小説世界と契約獣
音を立てないようにしてスープをすする。温かさがゆっくり喉を流れるのを感じながら、翔多はホッと息を吐きたいのをじっと我慢した。
木造建築の二階の部屋は無音で、昼下がりの日光だけがなだれ込んでいる。まだ少し残っているスープを置くと、目だけを隣の椅子に向けた。黒い服を身にまとった男が、両手を縛られ不機嫌そうに座っている。
部屋には翔多と男と、部屋の隅で男を睨む白い長髪の女性の三人だけ。張りつめている空気が重い。
翔多は残りのスープを飲み干す。濃厚な味の余韻に浸る余裕なんてない。緊張に耐えかねて、うっかりテーブルの上のクッキーを手に取ってしまう。
一口かじる。予想外の抹茶味に翔多は顔を歪ませた。
苦手な味を飲み込んで、黒服の男を見る。さっきから微動だにしない。
「カイくんも……何かいただく?」
恐る恐る聞いてみる。赤い瞳がギロリとこちらを向いて、翔多は震え上がった。
男が舌打ちする。だるそうに窓の外を見ると、鋭い牙を覗かせた。
「血が飲みてぇ」
ぞくりと身体の芯から悪寒がして、全身に鳥肌が立った。
現実離れしたセリフだが、これが嘘でも冗談でもないことを翔多は知っている。カイは本気で生き物の血を欲している。そのように翔多がキャラクター設定したのだ。
そのキャラクターが目の前に存在している。それだけじゃない。白い長髪の女性も、木造の部屋も、中世ヨーロッパのような街並みも、翔多が書いてきた小説そのままだ。
なぜこんなことになったのか。翔多は混乱する頭を押さえ、記憶の糸を辿り始めた。
☆ ☆ ☆
『――――ロメ・アリエスはプサイの腕の中で、静かに永眠りについた。』
数ヵ月前の最後の投稿を読み直して、鳴瀬翔多はうーんと唸った。
登場人物を一人、退場させた。分かりやすく言えば、殺したのだ。
物語の展開上、ロメ・アリエスというキャラクターはここで死ななければならなかった。それは仕方のないことだと、翔多自身も分かっている。
しかしロメを死なせてからというもの、全く続きが書けなくなってしまった。パソコンの前に座ってはロメの軌跡をなぞってばかりいる。
美少女設定にしたのが悪かったのか、それとも単純なスランプか。いずれにせよ、『Contract』の次話は一向に出来上がらない。
背もたれに体重を預け、くるりと回る。真夜中の窓は鏡のようで、髪を赤く染めた少年がこちらへ困り顔を向けている。
弾かれるように椅子から立ち上がり、その反動でベッドへ倒れこむ。枕に顔を埋め、長いため息を吐き出した。
「……生き返らせる?」
呟いてすぐに首を振る。そんなことすれば収拾がつかなくなるのは分かりきっていた。
気づいたら朝だった。
月曜日の朝というものはどうも調子が上がらない。業務的に身支度を終え、翔多はスクールバッグを片手に家を出た。
まもなく夏が来る。衣替え前のこの時期、ブレザーは少し暑い。
今日はまだ風があってマシだと考えていると、突然背中を叩かれた。
「よっ翔多! 今日も疲れてんな!」
振り向くと、うるさい笑顔があった。耳たぶでは丸いピアスが揺れており、フライングの夏服が恨めしい。
ネクタイくらいしてこいよ、と心の中で思いながら、翔多は前を向いた。
「おはよ染城。そんなに疲れてはないよ」
「嘘つくなって。どうせまた小説書いてたんだろ?」
「そだね。正確には、書こうとしたけど書けなかった、だけど」
消沈気味に言うと、染城千一はわざとらしく自分の額を叩いた。
「まーったかよ。もうやめちまえば?」
他人事のように告げる染城に、翔多はムッとなって言い返す。
「自分が創り出したキャラクターには責任を負いたいんだよ」
「ふーん。よくそんなこと思えるよなぁ。俺には無理だわ」
手をひらひらさせながら染城は空を見上げた。天気が良すぎる。
翔多は昨夜のことを思い出した。
翔多はしばらく小説を書けていない。もしかしたら、どうやって書くのかも覚えていないかもしれない。染城のセリフは皮肉のようにも思えた。
「あっ!」
と突然染城が声を上げた。視線の先に、一匹の黒猫がいた。背中に三日月のような模様がある。
「見ろよ、猫だぜ」
染城は物珍しそうに黒猫を眺めている。
黒猫に首輪はついていなかった。
「野良猫か? この辺じゃ珍しいな」
そう言って染城はゆっくり黒猫へ近づく。黒猫はしばらくじっと動かないでいたが、染城が一メートルほどまで迫るとひょいと後ろの塀に飛び乗った。
黒猫はそのまま塀の上を走っていく。
「ああっ! 待てっ!」
それを追って染城も走り出す。
「え、ちょっと染城!?」
慌てて翔多も後を追う。来た道を逆走する形で、三者は連なった。
やがて黒猫は脇道へそれた。染城と翔多も曲がる。左右を建物に囲まれた、狭い道だった。
建物や木が日光を遮っており、少し薄暗い。遠くで黒猫の背中の三日月模様が目立っている。
「よしっ、行くぞ翔多!」
「いや行くぞじゃなくて、遅刻するって!」
翔多の制止も聞かず染城は駆ける。気配を察したのか、黒猫はまた曲がり角に姿を消した。
