉さんは僕を睨んだ。
わかんなかったわ、と僕は肩をすくめた。
「アンタ程の人間なら、まぁあのチンカスを討ち取るぐらい朝飯前なんでしょうけどね、私は絶対に許さないから。それをきつく言っておくために連れてきたのよ」
「僕は誰かの言うこと訊くような人間だったのか。他人に指摘されて今初めて知ったよ、驚いたな」
「真面目に聞け」
ぐい、と姉さんは僕の前髪を引っ張った。
僕らは数秒間、真正面から見つめ合った。
「アンタ、それだけは絶対やめて。近いうちにあのバカが大手振って私を取り返しに来るでしょうけど、そしたら私は何も言わずにここを離れる。だからアンタは絶対出てこないで」
「なんで」
「ニーベル、アンタの仕事は五年前に終わった」
姉さんが真剣な口調で言った。
「アンタはもう十分すぎることをした。この町の人間だけでなく、あのチンカスの家族以外は間違いなく全員そう思ってる。だからアンタにはもうこの国に関わってほしくない。もう今のアンタは自由なのよ、今の生活を捨てるの?」
「生活は捨てるとか手に入れるとか、そういうもんじゃないよ」
僕は苦笑しながら言った。
「幸運は転がり込んでくるもんだ。あっちからね。僕は今、鍛冶屋の弟子として穏やかな生活してるけど、転がり込んできたからには転がって出ていくのも普通のことさ」
そう言うと、姉さんは一瞬だけ、凄く苦しそうな顔をした。
そして僕の目を見つめて、怖い顔と声で言った。
「私、アンタがアイツに手を出したら、アンタを一生許さないから」
「はい」
「温泉には出入り禁止にする」
「はい」
「フルーツ牛乳も飲ませない」
「はい」
「二度と口も利かない」
「はい」
「――お願いよ、手を出さないって約束して」
「それはできない」
僕は姉さんと同じぐらい真剣な口調で言った。
僕たちはかなりの至近距離で、しばらく睨み合った。
既に日はとっぷりと暮れていた。
◆
「親方、明日仕事休みます」
僕が言うと、黙々と槌を振るっていたドワーフの親方は「おう」と言った。
横で石炭を選別していた僕も負けじと寡黙に応酬した。
「それと、奥の部屋の壁、壊します」
「おう」
「そこに刺してる剣も持ってきます」
「おう」
「あと――もし姉さんが来たら、僕の行方については知らないと言ってください」
親方は火ばさみで挟んだ鉄塊を水に突き入れ、額の汗を拭った。
「半人前が生意気言うんじゃねぇ。ドワーフが気の利いた嘘なんかつけるか、アホ」
じゅぼぼぼぼ……と、鉄塊は物凄い音を立てて水の中で沸騰した。
鉄塊は水の中で急激に冷やされ、無意味な鉄塊から、形ある道具へと変化してゆく。
鉄塊が冷えるにつれて、真っ赤に照らされていた親方の顔も、だんだん闇に沈んでゆく。
「――おめぇがこの街に転込んできたときのこと、よく覚えてるぜ」
親方はぼんやりとした口調で言った。
「全身傷だらけで、血に塗れて、食うものも食わねぇで、よくここに辿り着いたもんだってみんな褒めてたぜ。とにかく血まみれなんでそこらには置いとけねぇ。俺とヤエレクのタコ坊主がおめぇをあの湯に引っ張っていったんだっけな」
そうだったかな――。
僕は手を止めずに聞いていた。
「鎧脱がされて、番台の横に寝かされて、先代の湯守がおめぇの血を拭いてやった。それから男湯に引っ張っていって、頭から湯をぶっかけた。洗っても洗っても血がこびりついて取れやしねぇ。一体全体こいつは今しがたまで何をしてた野郎なんだって――俺ァ、正直怖かったよ」
僕はひときわ大きな石炭の塊をハンマーで砕いた。
親方は僕に言った。
「もし、だ。おめぇが明日、俺が考えてる通りのことをする気ならな、お前、もう二度とここには戻ってこれねぇぜ」
「わかってます」
「おめぇ、それでいいのか。お嬢ちゃんはお前のことを――」
そこで親方は、つまらない事を言ったというように鼻を鳴らした。
「いや、いいさ。男が一度やるってんだ。女に止められるもんじゃねぇやな」
「そう言っていただけると助かります」
「一応な――もしあの子が来たら、なんとかごまかしては見る。感謝しやがれ」
「ありがとうございます」
「それで、問題なのはあの子よりおめぇの方だぜ。ここを出てどうするつもりだ?」
親方は心配そうに腕組みをした。
僕はしばらく考えて言った。
「タヌキらしく、穴蔵に戻りますかね」
◆
数時間後。
僕は街に続く丘の上に立っていた。
その遥か下を――一列になって行軍してゆく三十人ほどの一団がある。
その中心、重武装の騎士数人に守られている白い服の人物――。
その顔に見覚えがあった。
あれから会っていないのに、随分成長したなぁ。
僕は場違いな感動を覚えながら、一気に崖を駆け下りた。
僕は列の先頭に降り立った。
ざわ、と一団が動揺した。
