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フィクション世界の訪問者  作者: 時計座
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憂鬱のアリエス

「この果実は人間が食べられるものでしょうか?」

「ちょっと待ってて」

 分厚い書物をめくりながら、プサイはロメの持つ果実を観察した。リンゴに酷似しているが、その色は赤ではなく毒々しい紫色だ。

「……美味しそうには見えないよね」

「しかし、食べ物を選り好みできる状況でもありませんし」

 ロメの言う通りだとショータは思った。ろくな準備もできずにアスルガルド街を逃げ出して数日。深い森の中をさ迷って二日目になる。食事の頼りは自然の恵みのみである。

「多少味に難があっても、毒がなければ食べるべきです」

「ハッ、人間様は大変だな」

 ショータの腕にチクリとした痛みが走った。さっきよりも深くカイの牙が突き刺さっている。

「カイ。吸血中は喋らないでほしいんだけど」

「そりゃ悪かったなぁ」

 再び痛みが走る。ショータはカイを突き放した。

「もう十分でしょ……」

 傷口から一筋の血が垂れる。

 カイは口元いっぱいの血を拭い、とっとと樹木の上に登ってしまった。

 プサイが包帯を投げて寄越した。

「巻いときなよ」

「……ありがと」

 素直に腕に包帯を巻き付ける。白い布に赤いシミが浮かび上がった。

「程々にしときなよ。包帯ももうなくなるんだからさ」

「じゃあ俺に飢え死ねってか?」

 木の上からカイの声が降る。手に残った血痕を舐めとっていた。

 プサイは書物を閉じる。

「……一応食べられるみたいだよ、それ」

「食べ物は見た目によりませんね」

 紫リンゴを眺めるロメ。懐から小さなナイフを取り出す。

「カイ。食べますか?」

「いらねぇ」

「……だろうと思いました」

 ため息をついて、ロメは実に刃を入れる。

 瞬間、矢が紫リンゴを粉々に砕いた。ナイフが吹き飛ぶ。

「隠れてッ!!」

 プサイの指示で木の陰に回る。ショータとロメはそれぞれ得物を構える。

 一瞬のうちだったが、矢には確かにアスルガルド街の街章が記されていた。恐らく騎士団の弓撃部隊であろう。

 張り詰める緊張感。敵の姿が見えない以上、迂闊には動けない。全員、姿勢を低く保つ。

 風を切って飛来した二本目の矢が、ショータのすぐ真横を飛んでいく。赤い髪の毛先が散るのが自分からでも見えた。

 ゾクリと背筋が凍る。それを抑えこみ腕輪に光を灯した。

「トルボッ!」

 放たれた(いかづち)は龍となって襲いかかる。爆発音と共に多くの木々がざわめいた。

 同時にあちこちで草むらが揺れる。弓を構えた人影がいくつも行き来した。

「カイ! あと何人いるか分かる?」

「ざっと十人ってところだ。さっさと片付けるぞ」

「了解」

 腕輪の文字が輝き、カイを獣人態へと変化させる。

 黒翼を広げたカイは、枝の上から敵めがけてダイブした。轟く悲鳴と迸る血飛沫。

「……イマイチ」

「あいつ……っ!」

 プサイが歯噛みする。矢を書物で防ぐと、その書物を蹴飛ばして敵の頭部に命中させた。

「目的は敵の無力化! 分かってるの!?」

「戦利品くらい味見したっていいだろ」

 そう呟いて、カイは次の人間に爪を突き立てた。返り血を浴びながらその瞳をギラつかせる。

「それともなんだ? 手加減して返り討ちにあいたいのか?」

「それとこれは話が────!」

「喧嘩は後にしてください!」

 クロスボウを射ながらロメが叫ぶ。腕輪のΨ(プサイ)の字が輝く。

「今はこの危機を脱することが先決です!」

「……わかったよもう!」

 イラつきながらプサイは獣人態へ変身する。飛翔しながらの足技で確実に一人一人を倒していく。

「イレム!」

 ショータはパラドックスに炎をまとわせ、敵の足を斬りつけ火傷を負わせる。むごいやり方だとは思うが、こうでもしないとどこまでも追われそうだった。

「……終わった?」

「みたいですね」

 ロメが周囲を見ながら答える。あちこちで負傷した男たちが呻いている。

「ざまぁねぇな」

 血まみれになったカイは、同じく血まみれの男を踏みつけた。男の口から苦しげな息が漏れる。

「不意討ちしといてこの程度かよ」

 真っ赤な爪を尖らせ、男の左胸へ狙いを定める。

 突き出されたそれは、ショータの赤いパラドックスに遮られた。

「……ア?」

「さすがにもうお腹一杯なんじゃない?」

 有無を許さぬ口調で告げた。反対の手に備えた青いパラドックスを胸元に構える。

「…………チッ」

 舌打ちを残し、カイは一人で森の奥へ進んでしまった。

 ショータの足元では、九死に一生を得た男が細い呼吸を繰り返している。

「……早く行こう。ここはあまり居心地がよくない」

「そうですね……」

 憂いげな表情のロメが言う。

 先を行くカイを追うためか、それとも血飛沫の木々から離れたくてか。ショータの足はいつもより早い。

 ふと気づくと、自分の指にも血が付着していた。それを服で拭い取り、ロメを見る。

「……ねえ、ロメ」

「なんでしょう?」

「ノレス街まであとどれくらいか分かる?」

 ロメは地図を取りだし、くるくると回転させる。

「もうそろそろのはずです。方角さえ間違えていなければですが……」

「たぶん合ってるよ」

 プサイは穴が空いた書物を広げていた。紫リンゴのデッサンが載っている。

「この果実、ノレス周辺の一部でしか育たないらしい」

「ってことは、近いんだね?」

「近いどころか……」

 プサイは書物と、ロメが持っていた地図を重ねる。

「すぐそこみたい」

 突如、プサイは左に進路を変えた。ついていくと、ますます草木が増えたかと思いきや、いきなり視界が開ける。

 数日ぶりの太陽に目が霞む。慣れてくると、自分たちが小高い丘の上に立っていることが分かった。眼下には活気溢れる街並みが広がっている。

「あれは……」

「ノレス街。私とロメが育った街」

「……帰ってきてしまったんですね」

 憂鬱げなロメの横顔。力ない視線の先には、白い壁の豪邸が建っていた。

「……もしかして、あれが?」

「そう、アリエス家。この辺り一番の名家で、ロメの実家」

 プサイはロメの頭をポンポン撫でた。

「……さ、行くよ。日が暮れないうちに」

 そう言って歩き出す。空の太陽は、少しだけ西に傾きつつあった。


 ☆ ☆ ☆


「ああ! 我が愛しの愛娘、ロメ! お帰りなさい! 元気にしてましたか?」

