電子戦爵位、伯爵
あれから五日が経過した現在となって、沢村マイは落ち着きを取り戻していた。
いや、実際には翌日からすぐ落ち着いていたし、学園に通ってはいたものの、小さな齟齬は生まれていた。
たとえば。
学園の生活科に所属しているマイは、当然のように料理などをやる。簡単に言ってしまえば調理師免許を取るのが目的のようなもので――それ以外もあるが――座学を含め、そうした実習もやるのだが、材料があったのでカルボナーラを作っていた時。
ぼうっとしていたわけではない。手順は考えていたし、時間も気にしていた。
けれど、ああ、確かにマイは。
「んー」
ひょいと、隣から手が伸びてきたかと思えば、ソースに指を入れる。その根元を辿れば、クラスメイトでもある梅沢なごみが、ぺろりと指を舐めていた。
「なごさん」
彼女は実家が旅館ということもあって、あまり学園には顔を出さない。同い年ではあるが調理師免許を既に持っており、料理に関してはそれなりに信頼のおける相手ではある。その上で、マイを怖がらずに接する人物でもあった。
「足りないがー」
独特のなまり。標準語ベースにして、語尾が上がったり下がったり、変わったり変わらなかったり。
「まいちゃん」
「なんか失敗してた、俺」
「うんや、その失敗が足りてないぞん」
「え?」
「完璧やないけんども、過ぎちょるけん」
ああ――なるほど、どこか確かに浮ついていたのか。
「フェンミーナモルタの味じゃのう」
「……得意料理ってことで、ここは一つ」
「うむ」
なんことがあれば、いけないなと気を引き締めたくもなる。ただでさえ高級料理店だ、そんな場所の味に慣れていなければ作れない料理など、遊び場でもある学園ですべきではない。適度に失敗しつつ、上手く仕上げていたのが、一発でバレるような無様は避けるべきだ。なごみには感謝である。
あんまり引きずらないようになと、ちょっと意識しながら学園で過ごし、五日も経過すれば落ち着きも取り戻せる。いずれにせよ仕事もあったので、本日は自主休校。こういうのが平然とできるのが、VV-iP学園のいいところだ。
さて仕事だと、口元を笑みにしながら取り掛かって三十分、時刻は九時過ぎになった頃、来客を告げるインターホンが鳴った。
「んー?」
誰だろうと、マイは一度席を立ち、玄関に向かう。電子パネルで確認すれば、マンションのロビーではなく、部屋の前での呼び出しだった。となれば外客ではなく、住んでいる人かなと思って。
「はいはい、今開けますよっと」
電子錠を解除してから、チェーンと二重ロックなんて、このご時世ではごくごく普通の鍵を外して玄関を開けば。
「よう」
――憧れの彼女が、そこにいた。
「……」
拡張現実の眼鏡をつけたままだったのに気づいて、鼻の下へとズラしてみるが、現実は変わらない。
「中入れろよ」
「え、あ、うん、どうぞ……?」
半ば強引に肩から入って、靴を脱ぐ。
混乱というより、真っ白だ。なんでこうなっているのか、よくわからない。わからないがと、ロックをかけて慌てたようにその背中を追う。
「お、なんだ結構広いな。仕事部屋か? 端末が二台か」
「一応は……え? あれ、えっとあの、どうして?」
「仕事が終わったから、お前の裏を洗って、また逢いに来たんだろ」
当たり前のことじゃないか、みたいな様子で言い切った彼女、潦兎仔は、大きめのソファに腰を下ろして、欠伸を一つ。
「さて話を――と言いたいところだが、面倒なクソ仕事をしててあたしは眠い。しばらくすりゃ起きると思うから、寝かせろ。多少うるさくしても問題ねーから、お前は仕事でもしとけ。わかったかー?」
「あ、はい、わかった」
思わず頷けば、彼女はごろんとソファに横になって目を閉じた。小柄な躰を伸ばしたままだが、すっぽりとソファに収まってしまっている。
――何がどうなっている?
