ロメという名の妹
マフラーがなびいているのは、決して街の風が強いからだけではないだろう。
大通りと裏路地を行ったり来たり、ときには同じ場所を幾度となく疾走した。もともと土地勘のない場所である。迷子になっていないだけで奇跡に近かった。
とはいえ、決してノレスは狭い街ではない。どこか一本、道を間違えれば、どうなるかはわからない。
リヴァルスの言っていた通り、ノレスは子供が多かった。人で賑わう市場や公園はもちろん、裏路地だってかくれんぼの絶好の遊び場らしい。どこへ行っても無邪気な声が溢れていた。
「よお兄ちゃん。さっきからぐるぐる回ってっけど、どうしたんだい?」
市場で果物を売っていた男がショータを呼んだ。ショータはとっさにマフラーを鼻先まで引き上げた。
「いえ、別に……」
「そうかい? 俺ぁてっきり、迷子になってるのかと思ってよ。なんか買ってくか?」
「すいません、急いでるんで」
逃げるようにショータは市場を離れた。逃げた先にも人だまりは続いていた。
「ねえ聞いた? 国王様のこと」
買い物中の主婦の言葉がショータの耳をかすめた。
「聞いた聞いた。サクリΦスに殺されたんでしょう?」
「しかも三組の契約者にですって。怖いわよねぇ」
また逃げた。三組ということは、シアールだけでなくショータやロメまでカウントされている。顔を見られるのがこれほどまでに怖いと思ったのははじめてだった。
早くロメを見つけなければと気ばかりが焦る。しかしそれとは裏腹に、彼女の影はどこにも見当たらない。
首筋の汗が増す。焦りが苛立ちに変わり始めた、そのとき。
「みゅー」
聞きなれない鳴き声がショータの耳朶を打った。振り返ると、塀の上に行儀よく座った黒猫がじっとこちらを見下ろしていた。
ショータは目を見開いた。もとの世界で、そしてアスルガルドで見かけた三日月模様をもつ黒猫に間違いない。
黒猫は塀を飛び降りると、どこかへ駆けていく。
「待って!!」
咄嗟に追いかけた。人の波で見え隠れしていた背中の三日月が脇道へ逸れた。人混みを掻き分け、ショータもそこへ飛び込む。
数字が落書きされた細い路地を駆け抜け、買い物帰りであろう婦人とぶつかりそうになる。とっくに黒猫の姿は見えないが、なにかに導かれるようにショータはひたすら走った。どこを走っても常に向かい風が吹いていた。
迷路のような路地を進んでいくと十字路にぶち当たった。前左右の三方向に別れた道と、背後に伸びる今来た道。
中心に立ち、四つの道を目が回りそうなほど見回した。見れば見るほど、どの道も迷宮への入り口のように思えた。
迷ったあげくショータは左の道へ進んだ。根拠はない。強いてあげるならば、風がそっちから流れてきたからだろうか。
自分が今、街のどの辺りにいるのか、もはやショータにはわからない。だが街の中心から離れていっていることは確実だった。走れば走るほど、向かい風が強くなる。
路地を抜けるとふと、向かい風が消えた。そこにあったのは水路だった。この街に来てはじめて見る。風のない場所で、水面は静かに佇んでいる。
駆け回って熱を帯びた体を水面の涼気が冷ます。呼吸を整えながら、橋の階段に腰を下ろす。顔を隠すためのマフラーが暑苦しくて、剥ぎ取った。
「どこ行ったんだあの猫……」
「みゅー?」
呼んだ? と言わんばかりに降った声。
橋の欄干にその黒猫はいた。そしてまた踵を返して去っていく。
「……僕をどこへ連れてこうってのさ」
その問いには返事はない。黒猫を見失う前にショータは対岸へ駆け出した。
黒猫を追いかけるうち、街の景色が変わっていた。路上にゴミが増え、建物の壁には傷や落書きがあるのが当然になる。子供はおろか、人の影すらまったく見えない。ゴーストタウンという言葉がショータの頭に浮かんだ。
不気味なほどの静寂の中、二つの足音だけが響く。やがて黒猫は一件の廃墟に入っていった。
二階建ての大きな家だった。きっと元々は一般的な幸せな家庭が住んでいたのだろうが、今はすっかり色彩を失くしてしまっている。外壁は草が絡み、窓ガラスは割れ放題。庭の立派な樹木も見事に枯れている。岩窟のような木肌が痛々しい。
ショータは半開きの扉からこっそり忍び込む。
案の定、内部も荒れ果てていた。千切れた絨毯に割れた瓶、ただれた壁に、歩くたびに軋音をたてる床。日光は存分に差し込んではいるが、日が暮れればたちまち暗闇と化すだろう。
恐る恐る中を探索する。蝶番だけが残った扉を通れば、そこはリビングらしかった。テーブルと椅子が四脚ある。
ショータはじっくりとリビングを見回した。廃れているといえばそうだが、ほんの少しだけ違和感がある。
廃墟にしては、あまりにも埃が無さすぎるのである。
「誰だ!?」
心臓が跳び跳ねた。ショータは振り返る。
リビングの入り口に二人の子供が立っていた。ニット帽を被った白髪の少年と、赤茶色の髪を右側だけ編み込んだ少女だ。どちらも十一、二歳ほどで、銀色の閃光──ランスとそう違わないと見える。
「泥棒!?」
少女の方が叫んだ。同時に少年がテーブルの上のナイフを手に取って襲いかかってくる。
「あぶなっ!?」
「はあっ!!」
ナイフを避けたのもつかの間、今度は少女がフォークを持って突進してきた。それをいなして彼女の腕を拘束する。
「レッカを離せっ!!」
迫ってくる少年に、ショータは椅子を蹴り飛ばして応戦する。しかし意識がそちらへそれた一瞬の隙をついて、少女が身を捻り拘束を抜け出した。
狭いリビングで二対一。しかも体格の小さい子供の方が小回りが利く。不利だと判断したショータはたまらず窓から飛び出した。もちろん子供たちも追ってくる。
「待ってくれ、僕は怪しい者じゃない」
「怪しいやつはみんなそう言う!!」
子供たちはショータの話に聞く耳をもたない。
広い庭ならば彼らの攻撃を捌ききれるとショータは思っていたが、それは間違いだとすぐに思い知った。
屋内と比べて身動きはとり易い。だがそれは子供たちも同じようで、先ほど以上に機敏な動きでショータを翻弄してきていた。特に少女はこちらが主戦場だったようで、尋常ではない速度で間合いを詰めてくる。
徐々に追いつめられていくショータ。とにかく距離を取らねばと後方に跳ぶ。枯れ果てた大樹の前に立ったその瞬間だ。
「うわっ!?」
足元が浮き上がる感覚。体勢を崩したショータの体は網に包まれ、樹木の枝にぶら下げられる。
トラップにかかったのだ。眼下では二人の子供が満足そうな顔をしている。そこへ三人目の子供が現れた。
金色の髪をした落ち着いた雰囲気の少年だ。サファイア色の右目とエメラルド色の左目が美しい。
「お疲れ。チノ、レッカ」
少年は二人へ声をかける。チノという白髪の少年が得意気に鼻を擦る。
「見てたかラオ? おれの完璧な誘導!」
「……主に誘導してたのはレッカだと思うけどね。お前は適当にナイフ振ってただけだし」
「はぁ? 見てただけのお前に言われたくねえよ!」
「罠仕掛けたのはラオでしょ。あんたできんの?」
レッカという少女がとがめる。チノは舌打ちすると、面白くなさそうにその場であぐらをかいてしまった。
「そう拗ねなくてもいいじゃないか。この通り、こそ泥は捕まえたんだから」
ラオの視線が網の中のショータへ向く。勝ち誇ったようなその顔はショータの癇に強くさわった。
