2-18「味方だと信じていた者たちに、いつ寝首を掻かれるのか」
ルイドは来ないのではないか。
反乱軍の中に疑心が芽生えていた。そして、敵の甘言である。スッラリクスは頭を抱えたくなった。これで外側の敵に備えるだけではすまなくなった。内側にも目を向けなければならない。
スッラリクスは黒樹を何度も館へ呼び、話をした。
「敵の甘言が思ったより聞いているな」
「ええ。私の首を差し出せ、という簡単な話ですしね。黒樹のように武勇があるわけでもない、レーダパーラのように子どもを殺すという罪悪感にも苛まれなくてすむ。実にいい人選です」
「中から瓦解する、と思っているのか」
「さあ、どうでしょうね。私がどう思われているか、という問題のような気もしますが」
問題は士気だった。ずっと敵に囲まれている。いつ攻め込まれるかわからない不安と恐怖に、もう十五日も耐えているのだ。心が疲弊するのは当たり前だった。
そこに、そっと降伏勧告が差し出された。それも、スッラリクスの首を差し出すだけという極めて緩い条件で、飲めば褒美さえ出すとまで言っている。
「ルイド将軍は、本当に来るのでしょうか」
「ずいぶん弱気だな。まさか本気で言っているんじゃないだろう」
敵は、今日もこちらから見える位置で、猪を十頭、丸焼きにしていた。香料をかなり多量に振りかけて、燻す。砦の中でも高い位置にある館にまで、香ばしい匂いが漂ってきていた。
空腹な者がいては、敵わないだろう。そう考えたスッラリクスは食糧庫を解放した。兵だけでなく、民にも好きなだけ食うよう伝えた。兵糧はひと月分以上の余力がある。全員が匂いにつられるがまま、欲望のままに食べたとしても、十日は持つ。
待てても、後十日だ。スッラリクスはそう踏んでいた。
兵だけならばともかく、民も抱え込んだこの砦では、いつスッラリクスの命を狙う動きが出てきても、おかしくはない。
敵の糧食が先に途絶えるのは期待ができなかった。敵の兵站は万全だ。食糧は次々と運び込まれていて、さらに寒さを凌ぐ為に毛皮の帽子や、毛布、マントが支給されている。先日ついに、援軍として五百人余りの兵も到着した。
戦況は、悪くなる一方だった。もし本当にルイドが来ないのならば、どうやってこの戦の落としどころを探るか。
「私の首だけで、本当に終わらせてくれるのなら、構わないのですがね」
「ルイド将軍は来るさ」
「ですが、もし万一来なかったら。私には彼らを扇動した罪がある。本当に私の首だけで終わるのであれば、ずいぶん安上がりだと思うのですが」
「終わるわけがない。降伏などすれば、砦は解体され、兵は斬首、女子どもは奴隷として売られ、森は焼かれる。分かっているはずだ」
「ええ……わかっています。わかっていますが、私は最悪の場合のことも考える義務がある」
「信じろ。おれにはそれしか言えない」
「笑ってくれて構いませんが……私は、怖いのですよ。味方だと信じていた者たちに、いつ寝首を掻かれるのか。それが怖いから、黒樹、あなたをこうして招いている。武に優れるあなたが傍にいてくれれば、襲われないだろうと思っている臆病さからです。死ぬのが怖い、というよりも、信じていた者に裏切られるのが怖い」
「少し、休め」
黒樹が出て行った。
スッラリクスは植物の茎で作られた床に、身を放り出した。
最悪の結果を考えなければならない。決して自分の首だけでは討伐軍は満足しないだろう。彼らは反乱鎮圧と言っているが、実のところ殲滅を目的として来ている。
スッラリクスの身柄を差し出せ、という条件であれば、拘束された振りをして敵の陣営に入り込み、少数の部下で敵の大将だけを狙うようなこともできただろう。だが敵は首を出せと言っている。自分の首を差し出すだけでことが収まるのであれば安いものだが、指導者を失い、内側から瓦解するだけだ。