もどかしい気持ちを押さえ、翔多は染城の背中を追って角を曲がった。
――――気づいたら路地裏に一人で立っていた。
「……あれ」
翔多は目をパチクリさせた。染城や黒猫を追って路地裏を走ってはいたが、ここは別の路地裏に感じられた。というより、日本らしくない。
翔多が立つ地面から空を飛ぶ小鳥まで、全てが翔多の知る街と違う。
まるで中世ヨーロッパのよう。我ながら的確な例えだと翔多は思った。
こんな場所があったのかと感心しながら振り返る。見覚えのない中世ヨーロッパの路地裏が続いていた。
「……あれ?」
翔多は目を擦った。前も後ろも、歩いた覚えのない道だ。
そこで翔多は気づいた。染城を追って角を曲がってから、今この場所に至るまでの記憶がないことに。
おかしい。翔多は染城や黒猫を追っていたはずだ。それがいつのまにか見知らぬ路地裏に迷い込んでいた。
「おーい! 染城ー!」
呼びかけても返答はない。どこか遠くまで行ってしまったのだろうか。
翔多は辺りを見回したあと、土地勘のない路地裏を道なりに沿って歩く。
覚えていなくても、道はどこかで繋がっているはずだ。そうすればいつか知っている場所に出られるだろう。そんな考えだった。
遅刻の心配をしながら突き当たりを曲がる。突然なにかにぶつかった。
「いたっ!」
と尻餅をつく。同時に前方からも小さな悲鳴が聞こえた。
顔を上げると、翔多と同じように一人の少女が尻餅をついていた。
歳は翔多と同じか、少し下くらいだろうか。栗色の長髪と、青が基調となった服がよく合っている。しかしその服というのも、日本ではまず見ない、ヨーロッパ的スタイルのものだった。
「ごめん、大丈夫?」
立ち上がって手を差し伸べる。少女が顔を上げた。
「は、はい。すみません……」
透き通った声でそう言い、少女も手を伸ばす。その瞬間、横から別の手が翔多の手を凪ぎ払った。
「下がれ!」
栗色の少女を庇うように白長髪の少女が現れた。
羽の形の髪留めをつけた彼女は、敵を見るような目で翔多のことを睨んでいる。
「見ない顔だね。あんた誰」
「え、えっと……」
翔多は思わず口ごもる。挙動不審なその態度に、白髪少女の目が鋭さを増した。
「誰だって聞いてるの」
隠さない警戒心と漏れる敵意をひしひし感じながら、翔多は目を泳がせた。こういうとき、どうすればいいのか。
翔多がただただ困っていると、栗色少女が白髪少女をなだめた。
「ダメですよ、そんな風に聞いちゃ」
そう言って一歩前へ歩み出る。
「お名前を訊ねるときは、まず自分から名乗るべきです」
ペコリと綺麗なお辞儀を見せる栗色少女。つられて翔多も少し頭を下げた。
少女は長い髪をすくいながら頭を上げると、上品な笑顔を浮かべた。
「はじめまして。ロメ・アリエスと申します」
「…………え?」
翔多は耳を疑った。
「どうかされましたか?」
「今……なんて?」
「え? どうかされましたか、と……」
「そこじゃなくて、名前!」
少女は不思議そうな顔をして、もう一度同じセリフを繰り返した。
「はじめまして。ロメ・アリエスと申します」
「ロメ……アリエス……!?」
聞き間違いではなかった。翔多は脳内でその名前を反芻させる。
ロメ・アリエスというのは、翔多が書いている小説『Contract』の登場人物の名前のはずだ。もちろん翔多が作り上げた架空の人物であって、現実には存在しない。
「うそ……冗談だよね?」
「冗談? なにがですか?」
「だって、ロメ・アリエスって……」
そこで翔多は改めて、ロメと名乗る少女の容姿を見た。
栗色の長い髪も、青の服も、気品ある佇まいも、どれを取っても小説通りのロメ・アリエスだ。
「あ、こちらはプサイ。私のパートナーです」
傍らの白髪少女を示してロメは言う。
薄々勘づいてはいたがやはりそうらしい。小説の中で、ロメの相棒だったのがプサイという白い髪の少女だ。
翔多はふと思って、少女に訊ねた。
「もしかして、コスプレ?」
「こすぷれ?」
首を傾げられた。そして逆に訊ねられた。
「こすぷれってなんですか?」
翔多は唖然とする。
「冗談だよね……?」
「すみません。世間知らずなのは自覚してます」
自虐的に微笑んだロメ。プサイが首を左右に振った。
「いいや。私も聞いたことがないね。あんた、どこの国の人間?」
「どこって……日本だけど」
二人は顔を見合わせた。アイコンタクトの様子は芳しくない。
「どこだそこ?」
翔多は頭が痛くなってきた。
突然覚えのない路地裏にいたと思ったら、出会った二人組が小説の登場人物の名前を名乗っている。
「念のために聞きたいんだけどさ」
翔多は慎重に前置きして、路地裏の景色に視線を向けた。
「ここって、どこ?」
「どこって……アスルガルド街ですよ?」
アスルガルド街。これもまた、『Contract』に登場する架空の街だ。
「もしかして、迷子ですか?」
ロメに言われ、翔多はぐっとなる。高校生にもなってそのレッテルはきついが、背に腹は代えられない。頷いた。
「わかりました。では、大通りまでご案内します」
と、ロメが踵を返す。プサイもそれに続いた。