このまま大人しくしてたまるものか。ショータはパラドックスを抜刀すると、怒りを込めて網を切り裂く。
「なっ!?」
たちまち子供たちが応戦体制に戻る。この展開は予想外だったのだろう、三人とも慎重にショータとの距離をはかっている。
「おい、どうすんだよラオ」
「落ち着け。三対一だ、ぼくたちの有利に変わりはない」
ラオが懐から錆びたスパナを取り出す。
ショータは静かに彼らを睨み回した。
「悪戯にしては度が過ぎると思うけどね」
子供たちはゆっくりとショータを取り囲む。
相手は子供と言えど、ここまでやられて手加減するほどショータは優しくない。
ピリピリと空気が張りつめる。遠慮がちに吹いた風が枯れ草を小さく揺らす。
風が消えると同時、子供たちの足が一斉に腐葉土を蹴った。
迫る三つの殺気。パラドックスを握る手に力が籠る。
「待って!!」
得物が火花を散らす直前、人影が割り込んだ。
ショータは目を剥く。目の前で揺れる栗色の長い髪────。
「ロメ……!?」
「なんのつもりだよロメ!」
チノが苛立ちを爆発させる。チノだけでなく、ラオもレッカも不満を湛えた目を向けていた。
その眼差しを一手に受けながら、ロメは息を整える。
「彼は私の友人です。怪しい者ではありません」
「友人?」
品定めするようにレッカが目を細める。
ショータは口を真一文字に結ぶ。子供たちはまだ武器を下ろしてはいなかった。
「みんな?」
硬直した空気に投じられる声。
枯れ草を踏んで現れたのは、またも子供だった。ただしチノたちよりはほんの少し上に見える。
幼さが残る顔立ちをした、線の細い男の子だった。白い服の上に、後ろ丈だけが長い黒いケープを羽織っている。風が通ればマントのようにはためいた。
「どうしたの? 何かあった?」
「……別に」
淡白に告げたラオがスパナをしまう。
男の子は不思議そうに首をかしげる。それからショータを見つけると、わずかに驚いた顔をした。
「あの、どちら様でしょうか……?」
☆ ☆ ☆
廃墟のリビングで、不機嫌さを隠すこともなくチノが壁によりかかっている。
ずっとそっぽを向いているかと思えば、時折ショータを見ては舌打ちをする。
舌打ちこそしないものの、レッカも似たようなものだった。倒れた本棚に腰かけて腕と足を組んでいる。
「すみません、ショータさん」
謝ったのはショータの真正面に座った、童顔の男の子だった。申し訳なさそうに頭を下げる。
「タッくんが謝ることないよ。勝手に立ち入ったのは僕の方だし」
タッくん。それが男の子の呼び名だった。本当の名前も名乗られたが、子供たちやロメがそう呼んでいたのでショータもそう呼ぶことにした。
ショータが謝り返すと、タッくんは慌てて首を振った。
「ショータさんは悪くないです。こんなところに人が住んでるなんて思いませんから、普通」
「こんなところに立ち入ろうって人も普通いないけどね」
タッくんの隣に座るラオが穏やかな声で毒づいた。きれいな金髪の隙間からのぞく色の違う両眼がショータを見つめている。
「ラオってば」
横から咎めるような視線を送られ、ラオは無表情になって口を結んだ。
ロメが眉を八の字に下げた。
「……もしかして、まだ人間が信じられませんか?」
「当たり前でしょ」
返事をしたのはレッカだった。左耳に下がる赤色のピアスが揺れ煌めく。
「見知らぬ男に自分ん家忍び込まれて、ロメは平気なの?」
「それは…………でも、ショータにも悪気があったわけでは……」
「どうだろうな」
チノだ。目深にかぶったニット帽の下で、目だけがギョロッとショータの方を向いた。
「人間なんて、肚ん中じゃなに考えてるかわかったもんじゃない。国王殺しだって、そいつが一枚噛んでるってことも──」
「チノ!!」
タッくんの細い怒鳴り声が広いリビングにこだまする。
そっぽを向いたチノは一際判然とした舌打ちを残し、リビングを出ていった。
続けてレッカもリビングからいなくなる。重くなった空気の中、口を開けたのはラオだった。
「気にしないでいい。あいつらはただ、いくつもある可能性のうちのひとつを話してるだけだから」
相も変わらず、声音と言葉だけは温厚だった。いっそ清々しいまでの微笑みでも浮かべてくれた方が、ショータとしては気持ちよく爆発できたかもしれない。
「…………そりゃどうも」
それがショータにできた精一杯の反撃だった。はす向かいに座る温度のない表情が、わずかににやついた。
「……そんなにショータが悪者に見えますか」
その声に、怒りはなかった。姿勢よく座っているロメの口が、哀愁にまみれた言葉をぽつりとこぼす。
「そんなに私の友人が信じられないですか」
「勘違いしないでくれ」
声が冷めた。立ち上がり、宝石のような双眸が二人を見下ろした。
「ロメはぼくたちの友達だ。友達を疑うようなことはしない」
「だったら……」
「だけどそいつは違う。友達の友達は他人だ」
ロメの絶句が轟いた。瞳が揺れ、絶望の表情がはりつく。
去っていくラオ。廃退的なリビングには無言の三人だけが残された。
鉛の空気は時間と共に重量を増す。このまま廃墟ごと地下に沈んでしまうのではないか。そんな錯覚さえ覚えそうになる。
「……ごめんなさい。ショータさん」
沈黙の均衡を破ったのはタッくんだった。彼の謝罪は今日何度目かわからない。
「……本っ当に生意気な子たちだね」
半自動的にそんな言葉を吐き出していた。しかしタッくんは弱々しく首を振る。
「普段はそんなことないんです。ただ、あの子たち最近ちょっとピリピリしてて……」
「まるで出会った頃みたいでした……」
抑揚すら消えた呟きが落ちた。ロメの目に悲しげな影が射す。
それと共鳴したように、タッくんの声も沈む。
「たしかに、そうかもしれません……あの頃に逆戻りしたような……」
「あの頃……?」
その問いの瞬間、タッくんの視線は一瞬だけ墜落した。しかしすぐに高度を取り戻し、重そうに口を開く。
「……僕たちが、ノレスの溝鼠──【ラット】と呼ばれていた頃の話です」
「三年前のあの日が……私の人生の分岐点でもありました」
左手首のΨの腕輪を、ロメは右の手で愛しそうに撫でた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「……お嬢様。もう一度仰っていただけますか?」
細く美しい白眉がひくついた。
白く長い髪を後ろで一つに束ね、漆黒の燕尾服に身を包んだ執事──プサイは必死に涼しげな表情を保っている。しかしそんなことなど気にもせず、ロメは彼女を揺さぶる言葉を再び口にした。
「ですから、街に出かけます」
「それはいつ頃?」
「今日です。今すぐこれから」
大きなため息と共にプサイが額を押さえる。手を離すと、その端整な顔にまんべんなく呆れの色が広がっていた。
「いけません。何を仰っているのですか」
「いいえ。出かけると言ったら出かけます。これは決定事項です」
言いながら純白のネグリジェを脱ぎ捨てる。いつもならきれいに畳むはずのそれをベッドに放り出すと、クローゼットから落ち着いた浅葱色のワンピースを選んで袖を通した。
「ほら、これならあまり目立たないでしょう?」
「そういう問題ではありません。アリエス家の一人娘が勝手に外出するなど──」
しゃべっているプサイの眼前で、ロメは指を一本立てた。