 アリエス邸を訪れたショータたちの前に現れたのは、ロメと似た髪色をした白いドレスの女性だった。廊下で人目も憚らずロメに抱きついている。

「アスルガルドでの生活はどうでしたか? 寂しくありませんでした? 食事に困りませんでしたか!?」

「は、離してくださいお母様! お客様の前で……!」

 女性はハッとして、しかしロメから離れることなくショータたちの方を向いた。

「ようこそいらしてくれました。はじめまして、リーラ・アリエスと申します。娘がお世話になっております」

 ロメに抱きついたままお辞儀するリーラ。呆気に取られつつも、ショータも頭を下げる。

「はじめまして、ショータ・ナルセです。こちらこそロメさんにお世話になってます」

 横目でカイを見る。珍しく、直立という佇まいをしていた。

「……母親ってのはこんなウザったい生き物なのか?」

「ちょっと、カイ!」

 カイの口を塞ぎ、強制的に頭を下げさせた。

「すいません! こいつ失礼なことを──」

「いえ、母が親バカなのは間違っていないので」

 リーラを引き離したロメが衣服を整える。再び抱きつこうとした母親をかわし、憮然とした顔つきになる。

「やめてくださいお母様。人前で恥ずかしい……」

「三年ぶりの再開なのですよ! もっとあなたを味あわせて──」

「嫌です!」

「落ち着きなさい、リーラ」

 その声にリーラが止まる。

 ショータが後ろを振り向くと、ブラウンの髪をオールバックにした男性が歩いてきていた。

「嬉しいのはわかるが、客人を放っておくのはよろしくないよ」

「わ、わたくしとしたことが……」

 リーラは頬を赤らめると、改めてショータたちにお辞儀した。

「すみません、お構いもせず。すぐにディナーをご用意いたしますので」

「あ、いや……」

「遠慮なさらず。普段はメイドにやらせておりますが、今宵はわたくしが腕によりをかけて作らせていただきます」

 ウキウキとした表情を浮かべながら、リーラは廊下の角へ消えていった。

 ショータはアスルガルドで初めてロメの家に泊まった晩のことを思い出していた。腕によりをかけた物体Xがたくさん並ぶ食卓──。

「……嫌な予感がする」

「俺は楽しみだけどな」

 カイが舌なめずりをする。その後ろでオールバックの男性が笑った。

「君は猛者だな。私もあれは覚悟が必要だというのに」

「テメェ誰だ?」

「カイってば!」

「ハハハ、構わないよ」

 カイの肩をポンポンと叩き、男性は柔らかい笑顔を浮かべた。

「どうもはじめまして。ロメの父親のリヴァルス・アリエスだ。よろしくショータくん、カイくん」

「あ、はい、よろしくお願いします」

 差し出された手を握るショータ。リヴァルスはカイにも差し出したが、いつも通りの横暴な態度で無視する。

「ロメ」

 リヴァルスは壁際に立ち尽くすロメに声をかけた。

「帰ってくるなら連絡くらいくれればいいのに。我が家が恋しくなったのか?」

「……違います。帰ってきたくて帰ってきたわけじゃありません」

「そう言うな。私も母さんも、お前のことをすごく心配していたんだ。特にこの前なんか、アスルガルドでコンマが暴れたそうじゃないか」

 ショータがこの世界に迷いこんだ当日の出来事だ。

「街が火の海になったと聞いて、母さん卒倒したんだぞ?」

「だと思って、プサイが手紙を送ったはずです。私は無事だと」

「それだけで完全に安心できる人じゃないことくらい、ロメも知っているだろう?」

 ロメは黙ってうつむいた。深いため息を吐き出す。

「……だから嫌なんです、この家は」

「ロメ、そんな言い方は──!」

「どうかされましたか?」

 言葉を遮った声にショータは振り返る。

 立っていたのはプサイだった。ただし黒い執事服に身を包み、長い白髪は後ろで一つにまとめてある。普段と雰囲気がまったく違う。

「……なに、その格好?」

「私の正装でございます、ショータ様」

「さま……?」

 困惑するショータに一礼すると、プサイはロメに一本の鍵を差し出した。

「お嬢様、お部屋のお掃除が終わりました。ディナーまでお休みになられては?」

「…………わかりました」

 鍵を受けとると、ロメは足早に去っていった。

 ショータは二度、三度と目を擦った。目の前の人物は間違いなくプサイなのだが、その立ち振舞いはベータを彷彿とさせる。

「すまないねプサイ。君も帰ってきたばかりだというのに」

「とんでもございません。これが私の仕事ですので」

 リヴァルスに頭を垂れるプサイ。それからショータたちに向き直った。

「お二人のお部屋は二階にございます。ご案内いたします」

「あ……えっと……」

「なにか?」

 正直、案内よりも説明をしてほしい。だが混乱しきっているショータはうまく言葉を繋げられない。

 そんな中、カイが大きく「ハッ!」と笑った。

「たいした変わりようだな。みにくいアヒルの子ってやつか?」

「はぁ……どういう意味でしょう?」

「……知るか」

 売り言葉に買い言葉を期待していたのか、カイはつまらなさそうに吐き捨てるとどこかへと姿をくらました。

「……仕方がありません。カイ様は後程改めてといたしましょう。ショータ様」

「あ……はい」

 プサイは廊下の奥を示して言った。

「お部屋へご案内いたします。こちらへどうぞ」


 ☆ ☆ ☆


 プサイに案内された部屋は、文句のつけようがないほど掃除が行き届いていた。

 パールホワイトの壁や床は大理石なのか、それとも別のなにかなのか素人のショータには分からないが、間違いなく『庶民的』とはかけ離れた代物であることは分かる。グレードランプ最上階の一室と比べてもまるで遜色がない。

「では失礼いたします」

 一礼して去ろうとするプサイを、「ちょっと待って」とショータは呼び止めた。

「……説明、してくれる?」

「……かしこまりました」

 慣れない口調にこちらの調子が崩れそうである。

 プサイは直立の姿勢でショータと向き合う。

「ご覧の通りでございます。私はアリエス家に仕える執事なのです」

「執事って……」

「ショータ様が困惑なさるのも無理はございません。アスルガルドで生活していた頃の私はこのようではありませんでしたので。…………以前、私とお嬢様は幼馴染みだとお話ししたのを覚えておられますか?」

「うん……覚えてる」

「私とお嬢様が出会ったのは、お嬢様が四歳の頃でした。拠り所がなく一人だった私を、旦那様がアリエス家へ招き入れてくださったのです。それから私はアリエス家の執事となり、十年以上この家に支えてまいりました」