大通り。翔多が想像したのは、二車線の道路に車がびゅんびゅん走っている通りだ。そこにたどり着ければきっと夢から覚める。そんな期待をもって二人の後ろを歩いていると、いきなり遠くから悲鳴が上がった。
「な、何!?」
木にとまっていた小鳥たちが一斉に飛び立つ。急速に不安が膨らんだ。
「プサイ!」
「あっちだ!」
二人は進行方向を変え、一目散に駆け出した。こんなところに置いてけぼりをくらうわけにはいかず、翔多も走る。
入り組んだ道を抜けると、少し広い路地に出た。相変わらず翔多の知らない街並みだ。
その路地の奥に女性が倒れているのが見えた。
「大丈夫ですか!?」
ロメが素早く女性に駆け寄る。うつ伏せになっている女性の首の辺りには噛みつかれたような痕があり、血がにじんでいる。
翔多は息を飲んだ。傷痕から目を背ける。背けた先の暗い日陰の中に人影が立っていた。
「プサイ! この方、まだ生きてます!」
「だと思った。……あんたは人、殺したことないもんね」
プサイが日陰の男を睨む。黒い服が影に馴染むせいで姿ははっきりとは見えないが、男もこちらを向いているのは分かった。
「でもいい加減やめてくれない? 無差別に人間襲うの」
「……ハァ?」
男は影から歩み出る。途端に、翔多は猛烈な吐き気に襲われた。
男の口元に血がべったりとついていたのだ。口元だけではない。飛び散ったような真っ赤な血が、銀髪や黒服を派手に染め上げている。
翔多の足が後ろへ揺らめく。それとは逆に、プサイは一歩踏み出した。
「カイ、あんたのせいで病院がパニックになってんの」
「吸血鬼に血吸うなとかバカかテメーは」
二人のやり取りを聞いて、翔多は激しい頭痛に見舞われた。
『Contract』の主人公のパートナーは、黒い服を着た『カイ』という名の吸血鬼だ。目の前にいる血まみれの男は、不気味な容姿も強気な性格も、小説の『カイ』と寸分たがわない。
「どうなってるんだ……っ?」
誰かが自分を驚かそうとしている、とも考えたが、それにしては手が込みすぎている。漂っている血の臭いも、ドッキリや冗談ですむ代物ではない。
そのとき、翔多の中に一つの可能性が浮き上がった。
――――異世界転移。
首の骨が折れそうなほど強く首を振った。そんなことあるわけがない。あっていいわけがない。
仮に異世界というものがあったとして、『Contract』は翔多が作り上げたフィクションの世界だ。存在しない世界に転移するなど、ありえるはずがない。
やはり誰かが自分を驚かそうと――――という思考に戻りかけたとき、女性を介抱していたロメが声を上げた。
「プサイ、遠慮はいりません! 捕らえてください!」
プサイは真面目な顔で頷いた。ロメが左手首の腕輪を掲げる。
腕輪には『Ψ』の刻印が入れられていた。その刻印が黄金色に輝くと、プサイの身体も同じ色の光を放ち始める。
光の中でプサイのシルエットは少しずつ変化を見せていく。その様を、翔多はまじまじと見つめていた。
やがて光が消えたとき、そこに人間の姿はなかった。
長い白髪は大きく広がり、腕があった場所には白く美しい翼が煌めいている。まるで白鳥を擬人化したようなプサイの姿に、翔多は口を閉じることができなかった。
素早くプサイが飛び立つ。白い羽が舞って、次の瞬間にはカイの遥か頭上にいた。
風を切る音がしてプサイが急降下する。カイはすんでのところでかわし舌打ちした。
「お前も俺と同じか……」
「野良と一緒にするな」
低空飛行に切り替えたプサイがカイと肉薄した。腕が翼になっているため、主な攻撃方法は蹴りだ。四方八方から繰り出される蹴りは、カイの苛立ちをぐんぐん膨張させていく。
「この鳥がっ!」
カイがカウンターキックを喰らわす。プサイを引き剥がした隙に、呆然と立ち尽くす翔多に何かを投げつけた。
胸にぶつかった重い感触で翔多は我に返る。足元に目をやると、腕輪が一つ落ちていた。『χ』と刻印がしてある。
「おい人間!」
カイの苛立たしげな声が自分を呼んでいることはすぐわかった。
翔多の反応を待たずしてカイは叫ぶ。
「俺と契約しろっ!」
「いけません!」
横からロメが遮る。
「獣の力を与えれば、確保が困難になります!」
そう告げてロメは腕輪に触れた。先ほどとは違う、控えめな白い光が灯る。
「イアス」
呟かれたその言葉に呼応するかのように、光が水色に変わる。そして彼女の周りに点々と氷が出現した。
力一杯ロメが腕を振るう。それを合図に、空中の氷が一斉にカイとプサイへ撃ち出された。
氷弾が襲いかかる寸前、プサイが高く羽ばたいた。氷弾は残されたカイに全弾命中する。
倒れそうなところを、カイは踏ん張りを効かせて耐える。息を切らしながらもロメを標的に定めたとき、プサイが背中から派手に蹴り倒した。
すかさずロメがロープで両手を縛り上げる。カイから苦悶の声が漏れた。
「観念してください」
「……チッ」
そっぽを向くカイ。ふぅ、とロメが息をついた。
勝負あったらしい。一部始終を見ていた翔多は、声すら出せずにいた。