「問題です。今日はなんの日でしょう?」
「なんの日……?」
ロメが瞳を燦々と輝かせると、プサイの顔が曇る。
しかし従者の沈黙をロメは認めなかった。
「ヒント聞きますか?」
「いえ……」
諦めたようにプサイが答えを口にする。
「本日は、お嬢様の十二歳のお誕生日です」
「はい! プサイ言ってましたよね。誕生日には何でも一つ願い事を聞いてくれると」
「それは……」
「それともあの言葉は嘘だったんですか?」
プサイは言葉をなくす。しばらく天井を仰いだあとで、観念したように肩を落とした。
「……玄関から出ればすぐにバレますよ。どうなさるおつもりで?」
「これです」
悦に入った表情でロメはカーテンを握った。
薄いクリーム色をした、ヴェールのようなカーテンである。バルコニーへ続く大きな扉窓を覆い隠すためのそれは、ロメやプサイよりはるかに高い背丈をもつ。
そんな高身長の布が扉窓の両脇に二束。それ以上はロメが口に出さずとも伝わったようだった。
「まさかこれをロープ代わりに……?」
「はい! ここから下へ下ります」
椅子を踏み台にしてカーテンを取り外しにかかる。
「ほら、プサイも」
「本気ですか?」
「心配は要りません。すでに強度は確認済みですから」
「はぁ……」
プサイも渋々とカーテンを外す。サイズはあるが素材はかなり軽いものが使われている。女子の腕力でも問題なく持ち上げることができた。
二人は外した大きな布束を抱えバルコニーへ出た。雲一つない青空と暖かな気温、頬を撫でる心地よい風。絶好のお出掛け日和である。
まず、二つのカーテンの両端を結ぶ。解けないように強固に繋ぎあわせると、四メートルはあろう長いロープが完成した。次にその片端をバルコニーの転落防止柵にくくりつける。先ほど以上に慎重に結合具合を確認すると、ロメはふぅと息を吐いた。
「準備完了です。あとはこれを垂らして地上へ降りれば……」
と言いかけて、ロメはプサイをじっと凝視した。それから自分の姿と見比べる。
「……どうかなさいましたか?」
「プサイ。ちょっと」
手を引いて部屋へ引っ込む。再びクローゼットを開け放ち、整然と並ぶ良質の衣服を見定める。
少しして、ロメは新品のノースリーブブラウスを手に取った。全体的に白地だが、裾の部分だけは控えめにエメラルドカラーが滲む、質素ながら瀟洒な一枚だ。それをプサイに重ねると一つ頷いた。
「これに着替えてください」
「はい?」
「その格好で街に出るつもりですか?」
続けてベージュのズボンを押しつける。プサイは少し戸惑ったようだが、それらを受けとると一礼して部屋を出ていった。
共に生活しはじめて八年になるが、いまだにプサイはロメの前で着替えようとしない。本来なら使用人が主の前で着替えるなど言語道断だが、そんなことを気にするロメではない。それはプサイも知っているはずだが、彼女はあくまでも屋敷内では執事的振る舞いを貫いていた。
ベッドに腰を下ろしてしばし待つと、部屋の扉に三回ノックの音がした。
「失礼いたします」
恭しくプサイが入ってくる。その姿は先ほどまでの燕尾服ではなく、ロメが渡した普通服である。
一つに束ねていた髪はほどき、腰までまっすぐに下ろしてある。ノースリーブブラウスからは細く透明感のある腕が伸び、ベージュのズボンが長い足を映えさせる。
「お待たせいたしましたお嬢様……いかがでしょうか?」
スタイルの良さが際立つ、非常に似合った服装である。しかし、ロメは彼女の胸元に見慣れないものを見つけた。
「そのブローチは?」
緩く結ばれた細いリボンタイの上。群青のジュエリーが、深い煌めきを秘めて佇んでいた。
プサイはジュエリーに手を添えて告げる。
「私の私物です。この服に似合うと思いまして」
「ええ、とても似合ってますよ。爽やかです」
「ありがたきお言葉」
プサイが頭を垂れる。長い髪がふわりと宙を舞った。
「では参りましょう。誰かに見つかる前に」
ロメはバルコニーへ出ると、柵から身を乗り出して地上の様子を確認した。何本もの樹木と色鮮やかな花壇が広がる庭に人影は見えなかった。
結びつけたカーテンをそっと下ろす。予想通り、カーテンは土のうえ数センチに垂れた。
まずプサイが柵を乗り越え、するするとカーテンを伝って庭へ降り立つ。改めて周囲を見渡してから、ロメへオーケーサインを送ってきた。
ロメもゆっくりとカーテンを伝い下りる。両の足で地面を踏みしめた瞬間、胸の底から熱く弾けそうな感情が沸き上がってきた。自然と頬がだらしなく緩む。
「声を上げては気づかれますよ」
思考を先回りしたようにプサイが告げた。ロメは喉元まで出かかった歓喜の叫びを飲み込むと、プサイの手を取り門の方向へと駆け出した。
アリエス家は緩やかな丘の上にその屋敷を構えている。門を抜けて坂を下れば、夢にまで見た世界はすぐそこに広がっていた。
「ノレスの……まち……」
ぐっと両手に力がこもる。それと同時、飲み込んだ歓喜の声が再び迫り上がり、
「街にきましたぁーーーー!!」
青い空に絶叫を響かせた。天を貫かんと掲げた両手が燦々と輝く太陽の光を浴びる。
感情を爆発させるお嬢様とは対照的に、プサイは表情を変えずに街を眺めていた。
「どうしたんですかプサイ。街ですよ街!」
「ええ。ですが、私は買い物などで度々訪れていますし、お嬢様だって何度か──」
「お父様たちとの業務的な外出とは訳が違います。それと」
ロメは人差し指を立て、プサイの鼻先に差し向けた。
「敬語はやめてください。ここはもう家の外です」
プサイのヘーゼル色の瞳が、じっとロメの目を見つめる。
しばらく沈黙したあと、プサイは諦めたように一際大きな息を吐き出した。
「……わかったよ」
「よろしい! それでこそプサイです」
「何それ。意味わかんない」
プサイがくすっと微笑むと、ロメは年相応らしい無邪気な笑顔を浮かべた。
◆ ◆ ◆
天高くから照りつける太陽の光と、颯爽と駆け抜ける涼風を受けて、ノレスの街は活気に溢れていた。
全体的に三階建て以上の、背の高い建物が多い。かといって見晴らしが悪いわけではなく、大通り横道脇道裏通りなど、大小様々な道が交錯し、そこを人と風が通り抜けていく。
こんがり小麦色に焼けた骨付き肉を頬張り、ロメは幸福そうに頬を崩した。
「肉汁が迸るとはこのことなのですね……! プサイもいかがですか?」
「いや、私はいい……」
隣を歩くプサイは遠慮がちに──というよりは、少し畏怖の色を浮かべて肉から目をそらした。
不思議そうにしてロメは再びチキンにかぶりつく。黄金色の油が口の中に溢れた。
食べ歩き。決してお行儀が良いとは言えないその行為は、ロメが死ぬまでにやりたいことのうちの一つだった。大通りに立ち並ぶ数えきれないほどの露店に目移りしながらも鶏肉が焼ける匂いにつられたロメは、そこの店主である恰幅のいい男性から特大サイズのチキンを買ったのだ。もちろんロメはお小遣いなどないので、会計はプサイがした。
上品ではないが贅沢な味だ。小さな両手で抱えながら次々とかぶりついても、肉は一向に減る気配がない。それが嬉しくてたまらなくて、ロメは甲高い唸りを上げた。
そんな主、もとい友人の姿を見て、プサイは目を細めた。
「喜んでもらえて何より」
「はい! とっても楽しいです!」
口の周りいっぱいに油をつけ、眩しいほどの笑顔で言う。
