4-29「命の灯を輝かせた勇者に、どうか慈愛の手を」
黒樹たちは全速でそりを走らせていた。敵の一隊が突撃してくる。数は千騎程か。こちらは百人にも満たない。いくら精鋭揃いとはいえ、十倍もの兵力とまともにぶつかり合えばもみくちゃにされて潰されるだけだろう。それに敵も雑兵ではない、聖騎士だ。
そりの上は激しく揺れた。氷の大地は決して平たんな道ではない。黒樹は弓に矢をつがえた。敵の騎士に目掛けて矢を放つ。しかし、兜にぶつかって弾き飛ばされてしまう。
「このままエリザ様のもとまで駆けろ」
前を走るルイドが言った。
「おれたちが陣の中に逃げ込めば、それで戦いは終わりだ」
黒樹はさらに矢を放った。敵の指揮官を狙うのをやめて、狙いを付けられやすい敵を射ち落とす。ダークエルフの味方たちも続いた。敵が近づいてくる。堅い氷の上でまた、そりが激しく揺れる。
敵の騎馬隊の一角が崩れた。転倒したようだ。エリザが精霊術を使ったのか、と黒樹は思った。視界の端では大蛸が触腕を振り回している。氷の上で、いったいどれだけの炎の精霊を操ったというのか。これだけの大規模な精霊術を連続で行使すれば、いくらエリザとはいえ、しばらく精霊術を使うことはできないだろう。
「止まるな! 駆け続けろ!」
ルイドが振り返り、再び指示を飛ばした。黒樹は答えずに新たな矢をつがえ、弓を引き絞る。敵の騎馬隊は転倒し、転倒した馬や騎士に巻き込まれて、その数を大きく減らしていた。死者はそう多くないだろう。だが、突撃の勢いは大きく殺したはずだ。まだ突っ込んできているのは、三百騎、いや四百騎か。黒樹は視線を一瞬だけ前方に向けた。味方の陣。どんなに全力で駆け抜けても、一度は敵の突撃を喰らう。
もう、味方の援護は望めない。一騎でも落として味方の生存率を上げることしか、黒樹にはできない。
敵の騎馬隊。抜き身の剣を陽光に煌めかせ、雄たけびを上げて突っ込んでくる。獣の咆哮のようだ。
黒樹は弓をそりの中に投げ捨てると、腰の短剣を抜いた。敵の騎士たちの眼が良く見える。怒りに身を任せた瞳が、兜の中でぎらぎらと光っている。
ぶつかる。帝国軍の陣へ逃げ込もうとするルイドたちの横腹に、敵の騎馬隊が喰いついた格好になった。馬が嘶き、トナカイが横転し、そりが吹き飛んだ。投げ出される兵もいる。
「構うな! そのまま駆け通せ!」
ルイドが大声で指示を出す。
敵の騎士が、黒樹の乗るそりに並列するようにして走って来た。槍を突き出してくる。黒樹はそれを躱し、左手に持った短剣を投げつけた。敵の騎士の兜と甲冑の間に短剣はのめり込み、返り血を浴びる。馬上で絶命した騎士の身体が倒れてゆく。黒樹は、猛スピードで走り続けるそりから飛んだ。倒した騎士を押しのけ、その代わりに馬に跨る。そのままの速度で、馬を走らせ続ける。
味方の陣が近い。馬止の柵に、大盾を構えた部隊が見える。部隊の一部が、開かれている。そこに逃げ込めば助かる、と黒樹は思った。
黒樹は振り返らずに駆け続けた。状況を確認したい気持ちを、必死で抑える。前を走る者が振り返れば、振り返って見られた者も振り返るものだ。
敵の騎士が追いすがって来た。斬撃を、黒樹は右手の短剣で受けた。弾く。兜の間から、怒りに身を震わす瞳が見えた。突撃の指揮を執っていた者だ、と黒樹は気が付いた。指揮官の首を討てばという思いと、今は逃げるべきだという思いが、黒樹に一瞬の隙を作った。
聖騎士が、大きく横薙ぎに剣を払う。黒樹は距離を取ったが、間に合わない。
「くっ……」
黒樹の左腿から血が舞った。幸いにして深手ではない。黒樹は右手に持っていた短剣を、敵の騎士に投げつけた。兜と鎧、首筋を狙った投擲。聖騎士はのけぞってかわそうとする。黒樹は即座に、風の精霊を使って投げた短剣の軌道を変えた。敵の兜が弾け飛ぶ。顎から切り上げるようにして、短剣が刺さったはずだ。
(やったか……?)
