4-25「どうか、どうか私たちをお救いください」
武術の指導にあたっていた騎士たちは全員、戦争に向かうことになった。残された騎士見習いたちには、エイリスの予想通り自習が命じられた。エイリスにとっては、好きなだけ読書にあてられる時間が増えたということになる。兄のディシュワードや他の騎士見習いたちは真面目に武術の鍛錬に励んでいるようだったが、エイリスはニノル学院にいられるこの最後の自由な時間を、読書にあてることを選んだ。
春が来たら、きっとここにもう居場所はないだろう。
ページをめくる。聖女ソニュアが起こした奇跡の世界に、身を委ねてゆく。残忍な魔族に、磔にされて死んだ聖女ソニュアの気持ちに、思いを巡らせる。
エイリスは一日の大半を図書館で過ごした。十字の窓からステンドグラスを通して、色鮮やかな光が図書館に差し込んでいる。微かな埃の匂いと、古びた紙の匂い。図書館で過ごす静寂の時間が、エイリスは好きだった。
昼を知らせる鐘が鳴り、エイリスは本を閉じて棚にしまった。食堂へ入り、スープをよそってパンを取る。すでに食堂の席は埋まっていた。エイリスは食堂を出て、講堂で昼食を取った。できれば図書館で食べたい所だったが、飲食物の持ち込みは禁止されている。
食器を下げようと食堂へ向かう途中でディシュワードの姿を見かけた。声をかけようとして、ディシュワードが他の騎士見習いたちと話をしていることに気が付いた。
「本当か、本当にリュイ様の姿だったんだな」
「間違いないよ。塔から雪が止んだ瞬間に見えただけだけど、あの鎧は間違いなくリュイ様たちだ。二十騎くらいがこっちへ向かってる。何かあったんだ」
「まさか、魔族に負けて追われているとか?」
「それなら、こっちじゃなくて聖都へ向かうだろ。とにかく、みんなにこれを知らせよう。敵が近くにきているのかもしれない。武器庫を開けて、守りを固めよう」
エイリスは唾を飲みこんだ。敵が、きているかもしれない。そう思うと全身にぞわっと寒気が走った。手が震える。食器を落としてしまった。石造りの床に、乾いた音が響く。
「エイリス……?」
ディシュワードが、エイリスの姿に気が付いた。エイリスはディシュワードの手を取った。自分の手が震えているのがわかる。
「ねえ、みんなでニフルの森へ逃げましょう。敵がきているのなら、そうすべきよ」
「エイリス、まだ敵がきているって決まったわけじゃない。それにもし敵がきているなら、これはチャンスだ。武功を上げて、騎士叙勲を受けることができるかもしれない。それに、たとえそうじゃなくったって、騎士を目指す者が背中を向けて逃げ出すわけにはいかない」
エイリスはディシュワードを止めようと、さらに言葉をかけようとした。しかし、ディシュワードは既に踵を返していた。
遠ざかってゆく兄の姿。兄を囲む騎士見習いたちの輪。勇ましく武器を取る少年たち。エイリスはしばらく呆然とその姿を見ていた。ディシュワードの指示でバリケードが組まれ、武器が用意されてゆく。騎士見習いたちをまとめあげるその姿は、確かに妹として誇らしさを感じる。だけど、エイリスは嫌な予感がして仕方がなかった。
「やめて! 逃げましょう! ニフルの森へ! 森の中で様子を見ましょう!」
声を上げる。少年たちはディシュワードの指示で動き回る。誰一人として、エイリスの言葉に耳を傾けない。
「出入口を固めろ!」
「上級生の指示に従って、隊を組むんだ」
「木刀じゃない、真剣を持ってこい!」
「下級生は伝令に回せ、上級生は武器を取れ!」
「ボウガンはないのか! バルコニーから狙い打てるようにしよう!」
エイリスは喧騒の中で、一人、図書館に向かった。日差しが、ステンドグラスを通して、床に色とりどりの十字を作り上げている。