「家の中じゃ絶対にこんな体験できません。プサイに感謝です!」
「そ、感謝してもらわないとね。あとで叱られるの私なんだから」
「ううっ……私も一緒にお叱り受けますから……」
「でもまあ、たまには悪くないかもね、こういうのも」
大通りを行き交う人々を眺めてプサイが呟いた。張りのある声を飛ばす露店店主、街の風景を紙に落とし込む画家風の男、玉乗りしながら風船を膨らますカラフルな服の男、人目を気にせず腕を絡ませて歩く男女──。
プサイは口許に笑みを浮かべると、言った。
「いいよ。今日くらいはロメのワガママなんでも聞いてあげる」
「ふぁんへも、へふか?」
「そう、なんでも。私にできそうな範囲でなら」
ごくん。と肉を飲み込んでから、ロメは一等星のごとく輝きを両目に宿し、プサイに答えた。
「じゃあ一緒に、契約獣探してください!」
ぴた、とプサイの足が止まった。楽しげだった顔にわずかにシワが寄る。
「……探して、どうする?」
試すような問いかけだった。ロメは彼女の真意をはかり損ねながらも、まだ見ぬ相棒に精一杯の思いを馳せる。
「まずはお友だちになります。いっぱい遊んで、いっぱい喧嘩して、それでお互いのことをよく知れたら……」
「……契約するの?」
ロメは頷く。その瞬間、プサイが深く俯いた。
契約獣。契約国フレイランに住む、人の姿をした人ならざる生命体。彼らはそれぞれ他の生き物の特徴をもち、人間と腕輪による契約を交わすことで、生き物の能力をさらに発揮することができる。
彼らと契約した人間は契約者と呼ばれ、契約獣共々特殊な存在となる。腕輪の力で魔法を扱えることもあり、契約者に憧れるものは星の数ほどいる。ロメもそのうちの一人だ。
しかし問題なのは契約獣の数の少なさだ。噂では国内に三十人もいないと言われている。中には当然、すでに人間との契約を済ませている者もいる。フリーの契約獣を発見し、仲を深め、契約までこぎ着けるのがどれほど困難か、それはロメにも十分わかっていた。
「ダメもとでいいですから、探してもらえませんか? 夢なんです、契約者になるの」
「それは知ってる……知ってるけど……」
プサイが顔を上げた。その表情は、真剣だった。
「契約者になるってことが、どういうことだか分かるよね?」
「……もちろんです」
つられて、ロメの声も妙に固いものになってしまった。賑やかな街中で、二人の間の空気だけがいやに重い。吹き抜ける風さえも、そこだけは避けて通っているように思えた。
「私だって、ただの憧れでなりたいわけじゃありません。それなりの覚悟はあります」
「……どういう覚悟?」
一つ深呼吸を置いて、ロメはゆっくり口を動かす。
「契約者になって、この国の──」
そこまで言ったとき、ロメの体ががくんと揺れた。何かが背中に衝突したのだ。それもかなりの勢いで。
スローになる世界の中で、ロメは衝突の弾みで手放したチキンが落下していくのを見た。
ああ、もったいない──そんな心配もろとも、視界の端から飛び込んできた小さな影がチキンをさらっていった。
「グッジョブ、レッカ!」
背中側からそんな声を聞きながら、ロメは石畳の上に突っ伏した。
「ロメ! 大丈夫!?」
プサイに助け起こされ、前方を見やる。小さな背中が二つ、人混みを器用に掻き分けて逃げていく。
「あいつら……!」
駆け出そうとしたプサイだったが、そこへどこからか三つ目の影が体当たりを仕掛けてきた。不安定な体勢で受けたプサイだったが、なんとか足を踏み込んで持ちこたえ、逆に相手の腕をつかんで捕まえることに成功した。
「げっ……!」
「このっ!」
腕を持って振り回し、一周させてから石畳の上へ投げ飛ばす。わずかに宙を舞った小さな体は、可哀想なほどの勢いで転がっていき、やがて壁にぶつかって止まった。
ロメとプサイですぐに取り囲む。改めて見てみると、それは幼い子供だった。金髪を揺らして少年が顔を上げると、サファイア色の右目と目があった。吸い込まれるような美しい透明度に驚くと同時、彼の左目が包帯で隠されていたことに複雑な思いを抱く。着ている衣服もボロボロだった。
すぐにギャラリーが三人を取り囲んだ。背後でざわざわと聞こえる雑踏。幼い子供を投げ飛ばしたプサイに対する避難の声かと思ったが、聞き分けてみれば「またあの子だ」「自業自得だよね」という、どちらかと言えば少年へ向けられたと思しき冷たい言葉の群れが雑踏の大部分だった。
「あんた、さっきの奴らの仲間だろ?」
威圧的にプサイが問う。少年は後ずさり、目を伏せ、わずかに震えていた。
「何のつもり? たかが肉を強奪するなんて」
少年はただ黙って震えるばかりである。右目が潤み出す。そろそろプサイが痺れを切らすのではと思い始めた頃、野次馬を掻き分けて何者かがロメの隣へ躍り出た。
「何事ですか!」
若い男だった。鈍い銀色の鎧をがしゃがしゃと鳴らし、腰には長い剣を携えている。その風体は誰が見ても一目で騎士団だと分かる。騎士団は街の治安維持組織でもあり、騒ぎを聞いて駆けつけてきたらしい。
どう説明したものかとロメは言葉を探す。だが言葉が整うより先に、尋問中の少年が立ち上がり、男に抱きついて嗚咽を始めた。
「ご、ごめんなさい……ぼくたち、ちょっとしたいたずらのつもりで……」
突然の懺悔に男が困惑の表情を浮かべる。
「お、おい……?」
「できごころだったんです……もう二度としませんから、痛いのはやめて……」
ロメはじろっとプサイを見た。白髪美人の瞳に焦りの色が浮かぶ。
「わ、私が悪いのか?」
「怯えてるじゃないですか。やりすぎです」
キツくプサイを叱ったあとで、ロメは男に抱きついて離れない少年の金髪を優しく撫でた。少年のが矮躯がびくっと跳ねる。
「ごめんなさい。怖がらせてしまいましたね」
「……」
少年は顔を上げ、右目がこちらを向く。ロメは彼を安心させるように、穏やかな声色で続けた。
「安心してください。もう誰も痛いことはしません」
膝を屈め、目線を合わせる。少年の口許が弱々しく震えた。
「……うそだ」
「嘘じゃありません。誓います」
「うそだよ……だって……」
少年は男から離れると、ロメの方に歩み寄った。
今にも泣き出しそうな顔が間近に迫る。なんと声をかけるべきか思考を巡回させた結果、ロメは少年の肩を優しく抱くという答えを出した。
それと同時だった。少年の渾身のヘッドバットが、ロメの額のど真ん中をとらえたのは。
痺れるような震えるような、体感したことのない衝撃が頭蓋骨を揺らす。何が起きたのか分からないまま、ロメはこてんと石畳の上に仰向けに倒れた。
「ロメ!? ……お前っ!」
プサイの怒号が響く。状況の変異を感じた騎士団の男も表情を引き締め、二人で少年を挟み込む。
しかし少年は口許に笑みを浮かべるとバックステップ。そのまま後方に立つ騎士団の男の股間へ肘鉄を撃ち込んだ。
「ふぐうっ!?」
甲高い悲鳴を上げた男の背後に回り、尻を突き飛ばす。男の体はプサイと真正面からぶつかり、共倒れしてしまう。
「くそっ……!」
覆い被さる男を剥ぎ飛ばし、プサイが立ち上がったときには、すでに少年の姿はギャラリーの奥へと消えていた。
苛立たしげにかかとで地面を打ちつけると、プサイは仰向けに倒れたままのロメのところへ駆け寄ってきた。
