3-16「金は先に払う。お前の一生分の金を、やろう」
ジャハーラ子爵が拘束され、投獄された。ベルタッタンはその知らせを聞いた時のバーカカ男爵の喜びように、侮蔑の感情を持った。
(これだから、無能と言われるのだ……)
表情には出さない。あくまで主人の喜びように応えているように、微笑をたたえてさえいる。胸の内の言葉を漏れさせない術は、これまでの人生で良く覚えてきた。
ベルタッタンはスラムで育った孤児の一人だった。どんなに記憶をたどっても、自分の親だと思える人の心当たりはなかった。
生きるために盗みをした。働き口がなかったのだ。それに、必死で見つけた仕事をしていても、給料が払われなかったり、わずかな休憩時間以外ずっと仕事をさせられたり、慰み者にされたり、いずれにせよ安息とは程遠い時間しか与えられてこなかった。それならば、盗みをしていた方がずっとマシだった。
ある日、盗みが見つかった。大した物じゃなかった、果物か何かだったが、それが何だったのかさえ覚えていない程度の物だった。だが金が払えず、さんざん殴られた。その間も、大勢の人が彼の周りを通ったが、誰一人としてベルタッタンを助けようとしなかった。
ベルタッタンは隙を見て、転がっていた石をその男に投げつけた。ひるんだ男に飛び掛かり、石で何度も頭を殴りつけた。そのうち、男は動かなくなった。
大勢の人に、殺人の現場を目撃されてしまった。ベルタッタンは泣き叫びながら人込みを掻き分けて逃げた。スラム街では殺人も、そう珍しいことではなかった。誰もが、自分が今日生きることに精一杯で、それ以外のことに意識を向けられるほど充足した心など持ってはいなかった。
ベルタッタンを追ってくる男がいた。兵士かと思ったが、あまりに兵士らしからぬ男だったので、ベルタッタンは立ち止まった。
男は、まだ幼かったベルタッタンと同じくらいの身長しかなかった。長い髭を生やしている。
「儂に買われるつもりはないか」
男はダルハーンと名乗った。ベルタッタンは断った。何を言っているんだこの男は、と思った。
だがダルハーンは諦めなかった。
「金は先に払う。それから十日間の自由。最後の自由になるかもしれないが、お前の一生分の金を、先にやろう」
ベルタッタンは、ダルハーンの瞳をじっと見つめた。窪んだ瞳の奥底には、何も見えなかった。
バカじゃないかこいつは。と、ベルタッタンは思った。金をくれるという。それもベルタッタンの生涯分に値する金額をだ。だが時間もくれるという。それなら、金をもらって逃げればいい。
「じいさん、金をくれるっていうなら先に金を見せろよ」
ダルハーンの差し出した袋を開けると、そこには金貨と銀貨が詰まっていた。
ベルタッタンは自分の生涯の価値を考えた。一生涯。そんな言葉を考える日が来るとは思っていなかった。今日のご飯、明日のご飯、そういう目先のことしか考える余裕はなかった。
ベルタッタンは、ダルハーンの差し出した袋を受け取った。
「十日後、だな」
「儂は十日後にそこに木の下で待っているよ」
「わかった」
少年だったベルタッタンは、深く考えるのをやめた。金をくれるという。それならば受け取らない道理はなかった。
生まれて初めて、魔都に出かけた。服を買い、旨い飯を食べ、歓楽街で生まれて初めて酒を飲んだ。そうして、目覚めたときには持っていたはずの金貨の袋がなくなっていた。
ベルタッタンは慌てて、昨日行ったすべての場所を回った。昨日までの態度とは打って変わって、出会ったすべての人が汚らわしいとばかりの目でベルタッタンを見た。この人たちには、金がなければ薄汚いスラムの子どもにしか見えないのだ、とベルタッタンは理解した。
夢を見ていたのだ、とベルタッタンは思った。短い夢だった。
