第八話
「お、お待ちしておりましたっ」
晴れ渡る青空の下、緊張の面持ちで少女は頭を下げた。
白と黒の小綺麗なメイド服に身を包んだ、十代半ばほどと思われる少女。短めの桃色髪が特徴的だ。
彼女が顔を上げた。未だ表情筋が強張っている。
「わざわざお越しいただき、あるがとうございます。本日、みにゃさま……皆様の案内役を務めさせていただきます。アレア・クローバーと申しましゅ」
「……噛みまくってるし」
「はうっ」
プサイに言われ頬を赤くするアレア。胸に手を当て、深呼吸を数度繰り返す。
その顔をロメ・アリエスが覗きこんだ。
「大丈夫ですか?」
「はい。お恥ずかしいところをお見せしました……」
アレアがもう一度頭を下げる。ロメが愛想笑いを浮かべた。
「大変……ですね」
「はい。本日は大切なお客様をおもてなしするので、いつも以上に緊張してしまって……」
あっ、と何かを察してアレアが口を塞ぐ。
「ち、違いますよ!? 決していつものお客様が大切じゃないと言っているわけではなくて、でも本日のお客様はランクが違うというか……い、いえ! お客様をランク付けなんて、そんな失礼なことしてませんが、やはり今回のお客様は――――」
「わかった、わかったから落ち着いて! 本題行こう本題!」
強引にアレアをなだめ、ショータはカバンから一枚の手紙を取り出した。
宛名はロメとショータ。差出人は『民宿 グレードランプ』となっている。
「この手紙、読ませてもらったよ。招待状……ってことになるのかな?」
「それにしては粗末な紙ペラだがな」
横槍を入れるカイを強く睨む。それから、アレアにごめんねと謝った。
「こんな高級民宿から招待されたのは嬉しいんだけど……」
「しかし、どうしていきなり私たちが?」
「それは……」
アレアは口をつぐむ。緊張とはまた違う固い表情を見せると、周囲へ視線を這わせた。
「……詳しいお話は中でいたします。どうぞ」
背後の扉を開け、入るよう促すアレア。
それに従い、ショータたちは高級民宿グレードランプに足を踏み入れた。
☆ ☆ ☆
等間隔に並んだ金の燭台。床に敷き詰められた赤い絨毯。天井から吊るされたシャンデリア。五階の廊下を歩きながら、プサイは感嘆の息を吐いた。
「さすがヘブンフロア。噂には聞いてたけど、ここまでとはね」
「ヘブンフロアってなんですか?」
「グレードランプの最上階は超お金持ちしか宿泊できないっていう噂話。庶民じゃ絶対手が届かない雲の上みたいな階だから、勝手にヘブンフロアって呼ばれるようになったらしいよ」
ヘブンフロア。直訳すれば『天国の階』。不吉な呼び名だな、とショータは思った。
もちろん名付けた側に他意はないのだろうが、明日に迫るリミットを思うとショータには皮肉にしか聞こえない。
今日は国王来訪の前日なのだ。明日になれば第八話が始まり、ロメは命を落とす。そんなときに天国の名を冠する場所に来るなんて、縁起が悪いにもほどがある。
「なんでこんなところ来ちゃったんだろう……」
今更になって弱音を吐く。その小さな声をカイは聞き逃していなかった。
「あ? お前が行くって言うから来たんだろうが。嫌なら帰るぞ」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
視線は逃げるように、前を行くロメへ向いた。プサイと話す背中を見ていると胸が苦しくなる。視線はまた絨毯へ逃げた。
「お前最近変だぞ」
心臓が跳ねる。見開いた目をカイへ向けた。
「そう、かな?」
「どう見ても変だろうが。ずっとロメばっか見てやがる」
「うそ……」
「本当だ」
カイがショータの胸ぐらをつかむ。赤い瞳が眼前に迫った。
「お前、なにを隠してる?」
「……」
ショータはなにも答えない。否、答えられない。
ずっと黙っていると、カイがショータを突き放した。
「言う気がないならいい。お前の事情にたいした興味はない」
「どうしたんですか?」
前を歩いていたロメが振り返っている。その顔を見て、ショータは改めて胸が締め付けられたが、
「……なんでもないよ。カイがまた変なこと言ってただけだから」
「っ、お前な……」
「ダメですよカイ。あまりショータを困らせては」
子供をなだめるようなロメの言い方に、カイが舌打ちする。
ショータは先頭のアレアへ声をかける。
「ごめんねアレアさん。案内、続けてもらえるかな」
「あ、はい。でも……」
アレアはちらりとカイへ目を向けた。
「なんだ」
「いえ、あなたではなくて……後ろの……」
「後ろ?」
カイが後ろを見る。そこには両開きのブロンズの扉が鎮座していた。
「すみません。少し行きすぎちゃって……」
アレアは恥ずかしそうに俯くと、早足で扉へ近づいた。
「こちらでお待ちください」
重厚そうな扉がか細い手でスムーズに開かれる。それと同時に、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
「ん……?」
気になり早速部屋を覗く。大理石のテーブルに、パスタをすする少年がいた。
「ん?」
少年――――ランス・シルバーはショータを見つけるなり、フォークを持った手を大きく振った。
「んー、ひはひふりはれー!」
「『んー、久しぶりだねー!』とのことです」
ランスの脇で直立不動のベータが通訳する。
プサイが露骨に嫌そうな顔をした。
「なんであんたたちがいるわけ?」
「なんでって、招待されたから」
ランスの言葉に合わせてベータが招待状を見せる。それは間違いなく、ショータの元に届いたものと同じだった。
「他にもいるみたいだよ。招待された人たち」
ランスが見る先に、大勢の人の姿。年齢、性別も様々で、各々が思い思いに暇を潰している。
「これって、なんの集まりなの?」
「さぁ? 僕は興味ないね」
そう言い、ランスはパスタを口いっぱいに詰め込む。口の周りにソースが飛び散った。
「著名人が多く見受けられます」
ランスに代わりベータが喋る。真っ直ぐ伸ばした腕はガタイのいい強面の男性を指し示した。
「あちらはアスルガルド騎士団長、ユーレット・バーン様。その周りにいらっしゃるのは騎士団員の方々です」
「騎士団? なんでそんな人たちが……」
「それは俺にも分かりかねます。そしてあちらにいらっしゃるのが」
ベータは部屋の隅で本を読んでいる、青縁眼鏡をかけた白衣の青年を示した。
「シアール・ダイヤモンド様。今やアスルガルド街を代表する犯罪心理学者です」
「代表するだなんて、そんなたいした者じゃないよ」
話が聞こえていたのか、シアールは微笑を浮かべると本を閉じた。