細く白い腕に支えられてロメが身を起こす。
「大丈夫ロメ? 気分は?」
「まだちょっとくらくらしますけど……なんとか」
こびり残った痺れの残滓を飛ばすように頭を振ると、野次馬を掻き分けて少年が消えた方向を見やった。大通りをまっすぐ進んだのか、左右に生える脇道へ逃げ込んだのか、はたまた──。どちらにせよ、もう追いかけようがない。
「なんだったんでしょう……?」
未だじんじんする額を押さえながらこぼす。それに返事をしたのは、やけに陽気な声だった。
「ラットだよ。知らないの?」
ロメとプサイが同時に振り向く。少し離れた場所からこちらを眺めていたのは、騎士団の男同様、灰銀の鎧に身を包んだ細身の女性だった。オレンジ色の髪を肩上まで垂らし、同色の大きな瞳は左右につり上がっている。
野次馬の中から這い出た騎士団の男が、女騎士を見上げて掠れた声を出した。
「こ、コルナ先輩……」
「あーあー、みっともない。なにやってるのさ後輩クン」
コルナという名の女騎士は眉を寄せ、男の首根っこをつかんで人混みから引っ張り出す。
「だぁから一緒にパトロールしよって言ったのに。言わんこっちゃない」
「あの!」
心持ち声を張ってロメが女騎士に呼びかけた。夕日に似た橙の瞳がこちらを向く。
「ラットってなんですか? さっきの子の名前とか……?」
「名前っちゃ名前だけど個人名じゃないね。あの子らの通称」
あの子ら、という言い回しが、最初に肉を奪って逃げていった二人の子供と繋がる。
「突然現れては不意打ちで食べ物を盗んでく……汚いネズミみたいだからラット。怒り憎しみ諸々含めてみんなそう呼んでる」
「ラット……」
ロメは心に落とし込むようにその名前を呟いた。
怒り憎しみ諸々──つまりは蔑称である。盗みは確かによくないが、それゆえに、十歳にも満たしていないだろう彼らがそんな侮蔑を向けられるのはロメには理不尽に思えた。
いや、そもそもそれ以前の疑問もある。
「なぜ彼らは盗みなんてしてるんです? 食べ物くらいちゃんと買えば──」
「買えないのさ」
コルナの低い声が、さらに低く響く。ロメは今度こそ大きな疑問符を表情に浮かべた。
「買えない……?」
「あいつらには親がいない。捨てられたんだ。お金を稼ぐ手段もない。だから生きてくために自分の食料は自分で盗取するしかない……と、そういうわけよ」
なんでもなさそうに告げるコルナだったが、その言葉はロメに、ヘッドバットを受けたとき以上の衝撃を与えた。
親がいない。捨てられた。その二言が頭の中でうるさいくらいにループする。
ロメの脳裏にリーラとリヴァルスの顔が浮かんだ。過干渉で過保護で、毎日のようにうざったいと感じている両親。だがしかし、二人のそれが行き過ぎた愛情であることは渋々理解しているし、だからこそロメも子供扱いしてほしくないと躍起になって反抗する。たとえ不仲でも、少なくとも『親子』だった。
だが彼らは違う。親子であることを放棄され、幼いうちに行き場をなくし、盗みに手を染め、街の大人から蔑まれている。
「そんなこと……」
あっていいはずがない。親のいない子供など──と考えたところで、八年前の記憶が脳裏を横切った。
導かれるように視線が隣へ向く。難しい顔をしたプサイが立っている。彼女も元々、湖畔に一人でいた子供だった。親のいない子供だった。
途端にロメは言葉を失った。咽まで出かかっていた否定の言葉が、火に当てられた氷のように溶けて下っていく。何を見ていいのかわからず、視線が宙を揺蕩う。
「そのうちまた来るかもね。お嬢ちゃんたちも気をつけなよ~?」
陽気な女騎士はひらひら手を振ると、反対の手で後輩騎士を引きずって去っていった。それを皮切りに、集っていた野次馬軍もみるみる消えていく。平穏な大通りが戻ってくる。
ロメはしばらく、じっと佇んだままだった。話す言葉も、動く方向も見つからない。賑やかな雑踏が頬を掠める。
「あの……プサイ……」
その続きがあったわけではない。ただ沈黙に耐えられなくなって視線を向けると、プサイはブラウスについた泥を右手の指で触っていた。
「……ごめん。汚した」
「い、いえ。気にしないでください」
本音半分、気遣い半分。
泥はおそらく少年と組み合ったときに付いたものだろう。彼や逃げ去る二人の靴の辺りに茶色いなにかがこびりついていたのを覚えている。
もしやと思い、ロメは自分の体を見回した。だが幸いにもどこにも泥はついていなかった。
プサイはしばらくブラウスの泥を触っていたが、
「……ねぇロメ。この辺はしばらく雨降ってないよね」
真剣な顔でそんなことを聞いてきた。その意図がわからず、ロメは曖昧にうなずいた。
「ええ、たぶん……」
「でもこの泥。雨降らないとこんなにはならないと思うんだ」
人差し指でブラウスに染み付きそうな泥を掬う。かなり水っぽく、最近できたものであることがうかがえる。
ロメは顎に指を添え、そしてかくんと首を傾けた。
「どういうことでしょう?」
「……昨夜、ノレスから西の方角の山林で局地的な雨があったんだって。街には被ってないと思ってたけど、もしかしたら……」
そこまで言うと、プサイはすぐ横の脇道へ飛び込んだ。ロメも後を追う。
まるで通い慣れた道を駆けるように、プサイは迷いもなく迷路のような細路地を進んでいく。次第に大通りの喧騒が遠くなり、それと比例して風景がだんだんと生彩をなくしていく。花壇の代わりに雑草が増えていく。
日中であるにも関わらずその町は暗かった。日差しが射さないわけではない。しかしその日差しを浴びるのは灰色の石畳や雑草のみで、聞こえるのも細い呼吸のような風の音だけだ。
屍のような街路をしばらく進む。やがて石畳は消え去り、泥と雑草ばかりの道となる。
かすかな雨のにおいがロメの鼻腔をくすぐると同時、前方に灰色の建造物が現れた。
それは廃れた二階建ての家だった。灰色の外壁は模様のようにまだらなシミを残し、そこに寄生するように雑草が生えている。窓ガラスはほとんど枠ふちだけの状態で、そこからのぞく室内は暗闇に包まれて様子はうかがえない。門も既に雑草に呑まれ、その内側では枯れた巨木が一本、堂々と直立している。庭にはその他に目ぼしいものはない。
「あそこに……さっきの子たちが?」
「たぶんね」
そう呟き、プサイは雑草まみれの門に手をかけるとゆっくり押し開けた。ぎぃぃと大きな軋音が鳴る。
巨木を通り過ぎ、半開きの扉から廃墟の中へ。ごみや破損物で散らかった玄関から奥へかけて、泥の足跡が三つほど続いていた。
「これは……」
「やっぱりか」
プサイは泥まみれの靴をフローリングに乗せると、軋音が響くのも構わず駆け出した。
「プサイ!?」
慌ててロメも追いかける。泥の足跡は玄関をまっすぐ進んだ先で右に折れ、階段を上っていく。二階に部屋は多くなく、足跡は東の一番奥の扉の向こうに消えていた。
「プサイってば!」
ロメが声をかけるのも間に合わず、プサイが乱暴に扉を開け放つ。家具一つない空虚な部屋の隅に、小さな身体が四つひきめしあっていた。
一人は嘘泣きをした金髪の少年だ。ロメたちの突然の登場に美しい色の右目をいっぱいに見開いている。
四人の一番先頭に立つ、破れかけのニット帽を被った白髪の少年が喚いた。
「なんの用だ! 残念だが食いもんはもう──」