「そうだったんだ……でも執事って、普通は男の人がなるものじゃない? 女性はどっちかっていうとメイドのイメージが……」

「執事はなにも男性に限ったものではありません。それ以前に、私は人間ではなく契約獣です。契約獣に性別という概念はございません」

 忘れかけていた『設定』がショータの頭によみがえる。容姿は男か女かハッキリしているものの、契約獣の正式な性別設定は『性別無し』である。

「あぁ……そういえばそうだったっけ」

「もっとも、私は『女性』に近い姿をしておりますゆえ、昔からお嬢様には不思議がられましたが」

「男でも女でもないって言われても、小さいうちは戸惑うかもね」

「…………ええ。そうですね」

 妙に歯切れの悪い返事だった。

「……どうかしたの?」

 プサイは懐中時計を開く。

「……申し訳ありません。まだ仕事が残っておりますので、失礼いたします」

「あ、ちょっと──」

 扉を開けたプサイは、そこで一度振り返る。

「地下に大浴場がございます。ディナーまでまだ時間がありますので、よろしければお使いください」

 プサイは最後にもう一度だけ頭を下げて去っていく。

 扉が閉められると同時に、ショータはベッドに腰を落とした。トランポリンのように跳ね返る。

 深いため息を吐き出した。まるで別人と話しているようで、気が疲れる。

 西日がショータの目を眩ます。

 ショータはカーテンを閉じようとして、ふとバルコニーに出てみた。

 眺め渡すノレスの街並み。黄昏の街をたくさんの子供たちが駆けていた。アスルガルドではあまり見なかった光景だ。

 強い風が吹いて、ショータの鳥肌を誘う。北の地の空気は異様に冷たい。

 ショータは早々と部屋に戻ると、手のひらを擦りあわせながら廊下へ出た。

 階段を降りて地下へ向かう。ガラスがくもっている大きな引き戸を開けると、熱気がショータの身体を撫でた。

 広い広い脱衣場には『ショータ様用』と札が置かれた着替えがきれいに畳まれて置いてあった。

「……準備よすぎるでしょ」

 こぼしながら、脱いだ衣服をかごへ入れる。

 浴場への扉を開ける。白い湯気が充満したその空間は、ショータの予想通り度肝を抜く広さを誇っていた。

「……さすが貴族」

 呟いた言葉が白い壁に反響する。

 一通り体を洗い、湯船に浸かる。すぐそこでは羊を象った像の口から湯が流れ出ていた。

 そろそろ驚くのにも慣れてきたショータは、体をそらして天井を見上げた。空より高いんじゃないかと思えてしまう。

 湯加減か、心労か、勝手に大きな息がこぼれた。

「相当お疲れのご様子だね、ショータくん」

「うおっ!?」

 羊の像まで退く。声のした方をよく見ると、湯気の向こうにシルエットが浮かんでいる。

「ハハ、驚かせてしまったかな」

 姿を見せたのはロメの父親、リヴァルスだった。湯をかき分けて近寄ってくる。

「い、いえ……すみません、気づかなくて」

「肩の力を抜いてくれ。誰かと入るのは久しぶりなんだ」

「そうなんですか……」

 これだけ豪華な邸宅の主と浴場で二人きりなど、緊張するなという方が無理だ。

 ショータは湯船の隅っこで縮こまった。

「ロメもいつからか、私と入るのを嫌がるようになってね」

「はぁ……まあ、ロメさんもお年頃の女の子ですから……」

「ただ、こうして未来の息子と入ることができたのは、親としてとても嬉しいのだけどね」

「はい…………はい?」

 思わず二度見した。リヴァルスはショータの反応こそ不可解だと言わんばかりにポカンとしている。

「息子? えっ、息子さんもいらっしゃるんですか?」

「いらっしゃるもなにも……君のことじゃないか、ショータくん」

「…………ハィ?」

「ゆくゆくはロメと籍を入れるのだろう? 私は今から式が楽しみで仕方がないよ」

 にこやかな笑顔を向けてくるリヴァルス。

 ショータはボイルしかかった頭で、精一杯思考を走らせた。

「……すいません。それ、どこ情報ですか」

「ん? 誰から聞いたということはないが……心配しなくていい。私も妻も君たちの結婚には大賛成なんだ」

「は、はぁ……」

「娘の晴れ姿を思うと、なんだか今から感動してしまうよ」

 リーラだけでなくリヴァルスもロメを溺愛していたらしい。ショータは苦し紛れの苦笑いを浮かべた。

「あ、アハハ……でも、プサイが結婚とか許してくれますかね……」

「プサイ?」

「あ、いや……」

 失言した、とショータは思った。アリエス家のプサイはあくまで執事。一人の使用人にすぎない。

 しかしリヴァルスは穏やかな顔つきで天井を見上げた。

「きっと許してくれるよ。プサイなら」

「……え?」

「昔から一番にロメのことを思っていたからね。それこそ、本当の姉みたいに。二人は出会うべくして出会ったんだろうね」

「どういうことですか?」

「……ノレスは子供が多い街なんだ。部屋から街を望めば、夕方遅くまで子供たちが走り回る光景が見える」

 ショータは部屋のバルコニーから見た景色を思い出した。

「ロメは物心ついた頃から、自分と同じ年頃の子たちの姿を眺めてた。きっと羨ましかったんだろうな。家柄に縛られずに自由に遊べる子たちが」

「遊ばせてあげなかったんですか?」

「私の後悔の一つだよ。娘が可愛くて可愛くて、つい過保護になっていた。今にして思えば、もう少し手を離してやってもよかったのかもしれない。だからなのかな……ロメの方から手が離れていった。ロメはこの家をだんだんと嫌うようになっていった」

 ロメがアリエス家を毛嫌いする理由に、ショータは理解がいった。

 同年代の子供と遊べない。それは成長期の多感な時期には少し酷な話かもしれない。

「そんなある日、私たちは家族で近くの湖へ出掛けたんだ。そこで偶然出会ったのがプサイだった。彼女はその湖のほとりに一人で住んでいたらしく、すぐにロメと仲良くなったよ」