聖騎士の顎から右頬にかけて皮膚が割けていた。しかし、敵はまだ倒れていなかった。汗ばむ灰色の短髪。黒樹は、聖騎士と目が合った。野獣のような瞳だ。聖騎士は黒樹を睨み付けると、馬を離してゆく。
黒樹は味方の陣に飛び込むと、馬を回して味方の状況を確認した。
黒樹に続いて、十台を超えるそりが次々と帝国軍の陣の中へ飛び込んでくる。柵と盾を持った兵たちが、黒樹たちを収容する為に開けていた穴をふさごうと動く。視界の先には、壊れたそりや、倒れた馬、それにそりから投げ出された味方の姿が映る。聖騎士たちの軍勢が、動けずにいる仲間たちに、剣や槍を突き刺して駆け去ってゆく。柵と盾が組まれ、それ以上の状況は見えなくなった。
森の仲間たちの死に、黒樹は胸が痛んだ。不思議と殺意は湧かない。自分たちがしてきたことを考えれば、当然のようにも思える。
ルイドの作戦は、元より聖都を急襲することにはなかった。ニノル学院で、これから聖騎士になる者たちを刈り取る。聖騎士パージュを殺すのではなく、パージュの心を殺すのだ。ルイドは、黒樹にそう説明をした。敵が怒りに身を任せるのも当然のことだ。わざわざ怒らせるためのように、槍の穂先に敵将の首まで掲げて駆けてきたのだ。
どうしてそこまでやるのか、黒樹には理解ができなかった。しかしルイドは私怨ではないという。統率の聖騎士の首を掲げておくことで、敵の撤退を早めることができるだろう、というのがルイドの意見だった。大雪が降っていれば、まだ包囲をかいくぐって帝国軍に合流することもできただろうが、残酷なまで晴天が続き、そのチャンスは訪れそうになかった。どうせ敵に見つかるのならば、少しでも早く撤退させられるように工夫すべきだ、とルイドは言った。
おそらく、言っていることは正しい。黒樹はそう信じた。だが、そこに私怨がなかったと言い切れるのか。その私怨のために、無駄な死を生んだのではないのか。
「無事だったか。何よりだ」
寄ってきたルイドが言った。黒い鎧は、返り血で染まっている。あの混乱の中で、どれだけの騎士を殺したのか。何が、そうまでルイドを駆り立てるのか。
「統率の聖騎士の首は、奪われてしまったようだ」
残念そうに、ルイドは言った。黒樹は何か答えようとして、言葉が見当たらないことに気が付いて黙ったまま頷いた。ルイドはそれ以上何も話そうとはせずに、黒樹に背を向けた。
敵は退いているようだ。さらに攻撃を仕掛けてくる気配はない。
黒樹は生き残った味方を数えた。百人いた部隊は、三十人程しか生きて戻れていない。そのうちダークエルフは半数より多いかどうか、という程度だった。二十人に満たないのでは、戦力として帝国軍に貢献することは難しいだろう。
(すまない……。そう遠くないうちに、おれたちも世界樹へ還るからな……)
黒樹は仲間の死体を、世界樹のもとへ持ち帰れないことを残念に思った。だが、命は巡る。氷の上で死んだ者たちも、ユーガリアの土に還り世界樹に実りを与えるだろう。
それは敵にも同じことが言えるはずだ。黒樹たちが殺した者も、世界樹へ還っただけだ。
ぎりっ、と黒樹は唇を噛んだ。血が滲む。敵に斬られた腿が痛む。やるせない思いと、今更になって後悔の念が黒樹を包む。これで良かったのか。すべてルイドのいう通りに動いて、良かったのか。
「安らかなる永遠の眠りを。命の灯を輝かせた勇者に、どうか慈愛の手を」
黒樹は手短に祈りを捧げた。氷の上を、塩っぽい風が吹いている。
黒樹は手当てを終えると、エリザの下へ向かった。
エリザは幕舎の中で眠っていた。やはり精霊術を行使しすぎたようだ。黒樹はそのそばにより、エリザの寝顔を見た。この少女は、ニノル学院で黒樹とルイドが何をしてきたのか知らない。もし知っていたら、どうしただろうか。黒樹は考えたが、答えは出なかった。駆けてくる自分たちを助けただろうか。それとも、見捨てただろうか。
エリザのそばには、ルイドに扮していたダントンが寝かせられている。右腿から先がない。だが、生きているようだ。彼が命がけでエリザを救うために囮の役割をしたことは、既に聞いている。頼りない男だと思っていたが、思い違いだったようだ。
(思い違い、か)
ルイドに対してもそうなのかもしれない、と黒樹は思った。皆がルイドを指導者として仰いでいる。黒樹も信用しようと努めている。だが心のどこかに、引っ掛かりができている。皆が思っているルイドの姿は、どこまでが本当で、どこからが虚構なのか。
考えても栓無いことだった。黒樹は考えるのをやめた。
それから二日が経った。
黒樹は物見櫓に自ら登って、敵の動きを観察し続けた。敵の陣営ではせわしなく伝令が飛び交い、狼煙で何かを伝えあっているようだった。パージュ大公国軍、三万の騎士たちが退却してゆく。
「……ルイド将軍の言った通りになった、ということなのだろうな」
黒樹は呟いた。共に物見についていた兵が、訝しんで黒樹を見る。黒樹は兵に「降りて、退却の報をルイド将軍に伝えてくれ」と言って、見張りを続けた。
冬の北海だというのに、もう五日も雪が降っていない。雪は、どちらに味方することもやめたようだ、と黒樹は思った。
次回の更新で4章終了となります。