よくわからん。わからんが、それを訊ねる相手が寝ている。
「……はあ、まあいいか」
また逢えたんだという高揚感もないのは、突発的な事態であるためと、兎仔の行動があまりにも自然だったからだろう。眠いなら寝かせようと、素直にマイが受け入れてしまったのも一因か。
デスクの前に改めて座ったマイは、眼鏡によって立体的に投影された複数のディスプレイを眺めながら、左右に展開されたキーボードを叩く。といっても、テーブルに直接描かれた平面キーボードなので、文字通り、叩くのだけれど。
アリス・ザ・リッパー。
この名称は電子ネット上において、唯一、沢村マイしか使うことができない。
たとえば、ゲームで名前を入力する時。あるいはリアルタイムチャットなどでハンドルネームを作る時、ふいにこの名を思いついて入力した人間は、揃いも揃って、この名称は使えませんと警告画面を拝むことになる。更に言えば、一般の検索エンジンで入力しても、出てくる結果は常に一つだ。
その一つというのが、世界公式電子戦爵位制度の公式ページである。
その仕組みは実に簡単で、セキュリティを組んだ人物がサーバを公開しているので、そこにアタックを仕掛けて分解し特定のワードを引き出せば良い、ただそれだけの制度だ。
下から男爵五十人、子爵三十人、伯爵三十人、侯爵二十人、公爵十人――と限定されてはいるが、現存する人数はやや下がる。特に最高峰の公爵位はいまのところ三名しかいないし、満席なのは男爵だけ。
実際には、誰にアタックを仕掛けても構わないのだが――まあ、男爵を破れない人間は、子爵にはとてもじゃないが届かない。そもそも、運なんてものが通用しないものである。
じゃあ一体、どのくらいのレベルなのかと問われれば、仮に一時的にでも男爵位を所持していた者は、たとえ後任に破られて爵位を失ったところで、一生食うに困らない仕事を得られる。引く手は数多、むしろ爵位がないのだから自由に動けると、IT系を含め、プログラムを実用化する会社はハイエナのように群がっているのが現実だ。
かくして、公式ページを見ればわかる。
伯爵位に、アリス・ザ・リッパーの名があるのだ。
――つまり、沢村マイである。
単純計算、電子戦技術における世界で六十人の席に、この男は座っているのだ。
基本、仕事に制限はない。ないが、まあ一定のルールのようなものが発生している。
たとえば、セキュリティソフトを開発している会社がマイに依頼を出したと仮定しよう。その場合、現在伯爵位に座っているマイが、今使っているセキュリティを構築して渡してやろうと考えるか? 答えは否だ、せいぜい三世代前に作ったセキュリティを渡すのがせいぜいだろう。わざわざ研究材料を世間一般に提供するほどお人よしではない。そして、想像すればわかるその結果を前に、会社が大金を払って依頼するか? それも、否である。
とまあ、仕事関連にはそうした当然の仕組みが発生している。
では爵位制度に関してはどうだろうか。
これもまた、最低限のルールがある。たとえば、男爵位に挑戦する場合にも、まずは身元の証明をしなくてはならない。その上で、統括している部門へ打診し、相手の許可を取らなくてはならない。
といっても、この許可というのは、五日間の内には必ず出さなくてはならないものだ。いわゆる、電子戦というのは相手がいてこそのもので、半自動的に行われるそれに、ほとんど意味がないとされる。それでも最低限の手を打つのがハッカーというものだが、あくまでも腕比べならば、相手が端末の前にいなくては意味がない。――つまり、デスクの前に座っていないから、もうちょっと待ってくれと頼むのと同じで、拒否権そのものはないわけだ。
ただし、挑戦者の数がいくら多くても、五日に一人に限定されている。そんな挑戦者の管理が、統括部門の仕事でもあるのだが、眠気に目をこすりながらでも、自動応答プログラムをマイなら組み立てることができるので、大した仕事ではない。
