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ユーガリア戦記  作者: さくも
第4章 北海の戦い
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4-22「敵はあの怪物じゃないのよ。彼はただ、そこにいるだけ」

「退却! 退却!」


 指揮官が声を張り上げる。前線の兵たちは、その指示を聞く前に下がり始めていた。氷の間から顔を出した巨大なモンスターに恐れをなして逃げ惑う様は、もはや軍としての体を成していなかった。煙の中ではっきりとはわからないが、丸みを帯びた真っ赤なシルエットは、恐怖そのものであった。そして、紺碧色の巨大な瞳である。逃げるな、という方が無理があった。


 それは騎士たちにも同じことが言えるようだった。落馬した騎士たちは這って逃げようとし、立ち上がれた馬は騎手を見捨てて駆け去ろうとする。巨大な触腕が、それらを薙ぐ。悲鳴と絶叫が、雪の中に消えてゆく。


 ダントンは暴れようとする馬を何とかあやすと、エリザのそばに寄った。エリザは驚くほどに落ち着いて、トナカイを操っている。


「エリザ様、我々も退きましょう」


 ダントンが言った。混乱の中で、もはや声を出さずに何とかする状況ではない。そもそも、誰もダントンの声になど注意を払っていなかった。我先にと逃げ始めている。


「氷が割れたのね。でも、あのモンスターも氷の上には上がってこられないみたい」


 エリザは冷静に戦場の様子を見ていた。戦場に顔を出した巨大な蛸のモンスターは、確かに氷の上に上がってこようとはしない。暴力的な触腕が届く範囲で、ぶんぶんと振り回されているだけだ。ひと薙ぎで人馬が血しぶきをあげながら吹き飛ばされてゆく様は、恐怖の体現そのものである。


「ねえ、()()()。このまま、ここで戦っていた兵士たちが、混乱のままに陣の内側に駆け込んだら、どうなるかしら」

「それは……」


 ダントンはもはや軍の体裁をなくしつつある自軍の状況を見た。間違いなく、混乱は混乱を呼ぶ。氷上から逃げ出そうとする者も出てくるかもしれない。この混乱が、帝国軍全体に及べば、それは崩壊を意味する。


「しかし、どうやって兵を止めるというのですか」

「私には魔術があるわ。魔の精霊を操って、みんなに少しだけ冷静さを取り戻してもらう」


 エリザは覚悟を決めた眼をしている。

 ダントンは頷き、エリザは満足げに頷き返した。風がエリザを纏う。ダントンは、兵たちの注目を集められるように、剣を天に振りかざした。今の自分は、背徳の騎士ルイドなのだ。そう自分に言い聞かせる。役目を全うしなくてはならない。


「私はエリザ。帝国軍の勇猛なる兵士たちよ、恐れないで。あの大蛸は、私が呼び出したのよ」


 エリザの声は、雪の中でもよく響いた。落ち着いた声だ。ハッタリとは思えない自信に満ちた声に、どこか真実味がある。


「陣を組みなさい。指示に従うの。――大丈夫、あなたたちならできるわ。恐れる必要はない。敵はあの怪物じゃないのよ。彼はただ、そこにいるだけ。騎士たちを薙ぎ払うために、そこにいるだけ」


 反転し、陣の中へ逃げ込もうとしていた兵たちの動きが、止まった。エリザはなだめるように、子どもに言い聞かせるように、言葉を重ねた。兵たちはエリザとルイドの姿を探す。ダントンは、剣を掲げたままでいた。ここに、ルイドがいる。最強の騎士が、女帝のそばにいる。そう思わせるだけで、兵たちは安心する。


「陣を組みなさい」


 エリザは繰り返した。兵たちがエリザを見るのをやめて、敵の方を向く。指揮の執れる者たちがまとまりを作ってゆく。陣容が整ってゆく。巨大な蛸は、まだその触腕を振り回している。氷が揺れる。だが、不思議とダントンは先ほどのような恐怖を感じなかった。あの巨大なモンスターが味方なはずがないと思っているのに、どこか安心している。


 ダントンは剣を下ろし、エリザの顔を見た。エリザは真っ青な顔をしていた。青ざめたまま、感情を見せないようにそりの上に立っている。

 悪魔のような顔だ、とダントンは思った。人の心を操り、敵を倒すことを躊躇しない悪魔のような顔だ。少女の顔、指導者の顔、それに悪魔の顔。ダントンには、エリザの本当の顔がどれなのかわからなくなっていた。それとも、すべて本当の顔なのか。


