2-21「ティヌアリアはルイドのことを良く知っているんだね」
魔都クシャイズは眠らない。深夜であってもルーン技術によって精霊の火が焚かれ、赤みを帯びた地面を仄かに照らし出す。紺と紫を基調とした城下の外観は、むしろ夜にこそ映える。
ライデークはクシャイズ城の中にある寝室から、その景色を見て一人晩酌をするのが、人生で一番の楽しみだと思っていた。成金騎士ダーンズに仕えた父の跡を継ぎ、クイダーナの地方貴族になった。老いた父はライデークに爵位を譲り、今ではクイダーナ北部にある伯爵家の領地を治めている。
ライデークは老いた父に変わり、クイダーナ全体の政治に口を出すようになった。魔族が多いクイダーナ地方が今日まで王国の統治下にあるのは、自分の力量による物だとは自他ともに認めている。
綺麗な都だ。ライデークはそう思った。眼下に広がるクシャイズの城下は、まるで地上に描かれた荘厳な絵画にさえ見える。
ライデークはグラスに注いだ葡萄酒をそっと傾けた。夜景を映し、グラスに嵌め込まれたいくつもの宝石が輝きを放つ。
いずれ、この都をすべて自分の物にしたい。魔族からも人間からも治世による信頼を勝ち取り、リズ公から実権を奪い、ユーガリアで最も美しい街並みをここに作り上げたい。
そう思うようになったのはいつの頃からだったか。ライデークはその野望を誰にも語ったことはなかった。ただそっと、晩酌をするこの時間に、一人その妄想に耽るだけである。
扉が、乱雑に叩かれ、ライデークは妄想から現実に引き戻された。
「何事か」
「お休みのところ申し訳ございません。ダリアードの町から駆けてきたという者が、至急、伯爵にお伝えしたいことがあると」
「その者はどこに?」
「まだ城の入り口でございます。身体中にひどい怪我を負っており、馬で駆けてくるなりそれだけ言って倒れました。その場で手当てさせております」
「わかった、すぐに行く。リズ公や、主だった貴族たちにも伝えよ」
「はっ」
ライデークはすぐに外に出られる格好を整え、城の入り口まで行った。
衛兵たちが集まっている。その輪の中心にいる男に、ライデークは見覚えがあった。ジャハーラ子爵の五男、ナーランである。鎧を脱がされ手当てをされている。報告にあった通り、身体中に切り傷を負っている。特にわき腹の傷が深い。槍で刺されたようだ。それもひどく化膿している。手傷を負ってなお、そのまま駆け続けてきたに違いなかった。
ナーランがライデークに気づいた。治療を続けようとする者たちを押しとどめ、その場で跪く。
「ライデーク伯、畏れながらご報告申し上げます。無念ながら、ダリアードの町の鎮圧は失敗、黒女帝の力を継いだとする少女の出現で、兵の半数近くが反乱軍に寝返り、残った軍は潰走にございます」
ダリアードの町は包囲戦に入ったというのは聞いている。援軍を差し向け、十二分な補給も手配した。後は砦に籠った反乱軍の兵糧が切れるのを待つだけだったはずである。
それが、黒女帝だと? この男は何を言っている。
「黒女帝の力を継いだ少女だと? 事実か」
「わかりません。ですが、兵たちの半数はそれを信じました」
「見たのか?」
「私はこの目で見ました。数百の矢を一人で弾き飛ばし、住民を兵に変え、火を操り、宙に浮く少女を。黒女帝の力かどうかはともかく、尋常でない魔力を持つことは間違いがございません」
ライデークはナーランの目を覗き込んだ。赤い瞳は、決して嘘を語っているようには見えない。
「貴殿の兄君はどうした? まさか指揮を投げ出し、敵についたとは言うまいな」
「そうであれば、どうして私がここに駆けてきましょう。兄は最期までルージェ王国の為にその命の炎を燃やしました。伯爵に伝えよ、それが兄の最期の指示でした。だから私はここにおります」
ライデークはナーランの言をすべて信じたわけではなかった。
黒女帝の力を継いだ少女というのも信じがたいことだったが、もしそれが本当ならば、魔族の純血種であるジャハーラ子爵は、むしろ反乱に加担していなければおかしい。ジャハーラ子爵が何か企んでいるのではないか。どうしても、そういう疑念にとらわれてしまう。
大言を吐いて指揮を執っていたサーメットもあっさり打撃を受けた。だから総指揮の権利を別の者に委ねた。それを不満に思ったジャハーラ子爵が何か策を巡らせているのではないか。
だが現に、ジャハーラ子爵の五男は手傷を負って、ここに報告に来ている。
この報告を信じ、魔都の城下兵を出撃させたところを乗っ取るつもりではあるまいか? 当のジャハーラは病気と偽って軍議にも出てこないのだ。
「大義だった。手当てを受け、休め」
リズ公も、他の貴族たちも、まだ集まってきていない。