それならば、最後まで責任をもって反乱に加わった者たちを導くべきだ。
(いえ、違いますね。私は怖いのです。死ぬのが怖い。何も成せずに死ぬのが、ただただ怖い。……情けない限りです)
目を、閉じた。良い打開策は思いつかなかった。
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黒樹は、ダークエルフの部下から三人、スッラリクスの護衛に着くよう命じた。反乱軍の中で、絶対に裏切らないと言い切れるのはダークエルフだけだ。
スッラリクスにはああ言ったが、気持ちはわからないでもなかった。外の敵だけでも頭を悩ましているというのに、中にも目を向けなければならなくなった。敵が正攻法をやめ、揺さぶりをかけてきた。最初にぶつかった時のような軍と軍の掛け合いではない。圧倒的な待遇の差をちらつかせて、内部分裂を待っている。
甘言の効果を確かめるように、敵の飛び道具による攻撃は弱くなっていた。矢は補充されているはずだ。こちらの士気を測っている。
そして、明らかに士気は落ちていた。敵にもそれは筒抜けだろう。
ルイドの援軍が遅い。スッラリクスや黒樹は、エリザがここにいることでルイドが裏切る心配はないと思っていたが、兵たちにはエリザのことは伏せてある。援軍は来ないのではないか、そう思い始めても無理はなかった。
兵たちが積極的に敵を射殺そうとしていないことに、黒樹は気づいていた。
(そろそろ、本格的な攻撃が再開されてもおかしくはない、な……)
黒樹の予想通り、翌日の夜には、敵の攻撃が本格的に再開された。火矢が一斉に撃ち込まれ、五つある櫓の内、二つが燃えた。徹底的に抗戦しようという意志が、兵たちから感じられない。
町にも被害が出ている。方々で火が上がっている。
指揮を執ろうとスッラリクスが館から出てきた。そこに中年の女性が近寄ってゆく。女性はスッラリクスへ駆け寄り、料理用の小刀で斬りかかった。
「子どもの為です、どうかご覚悟を!」
刃がスッラリクスに届く前に、透明化していたダークエルフが姿を現し、女性の腕を叩いた。小刀が石の上に落ち、乾いた音を立てた。
「私を殺せば、皆が死ぬことになるだけですよ」
スッラリクスは、小刀を落とした女性の肩に手を置いて、そう言った。女性は泣き崩れる。スッラリクスはそれ以上、女性に構おうとしなかった。歩を進める。
「スッラリクス、出てくるな。護り切れない」
黒樹は叫んだ。だが、スッラリクスは歩みを止めない。火が燃え盛る中で、兵たちに指示を出す。
「残った櫓にいる兵は、敵を決して門に近づけるな。ダークエルフ部隊は半数を火矢対策に、残り半数で敵の撹乱を。弓を持つ者はひたすらに射よ。弓を持たぬ者は水を汲み、火を消せ。兵だけではない。これはこの場にいる全員の戦争です。皆で決めて、戦うことを選んだ。戦とは、負けたらすべてが奪われるもの。その覚悟を持って戦に臨んだはずです。――ならば、敵の甘言などに弄されず、自らの成すべきことを成しなさい。そうでなければ、すべてが焼かれるだけです」
黒樹はスッラリクスの言葉に覚悟を感じた。兵をまとめる。
「おれは撹乱に回る。ダークエルフ部隊の半数はついてこい」
森を迂回して、闇に紛れて敵の側面から撹乱を仕掛ける。だが、間に合うか。敵は総攻撃を仕掛けてきている。すでに町中が火の海だ。レーダパーラが、女子どもたちを先導して水を運んでいるが、しょせんは焼け石に水である。スッラリクスの指示で多少は持ち直したとはいえ、士気は高いとは言えない。
五十人足らずの兵を率いて森へ向かう黒樹の背で、轟音が鳴り響いた。
振り返る。門が、破られていた。