人の腕は翼にならないし、なにもない場所に氷の弾丸を作れやしない。目の前で起こっていた超常的な現象は、小説や漫画の世界でしかあり得ないはずのものだった。
「嘘……だよね…………?」
ようやく出た声は少しだけ笑っていた。
ドッキリなんかじゃない。本当に『Contract』の世界に迷い込んでしまったのだと、いよいよ翔多は認めざるを得なかった。
☆ ☆ ☆
翔多は意味もなく、飲み干したスープの底を覗きこんでいた。
小一時間ほどでここが『Contract』の世界なのだということはなんとか理解できた。だが、なぜ自分が小説の世界にいるのか、それが一行に分からない。
夢ではないかと頬をつねってみたりもしたが、生憎と痛かった。
扉が開いた。ロメが現れる。
「すみませんショータ。招いておきながら顔も見せず……」
こちらを見て、申し訳なさそうに頭を下げる。隣でカイが机にかかとを乗せた。
「悪いと思ってんなら今すぐこの縄ほどけ」
「あんたには言ってない」
プサイが部屋の隅で目尻を鋭くする。ハッ、と嗤ってカイが顔を背けた。
ただでさえ重かった空気に不穏の色が混ざる。ロメがまた頭を下げた。
「本当にすみません」
「あ、いや……」
翔多は首を振るが、それ以上言葉を繋げられない。視線が勝手にスープの底へ戻っていった。
沈黙が訪れる。空気に押し潰されそうになっていると、プサイが声を出した。
「こいつの処分、どうするの?」
「難しい問題です。被害は出てますが死人は出ていません。それに、あれがカイにとって生きるための食事だと考えると……」
「一概に悪とは決められない、ってわけね……」
ロメが頷く。プサイは一度ため息を吐き、
「あの女の人はどうだった?」
「まだ意識は戻りません。でも、比較的傷は浅いようです」
ロメが微笑んだ。つられて翔多とプサイも笑顔を浮かべる。
行儀悪く、カイが足でクッキーが入った皿を引き寄せた。
「今日のやつはちっとも美味くなかったからな。吸う気が失せた」
「っ、あんたねぇ……!」
飛びかかりそうなプサイをロメが制止する。一触即発の空気の中、カイがクッキーに顔を近づけた。
「こんなもん好き好んで食うとか、人間ってのはつくづくわからねぇな」
そしてクッキーを一つ取ると、少しのあいだ眺めたあと、翔多へ放り投げた。
クッキーは放物線を描いて翔多の手に収まる。先ほどと同じ抹茶味のようだった。
生憎、翔多もこのクッキーは好きではない。抹茶の風味は昔から苦手だった。
しかし、はたと思い出す。この小説の主人公は抹茶が好きだった。そして、ロメ・アリエスの住居に四人で集まったとき、彼は抹茶味のクッキーを食すのだ。
それは、翔多が置かれている今の状況と酷似していた。
主人公ではなく翔多だったり、カイの両手が縛られていたりなど小さな相違点はあるが、これは間違いなく『Contract』のワンシーンだ。それも第一話の、主人公とカイが契約する直前のシーン。
『Contract』はそのタイトルの通り、契約が主となる物語だ。人間が『契約獣』という人外の存在と契約し、冒険するファンタジー作品。契約することで人間は魔法が使えるようになり、契約獣は獣人態の力を解放できる。ロメとプサイも、契約者と契約獣の関係だ。
もしこれから小説の通りに物事が進んだとして、その場合カイと契約することになるのは翔多かもしれない。そう考えたとき、翔多の顔が青ざめた。
翔多は血が大の苦手なのだ。他の契約獣ならまだしも、吸血鬼型であるカイと契約するなんて、自殺行為きわまりない。
手のひらのクッキーを口に運ぶのが躊躇われる。困ったままボーッとしていると、カイが椅子ごと近づいてきた。思わず腰が浮く。
「お前の血吸わせろ」
「はぁ!?」
裏返った声が出た。カイが笑って、翔多の腕へ視線を落とした。
「お前の血、色がいいんだよ。かなりのレアだ。吸わせろ」
「い、いやだよっ!」
立ち上がってカイから距離を取る。空いた翔多の椅子に乗っかると、黒服の吸血鬼は唇の間から牙をちらつかせた。目は翔多から一切離れない。
ロメが翔多をかばうように立った。
「カイ」
有無を言わさぬ強い瞳だった。それに充てられたカイが諦めたように背もたれに寄りかかる。
「……チッ」
そしてまた窓の外へ顔を向ける。その横顔はいかにも退屈そうだった。
ホッと翔多が息を吐く。それも束の間、外から聞こえてきた悲鳴に再び身体が強張った。
続けて遠くで黒煙が上がる。悲鳴がさらに強まった。
ロメの顔色が変わる。
「プサイ!」
「わかってる!」
扉を乱暴に開けてロメが出ていく。続けて出ていこうとしたプサイは一度止まって振り返ると、
「ショータ! あんたそいつを見張ってて!」
と言い残してから去っていく。翔多が呼び止める暇もなかった。
ギギギ、とロボットのように首だけをカイの方へ回す。獰猛そうな真っ赤な双眸と目が合った。
カイがわずかに笑む。それだけで鳥肌が立った。
「これは絶好のチャンスだな」
じりじりと近づいてくる。逃げるように後退していた翔多の背中が壁にぶつかった。
