3-9「ところが、すでにそのカードは表です。……表になるのが早すぎた」
ディスフィーアの胃袋はいったいどうなっているのか。彼女は加わった日の夕食ですでに注目の的だった。
一人で大鍋いっぱい喰らったのだ。三十人分はあったはずだ。これにはさすがのスッラリクスも報告を聞いて驚いて見に行った。あの細い身体のいったいどこに入っていったのか。
「すごいすごい、まだ食べられるの?」
レーダパーラが問いかけ、「腹六分目ってとこかしらね」とディスフィーアが答えていた。「おかわり」と言い出しかねない状況にスッラリクスは頭を抱えた。
「ディスフィーア、ちょっと話があるのですが……」
スッラリクスはディスフィーアを自分の使っている営舎に招き入れた。周囲をダークエルフが守っている。ダリアードの町で敵の甘言で身に危険が迫った際、黒樹がつけてくれた三人だ。彼らは普段姿を消しているが、交代で常にスッラリクスを守っている。
なるべく丁寧に、兵糧がいかにぎりぎりなのかを説明した。ただでさえ集まってくる民に兵糧を渡してしまっている上、志願兵が増えてゆく一方なのだ。彼女一人にそんなに食べられていたのでは堪らない。
食糧事情にしても、斥候からの情報にしても、ゼリウスが傍観を決め込んでいることについても、スッラリクスは兵たちに知られないようにしていた。投降兵や脱走兵、それに民兵で組織された軍だ。どこから情報が漏れてもおかしくない。情報はなるべく、一部の人間だけが握っておいた方が良い。ダークエルフの三人は、スッラリクスを守ると同時に情報を守っているのだ。
理をもって説明するとディスフィーアは納得してくれたが、同時に疑問をぶつけてきた。
「それなら、さっさと魔都へ進軍したらいいのよ。『黒女帝』と『背徳の騎士』の名を出せば、反乱軍側につく兵も城内にいるでしょう。彼らと連携をしてさっさと城落としてぱーっとやりましょう。どうせこのままじゃ敵の方が有利よ?」
「それはわかっています。ですが、私たちは寄ってくる者たちを無視するわけにはいかないのです。義の軍であること。それが、今後、国を治める段階になって何より役立ちます」
「ご立派。だけど、その前に潰されてしまったら何にもならないのよ。芸術家にどんなに才能があったって、作品を作り上げる前に死んでしまえば世に出ない。それと同じことよ」
「あなたは、なかなか面白いことを言いますね。ですが、私は負けるつもりはこれっぽっちもないのですよ」
「電撃作戦以外に、何があるっていうのよ」
スッラリクスは溜息をついた。
「さすがに戦術眼はお持ちですね、『紅の戦乙女』ディスフィーア」
「……私のこと知っているの?」
「ええ、黒竜の塔で良くお見掛けしていましたよ。美しい人だ、と思っていました。それから各国で盗賊団をつぶして回っているという噂が流れてきた。私はそれを聞くたびに誇らしく思っていた」
スッラリクスは、胸元からペンダントを取り出した。親指大の黒い鍵爪がぶら下がっている。
黒竜の爪。黒竜の塔を卒業した者にしか与えられないアクセサリーだ。
「あなた、もしかして」
「私は混血です。生を受けてまだ十二年。外見はあなたとそう変わらない年齢に見えるかと思いますが。あなたが黒竜の塔を卒業された時、私はまだ幼かった。……このくらいですかね」
スッラリクスは自分の膝に手をあてた。さすがにそれは冗談にしても、今のエリザくらいの身長しかなかったのは確かだ。人と魔族の混血は、生き急ぐように成長が早い。
「さすがにそれは小さすぎると思うけれど……。ああ、でも、なんだか色々解けてきたわ。進軍速度を落としてまで民を受け入れてしまっている理由が」
「私は、混血たちの境遇を改善したい。その為にこの軍に参加しているのです。私たち混血は、人間や魔族の半分の寿命しかない。だからこそ、あなたたちよりも時間が濃密です。明日を生きることに必死です。私は彼らを放っておけない」
自分が混血に生まれた理由。自分が黒竜の塔で育った意味。そしてレーダパーラと出会い、エリザと出会った。
これらすべてに、意味がある。スッラリクスはそう思っていた。
ならばその意味はいったい何だ。何の為に戦うことを決意したのだ。スッラリクスは飢えに耐えてまで軍に合流しようとしてきた者たちを見捨てることで、自分がここにいる意味さえ失ってしまうような気持ちになっていた。
「だからと言って、目の前の人たちを救うことで巨悪を倒せないのならば意味がないわ。同情はするけれど」
