1-4「永遠に続く幸せはそう多くはないわ」
気持ち悪い。
暗闇の世界で、エリザは浮遊感を味わっていた。ティヌアリアの声が響く。
『何が気持ち悪いの?』
「色、色が見えるの」
『薄くもやがかかったような?』
「そう」
『エリザ、彼らを嫌ってはいけないわ。彼らはきっとあなたの力になってくれるから』
「あんなに汚い色をしているのに?」
『あなたは、何を見たの?』
ティヌアリアはエリザの見ている光景を知っているわけではないようだ。
「男の人よ。彼の周りが、こびりついた血みたいな色がして――」
そう、ちょうど肉屋のおじさんが着ているエプロンのような色だ。鮮やかさからは遠く、異臭を発してしまいそうな、どす黒い赤色。
ティヌアリアに分かってもらえるよう、エリザは順を追って話した。酒場で歌っていたこと、今日は冒険者風の男が来ていたこと、その男の持っていた剣の柄を握ってから、ティヌアリアと話ができるようになったことを話した。
ティヌアリアは適度に相槌を打ってくれた。それから、エリザが会話に詰まらないように質問もしてくれた。エリザは途切れ途切れになりながらも、自分が孤児であることや、アルフォンやミンやラッセルに助け出され共に生活をしていること、それにヴィラたち孤児仲間のことも話した。ティヌアリアはそれに悲しみを含んだ声色で相槌を打ってくれた。
『そう、大変だったのね』
「そんなことない。私にはアルフォンたちがいるし、仕事だってちゃんともらえた。生きてゆけるから」
『現状に幸福を感じられることは何よりも素晴らしいことだわ。だけど、永遠に続く幸せはそう多くはないわ』
「ごめんなさい、ティヌアリア、どういうことかわからない」
『きっと、すぐに分かるわ』
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エリザは目を覚ました。雛見鳥の客席の奥にある、マスターの寝室のようだった。ベッドに寝かせてもらっていたらしい。
(死んで、ない……)
冒険者風の男に殺されても仕方がない状況だった。折れた剣とはいえ、盗みを働いていた瞬間を見られたのだ。
マスターが助けてくれたのかもしれない。お礼を言わなければ。
立ち上がったエリザは、また周囲の景色に色味がかかっているのを感じた。どす黒い赤色はまだある。だけど、先ほどと比べると幾分か薄くなったように感じるし、吐き気を催すほどには感じなかった。
目を閉じる、開ける。
何度か繰り返して、この世界の色に目を慣らしていると、ドアが開き、マスターが入ってきた。
「ああ、起きたようだね」
エリザは、マスターの周りだけ、闇色が少し深いのを感じた。
「すみませんでした」
マスターは自分のひげをゆっくり撫でて、笑顔を作った。
「いや、こちらこそ悪かったよ。体調が悪かったのに、無理に歌わせてしまったようで」
冒険者風の男は、エリザが荷を盗もうとしたことをマスターに知らせなかったのだろうか。エリザはほっと胸をなでおろした。これで雛見鳥での仕事を失わずにすむ。
安堵していると、マスターの後ろから聞きなれないくぐもった声がした。
「奥も調べさせてもらうぞ」
言うなり、部屋に入ってきたのは兵士だった。ニーズヘッグで武装した兵士を見るのは珍しい。彼らは魔都クシャイズを守っているのであって、スラム=ルイドとりわけニーズヘッグに来るときはたいていが鎧を脱げる休日だけだ。
「その子は?」
「ああ、店で働いてもらっていたんです。夕刻ならもう店に来ていましたよ」
マスターが落ち着いた表情で答える。さらに疑ってかかろうとする兵士の肩に、ごつい手が乗った。
「間違いない、おれが保証しよう」
冒険者風の男だった。エリザは、その男を見た瞬間、吐き気が再度こみあげてくるのを感じた。
この男の周りだけ、他とは明らかに異質などす黒い血の色が渦巻いている。エリザは毛布を肩に抱き寄せた。
「確かに年齢は近いようだが、報告で上がってきているのは青髪の少年だ。この子は当てはまらない」
兵士は自分に言い聞かせるように言うと、部屋から出ていった。冒険者風の男も兵士について店の方へ戻ってゆく。
(青髪で、私と同じくらいの年齢で、少年……? ヴィラ……?)
エリザは顔から血の気が引いてゆくのを感じた。気分が悪いのだろうと心配したマスターが、毛布を足そうかと持ち掛けてくれるがそれを断って「何かあったんですか?」と訊ねた。
声が震えているのが、自分でもわかった。
「盗難だよ。よりによって、お忍びで出かけてたリズ公爵から盗んだらしい」
マスターが答えた。その声には、どこの誰だか知らないがよくやったもんだよ、という響きが混じっていた。ヴィラもたまに雛見鳥で玉乗り芸を披露するから、もしかするとマスターは見当がついているのかもしれないが、それはおくびにも出さない。
リズ公爵は、クイダーナ地方全体を治める領主であり、クイダーナ公国の君主だった。いまは魔都クシャイズを居城としている。エリザは、彼が成金騎士ダーンズの息子であって、とにかくお金持ちで偉い人、ということだけは知っていた。
「ありがと」
エリザはマスターに雑な礼を言うと、ベッドから這い出て寝室を抜け出した。兵士はもう帰っている。店内で冒険者風の男はさらに酒を飲んでいた。エリザはなるべく男を見ないようにして雛見鳥を出た。
夜風が冷たい。体の芯まで凍らせるほどだ。辺りを見渡す。昨日まで見えていた世界の上に、薄くもやがかかったようだ。マスターの店に並べてあった橙色の酒によく似た色だ、とエリザは思った。それが廃頽の象徴のようにエリザは思えて、なるべく見ないですむようにフードを被った。歩を進める。帰らなきゃ。それだけが頭の中にあった。
月明かりを頼りに、エリザは歩いた。歩きなれたはずの道だったが、なるべく景色を見ないように下を向いて歩いているからか、なかなか歩が進まない。
ニーズヘッグの街並みを抜けるまでに、三組の兵士に出会った。彼らはすれ違うたびエリザにフードを取るように命じた。エリザはフードを取って見せた。三回が三回とも兵士たちはエリザに悪態をついた。暴力を振るわれなかったからマシだとエリザは思った。
夜更けとはいえ、人通りがあまりに少ないのが気になった。いつもなら酔っ払いたちが徘徊している通りなのに、今日は嘘のように静かだ。
エリザは自分たちが住む区画に入ったとき、足元に赤い色が混じるのを感じた。
鮮やかな赤だった。血のこびりついたような黒みを帯びた赤色ではないし、クイダーナの大地特有の赤銅色でもない。新鮮な果物のような、赤い色だった。ゆらゆらと揺らめいているようで、陰影がはっきりと見える。
(……炎?)
エリザは揺らめく赤色が炎に見えた。その瞬間、エリザは嫌な予感がして走り出した。
駆ける。左の靴が取れて転んでしまった。エリザはひねった左足を押さえてうずくまったが、すぐに右足の靴も脱ぎ捨ててよろけながらも走り出した。小石が足に刺さる。血が滲む。大地が湿っているようだ、とエリザは思った。赤みが濃さを増して、大地が揺れる。それが徐々に鮮やかさを増していって、エリザは頭を上げた。
エリザたちの住む家が、燃えていた。
ごうごうと燃え盛る炎の音だけがエリザの聴覚を支配した。