「私はただ、この街を少しでも平和にしたくて……」
「いえ、すごいです! ご立派ですよ!」
目を輝かせながらロメが言う。シアールは恥ずかしげに頭を掻いた。
「そ、そうかな……」
「はい! あ、申し遅れました。私、ロメ・アリエスともうします。こちらは私の契約獣のプサイと、友人のショータと、その契約獣のカイです」
「契約獣……ってことは、二人は契約者さん?」
「どうも」
ショータは短くお辞儀する。その仕草がよく分からなかったのか、シアールもぎこちない動作で頭を前へ倒した。
「ハッ、犯罪心理学者ねぇ」
カイが鼻で笑う。
「いい感じの胡散臭さだな」
「カイ!」
ショータが声を荒らげると、カイはそっぽを向く。
ショータはシアールへ頭を下げた。
「すみません。こいつ、口が悪くて……」
「あ、いや。いいよ。私は気にしてないから」
「そうそう」
フォークにパスタを巻きながら、ランスが同調する。
「あーいうのはね、無視するのが一番いいから。突っかかったっていいことないよ?」
パスタを絡めたフォークを差し出すランス。あげるのかと思いきや、そこからパスタは弧を描いてランスの口へ入っていった。
ポカンとするシアール。ショータは苦笑いを浮かべた。
「えーと……彼はランス・シルバー。隣に立ってるのが契約獣のベータです」
ショータの紹介でベータは綺麗に頭を垂れる。
「あの子が噂の『銀色の閃光』……」
物珍しそうな目でシアールはランスを見る。
ランスは盛大に嚥下音を鳴らすと、空の皿をシアールへ差し出した。
「パスタおかわり」
「あ、えっと……ごめん、私この民宿の人間じゃないんだけど……」
「あーそう? じゃあそこの野蛮人でいいや。おかわり」
ランスは皿をカイへ向ける。カイの眉間にシワが寄った。
「喧嘩なら買うぞ」
「いいから早くパスタ。もちろん激甘で」
ぐいぐいと皿を押し付けるランス。
「うるせぇな。俺はお前のシェフじゃねぇ」
カイは乱暴に皿を取り上げると、扉の方向へ投げた。
フリスビーのごとく飛んでいく皿。そのとき、ブロンズ色の扉が開いた。
「し、失礼いたし――――」
姿を見せたのはアレア。相変わらずの固い表情が、一瞬のうちに仰天に変わる。
「ひゃぁっ!?」
襲い迫る皿。アレアが腰を抜かすと同時に、皿はしわだらけの手に受け止められた。
金色の豪華な、それでいてうるさくない衣を羽織った年老いた男性。彼は尻餅をつくアレアへにっこり笑いかけた。
「怪我はないかい? アレアくん」
「はっ、はいぃ!」
360度裏返った金切り声を放ち、アレアがトーテムポールのように直立する。
部屋がざわめく。ロメが目を見開いた。
「国王様!?」
「え、国王!?」
ショータは我が耳を疑った。それからその人物を穴が開くほど見つめる。手同様にシワの多い顔が朗らかに崩れた。
「ほっほ。私の顔になにかついてるかな?」
「い、いえっ!」
国王は笑いながら皿をテーブルに戻す。それからロメを見た。
「久しぶりだねロメくん。最後に会ったのは君が七歳の時だったかな?」
「いえ、誕生日のあとだったので八歳――――って、そうではなくて!」
「国王」
プサイが真剣な目をして問いかける。
「なぜ今あなたがここに? 来訪は明日のはずでは?」
「君は……プサイくんか。いや、美人さんになったものだ。一瞬わからなかったよ」
「……聞いていますか国王?」
「耳が遠いんじゃねぇのかこのジジイ」
机に腰掛けカイが毒づく。騎士団の方から殺気が立った。
「カイ! 貴様、国王を愚弄する気か!」
「あ? だったらどうした?」
「っ……! 契約者を見つけても、その性格は変わらんようだなっ!!」
団長ユーレットを皮切りに、団員が次々と剣を引き抜く。鋭い金属音と共に殺気が広がる。
それを国王がそっと手で制した。
「気にしとらんよ。私が老いぼれなのは事実なのだし」
「し、しかし……」
国王は温厚な笑顔を机の上のカイへ。
「はじめましてカイくん。君の噂は聞いているよ」
「乱暴で凶悪な契約獣ってか?」
「とんでもない。元気のいい契約獣だってね。君とは一度会ってみたかった」
「俺と?」
カイが目を瞠る。
「ハッ、ずいぶん物好きな国王様だな」
「ほっほ。よく言われるよ」
「……国王」
扉が開いて、赤と水色のローブをまとった男が現れた。フードと長い前髪で顔はよく見えないが、暗い色をした瞳だけははっきりしている。
「ゼル殿……」
ユーレットが呟く。ゼルという男はユーレットを一瞥すると、視線を国王へ戻す。
「いつまで油を売ってやがるつもりですか」
「ああ、すまない。ついつい話し込んでしまった」
「……話す気がねぇのなら、自分から話しますが」
国王は何も言わず、椅子に腰かける。ローブの男は深いため息を吐いて、大扉に鍵をかけた。
ロメがベータの耳元に口を近づけた。
「……あの方は?」
「ゼル・ジョーカー様。契約国フレイランの国王、スライオ・コントラクト様の側近の方です」
「側近?」
二人の間にプサイが割り込む。
「私、フレイランの情勢は結構気にしてるけど、側近にあんな人いた?」
「最近新しく側近になられた方のようです」
「新人さん、ということですか?」
「新人が一人で国王の付き添いする普通?」
プサイが訝しげな視線を向ける。その後にもなにか言おうとして、振り返ったゼルに口をつぐんだ。
ゼルは一度プサイを見た後、その暗い瞳で周囲を薙いだ。
「今日テメェらにお集まりいただいたのは他でもない」
細長い指が国王を指す。
「そこにいるスライオ国王を、命がけで護ってもらうためです」
「…………ふぇ?」
フォークをくわえていたランスが呆けた顔をした。
「イノチガケ? なにそれ?」
「命がけは命がけです。死ぬ覚悟決めやがれってことです」
「ベータ、理解できた?」
「いいえ、まったく。いささか説明不足かと」
ベータの言葉に賛同するように、その場の数名が首を縦に振った。
「すいません。わかるように説明してくれませんか?」
様子を窺いながらショータが問う。ゼルは色彩のない眼で一同を見渡した。
「……テメェらは『サクリΦス』というクズどもを知ってやがりますか?」
たちまちロメの頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。
「咲く、ファ……なんですか?」
「サクリΦス。契約獣との契約反対を謳う過激派組織だ。我々騎士団とも何度も交戦している」
「正確に言うならば、俺たち契約獣の存在そのものを良しとしない者たちです。契約獣に穏健的なスライオ現国王を目の敵にしている、という話はよく聞きますが……」