さておき。
サーバなどの定期チェックをしながら、受けていた仕事のプログラム構築の続きを始める。〝それなり〟に労力を割く仕事だ。つまり、それなりの金額にもなる。
ちなみに、狩人であるラルと知り合っているのは、どこぞの情報を抜いてくれだとか、あの情報を置いて来いだとか、そういう〝裏〟の仕事もマイは引き受けているからである。爵位制度が公式とはいえ、やっているのはハック技術の見せあい。記録を残すような間抜けなやり方は、最初から通用しないのだ。何故なら、アタックをしかけた時点で逆侵入され、用意していたプログラムは改変されるし、中身を覗かれて真っ白だ。
バレなければそれでいい――そして、その情報を使うのがマイではないのだから、知ったことじゃないわけだ。ラルもまた、決してマイの名を出さないことはわかっている。
であればこそ、危険度に比例するよう提示される金額も良いわけで、学園の授業料を支払うくらい、大した損失にならないくらいの貯蓄もあるのだが、だから仕事をしないなんてのは性に合わない。
それが、一人で生きるということだと、思う。
「……」
左端に表示していた時計を見れば、一時間が経過していた。
ようやく。
眼鏡をずらして背後を振り向けば、小さく丸くなった彼女が、兎仔が、寝息を立てている。変わらない姿ではあるが、ここ六十分ほど、兎仔が目を閉じて定期的な呼吸をしていただけなのを、マイは察していた。
狸寝入りをして様子を窺っていた? それもあるかもしれない。だが最大の理由は、そもそも、彼女はあまり眠れないのだ。
そういう軍関係者は多いと、養父からも聞いている。それほど深くは調べていないが、兎仔もまた、例に漏れないのだろう。だからこそ、眠りに入ったのがわかって、安心した。
――可愛い寝顔をしている。
実年齢を思い出せば、同い年。つまり歳相応の寝顔なんだなと思った直後、首から熱が上がってきて、俯いた。
参った。
どうも、こいつは、やられている。
深呼吸を一つしてから、改めて作業に戻った。先ほどとは違って、眠ったからこそ、逆に意識が向いてしまうものの、作業の進行に滞りはなく。
そこから更に一時間ほどして、小さな音に振り向けば、寝室から黒猫が顔を見せた。
赤色のスカーフを捻じってから巻いた首輪もどきをつけた黒猫は、マイと一度視線を合わせてから、興味深そうに寝ている兎仔に近づくと、身軽な動きでソファへ乗る。背もたれを移動してから顔側へ下りれば、鼻を鳴らして顔の周りを嗅ぎ始めた。
「んー……」
兎仔の意識が覚醒したのがわかった。左手で黒猫、尻尾の付け根付近に触れると、そのまま首回りを撫でてから、器用に回転させて両手の間に手を突っ込み、もふもふと撫でながら躰を起こす。
「……ん? あー、そっか」
「おはようございます」
「おー」
起きたのはいい。いいのだが。
「あの、潦さん」
「兎仔でいい。敬称も敬語もいらねーよ。で?」
「起き抜けに申し訳ないのですが、その、右手のモノをしまってくれると、俺の精神衛生上、すげー助かるんだけど……!」
何言ってんだと首を傾げ、小さく欠伸を一つ。それからようやく、握っている拳銃に視線を落とし、しばらく無言でいたかと思えば。
「あー、ここどこだって思った時点で抜いてたのか。条件反射だ、気にするな」
ソファを下りて、大きく伸びをした時には既に、拳銃が消えている。おそらくは術式だが、マイにはよくわからない。
「便所。それと洗面所」
「廊下の突き当り。風呂もあるけど?」
「そっちはまだいいや」
まだとは、どういう意味だろう。否だ、考えるなマイ。どうせろくな答えが出ずに、まともに顔が見れなくなるだけだ。
洗面所の方へと消えてから、吐息を一つ。こちらを見上げる猫に苦笑した。
「猫サマ、あの人は大丈夫か?」
言葉が通じているのか否か、彼女はすぐに視線を反らし、ソファで毛づくろいを始めた。いつも、そんな感じである。
