年齢相応に悩みながら
フラーンデレンと名付けられたベルギービールの店は、どうやらまだ開店して一年程度であるらしい。中の雰囲気も良いし、軽く区切ってあるだけだが、声が漏れないような文字式を配置しているのは良い手際だ。
潦兎仔は、かれこれ二時間ほど飲んでいた。非常に難しい顔をして、一人で座っているのだから、何事かとも思うだろう。飲み始めたのは夕方だが、とっくに陽も沈んでいる頃合いだ。
しかし。
その難しい顔というのが、兎仔を知っている人間にしてみれば。
「――あれ、珍し。兎仔じゃないの」
「あー? ……ああラルか。何しにきた」
「そりゃ飲みに来たの。どしたの、変な顔になってるよ」
「クソ仕事を終えた後に見た、鏡の前のてめーより酷いか?」
「うん酷い」
「即答すんな。あー、ちょっと付き合え。奢ってやる」
「あんたに奢られるほど懐は寂しくないけれどね。主に仕事を押し付けるクソッタレのせいで」
「そりゃご苦労さん。あー、オルヴァルのお代わり、あたし二本な」
はいはいと、対面に座ったラルが注文をする。既に十本以上飲んでいるが、兎仔は平然としたものだ。この程度で酔いが回るようでは、軍人としてやってはいけない。
注文が六本ほど届いて、新しいものをお互いに開けながら。
「で、本当にどうしたの。仕事を任せられないレベルなんだけど?」
「仕事ってんなら綺麗さっぱり忘れ――て、やりゃいいと言うが、まあ忘れられねーから困ってんだけどな」
「ふうん? 本当に珍しいわね。トラブル?」
「仕事は関係なし。どっちかっつーと〝当てられた〟んだろうな。そんだけ強い感情だった」
「そんなん慣れてるでしょうに」
「憎悪、殺意、悲観、加えて諦観、絶望、狂気――ま、戦場じゃよくあることだし、利用もする。けどなあ……好きっつーのは、どうもな」
「――は?」
「お前、あたしに向かって愛情を向ける野郎がいたらどうよ」
「正気を疑って精密検査させる。あとロリコン疑惑」
「だよなー。ははは、――お前今度、クソ仕事な」
「正直に言っただけよ⁉」
「うるせえ馬鹿」
「ったく……けど、兎仔ならそれも、上手く受け流すでしょ」
「まーな。ハニートラップなんて罠に遭うほど馬鹿じゃねーよ」
「でしょうね。裏も調べたんだろうし……っていうか、相手は一般人?」
「あろうことか、その通り、ほぼ一般人。熱を入れてたのはあっちだが、どうも――感情に当てられた。いつものあたしならこう考える。こりゃ不味い流れだ、面倒は避けておけばいいってな」
「なるほど、そういう流れに〝したくない〟っていう感情に振り回されてるって?」
「んな感じだ。口説かれたわけじゃねーが、言葉数少なくたって、好意を伝える手段も、知る手段もあるんだなと感じながら、ビールを押し込んでる」
「ふうん? ちなみにその手段って?」
「キスした」
「んぐっ……あぶな。なにその物は試しみたいな」
「いや、実際なにか変わるかなと思ったんだよ。主にあたしの中の何かが」
「で――変わったと」
「変わったっつーか……なんだろうなーこれ」
あの。
あの潦兎仔が、なんという有様だろう。歳相応に、恋愛ごとに悩んでいるだなんて。
もっともその悩みの質、問題それ自体は、相応ではないけれど。
「どういう相手なの」
「あー、あんま見ない手合いではあるけど、まっとうだよ。まっとうだ、あたしから見て間違いなくそう言えるぞ。正直、野郎って意識はしてなかった。路傍ですれ違う相手くらいの感覚だ。あたしの仕事はそれなりに知ってはいたが、それだけで、本質は掴んでねーし……いや逆か? 本質は知っていても、詳細は知らないか」
「希望は?」
「あー、どうだろ。いろんな意味であたしが欲しいって気持ちと、それを拒絶する意志。だがそれでも――共にいたいって気持ちくらいは、あたしでもわかったけどな」
「いい子じゃない。領分を弁えてる」
「その上で、弁え過ぎてねーってのが、好感触だろ」
「そうね。だったら付き合ってみればいいじゃない、何をあれこれ悩んでるの」
「いろいろとな」
「いつも、ちゃんと決めてきたでしょ」
「そりゃ、決めるのはてめえの意志だ。常に、いつだって、あたしはそうやって歩いてきた。じゃなきゃとっくに死んでる。けど」
「でも?」
そう、残念ながら――というか。
「あたしは今まで、感情でそれを決めたことはねーんだよ」