ベータがゆっくりと表情を変える。
「命がけというのは、まさか」
「ええ。そのクズどもがとうとう、国王に殺害予告を叩きつけてきやがりました」
空気が張り詰める。全員の呼吸が一瞬ピタリと止んだ。
ショータは瞳孔の開いた瞳で後ろを振り返る。険しい表情が並ぶ中、渦中の国王は涼しげな顔をしていた。
「大したことではない。殺害予告なんてしょっちゅうだ」
「ただのイタズラなら捨てるほど届いてやがりますが、今回は訳が違う。サクリΦスが相手なんで」
「イタズラの相手が、サクリΦスに変わっただけのこと。彼らもお茶目な部分あるからのう」
「奴らに茶目っ気……? 脳みそイカれてやがんですか」
突然ゼルが国王の胸ぐらに掴みかかった。部屋がざわめく。
「ゼル殿!?」
「テメェだって、奴等の恐ろしさは知ってるはずです……テメェは契約国フレイランの国王スライオ・コントラクト! テメェの命は、テメェだけのもんじゃねぇんですよ!」
「ゼル殿! 落ち着いて――――」
仲裁に入ろうとしたユーレットを国王本人が止める。そして、ゼルの目をまっすぐ見て。
「……わかっている。甘んじて受け入れよう」
「……最初から、そう言えってんです……」
国王から離れるゼル。静まり返っている周囲を見て、目をそらした。
気まずい沈黙が訪れる。どうにも喋り出しにくい雰囲気の中、勇敢にも口火を切ったのは騎士団長ユーレット・バーンだった。
「まあ、なんだ……話は一応理解できた。我々が集められたのは、サクリΦスに対抗するためだろう?」
「にしても……あまりに急な召集じゃない?」
プサイが言う。
「確かに個人技は高いのかもしれないけど……なんか、即席チームって感じ」
「こっちも至急だったんですよ。国王がこの街に入る直前だったんで。殺害予告がきやがったのは」
二つ折りにされた漆黒の紙を見せてゼルが言う。表に血のような赤で『Φ』と書かれている。
「なるほどー。それでとりあえず、アスルガルドにいる強そうなやつらをかき集めたってわけか」
どこからか取り出したクッキーをかじるランス。その横で、シアールが目尻を下げた。
「強そうって……皆さんはともかく、私はそんなに…………」
「違ぇますよ。テメェの仕事は戦闘じゃねぇ、指揮です」
「指揮?」
戸惑うシアール。ゼルは周りの人間たちを見て言う。
「前線に立つのはこいつらで、テメェは裏で指示とか作戦とか立ててればいいんですよ。サクリΦスは専門分野でしょう」
ゼルは懐から四つ折りにされた一枚の紙を取り出すと、それをシアールへ渡す。
「明日から国王のスケジュールです。どこで奴らが襲ってくるかわからない以上、策は万全を期しやがってください」
「ほ、本当に私が……?」
「本当にテメェです。つべこべ言うんじゃねぇですよ。もう決まったことなんで」
こともなげに告げ、ゼルはショータやロメ、ランスを見やる。
「テメェらもです。素直に国王護りやがってください。言っときますが、拒否権なんてねぇんで」
「そんな、いくらなんでも強引な……」
「どうとでも思いやがってください。自分らも、なりふり構ってる余裕ないんで」
ショータは返答を見失う。ゼルの瞳に宿る静かな気迫が、有無を言わさぬ圧力をかけている。
ショータはちらとロメを見た。困り果てている横顔。ショータは自分で、自分の表情が曇っていくのを感じた。
「……ハッ! 面白ぇじゃねえか」
不意にカイが歪な笑顔を見せる。血のように真っ赤な瞳が、興味の輝きで国王を見下ろしていた。
「ようは、この物好きに襲いかかってくる奴らを片っ端からぶっ潰せばいいんだろ? 任せろよ」
「ほっほっほ、これは頼もしい。のうゼルくん?」
ゼルは沈黙している。前髪が表情を隠し、その心情を読み取ることはできない。
「……ま、ちゃんと護ってくれんならどうでもいいです」
唇をわずかだけ動かして、彼はそう言った。その隣へ苦い顔のユーレットが近寄る。
「ゼル殿、本当によろしいのか?」
「何がですか」
「カイだ。やつはこのアスルガルド街で何人もの人間を襲っていたのだ。そんなやつに、国王の警護などを任せてよいのか?」
ユーレットの目は明らかにカイを敵視している。
カイが真っ向から挑発のガンを飛ばした。
「なにか不満か騎士団長サマ?」
「不満だらけだっ! なぜ貴様のようなものが……!」
二人の間に透明な火花が散る。一触即発の空気に、ゼルの感情のない声が落ちる。
「戦力になる。理由はそれで十分でしょう」
「らしいぜ騎士団長サマ」
カイの態度にユーレットの表情が強張った。ただでさえいかつい顔面が鬼のようになる。
「ま、まあまあ。怖い顔しないでください」
ロメの華奢な声がなだめに入る。
「カイのことは私たちが責任もって面倒見ますから」
「俺はお前らのペットじゃねぇぞ」
「面倒見ますから。ね?」
カイを無視し、重ね重ね言うロメ。ユーレットは複雑な表情で唇を噛んだ。
「アリエス家のお嬢様がそう言うなら……」
その返答にロメはホッと胸を撫で下ろす。カイの傍へ行くと、少し怒ったように、
「お願いですから、勝手なことはしないでくださいね」
「ああ」
短く応え、カイは足をテーブルに乗せた。すぐさまロメが足を下ろす。
「本当に、反感買うような行動は慎んでください。これからこのチームで、国王様を護衛しなければならないのですから」
「…………チッ」
カイは不服そうに足を組み、頬杖をついた。
「国王様を、護衛……」
ショータは一人呟いた。
見渡す限り、ほとんどが戦闘に強そうな者たちだ。過激派組織とやりあうならば申し分ない戦力だと思う。しかしショータの心配はずっとロメに向いていた。
国王を庇ってロメが死ぬ――――小説のそのシーンが、ずっとショータの頭に張り付いて離れないのだ。
顎の辺りに冷たい感触がして、それが落ち行く冷や汗であることにすぐには気づけなかった。
「じゃあ、えーっと……作戦会議でも始めますか?」
重たい空気の中、ぎこちなく切り出すシアール。それを受けて各々も渋々空いている席についた。
ロメと国王の顔が横に並ぶ。ショータは無意識に二人を見比べていた。
見比べていたものが、気づけばロメばかりに目が行くようになる。
「……ショータ? どうかしましたか?」
視線に気づいたロメが首を傾げる。
「私の顔になにかついてます?」
「いや……なんでもない」
視線を外し、ショータはロメから一番遠い椅子に腰を下ろした。
☆ ☆ ☆
「私たちの部屋は……ここかな」