とりあえずと、手早く現在進行形の仕事を、きりの良いところまで片付けたマイは眼鏡を置いて立ち上がり、兎仔のように伸びを一つ。飲み物でも淹れようとキッチンへ行き、さて、何がいいのだろうと再び戻って、洗面所の方へ。
「あの、兎仔さん」
「んー」
ややくぐもった声が聞こえた。
「飲み物、珈琲と紅茶があるけど?」
「んー……、珈琲でいいぞー」
「うん」
わかった。
……わかったけれど。
「えっと、兎仔さん、何してんの」
「んー、歯を磨いてる」
「へえ」
「あたし、寝起きのあの感じがあんま好きじゃねーんだよ」
「歯ブラシとか常備してるんだ」
「いやねーよ」
はい、嫌な予感が的中しました。
「まさか俺の使ってんの⁉」
「ここにあるのがお前のじゃなけりゃ、違う人のだなー」
「そうじゃないよ! っていうか言ってくれれば新しいの出したのに!」
「あ? 気にしねーよ」
「俺が気にするよ……⁉ 兎仔さんが使ったのを俺が使うとか無理!」
見なくてもわかる。恥ずかしさに、歯を磨く自分の姿は、鏡越しにきっちりと、真っ赤になっているだろうことは。
「ああもう……いいよ、もういいです。どうぞご存分に」
「……変なヤツだな」
どっちがだ、と思ったが、敗北者のように肩を落としながら、ずこずことキッチンにまで戻った。珈琲の準備である。全自動コーヒーメーカーなので、豆と水を入れてボタン一つ、十五分もせずとも落ちた液体を、カップに移すだけで済む。
マグカップを片手に戻れば、兎仔は猫と遊んでいた。
「こいつ、お前が飼ってんのか?」
「あー、一応そうなるのかな。俺がここに来た時にはいたから、先住民みたいな感じ。だから同居人かな。落ち込んだ時とか慰めてくれるし……主に俺の腹の上で寝るっていう苦しい慰めだけど」
「ふうん。そっち仕事は?」
「区切りをつけたよ――はい、珈琲」
「おー。つーか……いくつか調べたが、お前とあたし、接点ねーよな?」
まあそうだねと、デスクの椅子を引っ張ってマイは腰を落ち着ける。そう、落ち着かなくては話もできない――慌てるなと、言い聞かせるようにして口を開く。
「兎仔さん、うちの衛星映像、使ってたでしょ。あれが切っ掛け」
「あー」
まだ爵位を持っていない頃の話だ。
小遣い稼ぎという名目で、まだ父親が存命の頃、マイは気象衛星にバイパスを作り――もちろん違法だ――特定のサーバで公開していた。衛星映像そのものの保存をしておき、そこに他者がアクセスして利用する、といった形式だ。このような場合、リスクとしては使う側の方が大きいのもあっての選択である。
「顧客の情報は軽く調べるんだけど――兎仔さんの名前があった。人物像を見たら、そう年齢も変わらない相手で、なんというか衝撃だった。憧れにも似た気持ちを抱いたよ」
「憧れだあ? あたしに?」
「俺には眩しかったんだよ。綺麗だと思った。――ああ、一人で生きている。羨ましい」
「あー、当時のてめーはまだ、事を起こしてなかったのか」
「はは、まあね。がんじがらめの自分と比較したってわけだ。けどまあ、親を潰してからは――ただの憧憬だけじゃなくなった。妬ましいと思うこともあったけどね。ただそれ以上に、一人で生きることの歪さっていうの? そういうのに気付いた。そして、それは、俺にはたぶん無理だってこと」
「だからあたしの背中を追うのは止めたのか」
「追おうって意識が、幸運なことになかったのも一因だね。だから、俺は俺にできることをしよう――と、変な言い方だけど、活力にさせて貰ってた。一方的だけど」
「で、道ですれ違ったわけだ」
「あー……うん、まあ、あの時はマジで混乱してて――というか、仕事があるからって言ってたよね、兎仔さん」
「まーな。現場ならともかく、面倒な書類やら顔合わせやら、クソッタレな仕事がな」
「いやそうじゃなく」
「あー?」
もしかして、兎仔は気付いていない?