カイとの距離がぐんぐん詰まる。首筋の血流がはっきりわかってくる。翔多は思わず手でそこを押さえた。
目の前までカイが迫る。恐怖と混乱で頭が吹っ飛びそうになる。
カイが口を開く。翔多は目をつぶった。
「…………?」
しかし、いつまで経っても痛みは襲ってこない。不思議に思い、翔多はそっと目を開けた。
部屋には誰もいなかった。その代わり、窓が大きく開け放たれていた。立ち上る黒煙がよく見える。
翔多は一瞬で全てを理解した。それと同時に、弾かれたように部屋を出た。
外へ飛び出し、悲鳴溢れる街を駆け抜ける。
騒ぎの正体は恐らく、"コンマ"というモンスターだろう。それもコブラ型の。『Contract』でも同様のコンマが一話目に登場している。そのコンマの血を求めてカイが単独で行動する。
全て小説の通りだった。ロメの家に集まるのも、その最中に騒ぎが起きるのも、カイが勝手に動き出すのも全部、翔多が書いたままだ。
翔多の足が止まった。
このまま現場に向かえば、翔多はカイと契約するはめになるかもしれない。いや、それ以前に血が飛び交う戦場に向かう理由がない。翔多は兵士でもなければ勇者でもないのだ。
ロメの家で帰りを待つのが一番安全だ。そう思って踵を返したとき、道端で男の子がうずくまっていた。
「どうしたの? 大丈夫?」
声をかけると、男の子は泣きそうな目でこちらを見上げる。膝から赤い血が流れていた。
思わず翔多は息を飲む。できるだけ血を見ないようにして男の子に語りかけた。
「おうちどこ? 歩ける?」
弱々しく男の子が頷く。翔多の手を貸りて立ち上がった。
そして歩き出そうとした二人の目の前を、炎が通りすぎていった。レンガの壁が壊される。
翔多は炎が飛んできた方向を見やった。そこでは、コブラ型のコンマがとぐろを巻いて、口から炎が漏れ出していた。
全身が真っ黒く、頭部の大きさも一般的なコブラの比ではない。とぐろを巻いた状態でも人間二人分の高さはありそうだ。全長ともなるとどれほどのものか、予想もつかない。動物というより、化け物だった。
コンマは大きく口を開けると、そこから灼熱の炎を吐き出してきた。
「うわっ!?」
翔多は反射的に男の子の手を引いて飛び退いた。熱風が頬を掠める。
「あっつ……逃げるよ!」
男の子を抱え上げ、翔多は駆け出した。無意識のうちに細い道や入り組んだ路地へと行ってしまう。しばらく走ったら、自分が今どこにいるのか分からなくなっていた。
しかし追跡は終わらない。大蛇が身体を引きずって動く音が地面から伝わってきている。
男の子の膝の血が翔多の腕へ伝い落ちる。冷たい感触に声を上げそうになった。
奥歯を噛みしめ、また走り出す。狭い路地を抜けた先で、街灯らしき鉄屑が吹き飛んだ。
待ち構えていたかのようにコンマがいた。翔多は引き返そうとするが、鉄屑が退路を塞いでしまっていて通れない。
翔多は必死で他の道を探した。だが、混乱と疲労のせいで思うように足が動かない。男の子が不安げな瞳で翔多を見た。
コブラの尻尾が大きく振るわれ、豪快に地面を抉る。間一髪で避けた翔多だったが、そのままへたり込んでしまう。もう息は限界まで上がっていた。
コンマが緩慢な動きで翔多へ近づいてくる。立ち上がろうとしても、足が言うことを聞いてくれない。
コンマが大口を開けた。翔多は男の子をひしと抱え込んだ。
――――黒服の吸血鬼が、横からコンマを吹き飛ばした。
コンマの巨体が建物の壁を壊す。翔多の目の前に吸血鬼が着地した。
「そんなところで座ってると死ぬぞ、人間」
「カイ……」
彼を呼ぶ声ははっきりとは出なかった。それほど疲労が激しいらしい。
そんな翔多を見下ろして、カイは残念そうにした。
「なんだ、怪我してねぇのかよ」
「……なにか不満?」
「別に」
カイがそっぽを向く。その瞬間、彼の身体は凪ぎ払われた。
今度はカイが壁をうち壊す。崩れた瓦礫の中から鋭い目をして立ち上がった。
「やってくれるじゃねぇか……!」
睨む先で大蛇の尻尾が揺れている。コンマが吐き出す息には火の粉が混じり、空気の温度が上がっていく。
「イアス!」
その声と共に、コンマに氷の弾丸が降り注いだ。高い体温に触れた氷はたちまち溶け、水蒸気と化ける。
見れば屋根の上にロメが立っていた。隣には獣人態になったプサイがいる。
コンマが彼女らめがけて炎を吐く。ロメが腕輪に指を触れた。白く光る。
「ククア!」
光が青に変わる。ロメの眼前に同じ色の魔方陣が出現し、そこから大量の水が吐き出された。
水と炎がぶつかり合い、白煙の爆発が起きた。熱い風と冷たい水が翔多の頬を撫でる。
白煙を切り裂いて、プサイがコンマに突撃した。飛翔と着地を繰り返してコンマの気を引いている。
「おいテメー! そいつは俺の獲物だ!」
そんなことを言いながらカイもコンマと衝突する。
その隙にロメがこちらへ走ってくるのが見えた。
「ショータ! 大丈夫ですか!?」
「僕よりこの子が……」
ロメは翔多に抱かれた男の子の怪我を見ると、ポケットから小さな容器を取り出した。
「それは?」