丁寧に指差し確認しながら、シアールが鍵と扉に彫られている模様を見比べる。どちらにも力強い鷹の姿が描かれている。
「鷹の間……っていうらしいですよ」
「あ、なるほど。だからか」
シアールは鍵穴に鍵を差し込む。時計回りに九十度回すと、カチャリと小気味いい音がした。
中へ入る。高級民宿の最上階だけあり、内装は立派なものだった。足裏から感じる絨毯の柔らかさから、既知のものとはかけ離れていた。
シアールとショータ、カイの三人部屋なのでベッドも三人分用意されていた。もっとも、カイがベッドで寝ているところを見たことはないが。
ショータはそれとなく真ん中のベッドに腰かけた。途端に息が抜け、背中からベッドに沈みこむ。
「大変だったね、ショータくん」
机にアスルガルド街の地図に広げながら、シアールが困惑笑いした。その手にはすでに数本のペンが握られている。
「……もう取りかかるんですか? 少しくらい休んだって……」
「いや。みんなをまとめる指揮官として、どんな有事にも対応できるようにしておかないと。戦闘のしやすい場所しにくい場所とか、国王様の逃走経路とか、色々ね」
立ったまま地図にペンを走らせていくシアール。
「真面目なんですね。……というか、シアールさん飲み込み早い」
「どういうこと?」
「いきなり国王護れとか言われたら混乱しませんか? 少なくとも僕はしてます、未だにしてます」
シアールはペンを止めると、左斜め上方向をじっと凝視した。
「確かに驚きはしたけど……でも私を信じて任せてくれたんだから、その期待には応えなくちゃ」
結構プレッシャーはあるけどね、とシアールは自嘲っぽく笑う。また地図にペンを入れる。妙に慣れている手つきだ。
「ところで、君の契約獣は?」
「あぁ……カイですか」
「私のこと嫌ってたみたいだし、もしかして一緒にいたくないのかな~とか……」
高い天井を目でなぞりながら、ショータは寝返りを打った。
「勝手にいなくなるのなんてしょっちゅうです。気にしないでください」
とは言うものの、内心は少し、いや、かなり不安になっていた。カイではなく、別のことで。
壁の時計を見る。午後三時。特に意味はない。
一度耳についた秒針の音はなかなか離れてくれない。ペンの音とセッションしてショータの耳たぶを叩く。
不快でない。だが心地よくもない。
「……ちょっと出てきます」
「え? うん……」
頭をくしゃくしゃしながら鷹の間を出る。
廊下に人の姿は一切なかった。極秘の護衛任務の拠点なのだから当然と言えば当然だが、しかし自分の足音のみが響いていると、制止した時間の中にいるような錯覚を覚える。
適当にうろうろ徘徊する。やがて適当な場所にへたりこんだ。
「…………どうなってるんだ」
頭を抱え、こぼす。
サクリΦスなんて組織をショータは知らない。それだけじゃない。アスルガルド騎士団も、騎士団長ユーレット・バーンも、犯罪心理学者シアール・ダイヤモンドも、国王の側近だというゼル・ジョーカーも、ショータはそんな人物を小説に登場させてはいない。
なのに、国王の命が狙われ、ロメがその警護につくという展開だけは『Contract』の第八話と同じだ。
息混じりの唸り声が静かな廊下に響く。首を上に向ければ目に入るのはシャンデリア――――ではなく、黒衣の包帯人間。
「っッ!?」
思わず短剣を引き抜いた。切っ先が小刻みに震える。
「誰だお前!」
あからさまな敵意を向けられたにも関わらず、包帯の人物は動じない。そのあまりにも奇妙で不気味な風貌に、ショータの警戒心が振り切る。
男か女かもわからない。のっぺらぼうのような包帯面にある双眸らしき窪みが、ただショータを見下ろしているだけだ。
「……そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。私はあなたの敵じゃない」
包帯人間がしゃべった。諭すような口調だが、それで短剣を下ろすショータではない。
壁伝いに立ち上がり、慎重に距離を取る。
「誰だって聞いてんの。サクリΦス?」
「違いますよ。私の名はクラウド。怪しいものじゃありません」
「怪しいものじゃない? 鏡見てから言ったら?」
ショータは反対の手でもう一本の短剣を抜く。
包帯人間――――クラウドは自らの両手に目を落とすと、微笑を漏らした。
「確かにそうですね。これでは不審者扱いされても致し方ありません」
しかしそれでもクラウドは正体を見せない。謎の存在に、ショータはいっそう不気味がる。
体型も曖昧で顔も見えず、声も中性的。その上、若者っぽくもあり老人っぽくも聞こえるのだから、性別はおろか年齢さえも不詳。これで不安を抱くなという方が無理である。当然、ショータはこんなキャラクターを作り上げた覚えはない。
「今あなたが考えていること、当てましょうか?」
唐突にそんなことを言い出すクラウド。人差し指を一本立てて。
「『こんな登場人物、僕は作った覚えがないぞ』」
心臓が、肺が、すべての臓器が一瞬制止した。瞠目した瞳は幻でも見たかのように驚嘆の色に染まる。
「どうですか? 当たりましたか?」
さして重要でもないように訊ねるクラウド。ショータの両腕から短剣が滑り落ちた。
「君は……いったい……」
「今日は忠告に現れました」
ショータの言葉を聞き流し、目の前の異端者は告げる。
「決してロメ・アリエスを助けないでください。彼女はこの話で死ぬ運命です」
「なっ……!?」
「第八話のラストで、ロメ・アリエスは国王の身代わりとなって死ぬ。あなたが書いたことですよ」
ショータは二度目の衝撃に襲われた。クラウドは『Contract』を知っている。それどころか、ショータが作者であることまでも。
「ねえ……君は何者なの? なんで小説のことを知ってるの? 僕と同じ転移者なの!?」
詰め寄ろうとしたショータに、クラウドは手のひらを向けて止める。
「世界が歪めば、そこに生きる存在たちも歪む。逆もまた然りです」
「どういうこと……?」
クラウドは包帯に隠れた口角を少し上げると、背中を向けた。
「忠告はしましたよ」
「っ、待って!」
去り行くクラウドを追いかける。が、角を曲がったところでなにかとぶつかってしまう。
よろけるショータ。しかし踏ん張りが効かず尻餅をついてしまう。
「どうした人間」
聞き慣れた声と呼称に顔を上げる。カイが胸の辺りを手で払っていた。
ショータは飛び起きてカイにつかみかかる。
「カイ! 怪しいやつはどっちに行った!?」
「っ、離せ……!」
軽々と振り払われる。だがショータは荒い息のまま再びカイにしがみつく。