「ソニュア様……聖女ソニュア様……。どうか、どうか私たちをお救いください」
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「なんですって? リュイが戦線を離れたって言ったの?」
ソリアは馬を止めて聞き返した。帝国軍の退路を断つために、敵陣の後方に移動したところでベリルが報告をしてきたのだ。
敵を目の前にしてリュイが怖気づくということは考えられない。何か理由があるはずだ。だが、そう思わない者も出てくるに違いない。いくら騎士と言えど、この氷の上で心に余裕をもって過ごしているわけではないのだ。
「それが、パージュ様の身に危険が迫っているかもしれないということで……」
ベリルは言いにくそうに話した。その顔には、どうにも信用できないと書いてある。
「聖騎士ベリル、あなたは統率の二つ名を与えられたリュイを疑うの?」
「いえ、そういうわけではありません。ですが、本当でしょうか? 敵は私たちの目の前にいるではありませんか。それに、ソリア様が背徳の騎士を討ち、我が軍の士気は高まっております。この機会を無駄にし、帝国軍に背を向けるべきなのでしょうか。ここが踏ん張りどころと、私には思えるのですが」
「パージュ様を暗殺する為の部隊が聖都ビノワーレに入り込んでいても不思議はないわ。北海は広い、そのすべてを私たちが見てきたわけじゃない」
「しかし、聖都も空っぽというわけではありません。シーデル様の率いる二千騎が残っております。いくら敵の暗殺部隊が入り込んでいたとして、彼らの警護の眼を盗んで大公を暗殺するなど、とても成しえないと思いますが」
「敵は魔族……。どんな奇策を用いてくるかわからないわ。それに、私はどうしても引っかかっているのよ。私が倒した漆黒の騎士が、本当にルイドだったのかどうか」
「ソリア様が、それを言われますか。背徳の騎士を討ったと士気が高まっているこのタイミングで」
「最初に戦った時と、こないだ戦った時とでは、どうしても感覚が被らないのよ。剣筋も違ったような気がする。もし……本物のルイドが、パージュ様の暗殺を企てているのだとしたら?」
「なるほど……。しかし、現に目の前に敵がいます。ここで敵に背を向け、軍を返しては聖騎士の名折れになります。敵が聖都へ向かったという確証は何もないのです」
「それは、ラーケイルからの伝令が言ったの?」
「はい。ラーケイル様からは、目の前の敵に集中するようにと指示がきております。敵が退却の素振りを見せ、布陣を崩したら総攻撃に移ると」
総指揮を執るリュイが軍を離れた今、ラーケイルの指示に従うべきである。ベリルはそう言っている。
ラーケイルの頭にあるのは、聖騎士としての名誉だ。それに、聖都を任せているシーデルを信用しているというのもあるだろう。
ソリアは敵の陣を再度見た。敵は守りを固めている。退く気配は、まったく感じなかった。
「私は、リュイを信じるわ」
ソリアは、ニフルの森の中で泣いていたことを思い出した。危険を顧みず、森に入ってきてくれたリュイ。彼は親愛の腕輪が教えてくれたと言った。
あの時と同じことがいま起きているのなら、本当にパージュ大公の身に危険が迫っていても不思議はない。
「一千騎を聖都へ戻すわ。責任が問われるようなら、私の名を出しなさい」
「ソリア様がご自身で行かれますか、やはり」
ベリルは微かに笑ったようだった。そうするであろうことはわかっていた、というような言い方だった。だから言おうかどうか迷ったのだ、とも言いたげである。
「後のことはお願いね」
ソリアが言うと、ベリルは「わかっております」と溜息交じりに答えた。
「もし敵がパージュ大公のお命を狙っているのだとすれば、聖都へ侵入するのは精鋭たちということになります。どうかご武運を」
「あなたもね、ベリル」