「お医者様からいただいたお薬です」
ふたを開けると、中には薄緑のジェル状のものが入っていた。
ロメはそれを右手いっぱいに取る。容器はすぐに空になった。
「えっと、お医者様はたしか……」
えい、と遠慮なく傷口へ大量の薬を押し付ける。男の子が火がついたように泣き叫んだ。
「ちょ、ロメ!?」
「我慢です! 男なら泣くなと、魚屋の亭主さんが言っていました!」
「いや加減ってものがあるでしょ!」
ぐいぐい薬を塗りたくるロメの腕を、翔多が大慌てで取り押さえる。
男の子の膝には薬がベットリだった。
「明らかに分量間違えてるよねこれ」
「ブンリョウとはなんですか?」
翔多は思わず頭を抱えた。それから、余剰な分の薬を撫で取る。
「包帯ある?」
「あ、はい」
ロメから包帯を受けとると、慣れない手つきで男の子の膝に巻いていく。
「ひとまずはこれでよし、と」
翔多が応急処置を終える。それとほぼ同時に、プサイが樹木に打ち付けられた。
「プサイッ!」
ロメが甲高い声で叫ぶ。
息を切らしながらプサイが起き上がった。その両翼は毛羽立っている。
「大丈夫……ロメはそいつら連れて早く逃げて」
「ダメです! プサイだけに任せるわけにはいきません!」
「でもあんた――――っ!」
飛んできた火球を避けてプサイはまた羽ばたく。散った白い羽が数枚燃えた。
飛びながらプサイは続きを叫ぶ。
「あんた! 炎苦手じゃん!」
うっ、とロメの息が詰まる。
これも翔多が設定したそのまんまだった。だが、それならばプサイにも同じことが言える。
「でもプサイだって! 暑い場所がダメじゃないですか!」
ロメに図星を突かれ、プサイの動きが一瞬鈍る。その一瞬が致命傷だった。コンマの頭突きを真正面から喰らってしまう。
建物に激突し落下する。翼に血が滲んだ。
「この蛇がっ!」
カイが殴りかかる。が、それも容易く振り払われた。カイが地面を転がっていく。
ロメが飛び出した。焦燥の表情で腕輪に触れる。
「イアス!」
無数の氷弾がコンマへ襲いかかった。しかし、まともに効いている様子はない。水蒸気のみが空へ消えた。
コンマがロメを向く。大口を開け、喉の奥に炎が見えた。
「ククア!」
魔方陣から激流が放出される。コンマの炎とぶつかったそれは再び大爆発を起こした。翔多は咄嗟に男の子をかばった。
「きゃっ!」
爆風でロメが吹き飛ばされた。壁に打ち付けられ、倒れ伏す。
起き上がれないロメにコンマが迫る。
翔多は咄嗟に辺りを見回した。なにか武器になるものはないか。
崩壊した民家らしき瓦礫の近くに、小型のナイフが落ちていた。翔多は躊躇なくそれを拾い、コンマへ駆けていく。
「やぁぁぁぁ!!」
絶叫と共に喉元にナイフを突き立てる。ジュッと音がして、黒い皮膚に刃先が1センチ程度だけ刺さった。
予想より断然固かった。まるで鉄板に刃を立てたような感触だ。
火傷しそうな息がかかって、翔多は顔を上げた。コンマの鋭い眼光が見下してきている。
身体を寒気が駆け巡る。そのとき、カイが横から飛び上がって拳を突き上げた。
コンマの顎にアッパーが炸裂する。よろけた隙を見逃さず、カイが力一杯ナイフを押し込んだ。
はじめてコンマから悲鳴が上がる。悶絶し、デタラメに巨体をくねらせる。それに巻き込まれ、翔多とカイは吹き飛んだ。
「おい人間!」
転がった先でカイが腕輪を投げてくる。『χ』の文字が刻まれた、契約の腕輪だ。
「それつけて俺と契約しろ!」
翔多は反射で首を振った。
「やだよ! どうして!?」
「あのバケモノぶっ倒すために決まってんだろ!」
早口に告げたカイは炎をかいくぐり走っていく。
ナイフを振り払ったコンマは先ほど以上に荒々しい。プサイは接近するたびに弾き飛ばされ、傷だらけになっている。
「邪魔だ下がってろ!」
プサイを突き飛ばし、コンマの懐に突っ込む。体格差ゆえびくともしない。
コンマはカイを抱え込むととぐろを巻き、そのまま締め上げた。
「うぐっ……!」
ギュウギュウと締め付けるたびにカイから苦悶の声が漏れる。わずかながら、高温の体温で焼ける音も聞こえる。
ボロボロのロメが前に出た。
「ククア!」
三たび魔方陣から水が放流される。それはコンマを巻き込み、熱に悶えるカイをずぶ濡れにする。
だがしかし、焼け石に水。コンマの体温はみるみる上がり、胴体とカイの間から煙が上がる。
「人間! 早く契約しろ!」
悲鳴混じりに叫ぶカイ。翔多はまだ迷っていた。
本来ならば、カイと契約するのは『Contract』の主人公のはずだ。それを差し置いて翔多が契約するということは、自分が物語の主人公に取って代わることを意味する。
翔多はあくまで作者だ。この世界を創造し、キャラクターを創ったのは紛れもなく自身だが、それとこれとは話が違う。ゾンビゲームの開発者だって本物のゾンビとは戦えないのだ。
足元に転がる『χ』の腕輪。それを着けて戦うべきなのは翔多ではない。
「聞いてんのか!! 人間!!!」
怒号のあとに絶叫が走る。コンマが今まで以上に強くカイを締め上げていた。