「ええ、わかっております。今回の戦は、元帝国軍の二将の動きに全てがかかっています。電撃作戦を仕掛けるのが最も正しい意見なのは間違いがありませんが――ダリアードの町を出てから、予想を超える数の人が集まってきたことで私の考えは少しばかり変わりました。いくら『黒女帝』や『背徳の騎士』『虹色の眼』の名があり、討伐軍をうち返したからと言っても、未だ王国の力は強大です。それにも関わらず、大勢の魔族や混血が私たちと共に戦いたいと申し出てくれる。この民の力を有効に使えば、流血を抑えて開城を迫れるのではないか。私はそう思い始めているのです」
スッラリクスは自分の考えを、なるべく理論立てて説明しようとした。だがその根底にあるのは、これまで虐げられてきた者への哀れみである。自分でも理解していた。
だが、弱者の味方でなければならない。そうでなければ、反乱の根底が崩れる。エリザの目指す世界の、最初の立ち位置が壊れる。そうなればたとえ魔都を落とせても、組織のどこかが歪む。歪んでしまった組織に未来はない。それは自分に嘘をついて生きる人間と同じだ、とスッラリクスは思っていた。
「実はダリアードの町で、エリザ様のことは内密にしておくつもりだったのです。もしいま、まだ『エリザ様が黒女帝の力を継いでいる』というカードが裏返しのままだったなら、私も電撃作戦を決行したでしょう。ただの反乱であればここまで迅速に敵が守りを固めることもなかったでしょうし、ジャハーラ殿にゼリウス殿というお二人が動くことも考えずに済みました。ところが、すでにそのカードは表です。表になるのが早すぎた。ですが表になったことで、兵や民が急速に集まり、商人たちさえも声をかけてくるようになった」
「でも、敵の数はそれ以上のペースでどんどん膨らんでゆく」
「ただし、その半数以上が、現在の統治体制に不満を持つ魔族です。それに混血も多い。彼らを味方につけることができれば、流れる血をずいぶん減らすことができるでしょう。そうすれば国力を失わずに済みます」
「先のことを見るのは良いことだと思うわ。だけど、遠くを見すぎて足元の石に躓いてしまうんじゃ意味がない」
「ええ、その通りだと思いますよ、ディスフィーア。だから正直に言えば、私は迷っていたのです。今からでも進軍速度を速めるべきか。でも、あなたが来たことで私は今の速度でゆっくり進むことに決めました。民を優先します。幸いにして協力を申し出てくれる商人も増えてきましたから、兵糧も何とかなります」
「私が来たことで?」
わけがわからない、という顔をディスフィーアはした。
「ゼリウス殿が中立を保つという情報は、私たちにとって測り知れない価値があります。今回の戦の要は、元帝国軍の二将がどちらに転ぶか、という点にあることはお話した通りです。その不確定要素のうち、特に私が不安視していたゼリウス殿が動かない、ということは考えから外せる、ということです。これでジャハーラ殿の動きだけを注視すれば良くなりました」
ジャハーラの話をすると、ディスフィーアの顔が険しくなった。灼熱を思わせる髪と目の色。そして黒竜の塔に預けられ、今はゼリウス卿の元にいる女性。スッラリクスはだいたいの事情に想像がついていたが、構わずに話を続けた。
「虐げられ続けてきた混血たちにとっては、我らはむしろ解放軍です。こちらに寝返ってきてくれる者が多いとは予想できます。後はジャハーラ殿が動いた方へ魔族がつく。もちろん『黒女帝』の名で魔族の一部は集まるでしょうが、しょせん四十年前の人物です。隠居同然とはいえ、いまなお絶えず畏れられ続けている『炎熱の大熊公』の方が、現実的に人望があると言えます」
ディスフィーアは唇を震わせて地面を見ていた。拳は固く握りしめられている。
「ジャハーラ卿は――父は、おそらく敵に回るでしょうね。いえ、これは予感でも何でもない。私が、そうであって欲しいと思っている。そして敵になるのなら、私は――」
赤い眼と、赤い髪。
やはり父と娘か、とスッラリクスは思った。ディスフィーアが覚悟の言葉を吐き出さずに済むように、スッラリクスは言葉を紡いだ。
「大丈夫ですよ、ジャハーラ卿と戦うことにはなりません。ジャハーラ卿がたとえ敵の側に回ったとしても、気がつけばこちら側にいる。そう仕向けるのが私の仕事です」
スッラリクスはそう言ってにっこりと笑うと、顔を歪ませるディスフィーアの肩を抱いた。折れた腕にあてた副木が、どこか場違いに感じた。
戦いの中に何かの意味を見つけようとしている。自分が生きてきた意味。決着をつけるべきこと。答えがあるかどうかはわからないが、それでも探し続けている。
私も変わらないな、とスッラリクスは思った。