「肉なんてくれてやる。そんなことより、うちの大事なお姫様傷つけてくれた落とし前はどうつけてくれる?」
プサイの眼光が鋭く光る。と同時、ロメはその横顔に振り向いた。
「え……もしかしてプサイ、そのことでずっと怒ってたんですか?」
「当たり前でしょ。あんな理不尽な仕打ち、許せるわけない」
途端、ロメは肺の底から沸き上がってくる深い深い嘆息を感じた。それを抑制することなく、素直に口から吐き出す。
「……プサイ。気にしなくていいですよ。怪我はしてませんし」
「それは結果論ってやつだ。もし何かあったらどうしてた?」
「どうもしません。それは私の不注意ですから」
今度はプサイが目を丸くする番だった。きれいなまつ毛に縁取られた瞳がロメを向く。
「それに、今のプサイは執事じゃないんです。私を守る義務なんてないですよ」
彼女の鼻先をつんと押してから、ロメは子供たちに向き直る。
一歩距離を詰めれば、子供たちは壁際へ凝縮する。それと比例して他者を拒む殺気が強くなる。
ロメはなるべく彼らを刺激しないよう、柔らかい歩調で間を詰めた。二歩、三歩。もう一歩進んで、話しかける最初の一言を考え始めたときだ。
「あれまー。まさかこんなところに隠れてたとは」
扉の方から声がした。最近聞いたばかりの声だ。
振り返り、そこにいたのは灰銀の鎧をまとった男女二人組。コルナという女騎士と、その後輩の男だった。男が血が滲みそうな眼力で子供たちを睨んでいるのに対し、コルナは飄々とした雰囲気を崩さずに「げんきー?」などとロメに声をかけてきた。
ニット帽の少年が強く舌打ちした。金髪の少年とフードを被った少女が、一番後ろにいるひ弱そうな少年を庇うように立つ。
その様を見て、コルナは愉快そうに鋭い犬歯を見せた。
「そんなに警戒しなくていいから。なにも取って食おうってわけじゃないし。ちょっとウチきてオハナシしたいだけだからさ」
「ざっけんな!!」
ニット帽の少年が、鬼のごとく形相で叫んだ。
「いまさら話だけですむわけないだろ! 地下牢にぶちこむつもりか? それとも、ノレスのど真ん中で公開処刑か!?」
「わたしたち知ってるのよ。大人は子供を騙そうとするとき、嘘くさいほど笑顔になるって」
フードの少女が言った。その目は汚物を見るような冷たさを宿している。
コルナは唸り、こめかみの辺りを人差し指で押さえる。
「うーん……別に処刑するつもりはさらさらないんだけど……でも、おとなしく来てくれないなら仕方ない」
こめかみを離れた指が、右腰に収まる剣の柄を握った。
刹那、走る緊迫。鞘からわずかに顔を見せた刀身が、部屋の隅の子供たちの顔に鋭い光を反射させる。
「ちょっとくらいお仕置きした方がいいかな?」
剣を握っていながら殺気がないのが逆に不気味だった。コルナが一歩踏み出すたびに鎧が擦れ金属音が響き、子供たちは壁の奥へ逃げようと後退る。
──そんなコルナの前に、ロメは堂々と立ちふさがった。
コルナが瞠目した。彼女だけじゃない。プサイも、後輩騎士も、背後で縮こまる子供たちだって皆一様に同じ顔をしていることだろう。
「……どったのお嬢ちゃん? そんなところに立ってたら危ないぞ?」
コルナの声に揺らぎはなかった。一瞬前までの動揺はどこにも見当たらない。これまでと同じく、余裕綽々をひけらかした態度だ。
しかしロメは、コルナの横柄さにも、腰でわずかに輝きを放つ刀身にも恐れを見せず告げた。
「この子たちは私の友人です。手荒な真似はやめてください」
その瞬間、室内が夜中のように静まり返った。もちろん誰かが寝静まったわけではない。ロメの一言が、この場の全員の思考をせき止めたのだ。
「……はぁ?」
積もる沈静を破ったのは、トーンが上振れしたコルナの声だった。ロメと子供たちの間を視線が往復する。
「友人? そいつらが?」
信じられないといった表情のコルナをしっかり見据えて、ロメは確実に頷いた。
次の瞬間、抜かれかけた剣が鞘に戻る音と同時、狂ったような笑い声が部屋中にこだました。コルナだ。変なものでも食べたかのように、彼女が一人で腹を抱えて笑っている。
「アッハハハハ、あーおっかしい……! なんでそいつら庇うの? キミだってチキン奪われたんでしょ?」
「いいえ、奪われてません」
はっきりと断言した。身をよじらせて涙をぬぐうコルナに向けて虚偽の訂正をかける。
「あのお肉は差し上げたんです。あまりに美味しかったので、その味を知ってほしくてつい」
「さしあげた……?」
コルナの笑いが途切れた。
「はい。差し上げたんです」
最上級の笑顔で念押しする。
強奪の被害者であるロメ自身が強奪を否定すれば、他の誰にもそれを覆すことはできなくなる。決して崩壊することのないブラフ。
再び沈黙が訪れたあと、コルナの口から大きな嘆息が漏れた。
「……じゃあチキンはそういうことでいいや。でも、被害者はお嬢ちゃんだけじゃない。何年も前から盗みは続いてるんだ。ここまできて見逃すわけにはいかないね」
声色と眼差しがわずかに真剣味を帯びていた。割れた小さな窓から差し込んでいた細い陽光が、雲がかぶったように陰る。部屋の温度が確かに下がる。
空気の鎖に両足を捕らえられたように、ロメの身体は言うことを聞かなくなった。だがしかし、はなから動くつもりもない。ロメは最後まで、彼女の前に立ちふさがると決めていた。
両者の距離を、コルナは一歩分詰めた。華奢な体躯に押し出された冷えた空気がロメの体を包む。体温を保とうと心臓が早く打つ。
怯んだら敗けだ。さらに一歩近づいてきた長身の、オレンジ色の頭部を睨み上げ、ロメは強く唇を引き結んだ。
「──コルナさん、と言いましたか」
強かな声が張り詰めた空気を切り裂いた。鼓動が減速し、陽光が戻り射す。その小さな日溜まりの中央にプサイは立っていた。
名前を呼ばれた女騎士は眉を寄せて目を細めた。
「なぁに? 今度はそっちのお嬢ちゃん?」
「この盗人たちは私たちの方で対処します。なので、本日のところはお引き取り願えますか」
プサイは首元のジュエリーに指をそえると、わずかに陽光へ向けて傾けた。表面がきらめき、群青の奥に何やら形が浮かぶ。
螺旋のように渦を巻くツノと、その下に穿った瞳。見間違えようもない羊の横顔は、ロメが幼い頃から幾度となく目にしてきたシルエット。
羊の横顔──アリエス家の紋章。
細めていたコルナの瞳が、今度は大きく見開かれた。プサイとロメを驚嘆の視線でなぞる。
三たびの静寂。しかし、先刻二回の静寂とは違い、張り詰めているのは緊張ではなく畏怖だ。羊の横顔が、この場の力関係を逆転させた。
やがてその畏怖を吹き払うように、コルナはふっと小さく笑った。
「そっかそっか~、そういうことかぁ。そういうことならアタシたちの出る幕はないな」
くるりときれいなターンで踵を返すと、彼女は背後に侍らせていた男の肩をぽんと叩いた。
「そいじゃ、アタシらは帰りますかね後輩クン」
「え、いいんですか先輩? ラットを捕らえれば大手柄──」
「いーのいーの。別に手柄ほしさに来たわけじゃないし」
コルナは大通りでそうしたように男の首根っこをつかむと、バイバーイと言いながら反対の手を振って去っていった。
二人分の足音、鎧の音、床が軋む音が徐々に遠ざかる。完全に気配が去るのを待ってから、ロメはプサイに視線を向けた。
感謝の視線ではない。怒りの視線だ。