雨が降った。どんなに雲が厚く覆い隠していても、夜でも、魔都を照らし出す光が絶えることはない。ルーン技術による街灯が、城下町を仄かに照らしている。紺色の街並みが、やけに暗い色に見える。
ベルタッタンは路地裏でうずくまった。膝を抱え、雨に濡れるがままにしていた。この姿を誰かに見られたくない、と思った。人通りのない路地裏をあえて通ろうとする者などいなかった。
どうしてこんなに虚しい気持ちになるのだ、とベルタッタンは考え続けた。たかだか、金がなくなっただけのこと。もとより持っていなかった物が、なくなっただけのこと。
それだけなのに、どうして虚しさを感じなければならないのだ。
空が明るくなっても雨は降り続けた。
ベルタッタンは冷え切った身体を抱いて立ち上がった。
魔都を出て、約束の木の下に行った。ダルハーンは、木陰で傘をさして、座り込んでいた。
「早かったの」
ダルハーンは言い、ベルタッタンはただ頷いた。
自分のすべてを売り払ったのだ。ベルタッタンはそう思った。ダルハーンは様々な技を教えてくれた。
たとえば剣術。やせ細っていたベルタッタンに、ダルハーンは細剣の扱い方を教えた。刺す、引く。敵の動きを見る。次の行動を、どこを狙ってくるかを予測する。細剣は敵の攻撃を受け止めるのには向かない。受け流すか、躱すか。ダルハーンは他にも何人もの子どもを育てていた。彼らと競い合ううちに、ベルタッタンの剣の腕は上達していった。
「お前の剣は、舞いのようだ」
ダルハーンのその言葉は、今でもベルタッタンにとって最上の褒め言葉である。
ベルタッタンは剣術の他にも様々なことを教わった。魔鳥の扱い方も、男に媚びる技もだ。嫌ではなかった。人生のすべてを売ったのだ。そしてベルタッタンは同姓でさえも魅了できるほどに美しく育った。
ダルハーンは完成した者から順に、奴隷として子どもたちを売り払っていった。
その実は、密偵である。魔鳥を使って情報を集めるために、大陸中の有力貴族に、自らが育てた奴隷を売っている。
男娼としてバーカカ男爵に売られた。そのときもベルタッタンは何も思わなかった。育ててくれたダルハーンの下から離れることに対しても、自分のこれからが金に換えられても、当然のことだと思った。いずれそういう時が来るとは、わかっていた。ベルタッタンはもう青年になっていた。遅いくらいだった。
バーカカはベルタッタンをすぐに気に入った。
ジャハーラ子爵を嵌め、ライデーク伯爵を殺してしまえば、魔都の実権を握ることなど、そう難しくはないですよ。
耳元で何度かそう囁いた。簡単な男だった。
お前にそれだけの器があるものか。心の声は内に秘めたまま、外に出ることは決してなかった。
すべてダルハーンに指示されたことだった。一つだけ違ったのは、ターナーとナーランに馬をやって逃がしたことくらいだ。
特に意味があってやったことではない。
ただ、少しばかり興味があったのだ。
ターナーはバーカカ男爵から宿代では明らかに余るほどの金を受け取った。あの金をどう使うのか、それに興味があった。
ベルタッタンは思う。かつての自分は、ただ一時の快楽を得ようと金を使った。それは、金の使い方を知らなかったのではないか。
もしあのときの自分に戻ったとして、ダルハーンが金を差し出してきたあの時に戻ったとして、今の自分は果たしてどう使うだろう。
「邪魔者はこれで排除し終えた。後は他の貴族どもを黙らせ、反乱軍を撃退するだけだな」
バーカカ男爵は上機嫌である。ベルタッタンは微笑んで頭を下げた。
ターナーはどうやって金を使うだろう。直接見ることができないのが残念だった。
だがきっと、同じように無駄にしてしまうに違いない。
柄にもなく口元が自然と緩んでしまっていることに、ベルタッタンは気が付いた。