「ここを通ったはずだ! 全身包帯で巻いた、薄気味悪いやつが!」
「ハァ? 何言ってんだ?」
カイはかなり強引にショータを払い飛ばした。
「そんなやつ通ってない」
「嘘だ! だって僕は――――」
「くどい!!」
カイの一喝にショータが口をつぐむ。
乱れた服も直さず、カイが怖い顔を向ける。
「お前、本当に最近おかしいぞ」
ショータは目をそらす。間髪入らず、カイの右手がショータの頬を乱暴にわし掴んだ。
「テメェ……なにを隠してやがる」
「……」
無言。カイの手に力が入っていく。五つの爪が頬に食い込む。
「はーいそこまでー」
間延びした声が遮る。ショータが眼球を動かすよりも早く、空気を斬って拳が振るわれた。
咄嗟に手を離したカイが真正面から拳を受け止める。間近で起きた力の衝突に、ショータは空気が震えるのを確かに感じた。
「それ以上は俺がお相手いたします」
拳に力を入れつつ、ベータがカイを睨み付ける。
腕を組んだランスがゆっくり歩いて現れた。
「弱いものいじめはダメだって、パパやママに教わらなかった?」
「……生憎、パパもママも記憶にねぇんでな」
拳を振りほどくと、カイは踵を返してどこかへと去っていく。
ショータは壁に背中を預けると、呆然としたまま頬に手を触れた。指の腹にわずかに血痕が付着した。
「はいこれ、落とし物」
ランスはニコニコ笑いながら、二本の短剣、パラドックスを見せてくる。ショータはそれを虚ろな目で受けとると、ホルダーへ納めた。
「にしても、まったく本当に野蛮だねー……君の契約獣っていつもあんな感じなの?」
見上げるランスが、ショータの頬に絆創膏を貼りつける。
「うん……そうだね」
上の空の返事。二人が首を傾げた。
「ショータ様、どうされました?」
「……なんでもないよ」
「なんでもないわけないじゃん。君はそんなアホ面見せる人間じゃないでしょ?」
ランスが頬をつついてくる。それを押さえ止めると、ショータは心ここにないまま歩き出す。
「どこいくのー?」
「部屋に戻るよ。ちょっと疲れてるみたいだから……」
振り向かずに応え、思いの外しっかりした足取りで鷹の間へ行く。
扉を開けて入るなり、ショータはベッドに倒れ伏せた。
「ショータくん? どうしたの?」
頭上からシアールの声が降り注ぐ。ショータは片手を上げる。
「歩き疲れただけです。ちょっと寝ます……」
「そ、そう……」
静かな空間にペンの音が落ちる。カツカツと走っては二秒ほど止まり、そしてまた走る。
不規則なリズムを聞きながら、ショータは眠くないまぶたを閉じた。
☆ ☆ ☆
窓の外は既に暗闇に包まれている。
鷹の間の明かりも落とされ、ショータの耳を訪れるのは、隣のベッドのシアールの寝息と、零時を刻む時計の針の音だけである。
ショータの眼は依然として冴えていた。ベッドに入ってはいるものの、到底寝付けそうにない。
結局、ショータはあれから部屋を出ていない。クラウドを探す気にもなれず、誰にも会う気にもなれず。ディナーにも出席しなかった。
「……シアールさん」
小声をかける。返事はない。
「…………シアールさん」
声をかける。返事はない。
ショータはそっと布団を抜け出した。夜目を効かせて扉を出る。廊下の照明が網膜に染みた。
遠くの部屋の入り口では、二人の騎士団員が門番のごとく立っている。国王の泊まっている部屋であることは一目瞭然だ。
ショータは国王の部屋の、いくつか手前の部屋の前で足を止めた。虎の間。ロメとプサイが宿泊している。
軽く握った拳を胸の高さまで上げた。
――――ロメ・アリエスを助けないでください。
クラウドの言葉が頭をよぎる。
――――世界が歪めば、そこに生きる存在たちも歪む。
唇を強く結ぶ。脳裏のクラウドを無理矢理にかき消すと、弱々しく扉をノックした。
数秒の後、解錠の音。わずかに開かれた扉の隙間から跳ねた白髪が覗いた。
「……ショータ?」
プサイだ。眠たそうな目を擦りながら、眉間にシワを寄せる。
「どうしたの、こんな時間に?」
「ごめんね……ロメ、いる?」
「もうとっくに寝てるよ……なに? 夜這いでもする気?」
途端に汚物を見る目になる。ショータは無言で首を振った。
「……じゃあなんの用?」
真面目なトーンに戻り、プサイが問う。
「少し…………ロメと話したくて」
「真夜中に?」
ショータは押し黙る。プサイは腰に手を当てて、大きくため息をついた。
「深夜に女の子の部屋訪ねるなんて、普通じゃないよね」
「それは……」
「なんかあった?」
琥珀色の瞳がショータを見つめる。
その真剣な表情から逃げるように、視線が下降していった。
「……図星の反応。何があった」
扉に背を預け、聞いてくる。それ以降はずっと黙ったまま、ショータの一挙手一投足を観察してくる。
むず痒い。くすぐったい。だがそれ以上に、沈黙が重かった。プサイの眼差しが、圧となってショータを締め付ける。
「…………ロメが…………」
「ロメが?」
言葉が喉の奥へ消える。再び沈黙が訪れる。
ロメが死ぬなんて、言えるわけがない。しかし言わなければ、筋書き通りにロメが死ぬ。ショータが書いた通りに、ロメの命が散る。
言わなければ。言わなければ。自分に言い聞かせ、ショータがもう一度口を開いた瞬間だった。
遠くで爆発音が響いた。振り返ると、廊下の曲がり角の奥から黒い煙が漂ってきている。
「何!?」
プサイが叫ぶとほぼ同時、曲がり角に二つの影が現れる。ブブブとうるさい羽音は聞き覚えがあった。
「蜂型コンマ!?」
国王の部屋の門番二人が慌てて武器を構える。コンマは素早く飛来すると、鋭い針で二人へ襲いかかった。
ショータは咄嗟に腕輪に触れる。
「トルボ!」
魔方陣から稲妻が射出され、コンマの一体を撃破する。
思いきり駆け出すと、素早く短剣パラドックスを引き抜きコンマへ斬りかかった。
数回火花が散る。コンマに隙が生まれたところを、門番が持つ槍が貫いた。爆散。
「何事ですか!?」
部屋からゼルが飛び出してくる。その背後では、国王がのんびりと上着を羽織っていた。大きなあくび。
「ずいぶん騒がしいのう?」
そのとき、ぞろぞろと黒装束の集団が現れた。彼らは国王の姿を認めると、一斉に剣を振り上げた。
「っ!?」
門番たちが槍で受け止める。拮抗する中、ショータは彼らの胸に『Φ』の文字が刻まれているのを確認する。
「Φ……サクリΦス!?」
「そんなっ……なぜここが!?」
「国王様っ!」
騎士団を引き連れ、シアールが駆けてくる。
「敵襲です! 早く避難を!」
「あ、ああ。分かった」
「アスルガルド騎士団! 全員突撃せよ!!」