「慮外者! この列を第一王子ディートリッヒ殿下の御行幸と知っての無礼か!」
一番先頭に立って声を張り上げたのは、あのヤエレクのおやっさんにぶっ飛ばされたあの使者だった。
彼の前歯は全て純金の金歯になっていて、ますます嫌な奴に見えた。
「こっちの目的より、そっちの目的の方を知りたいなぁ。こんな山奥にディートリッヒ殿下ともあろう御方が何の用ですか?」
「ディートリッヒ殿下は只今、大罪人ダニエラ・フォン・アルヴィス公爵令嬢の罪一等を免じ、再び婚約者としてお迎えに上がるところだ! これで満足したか! 邪魔をすると手は見せんぞ、下郎!」
「婚約者?」
僕は顔を上げた。
「おかしいな。僕はダニエラ嬢本人から、ディートリッヒ王子との婚約はそちらから一方的に破棄されたと聞いておりますが。ディートリッヒ殿下は嘘をついておられるようですね――」
その一言に、連中は気色ばんだ。
中には剣の柄に手を伸ばした騎士さえいる。
「これは一体何事であるか!」
その時だった。列の奥の方からディートリッヒ王子が、白馬を進ませて列の先頭にやってきた。
はっ、と後ろを振り返った使者のおっさんが慌てて止めた。
「殿下、この者は危険ですぞ! 御身に万が一のことがあれば……!」
「よい、下がれ」
久しぶりに会ったディートリッヒ王子は、あのときと同じ、癖の強い金髪だった。
唯一違ったのはその目。
以前とは違う、鋭い目をしていた。
ディートリッヒは僕をゴミを見るような目つきで睥睨した。
「今、聞き捨てならないことを聞いたな。私が嘘をついている……ダニエラがそう言ったと?」
「その通りです、殿下」
僕は慇懃な口調で言った。
「ダニエラ・フォン・アルヴィス女史は――あなたをチンカスと呼び、世の中にあんなクズ男はいないと――常々語っておられますが」
「ちっ、あの売女めが。相変わらず減らず口を叩いてるようだな……それで、貴様は何用で私の前に現れた?」
僕は視線を外さずに言った。
「それはもちろん、この世で最も高貴なチンカス男の顔を見に来たんですよ」
僕が言うと、ディートリッヒ王子の顔が真っ赤になった。
「貴様……! 私を愚弄する気か!」
「愚弄? いいえ違います。僕はここに確かめに来た。本当に貴方がそのような者であるのか――王子様に聞きに来たんです」
「何を馬鹿な、忌々しい……! 私の怒りに触れたな! あの辺境の街だけは助けてやろうと思ったが、取り消しだ! 貴様らの街は私が徹底的に焼き払ってやる!」
王子は激昂した。
「ダニエラの奴……! せっかくこうして私が罪を赦してやると言ったのに、頷くどころか使者を叩きのめして……! こんな賤民と親しく付き合うから卑しく穢れるんだ! あの女、王都に連れ帰ったら二度と反抗できないよう、徹底的にしつけてやる……!」
その一言に、僕はディートリッヒ王子の顔を見つめた。
「どのように?」
「は?」
「どのようにダニエラ姉さんをしつける気ですか?」
僕が言うと、ディートリッヒ王子は冷たい目で言った。
「ふん、手段は選ばないさ。私が手に入れたものはみんな私に相応しい女になってもらう。それが私の妃としてのつとめだろう? ダニエラみたいな跳ねっ返りの強い女なら、あの平民の女みたいに自ら命を断つようなマネはしないだろうからな」
俺はため息をついた。
俺の身体が亡霊のように、青白く光り出した。
不審そうにそれを見るディートリッヒに、俺は言った。
「ディートリッヒ……変わっちゃったな、お前」
「はぁ――? 貴様、誰に向かって――!」
「小さい頃、お前言ったよな? 僕は将来、勇者になるんだ、って。そんで、俺と一緒に冒険して、みんなを苦しめる魔王を斃すんだって――」
「な――」
ディートリッヒが瞠目した。
俺は眉間に皺を寄せ、苦しく息を吐き出した。
「お前がそんなドチンカス野郎になったなんて、俺は悲しいよ」
「お、お前は――!?」
「お前にそんなことをさせたくないから俺は頑張って魔王を斃したのに」
「――っ!?」
「今はお前がその魔王だよ。――お前は忘れちまったけどな、魔王は勇者に斃されるもんなんだぜ」
「そ、それは……! 貴様……い、いや、あなたは――!」
「お前、せいぜい後悔して死ねよ」
その言葉を最後に――。
俺は背中に背負った剣を一息に抜いた。
◆
俺は瓦礫の山と化した道を前に、一人岩に腰掛けてぼんやりしていた。
いくらなんでも、やりすぎたなぁ……。
崖はえぐれ、木々はぐちゃぐちゃになり、崩れてきた大岩が道を塞いでいる。
これではたとえ折り重なる死体を片付けたところで、復旧まで一ヶ月はかかるだろう。
俺の視線の先には、さっきまでディートリッヒだった血袋が転がっていた。
最期、ディートリッヒは俺の目を恐怖の目で見つめながら、全身から血を吹き出して、死んだ。