 殺気を感じて、ダントンは振り返った。雪の中を騎馬隊が猛進してくる。その数はわずかに十騎程度だ。混乱の中で、エリザの首を討つ機会とみて突っ込んできた小隊のようだ。指揮を取り戻した兵たちが弓を射かけるが、いずれも鎧と盾で弾かれている。その一隊に気づいた兵が止めようとする。半数が落とされた。敵はそれでも駆けてくる。

 モンスターの出現でも慌てず、逆にエリザの首を狙ってくるような勇敢な戦士たちである。味方が落とされても、走ることをやめはしない。


「エリザ様、お下がりを」


 ダントンは言って、剣を構えた。敵がさらに数を減らす。後四騎、三騎……。ダントンは馬を走らせた。さらに一騎が、落ちる。何とか突っ込んで来ようとする敵の騎士の攻撃を盾で受け、敵の首を狙って剣を振るった。鎧と兜の間に、剣が入ったようだ。肉を断つ感触。そのまま、馬の勢いに任せて剣を押し込んだ。手ごたえが消える。ぐらつきそうになる身体を馬上で立て直す。


 最後の一騎。すれ違いざまに、剣を突き刺した。重い。ダントンの突き刺した剣は、敵の胴に突き刺さっている。兜の中から、敵の騎士の、充血した瞳が覗いている。反撃がくる。盾で受ける。ダントンは剣を手放した。お互い馬がすれ違う。風を割く音がして、ダントンは振り返った。敵の騎士が、馬から落ちていた。その背には矢が突き刺さっている。


 味方の弓に助けられた、とダントンは思った。本物のルイドのようには戦えないが、それでも、腕に覚えはある。

 戦いは、苦手ではなかった。クシャイズの城下兵だったころも、腕には自信があった。だが、大切な試合では持ち前の不運に悩まされ、戦ではいつも槍働きの出来ない配置ばかりをひいていただけだ。ルイドの影武者という立場は、武勇を試すことができる機会ではあった。もう周囲に敵がいないのを確認すると、ダントンは馬を降りて、敵の騎士の身体に突き刺さった剣を引き抜いた。


 大した剣というわけではなかった。だが、ルイドだったら自分の剣を捨ててはいかないだろう、と思っただけだ。馬に乗り、エリザの下へ戻った。


 エリザの顔色は、白蝋のようだった。唇だけが紫色で、赤い瞳はぼんやりと遠くを見ている。


「エリザ様」


 声をかける。エリザの反応はない。ダントンは馬を降り、エリザの顔に耳を近づけた。息はしている。だが、苦しそうだ。苦しむということさえ忘れているかのように、反応がない。


 歓声が上がり、ダントンは戦場の様子を見た。先ほどまで紺碧のぎょろっとした目玉を突き出していた怪物の姿が、消えている。氷の大地の揺れが収まっていることに、ダントンは気が付いた。エリザの名を讃える声が、各所から上がっている。エリザが怪物を退けたと思っているに違いなかった。いや、本当にそうかもしれない。

 しかし、そのエリザはここで真っ青な顔のまま気を失っている。どうすればいいのか、ダントンにはわからなかった。休ませてやるべきなのだろうが、ここを離れてしまっていいのか。


「ルイド将軍!」


 指揮官の一人が喜んだ表情で駆け寄ってきた。「敵が退いてゆきます」と嬉しげな表情で話すその指揮官に、ダントンは答えようとして、声を聞かせてはならないと気が付いた。黙って、エリザを見る。それで指揮官は察してくれた。


「ここの指揮は大丈夫です、将軍はエリザ様と共にお下がりください。いつまた敵が攻撃を仕掛けてくるともわかりません」


 ダントンは黙ったまま、頭を下げた。指揮官はその様に驚いたようだった。ダントンはエリザをそりに座らせると、トナカイの手綱を握り、自分の馬に乗った。

 先ほどの指揮官が言った通り、敵は退いていた。モンスターの姿も消えている。落馬し、取り残された騎士たちに、容赦なく矢が撃ち込まれている。


 ダントンは馬を走らせた。釣られて、トナカイも走り出す。

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