2-16「そうして、四十年前の戦争をやり直すつもりか?」
黒樹は泉のそばに腰を下ろした。エリザはその側に座った。
「ルイド将軍から、話は聞いている。誰も傷つかない世界にしたい、そう言ったらしいな」
エリザは頷いた。
「だが、現にこうやって誰かが傷つき血を流している。森を護るためにダークエルフは死ぬ。家族を守るために反乱は起きる。特権を守るために貴族は軍を出す。誰も傷つかない世界なんていうのは、絵空事にしか思えなくてな」
「絵空事?」
「ああ、残念だが世界はそうできている。英魔戦争の際にも、貴士王は平等な世を唱え、黒女帝を討った。ところがどうだ、四十年の月日をかけて出来上がったのは、ただ人間と魔族の立場が逆転しただけの世界だ。そしてまた反乱が起きている。血が流れる。それでまたひっくり返すつもりか? 何も変わらないと、おれは思う。スッラリクスに手を貸しているのは、あいつが求めているのは手が届く範囲を守ることだからだ。そして我らダークエルフの森のすぐそばで、我らと共存しようとしている。だからおれは長の反対を押し切って、反乱に手を貸している。だが、ルイド将軍は戦火をユーガリア中に広めるつもりだ。そうして、四十年前の戦争をやり直すつもりか?」
エリザは答えなかった。黒樹が続ける。
「人間は卑しい生物だ、誰かが管理する必要がある。統一帝のように断固としてそう言ってくれれば、おれもまだ納得ができるのだがな。ぼんやりとした世界の有様を思い浮かべるだけなら、反乱になど身を投げなくていい、とおれは思う。黒女帝が再起したとあれば、クイダーナの魔族はこぞって味方するだろうさ。だが、魔族の多いクイダーナを除けば、ユーガリアに住む種族は圧倒的に人間が多い。そのすべてを従えると言うのなら、それ相応の血は流れる。流れた血の量に応じて憎しみは恨みにつながり、やがてその身に降りかかる。エリザ、分かっているのか。世界を変えるということは、そういうことなんだぞ。おれは夢物語の為に、大切な森の仲間を犠牲にはできない」
「わかってる」
ティヌアリアは、エリザならそれができると言った。
「ほう、それならどうやって世界を変える。クイダーナを制し、軍を率いて王都を落とす。それで四十年続いたこの歪な世界は壊れる。……だが、その後は? 魔族が人間を支配する帝国時代に戻るだけではないのか? 特権を得るものの首が据え代わり、クイダーナの民の生活は豊かになる。その代り、どこかの誰かが割を食う。王国が滅びれば、セントアリアは混乱の極みに陥るだろう。そうなったら、セントアリアの民は不満に思う。そしてまた反乱だ。誰かが傷つく。誰かが割を食う。そうしないと世界が回らない」
精霊はそう増えるものじゃないの。ティヌアリアがそう言っていたのを思い出した。
笑顔の精霊をすべて他の人に渡してしまったら、その道化師はもう笑えない。
「それでも、私はやるよ。誰も傷つかなくてすむように、少しでも幸せに生きられる人が増えるように。そのために戦う。たとえ血がどれだけ流れても、私は世界を変えるよ」
黒樹は「ほう」と言った。エリザは続ける。
必死だった。変えなきゃいけない。アルフォンやミンやラッセルやヴィラが、幸せになる権利も持たずにただ死んでゆく世界を変えなきゃいけない。
「分かってるんだ、全員が幸せになれる世界なんて夢物語だって。幸せは人によって違うもの。私はスラムで育ってきた中で、一番幸せだった期間はね、仲間と一緒に暮らしていた時なんだ。それが、ある日突然奪われてしまった。許せない、殺してやる、そう思った。なんで、あなたのほんのひと時の幸せの為に、私の幸せが奪われなくちゃいけないのか、って。
嫌なことはたくさんあった。ほんの金貨一枚の為に誰かが誰かを殺すなんて珍しくなかったし、友達が奴隷商人に売られてしまったところも見たことがある。売られるってことは、買う人がいるってことだよね。その人は買うことで幸せを手に入れようとしたんだよ。でも、それが幸せなのか、私にはわからない。そうでしか幸せを感じられない人なんて、滅んでしまえばいいと思う。誰かの幸せを奪って手に入れる幸せを、私は認めない。許さない。
私は世界を変えたい。世界そのものを変えたいの。みんなが幸せになれるように、みんなが幸せを感じられるように。それは……王様とか貴族とか、そういう人たちからしたら些細な、小さな小さな幸せなんだと思うよ。だけど、それが一人が持てる幸せの量なんだよ。それで満足ができないというのなら、私がそういう人たちをみんな滅ぼす。自分一人分の幸せを噛みしめられるように、みんなを変える。
私がみんなの幸せの在り方を変えるの。富や財産じゃなく、奴隷でもなくて、ただ一人一人が自分の幸せを持てるように、世界を変える。
みんなが幸せになるために、私はどれだけでも手を汚す。そう、決めたの。ルイドはそれに協力してくれている。決してルイドが火を広げようとしているんじゃないの。私が、自分自身で、戦うことを選んだ」
「世界そのものを、ひっくり返すつもりか」
「そうよ。私は、私に宿ったこの力の意味を考えた。これをどう使えばいいのか、どうしたらいいのか、誰も傷つかないためには、どうしたらいいのか、これでも一生懸命考えた。間違ってるかもしれない。それでも、変えようとしなければ何も変わらない」
「およそ人の手には余ることだと思うが。傲慢だ、と言われても仕方がないと思うぞ」
「わかってる。それで構わない。私は、私の我儘を通すの。その為にティヌアリアの力が私に宿った。私は、そう思ってる」
黒樹は「そうか」と言った。
「誰も傷つかない世界を、私は作る。その為に必要なことなら何でもするわ。私は、選んだの。他の一切を切り捨てででも、私はその為に戦う。どんなに誰かに恨まれても、どんなに誰かを傷つけることになっても、必ずそうする」
「……それなら、おれが言うことは何もないな。覚悟はできているんだろう」
「うん、できてる」
しばらく、静寂な時を挟んだ。風がエリザの金髪を撫でた。世界樹が何か語り掛けてくれているように、エリザは感じた。
「ありがとう」
エリザは、黒樹の目を見て言った。
「どうした?」
「心配、してくれていたんだよね。私がルイドに言われるがまま祭り上げられているんじゃないかって。だから、私と話をしてくれた」
「買い被りだ」
黒樹が立ち上がった。
「見せてもらうさ、その決心というやつを」
黒樹が、手を差し伸べてくれた。エリザはその手を取って、立ち上がった。