4-23「お前の首をパージュ大公への土産にする!」
円陣の内側は、驚くほどに兵がいなかった。予備兵は中央に配置されていたはずだが、サーメットはそれさえ防衛線に回したようだ。敵の攻撃がさらに激しさを増したということなのだろう。野営の幕舎は張られたままで、看護兵だけが幕舎の間を歩いているという形だった。幕舎の中には、先の戦いで怪我をして戦えない兵たちが収容されているはずだ。
ダントンは幕舎の一つに入り、折り畳みの寝台の上にエリザを寝かせた。エリザは身体を横たわらせると、少しだけ安らかな顔になった。ダントンは毛布を探してきて、エリザにかけた。焚火後に薪をくべ、精霊術で火を起こす。精霊術師を名乗れるほどに精霊を扱うことはダントンにはできなかったが、火を起こすくらいのことはできた。人間であるルイドを演じるために、精霊を纏わせないようにしていただけである。純血種のように魔の精霊を見える者でなければ、十分にごまかせたはずだ。
「私は、やれるだけのことを……やる……わ……」
エリザが寝返りを打って、言った。寝言のようだ。火で照らされたエリザの額には、汗が浮かんでいる。まだ幕舎の中は温まっていない。
「違うのよ、ティヌアリア……。違う。私はまだ……十分に頑張ってなんか……ない。まだ……何も成せていない。あなたの力を借りていながら、まだ……何も……」
エリザの口から漏れた黒女帝の名に、ダントンは驚いた。エリザの力は、黒女帝ティヌアリアから受け継いだものだと言われてはいたが、ダントンは半信半疑だったのだ。確かに、純血種の力だ。だがそれが黒女帝の力なのかどうかは、誰に分かるというのだ。だが、いま確かにエリザは、黒女帝ティヌアリアの名を口に出した。まるで、いま、彼女と話をしているかのように。
ダントンはしばらくの間、エリザがさらに何かうわごとを言わないか注意していた。エリザはすやすやと寝息を立てるだけで、それきり何も言葉は発しなかった。
夢を見ているのだろう、とダントンは思った。黒女帝ティヌアリアと会話をする夢。子どもならあり得る話だ。
ダントンはふうと息を吐くと、幕舎の中で飲み物を探した。カップは見つかったが、水はなかった。表で雪を集めて、カップに詰めた。焚火に近づけて溶かす。
「十分に頑張ってなんかない、か」
エリザの言葉を、反復する。エリザは夢の中でも、自分にそう言い聞かせているのだろう。クイダーナ地方を人間族から切り離し、帝国の復活を宣言した。それだけのことをして、まだ十分じゃないと自分に鞭を打っている。
(それに対して、おれは……)
魔都の城下兵として雇われ、何も成せないままに自らの運のなさを嘆いている。
カップの中の雪は溶けていた。ダントンは一息に水を飲みほした。外では、まだ戦闘が行われているはずだ。出てゆくべきだろうか、とダントンは考えた。背徳の騎士ルイドがいれば、それだけで兵の士気は上がるだろう。そのくらいの役目は果たせるかもしれない。
だが、ルイドであるということは、それだけ敵に狙われるということでもある。
幕舎を出たところで、円陣のどこかを突き破って来た敵に見つかって、追い回されることも考えられた。不運な自分なら、十分にあり得るとダントンは思った。
(ただ、戦いたくないだけじゃないのか)
心のどこかでそう思っている自分に、ダントンは気が付いた。運がないから、と自分に言い訳をして、ただ戦うことから逃げているだけではないのか。エリザは夢の中でさえ、前に進もうともがいている。自分と、自分を取り巻く環境を変えようとしている。それに比べて、自分はどうだ。何もかも逃げ続けて、自分の非力さをごまかし続けてきているだけではないのか。
本当に運が悪ければ、とっくの前に死んでいるはずだった。先の戦闘でも、塹壕の中で燃やされて死んだ兵たちや、巨大な蛸のモンスターに薙ぎ払われた敵の騎士たちの方が、よっぽど運がなかったはずだ。
エリザも、スラム街の出身だという。その境遇が恵まれた物でなかったことは、ダントンにも想像がつく。スラムの歓楽街には休日に遊びにゆくことはあっても、決して住みたい場所ではなかった。汚い、臭い。魔都に住む者たちは、まるで排泄物でも捨てるようにスラムに欲求を発散しにゆくだけだった。そんな場所で育ったエリザの方が、よっぽどダントンより運がない。