『ニーベル兄ちゃん! 僕も将来は兄ちゃんみたいな勇者になる!』
俺が魔王退治に出発する前。
ディートリッヒは輝く目で俺を見つめながらそう言った。
俺が王都を旅立つ時には、俺の足に縋り付いて泣きわめいた。
僕も旅に連れていくって言ったじゃないか――と。
王国には彼以外に王子や王女はいない。
彼が死んだことで、この国の王統は途切れた。
『魔王のいない世界に勇者など用済みだ』――。
そう言って俺を辺境へ追放した彼の父王にも、まぁ、これで復讐出来たと言っていいだろう。
「王子じゃなくてさ、タヌキに生まれた方よかったよ、お前」
俺はもう物言わぬディートリッヒに呟いた。
もし、俺たちがタヌキだったら――。
こういう風に殺し合いなんてしないで。
ゆっくり湯に浸かって。
野原を駆け回って。
木から果物が落ちてくるのを日がな一日待ったりして。
そういう風に暮らしていけたかも知れなかった。
俺は立ち上がった。
これで俺はこの国の大逆人だ。
いずれ追っ手がやってくるだろう。
勇者である俺ならそいつらを追い返すことは造作もないことだ。
だけど――タヌキは人殺しなんかしない。
ましてやお互いに殺し合ったりはしない。
俺は瓦礫道を歩きながら考えた。
さて、どこへ行こう。
いっそのこと、この国を飛び出そうか。
誰もいない南の島に住み着いて。
フリチンのまま一日中走り回って。
草と木で掘っ立て小屋を建てて。
世界で唯一、バナナで育ったタヌキになるのもいいかもな――。
「こら」
不意に。
俺の背後に、聞き覚えのある声が聞こえた。
「あれほど言ったのに大暴れしやがって。馬鹿」
「なんのことだい?」
俺は後ろを振り返った。
法被姿のまま、ダニエラ姉さんは俺を咎める視線で見ていた。
「俺は勇者ニーベルとして、人々を苦しめる暴君を斃しただけだ。これが勇者の仕事なんだよ、お嬢さん」
「そんな言葉で――ごまかせるか、阿呆ダヌキ!」
姉さんの声は震えていた。
鼻を真っ赤にして。
まるで子ダヌキが獲物を威嚇するように。
ダニエラ姉さんは全身に力を入れて佇んでいた。
「あんた、そんな頭から血まみれでどこ行くのよ。またあの時みたいに行き倒れるわよ、とっとと帰ってきて風呂入りなさいよ」
「悪いけどな、勇者ってのはひとところに留まらないもんさ。また魔王を斃す旅に出るとするよ」
「その魔王は斃された。今はエンディングの最中よ」
姉さんが負けじと反論してくる。
「魔王は復活するものと相場が決まってる」
「まだ復活しないわ」
「でもいずれ復活する」
「今日や明日のことじゃない」
「かつて英雄だった男が魔王になることもよくある展開だったり――」
「あんたが英雄? 思い上がんなボケ」
ダニエラ姉さんは言った。
「アンタはただのタヌキじゃない。毎日毎日鍛冶屋で石炭相手に真っ黒になってる、顔の煤けたタヌキでしょ。勇者なんかどこにいるのよ」
参ったなぁ。
僕は空を仰いだ。
ずっと長い間穴蔵の中にいたせいか。
光の明るさがわからなくなっていたかも。
僕はちょっと迷ってから、踵を返した。
ダニエラ姉さんの前に立つと、ずい、と姉さんがタオルを押し付けてきた。
『令嬢の湯』――そう書かれた薄いタオルだった。
「この間、あんたのチンポに被せてやったタオルよ。それで顔拭きな」
「――わざわざ、これ選んで持ってきたのかい?」
「当然よ。アンタみたいなバカチンポにはチンポタオルがお似合いよ」
「これ掴んで走ってくる間、抵抗なかった?」
バシッ! と、姉さんがタオルを顔に叩きつけた。
「抵抗ないし走ってきてないしとどめにアンタの心配もしてない」
「抵抗はないんだ」
「そこクローズアップすんな」
「まぁまぁ怒んないでよ姉さん。帰ったらフルーツ牛乳2本おごるから」
「3本よ。それとアンタだけは今後、一年間入湯料10Gね」
「ばっ、倍!? 頼むよ、赦してよ!」
「赦さない」
ぷい、とダニエラ姉さんはそっぽを向いてしまった。
参った――。
これは街に帰るまでになんとかご機嫌を取らないと破産しそうだ。
情けない声を上げながら、僕とダニエラ姉さんは街へ帰る一歩を踏み出した。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
ただただ温泉に行きたい。
頭から浸かりたい。
そう思っていたらこの話を妊娠していました。
半日で生みました。
それでももしお気に召しましたら、評価・ブックマーク等よろしくお願いいたします。
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『悪役令嬢・オブ・ザ・デッド』
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