そもそも、兎仔にはまともな感情が残っていない。何しろ、死の商人と呼ばれる武器販売の倉庫で、商品として仕上げられたのが潦兎仔である。感情なんて邪魔なもの、真っ先に潰されたし、余計なことを言わないよう精神的に追い詰められて言葉を失っていた時期もあった。
やることは一つ、ただ依頼主の思惑通り、目的の人物を殺すだけ。一度きりの使い捨て――のはずが、兎仔は、生還してしまった。
吸い終えてしまった煙草が、また戻ってきたとなれば嬉しくて吸い出すが、しばらくすれば奇妙さに眉を顰めることだろう。それでもと続けたところで、やがてその状況に耐えられず、捨てるのが人だ。
そうして捨てられた兎仔は、それでも、最後の仕事だけは完遂して――そして。
最後に。
アキラと呼ばれる男の手で、拾われた。
「だから、戸惑いが大きい」
「へえ? つまり、決めるかどうかはともかく、感情として答えは出てるってわけ?」
「――わる……いや」
ビールを飲み干し、そして。
「良いと、思ってはいる。なんつーか……現状じゃ、野郎の場所になら帰っておかねーとなって、思う」
「それに従うかどうかを〝決める〟のに迷ってるわけ? 呆れた、年頃の乙女かあんたは――あ、そういやうちの娘と同い年くらいだっけ」
「情けなくて、酒でも飲んでなけりゃ話もできねーよ」
「ま、そうよね」
「お前、旦那の時はどうだったんだよ」
「私? あー、まあ苦労した。すげー大変だった。聞く?」
「参考にゃしねーが、聞いてやるよ」
「あいつ奥手ってわけじゃないけど、すごく照れ屋でさ。とりあえず本音で話せってのを通用させるのに苦労して、ようやくベッドに引きずり込んだら、ようやく本音を言うようになったって感じ。あれ開き直るのが遅すぎ」
「あんたの前で〝偽り〟を続けるなんてのも、評価してやれよ」
「まあね。ただお互いに同業だし、生活自体に問題はなかった。娘を引き取ってからは、帰る場所もできたし、集合場所じゃなくなったのは良かったかな」
ふいに気付けば、相手の本音を悟るなんてのは、この女の術式に近いのではないだろうか。
嘘が吐けなくなる――なんて場を創り上げる女だ、近しいものはあろう。
「ともかく、お互い知るためにも付き合ってみたら?」
「そう簡単にできねーから、こうやって悩んでんだろーが……」
「コツは、一度や二度の喧嘩で諦めないこと。ていうか、なにを悩んでんの」
「あー……だから、いろいろ」
本当は、一つだけしか懸念はない。
あの口づけを交わして、その結果として、まあいろいろと思うことはあったけれど、何がどうであれ。
――参りそうだったのだ。
甘えてしまいそうだった。
溺れたって構わない、そんな気持ちがあって――それでいいのかと。
潦兎仔はそれで良いのかと、自問しているのだ。ずっとし続けている。
お前はそれで胸を張って、生きて行けるのかと。
「部下には見せられねーツラしてんだろーなあ……情けねーよ」
「もう面倒だからその悩み、本人に言えば? あっさり解決するかもよ」
「……」
ぴたりと停止した兎仔は、睨むようにラルを見てから携帯端末を取り出した。
「……よー、ちょっといいか。あのなー」
と、あっさりと悩んでいる内容を適当に、ほぼ一方的に言って二分、おう、と応えて通話を切った。
「どうしよう? って言われたぜ。お前、一つ貸しな」
「するかもって曖昧にしたでしょ! この相談料で帳消し!」
「うるせーばーか」
区切りをつければ、まあ上手く行くだろう。けれど、戦場に入って、仕事になって、スイッチを切り替える? そんな三流じみたことをやっていては、彼女たちはこの世界で生きていけない。
だからこそ〝不調〟を意識した兎仔は、いつもよりも警戒している。普段よりも気を払っている。酒を飲みながら、一歩〝外した〟先に待っている戦場になっても、生き残れるように。
普段とはそれが違っていたからこそ、ラルもすぐに兎仔に気付いた。当然だ、その警戒がわからなければ、ラルは三流と同じだから。
いつもと同じ態度で、いつもと同じ会話。
――ああそれでも、染みついた〝何か〟が消えることはない。
一般人と対峙して、会話をしていればすぐに気付く。否、気付かされる。自分はあまりにも異質で、彼らがどれほど間抜けなのかを。
ああ、だがそれでも、だからこそか。
眩しい太陽ならば目を背け、届かない光ならば諦めもつくというのに、中にはふいに、一般人でありながらも横に立って、どうしたのと首を傾げながら、あまりにも無防備な片手を差し出すのだから、こうして兎仔も迷っているし、悩んでいる。