ユーレットの怒鳴り声で騎士団が奮い立つ。各々気合いの雄叫びを上げ、コンマや黒装束へぶつかっていく。
「今のうちに! こちらです!」
とシアールが先導し始めたとき、再び爆発音が轟く。すぐ近くの壁が弾け、そこから大量のコンマと黒装束がなだれ込んでくる。
退路を塞がれた。ショータは国王を庇うように立つ。
「はいはい、廊下ふさがなーい」
場違いに能天気な声の直後、目の前の軍団が吹き飛ばされる。現れたのはランスと、獣人態になったベータだ。
「想定より早い襲撃でしたね、マスター」
「まったくだよ。せっかくいい夢見てたのに……安眠妨害じゃないこれ?」
身の丈に合わぬ長剣を振るい、愚痴るランス。
「ショータこっちだ! 早く!」
遠くでプサイが大きく腕を回している。その隣では寝起きらしいロメがクロスボウを構えていた。
穴が開いた壁からは次々に援軍が入ってくる。ランスやベータが応戦しているうちに、ショータたちは全力で廊下を駆け抜けた。
追随してくる蜂コンマを、ロメとショータで撃退していく。やがて直線上に階段が望んだ。
「一気に駆け降ります!」
「わかりました!」
シアールの号令に頷き、ロメが先頭に飛び出す。階段に差し掛かったとき、不意討ちで飛びかかる影が現れた。
「危ないッ!!」
反射的にロメの腕を引っ張る。間一髪の差で、鋭い牙が空を噛み砕いた。
グルルと低い唸り声を上げる狼型コンマ。その数は続々と増え、瞬く間に階段を封鎖する。
「どうしてコンマなんて……!」
少しずつ距離を詰めてくるコンマ。後ずさりつつ、ショータはパラドックスを構えた。
「みなさんっ!!!」
やけに強張った声が通る。遠くでアレアが一生懸命に腕を振っているのが見えた。
「こちらです!! 早く!!」
反射的に駆け出す面々。追ってくる狼コンマにロメが次々とクロスボウを命中させる。
一匹が射撃を避け、ロメの頭上をとる。刹那、跳躍したプサイがコンマを蹴り返した。
「イアス!」
矢に冷気を絡ませ、ロメが引き金を引く。射抜いたコンマはたちまち氷づけになり、後続のコンマの障害物となる。
連射される氷矢。しかし追尾の手はやまない。
先頭のアレアが『staff only』と書かれた扉を開けた。
「早くこの中へ!」
言われるままに飛び込むショータたち。ロメが滑り込むと同時に、アレアが乱暴に扉を閉めた。
「イアス……ッ!」
ショータが即座に扉を氷らせる。開かなくなった扉に、コンマの体当たりの音が響く。
「これでしばらくは大丈夫なはず……」
各々がへたりこむ。壁に背中を預けたロメが深い息を吐いた。
「どうなってるんですかこれ……サクリΦスの襲撃に、どうしてコンマが……」
「コンマ狩り、だろうね」
プサイの返答に、ロメの眉が傾いた。
「コンマ狩り?」
「コンマを違法に捕獲したり、売買したりすること。この前の武器泥棒騒ぎのとき、まさかとは思ったけど……」
「サクリΦスに売りつけるために、各地でコンマの捕獲が横行してる。私も取り締まってはいるんだけど……」
シアールの表情が曇る。横目で見る扉からは、未だ体当たりの音が響いてくる。
「……あれが現実です」
俯くシアール。その肩に、国王の手がそっと乗せられた。
「君が気にすることではない。全てを取り締まろうという方が無理な話だ」
「しかし……」
「ウジウジ言うのはナシです。それよりも今は、どうやってこの状況を切り抜けるか。そっちに頭を使いやがってください」
ゼルは立ち上がると、他をおいて一人で歩き出す。
「その扉もいつまでもつか分かりません。道草食ってる暇はねぇはずですよ」
「相変わらずせっかちよのう、ゼルくんは」
ゼルの足が止まる。彼の顔が少しだけ振り向いた。
「テメェが呑気すぎんですよ。少しは危機感持ちやがってください」
「持っておるよ。ただ、急いては事を仕損じると言っている……その意味がわからん君ではないだろう?」
「っ……!」
ギリ、と奥歯が擦れる音がした。ゼルの瞳が国王を捉える。
「……それは自分に、喧嘩売ってやがるんですか?」
「け、喧嘩!?」
ロメが血相を変える。
「ダメですよ! こんなときに仲間割れなんて――――!」
「しっ!」
プサイが人差し指を立てる。ロメもゼルも国王も、みな口をつぐんだ。
「なにか聞こえない……?」
耳を済ます。扉を破らんとする音が静寂に響く中、別の方向から僅かにノイズのような音。
「なんだ……?」
音は徐々に近づいてくる。それがノイズではなく羽音だと気づいたときには、もう遅かった。
「うえっ!!」
と誰かが叫ぶと同時、天井が爆発した。瓦礫と共に降ってくる黒装束たち。穴が開いた天井からは蜂型コンマがこちらを睨み付けている。
黒装束の一人が手首を振る。それを合図に蜂コンマが流星群となって国王へ降り注ぐ。
「シドル!!」
間一髪、ショータが防御魔法を挟み込む。巨大な盾とコンマが拮抗するところを、ロメのクロスボウが撃ち抜いた。
「プサイ!」
「ああ!」
ロメの腕輪が光り輝く。その光はプサイとシンクロし、次の瞬間プサイは獣人態への変身を遂げた。
白い翼を目一杯広げ、縦横無尽に飛び回る。コンマの間を縫うように飛行しては、得意の蹴りを叩き込む。
ゼルが国王の首根っこを掴んだ。
「国王、逃げますよ!」
「こちらです!!」
アレアが駆け出し、ゼルと国王、シアールが後に続く。
「正面玄関から外へ逃げましょう!」
「了解しました!」
追おうとする黒装束の男に、ショータはパラドックスを突きつけた。
「行かせない!」
男は下卑た笑いを浮かべると、懐から黒光りするものを取り出した。
それを目にした瞬間、ショータの全身の筋肉が一斉に震え上がった。
「銃!?」
銃口を向けられたら終わりだ。本能が怒鳴る。ショータは反射的に、男の手ごと銃を斬り裂いた。
鮮血と絶叫。銃だったものが床を叩く軽い音は、すぐに喧騒に掻き消された。
黒装束が次々と銃を構える。
「まずいっ!!」
ショータはその場から飛び退く。直後、弾丸が頬を掠めた。絆創膏が散る。
心臓が激しく騒ぎ立てる。それを丁寧に聞く余裕などあるわけもなく、転がるように物陰に身を潜めた。
「なんですかあの武器は!?」
ロメが叫ぶ。危険性だけは十二分に察知できたらしく、瓦礫の裏に滑り込んだ。
連続する発砲音。転がる薬莢。四方八方から襲い来る弾丸に、逃げる範囲がだんだんと狭められていく。
「きゃっ!!」
弾が足を掠め、ロメが転倒する。そのこめかみに銃が突きつけられた。
「っ、ロメェッ!!」
プサイの悲鳴が轟く。
頭をよぎる惨状。ショータは咄嗟に腕輪をつかんだ。