「それで、執事として家に……?」

「いや、そのときは特になにもなく帰ってきた。プサイを家に迎え入れるのはもう少しあとで──」

 語るリヴァルスを、ノックの音が遮った。

「旦那様、ショータ様」

 扉の向こうからプサイの声が聞こえてくる。

「ディナーの準備が整いました」

「わかった。もうすぐ出るよ」

 リヴァルスは声を返すと、湯船から身体を出す。

「……そういえば今晩はリーラが作ったんだったか」

 そう呟きつつ、水滴を落としながら歩くリヴァルス。ショータはその背中に、大きな火傷の跡を見つけた。

「どうしたショータくん?」

 振り返ったリヴァルスからつい目を背けてしまう。

「……いえ、なんでもないです。あと10浸かったら出ます」

「そうか? じゃあ先に行ってるよ」

 ショータは再びリヴァルスの背中を盗み見る。白く綺麗な肌のど真ん中に、痛々しい赤い傷跡が広がっていた。相当の熱を浴びたことは想像に難くない。

 ショータは顎近くまで湯に浸る。生真面目に数なんて数えてはいない。

 ただちょうどいい熱さを、全身で浴びているだけだ。


 ☆ ☆ ☆


「こちら、マロック牛のステーキでございます」

 銀の食器にのせられた分厚いステーキ肉が、それぞれのテーブルに運ばれる。

 高い天井、遠い奥行き。真っ白なテーブルクロスの中央の豪華な燭台を囲み、ショータたちはディナーを進めている。

 結局ディナーはプサイが作ったらしく、先ほどから出てくるのは見た目も味も整ったものばかりだ。

 最初は少しふくれていたリーラだったが、ディナーが進むにつれ神妙な面持ちに変わっていった。

「──つまりあなた方は、国王様殺害の嫌疑がかけられてここまで逃げてきたと。そういうことですね?」

「……はい」

 ショータは静かに頷いた。

「あっという間でした。僕が気がついたときには、もうアスルガルドで僕らの捜索が始まってて……」

「それでやむを得ず、帰ってきたんです」

 ステーキを切りながらロメが告げる。

「アスルガルド騎士団の方々は今も私たちを追っています。ですが、勝手にノレス街に足を踏み入れることはできません」

「なので……烏滸がましいのは分かっていますが、しばらく匿ってもらえませんか?」

 その懇願に、リーラとリヴァルスは渋い顔をした。

「ダメ……ですか?」

「そんなわけないさ。可愛い子供たちのためなら、家をあげて庇う。ただ……」

「ただ?」

「どうやって身の潔白を証明する? 国も動いているんだろう?」

「それは……」

「サクリΦ(ファイ)スを壊滅に追い込みます」

 臆することなくロメが答えた。ナイフとフォークでつまらなそうにステーキを切り分けている。

「あちらは私たちをサクリΦスの一味だと考えています。ならば私たちの手でサクリΦスを潰して、犯人を挙げて、容疑を晴らすしかありません」

「……ロメ。意味がわかって言っているのか」

 リヴァルスの顔つきが険しくなる。

「サクリΦスは話が通じるような相手じゃないぞ」

「話し合う気なんて最初からありません。実力行使です」

 ロメが肉にフォークを突き刺す。食器がカタリと音を鳴らした。

「そんな危険な行動、父親として認めるわけにはいかない」

「お父様に認めてもらおうなんて考えていません。私はもう独立したんですから」

「私たちの大事な娘であることに変わりはない」

 ロメが強くテーブルを叩いた!