「…………どういうことですか」
短く、それだけ問いかける。日溜まりの中に佇む白髪の少女の立ち姿は、気のせいか執事然としていた。
「……万が一のときを考えて……」
プサイは小さく、それだけ返答した。長いまつげに縁取られた瞳は伏せられ、ロメの視線と交わることはない。
それがますますロメの不満を膨張させた。詰め寄ると、自分よりわずかに高い位置にある彼女の顔を覗き上げた。
「私のことなめてるんですか? 保護者がいないとなにもできないお子様だとでも思ってるんですか?」
「違う、そんなつもりじゃ──」
「何が違うんですか、こんなもの着けて!」
反射的に右手が動いていた。プサイの首元で輝く忌まわしきジュエリーを乱暴にもぎ取ると、外方の方向へ投げ捨てた。
「なっ、なにするんだロメ!」
「あんなの必要ありません! 私は、使用人とお出掛けに来たかったわけじゃない!」
「それはっ……私はロメのためを思って──」
「いい加減にしろ!!」
喉を絞ったような怒号が二人の間に割り込んだ。部屋いっぱいに声を響かせたニット帽の少年は、出鱈目に伸びた白髪の奥で目を充血させ、肩を上下させて荒い呼吸を繰り返していた。
「なんなんだよお前ら……突然現れたと思ったら騎士団まで来るし、そいつら追っ払ったら今度はケンカ始めるし! 迷惑なんだよ今すぐうせろっ!」
「チノ、そんな言い方はないよ!」
他の三人に押しやられ、部屋の一番片隅にいた少年が控えめに、しかしはっきり声を上げた。
特異な格好をした少年だった。身にまとうのは白い服と黒いケープだが、そのケープの形状が他所では見たことがない。前方は胸元までの丈短だが、その反面、後ろ丈が異様に長い。普段屋敷でプサイが着ている燕尾服に劣らないレンジだ。
胸元までを黒、そこから下を白、足元で再び黒をまとったモノクロカラーの少年は、自分を押しやっていた子供たちを掻き分けて前へ出ると、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。……それと、ありがとうございました。僕たちを守ってくださって」
「お礼をするのはまだ早いよ、タッくん」
金髪の少年が、澄んだ片眼でロメとプサイを睨んできた。
「どうやってここをわり出したのか知らないけど。こいつらが騎士団つれてきた可能性もあるんだから」
「そんな、なぜ──」
なぜ私たちがそんなことを。口から出かけた言葉は、途中で霧のように溶けて消えた。
少年たちの瞳の中に、深い失望の色を見たのだ。この世のすべてを拒絶するような、何も信じようとしない色。虚ろな穴のような瞳孔の奥には、敵意と嫌悪と警戒と絶望と──が混ざりあったものが渦巻いていた。
──あいつらには親がいない。捨てられたんだ。
コルナの言葉が蘇り、頭の中で反響する。
親が彼らをそうしたように、彼らもまた、世界を拒絶している。そう察したとき、ロメの胸の一番深いところが柔く抉られた。
「……この家も早いところ出ていかなくちゃね」
フードを被った赤茶髪の少女が呟いた。懐かしむような視線でわずかばかり壁や天井を撫でると、すぐに開きっぱなしのドアへ歩き出す。
「レッカ……どこ行くの?」
タッくんと呼ばれた、三人より少し年上らしい少年が問いかけた。彼の瞳にあるのは絶望や嫌悪ではなく、困惑や不安、そして心配の色だった。
「新居探してくるのよ。なごり惜しいけど、次いつ大人がやって来るかわからないし」
「それと、かせぎの続きもしないといけない」
「かせぎって……なんですか」
金髪の少年の言葉に、思わずロメは口に出して聞いていた。しかし返ってきたのは彼の冷たい片眼の眼差しと、白髪の少年の謗りだった。
「お前には関係ない。きえろ」
「三人ともっ……!」
部屋を出ていく三人を追いかけようとしたタッくんの足元が、突如ふらつく。そのまま二、三歩後退していく。
「お、おい!」
背中から倒れる寸前、小さな体はプサイによって支えられた。額には汗が一粒浮かんでいる。
「大丈夫か?」
「は、はい……すみません。たまにあるんです、こういう立ちくらみ……」
起き上がろうとするタッくんの両肩に手をやり、ロメは優しくプサイへ押し返した。
「無理をしてはいけません。安静にしててください」
「でも……あの子たちが……」
「……きっとまた、何か盗んでくる。そうですよね?」
ロメの言葉に、タッくんは静かに頷いた。
「僕が頼りないから……あの子たちが手を汚して……」
「…………いえ」
息のような、消え入りそうな声を吐き出す。
「頼りないのはうちです……」
「え……?」
タッくんを抱き抱えたままのプサイへ顔を向ける。一瞬だけ複雑そうな表情を見てしまうが、それに構うことなくロメは彼女のズボンのポケットへ左手を突っ込んだ。
「ロメ!?」
目を丸くしてプサイが声を上げたその時にはもう、ロメは金貨の入った小袋をポケットから抜き取っていた。
「ロメ、それは──」
「その子をお願いします」
口早にそれだけ言って、ロメも部屋を去る。
「待ってロメ! 私も──」
「ついてこないでください」
迫りかけた背後の気配に、ロメは振り返らず冷淡に告げた。
息を飲み込む音が、はっきりと聞こえた。次いで、自分とプサイの間隔数メートルの空気がじりじりと凍りつく。背中越しに絶対零度の冷気を感じながら、ロメはなにも考えず再び足を動かした。
床の軋む音を聞き流しながら階段を下り、まっすぐ玄関を出る。いまだ渇ききらない泥の上を進んで、巨大な枯樹木の横まで来たとき、立ち止まって後方を振り仰いだ。
そびえ立つ建物の一番右上。割れた小さな窓ガラスのその奥へ向けて、ロメは一際強い睨視を投げつけると、すぐに踵を返して歩き出した。
▼ ▼ ▼
ノレス北東通りの七番地といえば、街で一二を争う露店通りである。
街のあちこちに多種多様な露店を構えるノレスであるが、街のど真ん中を南北に貫く中央大通りには露店はそれほど多くない。個人経営の露店よりも、組織的に運営されている企業店舗の方が圧倒的に多いのだ。その代わり、中央通りを囲むように走っている東西南北の通りには露店が密集している。
その中でも特に食品を扱う露店が多いのが北東通りなのだ。中央通りに軒を連ねる料理店や他通りの露店とは違い、北東通りの露店は食材そのものを売っている。街外と物資の輸出入をしている大門が近いこともあり、鮮度が命の食材を売る露店がこの場に増えたのは必然と言えよう。もちろん、客層のほとんどが家族の食事を日々考える主婦である。
しかし、そこに足を運ぶのが主婦だけとは限らない。
日の当たらない狭い隘路に身を隠しながら、ラオは向かい側のこぢんまりとした八百屋に視点をあわせた。
「どんな感じだラオ?」
両手を頭の後ろで組みながらチノが聞いた。
「異常はないよ。いつも通りピンクババァが一人で店番してる」
ピンクババァ、というのはその八百屋の中年女性店主のことだ。団子のように丸い体と、死ぬほど似合わない薄桃色のワンピースがトレードマークであり、ラオたちは貶称的にピンクババァと呼んでいる。
ピンクババァは豪快な笑い声と共に、買い物を終えた主婦に手を振っていた。客足はそこで一旦止まったらしい。店先に立っていた店主は、横の小さな椅子に巨体をどすんと落とした。
「……行く?」