呪文を叫ぶより早く、プサイが助けに入るより早く――――――――銃の引き金が引かれるよりも早く、影から飛び出た黒服の吸血鬼が男を殴り飛ばした。
「カイ……!」
ロメがかすれた声で呼ぶ。それを無視し、カイは拳銃を拾い上げる。
「ったく、ザコが群れやがって……」
「ロメッ!」
プサイがロメの隣に降り立った。その顔色は青ざめている。
「大丈夫!? 怖くなかった!!? ねぇ大丈夫!!?」
「大丈夫ですから落ち着いてください! かすり傷ですから、ほら」
すがりつくプサイを離し、一人で立ち上がるロメ。すぐにクロスボウを構え直す。
「カイ!!」
ショータはカイへ詰め寄った。
「どこ行ってたの! こっちはサクリΦスの襲撃が――――」
「潰せ」
「――――は?」
カイは不機嫌に銃を数発、闇雲に発砲する。コンマ数匹、黒装束数人が倒れこむ。
「さっさとこいつら潰せ。気持ち悪ぃんだよ」
「気持ち悪い?」
「これだけいると鼻の奥にこびりつくんだよ。気持ち悪い腐った血の臭いが」
愚痴りながら、襲来していたコンマを殴り落とす。
「だから潰せ。あの心理学者と同じ臭いのするこいつらをな」
「……え?」
再び銃口がこちらを向く。
「っ! シドル!」
弾丸を盾で防ぐ。鉄が弾ける音を聴きながら、ショータは耳を疑った。
「心理学者……!? シアールさんのこと!?」
「さぁな。いちいち名前なんて覚えてられるか」
国王を襲撃した連中と同じにおいがシアールからする。それの意味することはなにか、理解できないショータではない。
「国王様っ!!」
いち早くロメが脱兎のごとく駆け出した。
「っ、ロメ待って!!」
意識がそちらへ移った瞬間、コンマの同時刺撃で盾にヒビが走る。まずいと思う暇もなく、目の前で盾が粉々に砕け散った。
「しまっ――――!?」
間髪入れずに飛んでくる弾丸。ショータを貫くと思われたそれは、横から伸びたカイの手に握りつぶされる。
「よそ見すんな人間。死ぬぞ」
血がにじむ手のひらから弾を投げ捨て、また出鱈目な発砲を繰り返すカイ。敵陣に距離を取らせる。
その敵陣の後方。氷づけになっていた扉が破壊され、狼コンマがなだれ込んできた。轟く雄叫び。
「チッ……人間、いくぞ」
「ごめんカイ、任せた!!」
踵を返し、逃げるように戦場を離脱する。
「あ? おい! 人間!!」
「カイ! 後ろっ!」
プサイとカイの声と数多の銃声が背後で響く。わずかな罪悪感と破裂しそうな焦燥を押さえ込んで、暗い廊下を駆けていく。
中段から階段を飛び降りる。三階までたどり着いたとき、ショータは足を止めた。二階へ続く階段が落ちていたのだ。よく見ればその下、二階と一階を繋ぐ階段も陥落している。
「あっちから一階へ降りましょう!」
階下から聞こえてきたアレアの声。続けて数人の足音が響く。
「しかし、ひどい有り様よのう? あちこち崩れてしまって……アレアくんも気の毒に」
「え、あ……は、はい」
「他人の心配より、今は自分の心配しやがってください。暗殺されかかってんですよ?」
「国王様っ!!」
ショータは精一杯の声で彼らを呼んだ。眼下に望む二階の廊下に、三人の姿が現れる。
「おお、ショータくん。無事だったか」
「はい! あの、ロメは? そっちに行ってませんか!?」
「ロメくん? いや、来ておらんよ。一緒ではなかったのか?」
「それが実は――――」
と言いかけた途端、見下ろす景色に違和感がよぎる。国王、ゼル、アレア。一人足りない。
「……あの、シアールさんは……?」
「はぐれました。廊下が破壊されて、迷路みたいになってるせいでね」
「はぐれた…………?」
途端、ショータの脳内で最悪の構成が出来上がる。ロメも一人、シアールも一人。つまり――――。
「っ!」
思うより先に足が床を蹴った。左右を考えることもせず、ただ一心不乱に三階を駆ける。駆け抜ける。
もしももう二人が出会っていたら――――余計な思考がよぎる。クラウドの包帯面が脳裏で気色悪い笑顔を浮かべた。
「……ショータくん?」
呼び止める控えめな声。振り返れば瞳に写るのは、白衣と眼鏡の疑惑の心理学者の姿。
「シアール……さん……」
「よかった、無事だったんだ」
笑顔で近づこうとする彼に、ショータは後ずさった。顎を引き、蔑むような鋭い眼差しを向ける。
「え……どうしたの? そんな怖い顔して……私なにかした?」
「……なんで正面玄関なんですか」
「え?」
シアールの歩が止まる。一定の距離を保ちつつ、ショータはさらに睨みを利かせる。
「こんな不意討ちに近い襲撃に遭って、『正面玄関から逃げましょう』なんて、よく考えたらおかしいですよね」
「……」
無言のシアール。ショータはなおも続ける。
「待ち伏せされてるかもしれない。そんなところに飛び込むようわざわざ促すなんて、いくらなんでも不自然です」
「……何が言いたいのかな?」
「あなた…………本当に僕らの味方ですか?」
「…………」
長い長い沈黙。張り詰める空気。
「……誤魔化しても無駄、かな」
シアールが小さく呟いた。その顔は、なぜか悲しげだった。
「そうだよ。君の言う通り、私はサクリΦスと繋がっている」
「……? ずいぶんあっさりと白状するんですね」
少々の違和感を感じながらも、ショータは警戒心を崩さない。腕はいつでもすぐにパラドックスを引き抜けるようスタンバっている。
「ショータくん、お願いだ……見逃してくれないか」
「え?」
予想をしていなかった言葉にショータが面食らう。
シアールは下がり尻の眼でショータを真っ直ぐに見つめた。レンズの向こうで、瞳が潤んでいるのがわかる。
「どういう……ことですか……?」
訊ねれば彼の視線は宙を低迷する。
「ごめん……聞かないで」
早口に告げると、シアールは即座に反対方向へ走り出してしまう。ショータも慌ててそれを追った。
「シアールさん! ちょっと待って!」
瓦礫の階段を慎重に下りながら、彼の背中を視界から逃さない。
壁に空いた穴を抜けると、吹き抜けを囲う廊下に出た。一階のロビーが見下ろせる。
手すり沿いにシアールが駆けていく。半周ほどしたところで、ショータの手が彼の肩を捕らえた。
「っ……ショータくん、離して――――」
「シアールさん……なにか隠してるんじゃないですか?」
背中越し、シアールが息を呑んだ。
肩をつかむ手に力が入る。
「なにか、サクリΦスに脅されてるんじゃないですか!?」
「……痛いよ、離して――――」
「シアールさん!! 本当のことを――――」
瞬間、ショータの腹を鋭い蹴りが貫いた。