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ティヌアリアには、魔の精霊に働きかけて住民を戦わせたことは、話さなかった。
それを言ったら彼女はきっと怒る。もしくは嘆く。エリザはティヌアリアを悲しませたくなかった。だからかいつまんで、町を守りきったことと、ルイドが助けに来てくれたことだけを話した。
「来ないんじゃないかって、みんな心配してた」
『彼はそういう嘘はつかないわ。あなたがいる場所になら、どこへでも飛んでくるはずよ』
「前もそう言ってたよね、ティヌアリアは。それじゃあ、どういうときにルイドは嘘をつくの?」
『それを知ったら、あなたが傷つくと分かっているときよ。優しくて残酷な嘘を、彼はつく』
「ティヌアリアはルイドのことを良く知っているんだね」
『どうかしら。知らない部分の方がずっと多かったと思うけれど』
エリザは、ティヌアリアとルイドの関係を羨ましく感じる時があった。信頼している。彼なら決してこうしない。そう言い切れるほどに信頼している。
(私には、心から信頼できる人がいない)
そう思うと、エリザの心はずんと重くなった。誰よりも信頼していたのは誰か。アルフォンやミンだった。料理も洗濯も、熱を出した時にどうしたらいいのかも、みんなで生きてゆこうとエリザに言ってくれたのも、二人だった。ミンと良く喧嘩するけれどラッセルのことも好きだ。家事を何にも手伝ってくれなかったけれど、ヴィラも好きだった。
もう、誰もいない。
ルイドはエリザの為に戦ってくれる。だけどそれはエリザがティヌアリアの力を継いだからだ。
レーダパーラはエリザのことを友達として扱ってくれる。だけどそれは精霊が見えるからだ。
スッラリクスはエリザに良くしてくれる。だけどそれは誰にでも同じように向ける優しさでしかない。
黒樹はエリザに覚悟を問いかけた。それはエリザの目的を確かめるためだ。
ティヌアリアの力が全部の前提にある。もしそれがなかったとして、無条件で信頼できる相手が、エリザにはいない。ティヌアリアと話をしていると、たまにどうしようもなくつらくなる。そういう時、エリザは黙ることにしていた。エリザが黙ると、ティヌアリアは無理に話しかけてはこない。
無音の静寂の中にいると、意識が深い闇に飲み込まれてゆく。
思い出すのは、いつもアルフォンたちと生活していたころの出来事だった。仲間の顔が次々に浮かんでは、消えてゆく。
(私のような思いをする人がいなくなるように、誰も傷つかない世界を作るんだ)
決めたことだった。自分に言い聞かせるように、たまにエリザは意識を深い所に落として、決心をより強くする。
燃える家、泣き叫ぶミン、槍で貫かれたヴィラ……。
エリザは目を覚ました。
心配げにエリザの顔を覗き込んでいたのはレーダパーラだった。
「おはよう、エリザ」
「おはよう」
「大丈夫? うなされていたみたいだけど」
「ありがとう、大丈夫。それよりレーダパーラ、傷は?」
「もう普通に動く分には大丈夫。黒樹が世界樹の朝露をくれたんだ。それが良く効いてさ。あ、スッラリクスを呼んでくるね」
エリザは上体を起こした。スッラリクスの住む館のようだ。植物の茎が編み込まれた床に、毛皮の布団が敷いてあり、そこに寝かされていた。
外から兵たちが訓練に明け暮れる声が聞こえる。ルイドと黒樹の厳しい調練が行われているようだ。
スッラリクスが走って部屋に飛び込んできた。
「エリザ様! あなたのお陰で、私たちは助かりました。どう感謝を申し上げていいものか」
スッラリクスは、両腕に副木をあてていた。その格好で走る姿はどこか滑稽だった。
「エリザが落ちたとき、駆け寄って受け止めたら両腕折れちゃったんだって」
戻ってきたレーダパーラが言った。
「ごめんなさい」
「謝らねばならないのは私の方です。ルイド将軍が戻るまで砦を支えきれず、エリザ様の力を晒してしまった」
エリザは応えなかった。ルイドの言いつけを守れなかった。だがあの時は、そうするしか思いつかなかった。
「あ、そうだ、黒樹とルイドさんも呼んでこようか。エリザが目を覚ましたって知ったら喜ぶよね」
「レーダパーラ、少し落ち着きなさい。エリザ様は目が覚めたばかり、少しは気を利かせましょう」
「――いいえ、いいの。二人を呼んでもらえる?」
レーダパーラが出て行った瞬間、エリザのお腹がぎゅうとなった。エリザは自分が空腹だということに今更気が付いた。
「丸々二日も寝てらっしゃったのです、当然でしょう。先に食事を運ばせますね」
スッラリクスが軽く笑って、言った。エリザは顔が熱くなるのを感じた。
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