 食卓が静まり返る。

「…………失礼します」

 半分以上ステーキを残して、ロメは部屋を出ていってしまった。

 給仕をしていたプサイも、一礼して彼女を追っていった。

「すみませんショータさん」

 向かいに座るリーラが、申し訳なさそうに眉を寄せた。

「せっかくのディナーですのに、お見苦しいところを」

「いえ……」

 ショータは左隣の空席を盗み見た。せっかくのディナーだというのに、カイは姿を見せていない。

 空になっていたショータのグラスに、リヴァルスが水を注いだ。

「とにかく。幸いにも、まだノレスでは指名手配はされていない。しばらくここに身を隠すといい。対抗手段はじっくりと考えていこう」

「すいません……ありがとうございます」

 リヴァルスは首を振る。

「君たちを危険な目に遭わせるわけにはいかないからね」

 そう言ったリヴァルスの目に、強い覚悟の色が覗いていた。それと非常に近しいものを、リーラの瞳にも感じる。

「あの──」

 とショータが口を開いたとき、銀のワゴンが扉を開けて入ってきた。

「失礼いたします。デザートをお持ちいたしました」

 若いメイドはテーブルにアイスのようなものを並べる。

 リヴァルスの手元の皿は、ちょうどステーキがなくなったところだった。

 それに対し、ショータの皿にはまだ一口分ほどステーキが残っている。

「ごゆっくりどうぞ。こちらは少し溶けた状態が一番美味しくお召し上がりいただけます」

「はぁ……」

 ワゴンを押して下がっていくメイド。

 リヴァルスはスプーンを押し当てて、アイスを人工的に溶かしている。リーラはゆっくりとステーキを切っては口に運んでいる。

「そうだ。ショータさん、ロメの分のデザートも召し上がりますか?」

「……では、いただきます」

 完全にタイミングを逃したショータは、最後のステーキにフォークを突き刺すことしかできなかった。


 ☆ ☆ ☆


 カーテンの隙間から差し込む月明かりが、床を一筋照らしあげている。

 時計はまもなく一時を回ろうというのに、眠気は一向に襲ってこない。ショータは静かにベッドからその身を起こした。

 クローゼットの中には厚手のコートが用意されていた。

 コートを持って部屋を出る。月明かりだけの薄暗い廊下、階段。壮大な玄関扉も、この深夜帯だけは虚無感に溢れて寂しく見えた。

 扉を開けると早速夜風に吹かれた。コートに袖を通し庭に出る。並木もざわざわと騒がしく揺れていた。

「生憎だが、今食欲はねぇぞ」

 突然声がかかった。

 暗くて分かりづらかったが、木の上に黒い人影がある。カイだ。

 ショータはムスッとして言い返す。

「君に血をあげにきたわけじゃないんだけど」

「じゃあなんの用だ?」

「眠れなくて出てきたら偶然君がいただけ」

 ショータは気の根本に座り込んだ。

 頭上からカチャカチャと金属の音がする。夜目をきかせて見上げると、暗がりの中に鈍く光る拳銃が見えた。

「……なんでそんなものまだ持ってるの」

「こんな便利な道具を捨てる理由があるか」

「……それがどういうものか、わからないわけじゃないよね」

 枝が揺れて、ショータの隣にカイが降り立つ。

「こんな珍しい代物、あの鍛冶屋に見せたら喜ぶんじゃないかと思ってなァ?」

「……国王はそれで殺されたんだ。それを持ってたらあらぬ疑いをかけられる」

「今更だろ。むしろ、追ってきたやつらをこれで返り討ちにできる」

「お前は人を傷つけることに何も感じないんだね」

 カイの赤目がギラリとこちらの向いた。夜の中だとその赤色がいっそう不気味に光る。

「いつもそうだよね。戦闘になると必要以上に、無慈悲に相手を傷つける……今日だって、僕が止めなきゃあの男の人を殺してた」

「……やっぱりテメーは甘いな」

「は?」

 と溢したショータの髪を、カイが乱暴に掴みあげた。

「甘いって言ってんだよ。いいか? 今俺たちに襲いかかる連中は全員、俺たちを殺す気できてんだぞ」

「だから、なんだ!」

 強引にカイを振り払い、息を整える。

「殺される前に殺すなんて考え方、僕は嫌だ! なるべく誰も傷つけたくないんだよ」

 突然発砲音が響いた。銃口から硝煙が夜空へ上っていく。

 弾丸はショータの足元の芝を抉っていた。

「だから甘いんだよテメーは!」