自分たちが忘れてしまった何かを思い出させるよう、さも当然という態度で、彼女たちができないことを、あっさりと、目の前でやってくれるから――。
「ふん。でもまあ、兎仔だって仕事もあるし、あんまり会えないでしょ」
「ん? いや、面倒終えて、あたしも野雨にベースを構えるぞ」
「…………はあ?」
「なんだそのすげー嫌な顔。道端で犬っころのクソでも踏んだような顔だ」
「また野雨に厄ネタが増えるわけ……⁉」
「なんだそりゃ、あたしの部下のことを言ってんのか?」
「あー、あいつらはおとなしくていい。可愛いくらい。そのまんまでいてくれと、いつも祈ってる」
「何に」
「敬愛すべき猫神様に」
「あたしの傍に寄ってくる〝猫〟は、ワケアリばっかだけどな」
「――なんて羨ましい! そんだけ血の匂い出しといてそれか! それなのか⁉ なんて世の中は理不尽なんだ⁉ ちくしょう!」
「だから、ワケアリだって言ってんだろ。上官の悪影響かもしれねーけどな」
「ちょっと、そいつの名前を出さないで。頭が痛くなるから」
「だったら追加で酒を飲め。なんだ、あの人のトラブルに巻き込まれたクチか?」
「話したくない」
むすっとした顔で言ったかと思えば、追加注文をした。つまめるものも頼んだあたり、まだ長居をするらしい。
「まあいいんだけどさー、そのお相手ってのも気になるから、落ち着いてから教えてよ。そっちも手を回すんでしょうけど、私も一枚噛むわよ」
「当然だろ、貸しを返せ」
「あんたはもう……それで? ベースの手配は?」
「まだ。避難小屋もどうするか考え中」
「若いけどがんばってる子、紹介しようか?」
「そいつを打診して、確保してねー場所を使うってのがセオリーだけど、そいつならたぶん知ってる」
「野雨のことも調べたの?」
「多少な。つーか副産物。あたしの相手、アリスだし」
「…………は?」
「だーかーらー、アリス・ザ・リッパーだっての」
言えば、残りを一気に飲み干したラルは、タッチパネル形式の携帯端末を勢いよく叩くと、それを耳に当てて。
「――ちょっとあんた正気⁉」
『なに急に、うるさいなあ。いいですかラルさん、そんなだから、みれさんが嫌そうな顔をするんですって』
「娘は関係ないでしょ、娘は」
『というか、じゃあラルさんって正気なの?』
通話をそこで切断した。
俯いて、自分で切った携帯端末を見ているラルを横目に、兎仔はビールを呷った。もちろんというか、いわゆるラッパ飲みである。
「――、あのね兎仔」
「あー?」
「あの子、ほんっっとうにいい子だから! ちゃんと真面目に考えてあげて! 断るにせよ距離を取るにせよ、ちゃんと話すこと! いい子だから本当に!」
「うるせーよ。つーかなんだ、お前はあいつの母親か? てめえの娘にやれよ」
「娘は娘、孫は孫!」
「ただ甘やかしてるだけじゃねーか……」
「いいから」
「わかった、わかった。つーか、これでも真面目に考えてる」
だからこそ、だ。
考えれば考えるほど、ドツボのような気がしてならない。傍にいない相手を、ずっと意識しているようなものだ。
かつても、似たような状況はあった。どれほどの訓練をしても、どんな仕事をしていても、ずっと幻影のように傍に在る上官の影を追っていた時期。今ではその背中が目視できる位置にまできたが、かつては全力疾走で影の本体を目指そうと足掻いていた。
考えて、考えて、努力を重ねて発展を見て、まだ足りないと思いながらも躰を前へ動かした日日。
けれどそれも、今の状況とは違うからこそ、考えた先に〝迷い〟と〝悩み〟が発生する。
駄目ならばそれでいいと、そうやって行動しても良いのかもしれない。だが、立場が違い過ぎるために、駄目だった結果として相手を巻き込む可能性がある以上、そう簡単にはいかないと、何よりも兎仔自身が理解しているのだ。
かといって、ずっと一緒にいなくてはならない、そんな強迫観念もない。人付き合いに、そんなものがあってはならないだろう。
突き詰めれば二択だ。
共にいるか、否か。
それさえ選び取ってしまえば、己の決定に対して全力を尽くせばいいだけのこと。
「つってもなあ」
いかにアリスがいい子なのかを離し始めたラルの言葉を聞きながらも、ぼんやりと。
その二択が決められないんだと、頬杖をつく。
決定は迅速に、迷った瞬間に死ぬと思え――部下にはそう徹底して教え込んだのに、自分がこのザマだ。
ああ、まったく。
情けない話だ――。