不意の一撃にむせ上がる。四つん這いになって床に唾を吐き散らす。
「離してって言ったじゃないか」
嘲笑する声が降ってくる。顔を上げたショータが見たのは、ひしゃげそうなほど口角を歪めたシアール・ダイヤモンドだった。
「シアールさん……!? なんで……」
「『なんで』? 今さらそんなこと聞かないと分からない?」
シアールはショータの襟首をつかみ上げると、手すりへ打ち付ける。
「君には失望したよ。もう少し賢い子だと思っていたのに」
ショータの眼前、シアールの顔が迫る。レンズの向こうの瞳が渦を巻いていた。
恐怖心が瞬時に身体を駆け巡り、シアールを蹴り離す。思考する暇もないまま、右手は腕輪をわし掴んだ。
「イアスゥッ!!」
裏返った奇声を上げ、無数の氷弾を撃ち出す。
シアールは焦る素振りも見せず、手のひらを前へかざし一言。
「クレフ」
浮かび上がる橙色の魔方陣。氷弾がそれに触れた途端、跳ね返りショータへ襲いかかってくる。
「っ!?」
反射的に屈み氷弾を避ける。吹き抜けのシャンデリアが凍結し、一階へ落ちた。
「きゃっ!?」
シャンデリアの粉砕と同時に短い悲鳴が上がる。玄関ホールを見下ろせば、ゼルが国王を、国王がアレアをかばうようにして立っていた。
「ゼルさん! それ……っ!」
アレアが血相を変える。ゼルの腕に、大きな氷の破片が突き刺さっていた。
「大したことねぇですよ。……それより国王、テメェは無事ですか?」
「ああ、私は大丈夫だ」
返答に無愛想に頷いたゼルは、それから破片を強引に引き抜いた。ローブに空いた穴から、えげつない傷が覗く。
「氷魔法……」
呟いてゼルがこちらを見上げた。ショータと目が合う。
「なんのつもりでやがりますか!?」
「い、いや、これは僕じゃなくて――――!」
と弁解しかけたショータの背後からシアールが組みかかってきた。即座に両腕の自由を奪われる。
「ショータくんは私が! 早く逃げてください!」
「なっ!?」
反論の隙も作られず、そのまま脇へ投げ飛ばされる。
「早く!!」
必死の形相で訴えるシアールは、国王たちが行くのを見届けたのだろう、ゆっくりとショータの方を振り向いた。
「あーあ……やってしまったね。どんな仕打ちが待っていることか……」
「……どういうことですか」
「えっ、分からない? 国王の頭にシャンデリア落としたんだよ? つまり――――」
「そういうことじゃないっ!!」
怒声が反射する。怒りと懐疑の混濁した眼差しを刺しつける。
「さっきの魔法だろ? 魔法は契約者しか使えないはずだ、なんであんたが使えるんだよ!?」
「まあまあ、落ち着きたまえショータくん。そう熱くなるのはスマートじゃない」
彼の余裕の態度は崩れない。ショータは奥歯を噛み締めた。
「あんた何者なんだよ……?」
シアールはわざとらしい大きなため息をつくと、額を押さえた。
「本当に分からない? そこまで知能が低いとは予想外だよ」
「誤魔化すな!!」
激昂し、左手首の腕輪をつかむ。白い光が灯った。
「イレム!」
光が赤に染まる。
出現させた魔方陣が烈火を吐き出す。その炎めがけて、シアールが白衣を脱ぎ捨てた。
白衣が炎と接触した瞬間、爆発に似た大炎上が起きる。それはさながらマジックの刹那のようで、熱波と閃光が波紋する。
炎は一瞬のうちに消えた。残煙の向こうに、姿を変えたシアールが立っていた。
「だけど言われてみれば、自己紹介がまだだったね」
眼鏡はなく、藍色の軍服に身を包んでいる。以前のような温かさは微塵も感じない。
「『はじめまして』。僕はシアール・ダイヤモンド。サクリΦスに所属する天才司令官さ。ヨロシク」
手をヒラヒラと振るシアール。しかしショータの視線はもっと低い位置に釘付けになっていた。彼の左足。
「腕輪……!?」
ショータのよく知る契約の腕輪が、シアールの左の足首につけられていた。
「よく気づいたね」
シアールは右の爪先で腕輪をコンコン叩く。
「ここにつけておくとバレないんだよね。てことで、僕も契約者なのでした、っと……ララム」
「『ララム』……?」
訝しむと同時、ショータの頭上に三日月模様の魔方陣が浮かぶ。全身に鳥肌が立つ。咄嗟に飛び退いたその場所を、太い月光が豪快に抉り取った。
煙を上げる床を見て、頬を汗が滑り落ちる。
「僕の知らない魔法……!?」
「上級魔法ってやつさ。シャシャ」
今度は足元に太陽模様の魔方陣が現れる。強烈な熱を感じ、転げるように跳んだ。吹き上がった火柱が天井を焦がす。
「このっ……!」
ショータも腕輪に触れる。しかしシアールが左足の腕輪を蹴る方が早かった。
「ララム」
「ッ、シドルッ!」
魔方陣から飛び出す黄金色の光線を、鋼鉄の盾で受け止める。だが上級魔法と言うだけあり、威力はバカにできなかった。ショータの足は爪先と反対方向に滑っていく。
「くっ……っ!」
「にしても、ショータくんって抜けてるねぇ」
「なに……!?」
魔方陣の向こう、シアールが狡猾な笑顔を浮かべる。
「僕が国王を正面玄関に誘導してたことには気づいたのに、それだけ?」
「っ……!?」
月光線に押されていく。それを見物にでもするように、シアールはニタニタ笑いをやめない。
「契約者が目の前にいるのに、契約獣がどこにいるかは興味ないんだ?」
「……まさかっ――――」
「国王様っ!!」
声が響いた。一階ロビー、息を切らしたロメの姿が見えた。
「おお、ロメくん」
「よくぞご無事で……!」
安堵の表情で、今にも外へ出そうな国王一行へと駆けていく。
突如、思い出したように脳裏を走る第八話。よみがえるクラウドの警告。最悪の光景。
「ロメ、ダメだ――――!」
と、集中が揺らいだその一瞬で、鋼鉄の盾に亀裂が走った。
「っ、しまっ――――!?」
盾が粉々に砕け散る。月光線がショータを呑み込む寸前、飛び出してきたプサイに抱えられ壁に衝突した。
「ショータ!! 無事!?」
「プサイ……!!」
「思ったより早い援軍だったね」
そう言ってこちらへ腕を伸ばすシアールに、カイが飛びかかった。不意討ちでシアールの首を絞め上げる。
「ハッ! どうした? 命乞いの一つでもしないのかサクリΦス?」
「もう……勝った気で……いるの、かい? ……早計、だねえ……」
掠れた声でも言うことは変わらない。絞める手が強くなる。
ショータはプサイを払い退け、手すりから身を乗り出す。
そしてありったけの声量で――――――――叫ぶ前に、立ち止まったロメがこちらを振り返った。
「ショータ…………?」
澄んだ瞳。栗色の髪が美しく舞う。
直後、一発の銃声がこだました。