 銃口がショータの眉間に突きつけられる。

「戦うってのは殺し合うことなんだよ! その殺し合いに手加減すんのがテメーら人間の悪い癖だ! 誰も殺したくない、誰も傷つけたくない、そんな綺麗事言ってるやつから死ぬんだよ!!」

 カイの蹴りがショータの腹を貫く。盛大に咽びこむショータを、次の蹴りが吹き飛ばす。

「どうせだったら今ここで、俺がお前を殺してやろうか?」

 銃口がこちらを向く。

 ショータは地面を殴り、パラドックスを抜刀。カイへ飛びかかった。銃身と刀身が交わる。

「冗談じゃない! 僕は誰も殺さないし、お前にも誰も殺させないっ!!」

「まさか……ここまでバカだったとはなァ!!」

 剣を弾いたカイが飛び上がる。枝の上に立つと、ショータめがけて爪を振り下ろした。

 ショータのコートに裂け目が入る。体勢を立て直すと、すかさずパラドックスで刺突した。

「…………もはや甘いなんてレベルじゃねぇな」

 刃はカイの数センチ手前で止まっていた。

 ショータの腕のわずかな震えが、パラドックスの切っ先に顕著に現れている。

「契約者のくせに、契約獣一人まともに刺せねぇとはな」

 カイのつま先がショータの腕を払う。赤いパラドックスは回転して飛んでいき、樹木の幹に突き刺さった。

「この程度の覚悟で俺を止める気だったのか?」

「…………なるべく傷つけたくないって言っただろ?」

 鋭利な爪がショータの喉元に添えられる。

「その躊躇が、お前を殺すんだよ」

「……………………」

 ショータの左手から、青いパラドックスが滑り落ちる。

 吹き抜けた強風に押されるように、ショータはそこに尻餅をついた。

 無言のまま鋭い視線を向けて、カイは去っていった。

 ショータは仰向けに倒れた。夜空が目の前に広がる。その感嘆ものの景色を、呆けた表情で眺めている。

 視界に燕尾服と長い白髪が映りこんだ。

「お気はすみましたか?」

 プサイだ。ショータは寝たまま問う。

「……見てたの?」

「申し訳ありません。止めるべきかと迷ったのですが……」

「いいよ、別に」

 プサイは幹に刺さったパラドックスを引き抜く。

「どうぞ」

「……ごめん。勝手に庭で、しかもこんな時間に暴れちゃって」

「おきになさらず。大事にならずホッといたしました」

 ショータは二本のパラドックスを、それぞれの鞘に収めた。

「ところでその話し方どうにかならない?」

「……それ、ロメにも言われた。いつも通りの話し方をしてください、って」

「できるんじゃんか」

 プサイは息苦しげにネクタイを緩め、縛った白髪をほどく。長い髪はすぐさま風に吹かれた。

 風に舞う木の葉と夜空の星をショータはじっと眺めた。

「…………プサイはさ」

「うん?」

「戦うとき、どんなこと考えてる?」

 プサイは少し考えたあと、

「ロメを護ること、かな。どんな戦況でもロメのこと気にかけちゃうから」

「戦うことに、躊躇はある?」

「全然。私が躊躇したせいでロメに怖い思いをさせるのは御免だからね」

 以前カイがプサイを『過保護』だと毒づいたことがある。的を射ている発言であったとショータは今でも思う。

 だからこそ、一つ疑問だった。

「……どうしてロメと契約したの?」

「……どういうこと?」

「契約すれば戦う力を得る……つまりロメが戦場に立つかもしれないってことだよね。そうじゃなくても、契約者は嫉妬の目で見られることも少なくない」

 プサイは口を結び、目をそらす。

 ショータは上半身を起こし、木の幹によりかかった。

「ロメの身を案じるなら、契約なんてしないことが一番なはず。なのにどうして、契約したの?」

「……旦那様、そこまでは話さなかったか」

 呟いたプサイは、ショータと背中合わせに木の根本に座る。

「…………少し昔話でもしようか」

「昔話?」

「私がアリエス家に来るきっかけになった出来事。もう十年以上前の話になるけど」

 やむ気配がなかった風が不意に止まり、嘘のような静けさが訪れる。

 プサイが息を吸う音が闇に響いた。

「……私と出会ってからというもの、ロメは夜な夜な屋敷を抜け出しては湖へ来るようになった。家を窮屈に感じていたあいつにとって、その時間はとても大事だったのかもね。三日に一度だったものが二日に一度、気づけばロメは毎晩湖に姿を見せてた」