不意に腕を握られる。男の子が怯えた表情でコンマを見ていた。
男の子の腕も、翔多の腕も震えていた。
「僕は……」
悶えるカイ、満身創痍でも立ち向かうロメとプサイ、怯える男の子、あちこちから煙が上がる街――――。
翔多は腕輪を拾い上げた。
「僕は……僕が創り出したキャラクターに責任を負う!」
そして左手に腕輪を通すと、それを高く掲げた。
『χ』の字が輝き出す。同時に、とぐろの中のカイも光を放つ。
光は徐々に強くなっていき、やがてコンマを弾き飛ばした。
辺り一帯が眩い光に包まれる。その光が収まったとき、中心には黒い影が立っていた。
「ったく……ようやくかよ」
背中に漆黒の羽を生やし、鋭い爪と牙を携えたその姿はまさに吸血鬼。獣人態になったカイは肩を回すと、翔多に顔を向けた。
「危うく死ぬところだったろうが。遅ぇんだよ人間」
「その『人間』って呼び方、やめてくれるかな?」
「ハァ?」
カイの眉が下がる。
翔多は自分の胸を強く叩いた。
「僕にはちゃんと『ショータ・ナルセ』って名前があるんだからさ」
そう言うと、カイは鼻で笑った。
「知ったことか」
コンマの咆哮が轟いた。空気がビリビリと震え、二人の顔つきが変わる。
「来るよ」
「くたばんじゃねぇぞ」
大地を軋ませ、コンマが駆け迫る。ショータとカイは同時に飛び退いた。
そのままカイが黒い羽で羽ばたく。熱い空を滑空したあと、コンマに鋭い爪を突き立てた。
耳障りな絶叫が響き渡る。身体をよじり、カイを振り払おうとするがそうはいかない。
ナイフを拾い、ショータがコンマの喉元へ突撃する。傷口を抉るように刺しこむと、真っ赤な血が顔に飛び散った。
コンマが激しく暴れだす。尻尾で弾かれたショータはすぐに立ち直り、顔の血を拭った。
コンマの雄叫びがこだまする。直後、烈火がショータめがけて吐き出された。
先行する熱風に耐えながら、ショータは焦ることなく腕輪へ手を伸ばす。
「シドル!」
白い光が銀へ変わる。ショータの前に巨大な盾が召喚され、その身を炎から守った。
炎で焦げた道の上を走りながら、ショータはカイへ叫ぶ。
「カイ! 避けて!」
「ハァ? お前がうまく狙えば――――」
「ククア!」
カイの言葉を最後まで聞かないうちに、ショータは呪文を唱える。コンマの頭上、すなわちカイの頭上に魔方陣が現れた。
バケツをひっくり返したような膨大な水が落ちてくる。舌打ちしながらカイが飛び立った。コンマが水に飲まれる。
ショータは間髪入れずまた腕輪に触れた。
「イアス!」
氷の段幕が途絶えることなくコンマに襲いかかる。水に濡れていたコンマの身体は冷気にどんどん凍りつく。時間をかけずして、全身が氷に包まれた。
ナイフを握る手に力が入る。頭上でカイが羽ばたいた。
「危ねぇな!」
「愚痴ならあとで聞くから!」
氷像になったコンマへショータが走る。氷が少しずつ溶け始めていた。
「ネイド!」
腕輪に触れて呪文を唱える。ナイフに風のエネルギーがまとわれ、刀身が刀のように長くなる。
その上を契約獣の影が飛んでいった。コンマの真上を取ったカイは、右手の爪をさらに凶暴に伸ばす。
「でやぁぁぁぁぁぁ!!!」
気合いの叫びと共に、風刃が閃光を走らせ氷像を切り裂く。その直後、カイの爪が振り下ろされ巨体を両断する。
縦横からの斬撃を受け、氷漬けのコンマが四等分されると同時に、辺りは爆風に包まれた。
爆風に飲まれ、ショータが路地を転がる。思いっきり壁に背中をぶつけた。
風が収まり、シンと静かになる。ショータは上体を起こすと、周囲を見回した。
どこにもコンマの姿はない。当然だ。ショータが倒したのだから。
「勝った……?」
実感が湧かず、ショータはとぼけた表情を浮かべている。が、壁に寄りかかるカイを見ているうちに、だんだんと自分の成したことを理解してきた。
その瞬間、安堵で身体中から力が抜ける。上半身が後ろへ倒れかかった。
「ショータ!」
身体を誰かが支えてくれた。ロメだった。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫……だと思う。ただ、すっごい怖かった」
そう言うと、ロメはホッとしたように微笑んだ。それから真剣な顔になり、
「しかし、なぜこんな街中にコンマが……」
コンマが消えた痕を見て告げた。その横顔にあてられ、ショータも顎に手をやる。
「わからない。それも、あんなに大きくて凶暴な個体が現れるなんて……あんなのしょう――――」
あんなの小説に書いた以上だ。そう言いかけて、ショータは手で口を塞いだ。
それを身体の不調と思ったのか、ロメが心配げな目をする。
「どうしました?」
「ううん。ごめん……なんでもないんだ」
「立てますか?」
ロメに肩を貸され、ショータは立ち上がる。そのとき、視界の端に猫が映り込んだ。
路地の隅っこで行儀よく座った黒猫だ。黒猫はショータを数秒間見つめた後、くるりと振り返って去っていく。
その背中に、三日月模様が浮かんでいた。
「っ! 待って!」
ショータは反射的に追いかけた。だが、先ほどの戦闘で疲労が溜まっており、数歩走ったところで膝をついてしまう。