小声でレッカが呟いた。それにうなずき返し、ラオは露店の左右を見回した。
「……レッカは左側から、チノは右側から。ぼくは真正面から仕掛ける。十五秒後にいける?」
「ああ」
「わかった」
隘路の奥へ二人が消えるのと同時に、ラオは体内時計のカウントダウンを始めた。十四、十三……。
意識を研ぎ澄ませ、不規則に流れていく人の波を観察する。狙いの露店への最高率ルートを弾き出すと、十を刻んだカウントダウンに合わせて隘路から飛び出した。
朝っぱらから平和な顔して練り歩く大人どもの合間を縫い、残り秒数にあわせた疾駆を保つ。遠くに見えていたピンクの丸い体がみるみるうちに大きくなっていき、向こうがこちらに気づいたようだったがもう遅い。残り、五秒。
四秒──視界右方向からチノの姿が現れる。
三秒──疾風のごとく速度で視界の左側からレッカが駆け込んでくる。
二秒──店主の懐に飛び込むべく姿勢を低く構える。小椅子を弾くようにして巨体が持ち上がった。
そして一秒──ラオとピンクババァの間に、何者かが両手を広げて割り込んだ。予期せぬ闖入者に、ラオはかかとを石畳に突き立てて急制動をかけた。
火花が散るのではなかろうかという無茶なブレーキだったが、ラオの軽い体は滑るようにしてしっかり人影の数センチ手前で止まった。左右に同じく急停止したらしいチノとレッカも転がってくる。
驚愕と苛立ちを半々に抱えて視線を上げると、つい数十分前に見たばかりの顔がこちらを睥睨していた。
風に揺れる浅葱色のワンピースと栗色の長い髪。まだ大人とは言いがたい幼い少女の顔立ちには、しかししっかりと憤怒の色が浮かんでいた。
「またお前かよ……」
チノが怒りを通り越して呆れ半分に言う。
「ホントなんなんだよお前。騎士団追っ払ったと思ったら今度はおれたちの邪魔するし」
「あなたはわたしたちの敵なの? それとも味方? いったい何がしたいの?」
レッカが問う。すると闖入者ロメは広げていた両腕を下ろし、息を吸い込んだ。
「あなたたちを叱りにきました」
「……はぁ?」
と声を漏らしたのは誰だったか。もしかすると自分自身かもしれないと考えながら、ラオは立ち上がって告げた。
「いらないよ、そういうの。自分たちがなにをしてるかは自分たちが一番よくわかってる。それでも、ぼくたちはこうするしかないんだ。いいとこのお嬢様にはわからないかもしれないけど」
最後の皮肉が刺さったのか、ロメは強く唇を噛んだ。しかしそれも一瞬。すぐに表情を直し、左右に視線をやってから言う。
「それでも……私はあなたたちを叱ります。いけないことはいけないんです!」
「そういうのをお節介っていうのよ」
左隣でレッカが立ち上がった。顎を引き、威圧するような目でロメを見る。
「これまでもいたわよ、中途半端な正義感を振りかざしてくるやつ。偉そうなこと言うくせに、どいつもこいつも考えてるのは自分のことばっかり。いい加減飽き飽きしてるんだけど」
「飽き飽きはこっちのセリフよ!」
野太い女性の声が割って入った。今まで呆然としていたピンクの店主が、顔を真っ赤にしながら叫んだのだ。
「何回来れば気がすむの! こんな何度も盗っていかれちゃね、こっちも商売上がったりなのよ!!」
ヒステリックな罵声に通り中の空気が震える。空気だけでなく、ピンクババァ自体もプルプルと小刻みに震えていた。
周囲の視線もどんどん増えていく。この分ではこの北東通りではしばらく稼ぎはできないだろう。一旦離脱し、仕切り直すのが得策──と、ラオがそこまで思考を回したときだった。
「あの黄色い果物と、右端の細長い野菜と、あの……レドウ? っていう果物、五個ずつください」
店先に並んだ商品を順に指差し、ロメがそう述べたのだ。
怒りに震えていた店主はガスを抜かれたように呆け、まぶたをパチパチと二回まばたかせた。
「おいくらですか?」
「え……えー、と、一四〇〇ツェルンだけど……」
手にした小袋から金貨を数枚取り出すと、ロメはピンクババァの大きな手のひらへ乗せた。店主はそれをまじまじと見つめると、思い出したように野菜や果物を袋へ詰め込み、そっとロメへ手渡した。
「ま、まいど……」
いつになく覇気のない声だった。商売人としての責務を全うしてもなお、その表情は理解に追いついていなかった。
唐突な買い物を終えたロメは振り返ると、あろうことか買ったばかりの野菜や果物を、笑顔でラオへと差し出してきたのだ。
「はい。どうぞ」
その突拍子もない行動に今度は声もでなかった。この女はなにを考えているのか。頭の中がそれで埋め尽くされていると、袋をぐいぐいと押しつけられる。
「ほら、自分で持ってください。このくらいはいつもやってるんでしょう?」
「…………お前、本当になにがしたいの……」
半ば強制的に荷物を抱えさせられながら、やっとの思いで声が出た。しかしロメは、こちらが変なことを言っているかのごとく平然と告げた。
「なにって、買い物に決まってるじゃないですか、あなたたちの」
「誰もそんなことたのんでねぇよ」
チノが食ってかかる。が、ロメは表情を改めると「いいですか?」とまっすぐにチノを見た。
「物がほしかったらお金を払って買う。これが当たり前なんです。お金がないからといって、盗みをしていい理由にはなりません」
「そんなの金があるやつのきれい事だろ」
「そうです。だからその綺麗事にあなたたちを巻き込みます」
いよいよ意味がわからず、ラオはぽかんと口を開けてしまった。目の前の異端児はこちらの反応など気にもとめず、似たようなアホ面を晒すレッカの背中に回ると両肩に手を置いた。
「さ、次のお店に行きますよ。次は肉か魚がほしいですね……」
「まっ、まだ行くの!?」
「当然です。これだけじゃ寂しいじゃないですか。ほらほら」
レッカを押しながらロメは北東通りを南下していく。ラオはチノと目を合わせると、呆気にとられる暇もなく二人を追いかけた。
「待てよ、おい!」
「あれ、もしかして魚屋さんの方向違いました?」
「そうじゃなくて、なんでこんなことするのさ!」
進行方向に立ちふさがる。ロメはそこでようやく足を止めたあと、少しのあいだ空を見上げて考え込む仕草をした。
「強いて言うなら……友人だから、ですかね」
すかさず腕の中のレッカが呟いた。
「友人って、今日会ったばっかじゃない」
「ダメですか? 会ったばかりで友人じゃ」
無垢な瞳が三人に問いかける。透き通るような純粋な疑問の視線に、ラオは答えを持ち合わせていない。
いっそ、友人になった覚えはない、と突き放してやるか。ラオが息を吸い込んだところで、それを遮るようにロメが囁き声で言った。
「私、正直ちょっと嬉しいんです。生まれてはじめて友人ができて」
かすかに微笑む彼女に、ラオは今度こそ本当に言葉をなくした。突き放す言葉になるはずだった空気が、ゆっくりと口から抜けていく。
「あっ」
不意にロメが声を上げる。何事かと思い彼女の視線をなぞると、若い男が営む露店があった。店先に並んでいるのは肉類だ。
「よかった。方向あってましたよ」
嬉しそうにそう言うと、再びレッカを押して走り出す。
「……あー、ちくしょう! 調子狂う!」
ニット帽の上からチノが白髪を掻きむしる。
胸にわだかまる妙な思いをかかとで地面に思い切りぶつけ、それと同時にラオは栗髪の背中を追いかけはじめた。