「……それで」

「毎晩早くから集まり、翌朝日が昇るまで一緒にいる。それは私にとっても新鮮で、とても楽しかった。まるで妹ができたような、そんな感覚さえ覚え始めたある日──その日常はあっという間に燃え尽きた」

「燃え尽きた……?」

 今日一番強い風が激突した。ゴウゴウと唸るような突風にプサイの白髪がなびく。

「火事が起きた。深夜の湖畔で」

「火事……!?」

「ノレスは風が強い街。一度燃えれば瞬く間に火の手は広がっていく。私たちは為す術なく、ただ炎を見上げるしかなかった」

 炎と聞いて、アスルガルドの大火災がショータの脳裏によみがえる。焦げつく熱さが昨日のことのように思い出される。

 風の音と、記憶の中で炎がはぜる音が重なる。冷たかったはずの夜風が、急に熱風に変わる。

「昔の私は、状況を打開するだけの力を持ってなかった。ロメをつれてなるべく火の手の少ない方へと逃げるものの、そんなのはただのその場しのぎ。だんだん逃げる場所もなくなって、気づけば四方を炎に囲まれてた」

 暗い夜空に火の粉が上がり、辺りがオレンジ色の炎に照らし出される。肌を焼くような風に乗って、幼子の泣き声が響く。

「自分の力不足を死ぬほど呪った。妹一人まともに救えないなんて、本気で死にたくなった」

 燃えて倒れるいくつもの樹木。倒れたことでさらに火が燃え広がり、幼子二人を残酷なまでに追い込んでいく。

 震える二人めがけて、激しく燃える木が倒れかかった。白髪の幼子が、もう一人の幼子を抱き締める。

「そのとき助けてくださったのが、旦那様だった」

「リヴァルスさんが……!?」

 身を呈して二人を護ったリヴァルスは、二人を抱えて炎の中を駆けていく。

 ショータは風呂場で見たリヴァルスの背中に、大きな火傷の痕があったことを思い出した。

「あれはこのときの傷跡……」

「こっから先は、私も詳しくは覚えてない。気がついたらアリエス邸の一室で、ロメと一緒に寝てた。旦那様も奥様も、私たちを叱るようなことはせず、ただただ、無事でよかったと繰り返すだけだったよ」