黒猫の姿はもう見えなくなっていた。
「ショータ?」
「……いや、なんでもない」
息を切らして、それだけ返事をした。
☆ ☆ ☆
「お待たせしましたぁ!」
テーブルの上に数々の料理が並べられる。それらを見てショータは目を丸くした。
というのも、ほとんどの品がひどい有り様だったのだ。あるものは黒焦げ、あるものは意味不明の色、あるものはベチョベチョ――――あげればきりがない。
「ロメ……これなに?」
「ディナーです!」
即答だった。ニコニコ顔のロメがいやに眩しい。
自分で設定しておきながら、ショータは頭が痛くなった。
嗅いだことのない匂いが鼻腔を突き刺す。思わず鼻をおおった。
耳元でプサイが囁く。
「ごめん。普段はあたしが作ってるんだけど、今日は自分が作るって聞かなくて……」
ショータはプサイの腕に目を落とした。包帯が巻かれている。
「仕方ないよ。だってその腕じゃ、料理できないでしょ?」
「ありがとう。食べても死にはしないと思うから、たぶん」
「それ逆に怖いんだけど……!?」
部屋の隅で大きなため息が聞こえた。腕を組んで立ったままのカイが、テーブルの皿を見下ろしている。
「これを食えってか?」
「はい! カイのために血もふんだんに使いました!」
ショータは耳を疑った。目の前に並ぶ物体Xに寒気がする。いったいなんの血を使ったというのか。
「食うかバカ。俺は人間の食い物は嫌いなんだよ」
カイがショータの隣の椅子に腰かける。
「だいたいな、俺はこいつらの家に居候する気はねぇぞ」
「でも住む場所がないと困るし……せっかく歓迎してくれてるのに」
特に、現実世界に帰る術がないショータにとって、衣食住は死活問題だ。ロメとプサイが快諾したものに甘えない理由はない。
しかしカイは、テーブルの上を一瞥してこう吐き捨てた。
「この飯が歓迎とは思えないがな。見るからに不味そうじゃねぇか」
「まずっ……!?」
ロメがしゅんとなる。プサイの殺意のこもった眼光がカイに突き刺さった。
お前、食えよ。視線はそう言っていた。カイが椅子から腰を浮かせる。
「と、とにかく。俺はここには住まねぇ」
足早に去ろうとするカイの腕をショータはつかんだ。
「そういうわけにはいかない。僕は君の契約者だ。君を見張る義務がある」
「っ、あのなぁ……!」
嫌な顔をするカイに、ショータは声を大きくして告げた。
「僕と一緒にここに住むなら、僕の血を吸っていい」
カイが呆けた顔をした。自分をつかむショータの腕を見てから、ニヤリと口許を歪ませた。
「マジか?」
「……うん、マジ」
ショータの返事を聞くと、カイは素早く席に戻った。
「さ、さあ食うぞ。一暴れしたから腹減ってんだ。不味くても食わねぇよりはマシだ」
言うが早いか、手掴みで物体Xを口に押し込む。瞬間、カイの動きが止まった。
ショータが顔を覗きこむ。
「カイ?」
「……うめぇ」
「へ?」
勢いよく立ち上がり、カイはロメへ詰め寄った。
「おい人間!」
「ろ、ロメです!」
「ロメ! テメーの飯最高だ」
パァァッとロメの顔が明るくなる。立ったままカイは新たな皿へ手をつけた。
「こんなうまいもん食ったことねぇ。これ本当に人間の飯かよ?」
「あ、ありがとうございます!」
素直にお辞儀をするロメと、遠慮なくがっつくカイ。ショータはプサイと顔を見合わせる。お互い、信じられないといった表情をしていた。
「ロメの料理を喜んで食べるやつは初めてだ……」
「ま、まぁ……よかったんじゃない?」
「あ、おい人間」
カイが手を止めてショータを呼んだ。
「テメーの血はデザートだからな。逃げんじゃねぇぞ」
「……マジ?」
「マジだ。ここに住む条件はそれだからなァ」
意地悪い笑みで言うカイ。ショータは唸り、ため息を吐いた。
もうショータの血でつらなくても大喜びで住み着きそうだが、それを言ったところで無意味なのは明白だった。
諦めてショータも椅子につく。カイが美味そうに食べているのを見て、もしかして本当においしいのではと思ってしまう。
「い、いただきます」
手を合わせてから、フォークで肉らしきものを刺して口へ運ぶ。
案の定不味かった。
☆ ☆ ☆
星空の下。風が吹いて裾が揺れた。夜の闇をそのままペイントしたかのような漆黒の衣装の隙間に、真っ白い包帯が覗く。
黒衣と包帯に身を包んだ人形が、屋根の上からショータたちの様子を窺っていた。
衣服は大きく、身体のラインがはっきりと見えない。包帯もミイラのように顔まで覆い隠しているため、男か女かの区別さえつかない。
胸元に下げる雫型のネックレスが、月明かりを浴びて小さく煌めく。
「あれが神様……」
人物はショータを俯瞰し呟いた。その脇に、三日月模様の黒猫が現れた。
黒猫は背中の三日月を本物の三日月に向けて座る。
人物は包帯の手で黒猫の頭を撫でた。
「あんな人をこの世界に呼び寄せて……君は何がしたいんだい?」
月に雲がかかって、影が一人と一匹をおおう。
黒猫はとぼけるように首を捻って「みゅ?」と鳴いた。