運とは、なんだ。ダントンは思った。人間族にこき使われ死んだ母の墓に、強くなりたいと願った少年の日を思い出す。それから武術の鍛錬を欠かさなかった。だが、大切な試合ではいつも勝てなかった。ここぞというときには、いつも負けてしまう。いつからか、ダントンは運が悪いのだと思うようになった。おれは、運が悪いから仕方ないのだと。城下兵として、一生を終える。貴族に頭を下げながら、日銭を稼いで治安を維持する。そうして、歳を重ねた。その中で、少年の日の気持ちは、薄れていった。
「諦めていただけなのかも、しれないな」
自分には何も成せない。自分には、運がない。そう言い聞かせてきた。ルイドの影武者を押し付けられた時も、そう思った。
見方を変えれば、武勇を試せる機会だと気づきながらも、物事の悪い面だけを見て、運がないと嘆いていた。
焚火の音が響く。
外から、わずかに喧騒の音が聞こえた。雪を踏みしめる騎馬の音。ダントンは、焚火を踏みつけて消した。耳を澄ます。戦闘が終わって、味方の軍勢が戻って来たのか。それにしては、やけに騒々しい。何かが燃える音がする。幕舎を燃やしているようだ。どこかの戦線が突破され、敵が陣の中央に入り込んだのだろう。大軍ではなさそうだが、幕舎や食料が燃やされてしまえば、氷の上から撤退する他になくなるだろう。
ダントンは、エリザの眠る姿を見た。このままここでじっとしていたとしても、敵が見逃してくれるとは限らない。エリザを連れて逃げるか。いや、間に合わない。敵はもう近くまできている。雪の中で音が聞こえる程に……。
「エリザ様……。わずかな間でしたが、あなたのそばにいられたこと、嬉しく思います」
ダントンは剣を持ち、幕舎を出た。馬に乗り、駆けさせる。いまの自分は、背徳の騎士と蔑まれる、漆黒の騎士ルイドである。
エリザの隠れている幕舎から、できるだけ離れた。目立つように、障害物のない場所を駆けまわる。敵が、漆黒の騎士の姿に気が付いたようだ。数は百騎余りか、もっと多いか、ダントンには雪のせいで見えなかった。緋色の髪の女騎士が先頭にいる。雪の中で、緋色の髪が揺れている。ダントンは、必死で馬を駆った。できるだけ遠くへ、エリザから敵を引き離したい。風が冷たい。呼吸が荒くなっているのが、自分でもわかる。
「背徳の騎士、ルイド! お前の首をパージュ大公への土産にする!」
後ろから緋色の髪の騎士が叫んでいる。雪の中でも、はっきりと届く声。ダントンは振り返らなかった。追い付かれるのは、時間の問題だろう。それまでに、味方に出会えるか。
遠くに、シルエットが見えた。旗。味方だ。帝国旗を掲げているなら、サーメットの本陣だろう。聖騎士の軍勢は、旗を掲げていなかった。あそこまで駆ければ、助かる。冷気で目が痛む。目を閉じた瞬間、ダントンは殺気を感じて反射的に剣を抜いた。
金属と金属がぶつかり合う。衝撃にダントンは耐えた。重い一撃だった。目を開く。次の攻撃が来る。下段から振り上げだ。防ぐ。視界で、緋色の髪が踊る。次の攻撃。防ぐ。馬は駆けさせたままだ。緋色の騎士は駿馬に乗っている。それに、雪に慣れているというのもあるのだろう。ダントンの馬より、明らかに速い。
それは、他の騎士たちにも言えるようだった。ダントンは敵に追い付かれつつあることに気が付いた。
斬撃を受け流す、反対側から、別の騎士が打ち込んでくる。馬上で身体をひねってかわす。曲芸のような状況だった。本物のルイドなら、やすやすと抜けられたのだろうか。ダントンは敵の動きに意識を集中した。一撃でもまともに喰らえば、それだけで殺される。
馬は走り続けている。味方は、まだ来ないのか。雪のせいで、まだダントンが戦っているのがわからないのか。敵の騎士たちが、ダントンを取り囲むように周囲を走っている。斬撃。剣で受ける。
受けた剣が、折れた。
右膝に、鋭い衝撃が走った。やられた、と思った瞬間に、痛みが走り出す。敵の攻撃はやまない。左からの突きの一撃。かわした、とダントンは思った。身体が宙に投げ出される。
ダントンは、自分の馬がそのまま駆け去ってゆく姿を、ゆっくりと見ていた。騎士たちも共に駆け去ってゆく。自分の身体は、宙に浮いているようだ。視界の先に、帝国旗がなびいている。二匹の蛇がはっきりと見えた。緋色の髪の聖騎士が、振り返ったのがわかる。
視界が雪で埋まる。背中に衝撃が伝わる。ダントンは気を失った。