 プサイが立ち上がる。それと同時に、燃え広がっていた炎が消え、たちまち辺りは元の姿に戻る。少しばかり強い夜風に木々がざわめいているだけだ。

「帰る場所を失った私は、執事としてアリエス家に招かれた。旦那様が気を効かせてくれたのか、主な仕事はロメの身の周りのお世話だった」

「もしかして、ロメが炎が苦手な理由って……」

「火事のトラウマだろうね…………四歳であんなものに巻き込まれたんだから、無理もない」

「……契約したのは、護る力を手に入れるため?」

「……もう二度とロメに怖い思いはさせない。そう誓ったはずなのに……!」

 プサイの腕は震えていた。やがて限界が訪れたように、悔しげな声と共に拳が木に打ちつけられた。

「私はロメを護れてない! 今まで何度あの子が傷ついた!? 何度死にかけた!?」

「プサイ…………」

「挙げ句の果てに指名手配だ? いい加減にしろプサイ!! お前は今まで何をしてきたんだ!!」

 溢れ出る自責の叫びが夜空へ消える。

 月にかかっていた雲が晴れ、地面に明かりが落ちた。

「……ごめん。ショータに言っても仕方のないことだったな」

 長い白髪を後ろで一つに結び、ネクタイを閉める。

「……もう遅い。ショータも早く寝なよ」

「ねぇ、プサイ……」

 足を止めたプサイが身体をこちらへ向ける。

「……おやすみなさいませ、ショータ様」

 そして深々とお辞儀をした後、辛そうな表情で屋敷の中へ消えていった。

 真夜中の庭にショータは再び一人きりとなった。

 吹き抜ける風は冷たく、体に鳥肌がたつ。

 ショータは深いため息を吐き出し、特に意味もなく空に浮かぶ月を見上げた。


 ☆ ☆ ☆


「おはようショータくん。昨日はよく眠れたかい?」

 食堂の扉を開けるなり、リヴァルスの爽やかな笑顔が飛び込んできた。

 時計は七時半。ショータはあくびを噛み殺し、微笑んだ。

「おはようございます。おかげさまでもうぐっすりと」

「それはよかった」

「枕が合わなかったらいつでも仰ってくださいね? すぐに変えさせますから」

 リヴァルスの隣でリーラが黄色いスープをかき混ぜている。

「ショータさんもお飲みになります? コーンスープ」

「では……お言葉に甘えて」

 一ヶ月前、こちらの世界に迷いこんだショータが最初に口にしたものもコーンスープだった。

 席につくと、メイドからコーンスープとスプーンが渡される。少し熱いくらいだが、肌寒い朝にはむしろ丁度いい。

「おはようございます」

 扉が開いてプサイが姿を見せた。その手に大きめの箱を持っている。

「おはよう……それは?」

「旦那様宛てに届いておりました。ですが差出人はミオ・スペクター様です」

「ミオから?」

 プサイは箱をテーブルに置くと、すぐ踵を返した。

「恐らくお嬢様への荷物でしょう。お嬢様を呼んで参ります」

「あ、うん……」

 プサイが扉へ消える。それと同時に、リーラがカップを置く音が響いた。

「……あの、ショータさん?」

「はい?」

 神妙な面持ちで、リーラは小さく手招きしてきた。

 ショータは席を離れ、彼女のそばに寄る。

「ロメのことなのですが──」

「私がどうかしましたか?」

 振り向くと、扉を開けてロメが立っていた。

「い、いえ……なんでもありません」

 慌てた様子でリーラは話題を切り替える。

「それより、お早いですね。たった今プサイが呼びに行ったばかりですのに」

「プサイが……? 行き違いになったのかもしれませんね」

 ロメは両親から一番離れた椅子に座る。メイドが差し出したコーンスープをスプーンでかき混ぜ始める。

「ところで、その箱はなんですか?」

 テーブルの中央に置かれた荷物を指差してロメが問う。

「ミオからの荷物。たぶんロメ宛てだろうってプサイが」

「ミオから私に?」

 スープを混ぜるスプーンが止まる。ロメは箱を引き寄せると、紐をほどき中身を見る。

 ロメが取り出したのは、クロスボウ用の数本の矢だった。メイド数人がざわついたが、当のロメは微笑みを浮かべている。

「さすがミオですね。そろそろ矢がなくなるのを見越してくるとは」

 ショータは横から箱の中身を覗いた。多くの矢の下に、真四角に折り畳まれた紙があった。

 取り出してそれを広げてみる。まるで機械で入力したかのような整った文字が、規則正しく紙面に並んでいた。

「うわ…………」

 整いすぎて逆に気持ちが悪い。

「手紙ですか?」

「みたい。これってミオからの?」

「いえ、違うと思います。ミオはああ見えて字は汚いんです」

 ロメは手紙を手に取ると、文面を読み上げる。

「『ロメ様、お久しぶりです。ランス・シルバー様の契約獣、ベータでございます』」

「ベータからの?」

「そうみたいですね……ええと、『冤罪で逃走しておられることはマスターより伺っております。微力ながらロメ様方のお力になりたく、今回マスターの代わりに俺が筆を綴らせていただきました』」

 ベータの手紙には、アスルガルド街の警備体制が異常なまでに厳しくなったこと、世間のロメたちに対する批判が高まっていること、アスルガルドが他の街や村へ捜査協力を迫っていることなど、アスルガルドの現状が事細かに記されていた。

「『俺の調査では、ノレスが捜査協力に応じることはしばらくなさそうです。ですが──』」

「ですが……?」

「『ノレス騎士団長、ラザロ・クライシスにはご注意ください。騎士団ではなく、単独で皆様を捕らえに動く可能性がございます』」

 十分、身辺にお気をつけくださいませ──。その言葉でベータの手紙は終わっていた。

 手紙をポケットに突っ込み、矢を握りしめてロメは出ていこうとする。

「ロメ待って! どうするの?」

「街へ出て情報を集めます。ラザロという人物が本当に私たちを襲撃してくるなら、それに備える必要がありますから」

「今街に出るのはリスキーだ」

 いくらまだ指名手配されていないとはいえ、無計画に人前に姿を見せるのは得策ではない。

 ショータの言葉に肯定するようにリヴァルスが頷いた。

「そうだ。うちにいれば安全なんだ。君たちは親である私たちが必ず護る。だから焦って行動を起こすことはない」

「…………結構です」

 父親に背中を向けたまま放たれた言葉は、氷のように冷たい言葉だった。

「自分の身くらい、もう自分で護れますから」

 扉を開けてロメが食堂を出ていく。追いかけようとしたショータを、「お待ちください!」というリーラの声が止めた。

「リーラさん……?」

「ショータさん…………どうか」

 起立し、美しく頭を下げるリーラ・アリエス。

「どうか、娘をよろしくお願いします」

「…………」

「確かにあの子は成長しました。幼少期からずっと憧れていた契約者にもなれて……でも、あの子はまだ幼いんです。こんなことを言うから、子供扱いしないでほしいとうざがられるんですが……」

「リーラさん…………」

「あの子は背伸びする癖があるんです。ああ言ってますけど、まだ完全な自衛なんてできません。プサイに支えてもらってなんとかやっているだけです。……親バカなのは分かっています。ショータさん、どうかロメを助けてあげてください」

 リーラはもう一度、深々と頭を下げた。それに倣い、リヴァルスも頭を下げた。

 長い長いお辞儀だった。二人の綺麗なブラウン色の髪が、ショータの目に焼き付きそうだった。

「……はい」

 ショータは静かにその二文字を答えると、食堂を飛び出した。

 一度部屋に戻り、帽子やマフラーなど顔を隠せそうなものを持てるだけ持ち出した。

 玄関扉を開けた瞬間、ショータに吹きつける冷風。身体中に鳥肌がたつ。

 真っ赤なマフラーを首に巻き付け、ショータはノレス街へ繰り出していく。

 何事も起こってくれるな。そう強く願いながら。

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