3-32「貴族階級を廃止する、ということですか」
快勝だった。圧勝と言っても良い。だというのに、エリザの心は晴れなかった。
大勢の人が死んだ。
人馬の血が、クイダーナの大地に赤みを増しているようだ。エリザは丘の上で、集まってくる味方を見ていた。小さな点の一つ一つが、人だ。そして動かない点もある。
それでも、エリザは精一杯に毅然と振る舞うことにした。いくら悲しんでも、死んだ者は蘇らない。
前に進むしかない。前をしっかり向いてなくちゃいけない。起きたことのすべてを受け入れて、進まなきゃいけない。
深く息を吸い込んだ。雨上がりの湿った空気が、肺を満たす。
エリザは目を閉じた。
飲み込め。飲み込まなきゃいけない。
エリザは帝国旗のそばに立った。サーメットとナーラン、そしてターナーが帝国旗を支え続けている。ターナーは死してなお、旗を離していなかった。ターナーの身体は、もう完全に死に蝕まれている。負傷兵が何度か交代を申し出たが、サーメットとナーランは頑として譲らなかった。
眼下に視線を移す。ルイドが指示を出している。丘の麓で野営の準備がされてゆく。そこに騎馬隊が合流した。灰色の装備で身を固めた騎馬隊だ。一角獣の姿もある。
ルイドが直接、ディスフィーアと話をした。それから、二騎が丘を駆けあがってくる。岩場だというのに、ディスフィーアと青い長髪の男は、騎上のまま登って来た。危なげな様子もない。男は、明らかに常人とは異なっている。その全身は灰色の装備でありながら、その周りには色とりどりの精霊が舞っている。
彼が青眼の白虎公ゼリウスだ。エリザは直感した。二人は丘の上まで登ってくると、馬を降りた。ゼリウスの馬はずいぶんと大きいようだが、それでも一角獣の横に並ぶと一回り小さい。一角獣が大きすぎるのだ。一角獣の白い毛に、斑点のように赤い血がついている。いったい、どれだけ熾烈な戦いの中を、血の雨の中をくぐってきたのか。
「エリザ様、良くご無事で」
「ディスフィーア、あなたこそ、本当に良く無事で。それより、その人は?」
ゼリウス公爵だ、とわかっていながら、エリザはわざとそう訊ねた。どういうつもりなのか、わからなかったのだ。不戦を表明していたはずが、どうしてここにいるのか。
答えようとしたディスフィーアを、ゼリウスは手で制した。
ゼリウスの身体から精霊が漏れ出している。エリザは、なるほど、と思った。精霊を通して対話しようとしている。エリザは意図に気が付いた。ゼリウスが、魔の精霊を放つ。
『あなたが黒女帝を継いだというのは、本当ですか』
「ええ」
『私はゼリウス。ディスフィーアを守る為に戻ってきました。そしてディスフィーアは、あなたに仕えるつもりだ。許していただけるのなら、私もそうありたいと思っています』
「ありがとう、ゼリウス公爵」
魔の精霊を使って言葉を投げてくるゼリウスに、エリザは口で答えた。ディスフィーアは、きょとんとしている。
エリザは、感情を持たない何かと会話している気持になった。魔の精霊は、無駄な事柄を何も伝えない。
『ですが、その前にお聞かせ願いたいのです。――エリザ様は、何の為に戦っていらっしゃるのですか』
エリザは、ゼリウスを見た。ゼリウスの顔は長い髪に隠されていて、表情も読めない。
「世界を、変えるためよ」
風が吹いた。ゼリウスの長い髪が揺れる。一瞬だけ、髪の下から瞳が覗いて見えた。エリザをじっと見ている。
怖い眼だ、とエリザは思った。返答によっては、たとえこの場でも敵対する、そういう覚悟の眼だ。
『平和を崩ししてでも、ですか』
「誰かを傷つけて、その人が本来手にできるはずだった幸せを奪い取る。それが果たして平和と言えるのかしら。――私は、誰も傷つかない世界を作りたい。その為であれば、いかに血が流れても、仮初の平和を壊すことになっても、構わない」
ゼリウスは少し迷ったようだ。どういう質問を次に投げかけるか、迷った。
『それは、平等を目指すということですか』
エリザは迷った。誰も傷つかない世界を作る、というのはあまりに抽象的過ぎる。
『人は生まれながらにして平等ではありません。金のある家に生まれた者、精霊術の素質がある者、魔族の中でも純血種かそうでないか。そして貴族がいれば奴隷もいます。……さまざまな者がおります。それらを十把一絡げにされるおつもりですか。魔族の復権を求めて反乱に参加した者も多いはずです。私は魔族の代表として、エリザ様が何を求めて戦いに挑んでいるのか、お聞かせいただきたい』
「私は……」
エリザは、じっとゼリウスの顔を見た。長い髪に隠れた、青い瞳が恐ろしい。
「私が作りたいのは、誰も傷つけない世界よ。あらゆる搾取を、あらゆる『誰かを傷つけること』を私は許さない。誰かの不幸の上に成り立つ幸福を、私は認めない」
『貴族階級を廃止する、ということですか』
ゼリウスは旧帝国軍の公爵だ。そして王国軍においても子爵である。
「私はまだ、そこまでは考えられていない。ただ、そうする必要があると思えば、私は貴族階級を廃止するかもしれない」
ゼリウスは答えず、黙って頷いた。それでいい、と言っているようだ。自分の損益を考えて訊ねたわけではない。真偽の精霊を挟まなくとも、エリザにはそれがわかった。彼は真摯に問うている。真正面からの、向かい合っての質問だ。曖昧に、ぼやかすような回答はゼリウスに失礼だ。
『最後に、一つだけ宜しいですか』
「ええ」
『ティヌアリア様は、エリザ様の中にいらっしゃるのですね?』
エリザは答えるべきかどうか、一瞬迷った。迷ったが、たとえ嘘をついたところで、言葉を介して答えたら偽りの精霊が混じるだろう。ゼリウスに嘘の言葉は通じない。
ティヌアリアには、誰にも話さないと約束した。だがゼリウスは魔術で質問をしている。この問いはエリザにしか聞こえていない。そして恐らく、ゼリウスは誰にも話さないだろう。直感だった。精霊の力ですらない。だがエリザは確信を持てた。青眼の白虎公ゼリウスの、黒女帝ティヌアリアへの忠誠心は本物だ。疑う余地のないほどに、本物だ。
「……ええ」
短く、エリザはそれだけを答えた。
ゼリウスが片膝をついた。エリザは右手を差し出し、ゼリウスはその甲に軽く接吻をした。
冷たい唇だ、とエリザは思った。
今日までイレギュラーな更新をしておりましたが、火・木・土の更新に戻ります。
精一杯の力で書き続けますので、どうぞ今後とも宜しくお願い致します。