「仕事があるからまた今度って、断り文句の常套句なんだけど」
「ふうん、そう思って落ち込んだわけか。ご苦労さん。あたしは素直に言っただけだぞ」
であればこそ、仕事が終わってこうやって逢いに来てくれたのだ。
「うん、今ならわかるけどね。あん時はマジで混乱して、何が何やらわかってないような状況だったから」
「なかなか面白い資質だな」
「――どうだろ。っていうか兎仔さん、わかるの?」
「わからなかったら、あたしはとっくにくたばってる。……お、珈琲美味いな」
「全自動だけどな。俺としては資質っていうか、幼少期の生活だと思ってるけど」
マイは、他人の本意や嘘を、ある程度見抜けてしまう。確実でも絶対でもないが――嘘と偽りに混ざった大人が傍にいたため、その影響を受けて、敏感になったのだ。とはいえ反面教師としてであり、マイ自身は虚飾で身を包もうとは決して思わないけれど。
「だから電子戦も得意になったと、わかってるか?」
「あー、知り合いの狩人にそれは言われた。俺、相手のプログラムとかコードとか見ると、相手側の思考なんかが透けて見えるっていうか、そういう感覚があってさ」
「なるほどねえ。だいたい情報は掴んでたし、予想のつく範囲の話だ。それが一体どうして、ああいう流れになったんだ?」
「いや、……その、なんでか出ちゃったんだよ。兎仔さんと繋がりが消えるのは嫌だ、千載一遇の機会、んなことをあれこれ考えた結果――兎仔さんが好きだなと」
「それだ。いやお前、正気か? あたしだぞ?」
「うん、兎仔さん」
「お前ロリコンか?」
「――え? 違うけど」
そう言ってから、猫と片手で遊ぶ兎仔を見る。小柄だ、発育も悪い。ともすれば小学生高学年くらいの見た目だ。雰囲気それ自体があるので、まったくそうは思わないけれど。
「――うわ」
額に手を当てた。
「ごめん全く気付いてなかった」
「お前なー……」
「本当にごめん! っていうか、あんまりそういう考えを持たなかったっていうか」
「あーいい、いい、わかった。いやわかんねーんだけどな」
そう言って、兎仔は立ち上がって。
「んじゃキスでもしてみるか」
「なんでそうなる⁉」
赤くなった顔を隠すこともできない。
「わかんねーから、ものは試しだ。ここで抱けって言うよりゃいいだろ? つーか、あたしだって自分から試したことはねーからなー……処女じゃねーけど」
「そんなことは聞いてませんよ⁉」
「うるせえ。好きだってんなら証明くらいしてみろ」
正面に立たれ、襟を掴まれて引っ張られ、あーもうどーなってんだー、と内心で思いながら。
半ば強引に、唇が触れた。
柔らかいと思うのと同時に、――ああ、駄目だ。
まず感じたのは、兎仔という女性の躰だ。思っていたよりも柔らかい――あんな過酷な仕事をしているというのに、この体躯は本当に細くて、小さくて、よく荒事を潜り抜けられると心底から思う。
次に沸いてきたのが、愛おしさ。なんだろう、熱にやられてしまったのだろうか。どうしようもなく安心する気持ちと、それから、はしたないとは思いつつも。
――欲しい。
素直にそれを感じた。
隣にいて欲しい。傍にいて欲しい。ああけれど、彼女を縛るものなど、この世にはなく、であるのならばせめて、自分のところに帰ってきて欲しい――。
五秒ほどの時間をおいて、唇が離れた。
何故か、ぽかんと意表を衝かれたような顔が見上げてきていて、マイは現実に引き戻されると同時に、――なんだ、この息苦しさは。
「……まい」
「ひゃい!」
「お前の連絡先寄越せ」
「あ、うんちょい待って」
デスクに置いてあった携帯端末を手に取ると、そこから自宅内の無線ネットワークにアクセス、そのアクセスポイントを兎仔の端末が拾っているのを確認したら、片手でタッチパネルを叩いて経路を確保。
実際に認証しなければ繋がりは得られないが、それでも、端末がアクセスポイントを認識しているのならば、繋がっているのと同じである。それを利用して、兎仔の端末へと連絡先を送る。
「おー、見事な手際」
「ども……」
「次はちゃんと連絡してやる。あー、お前からは連絡すんな。繋がるとも思えねーし」
「あ、うん、わかった」
「じゃーな」
ひらひらと、手を振って兎仔が出て行って――それから。
それから、数分後。
悲鳴に似た自己嫌悪と共に、マイはソファに突っ伏し、猫がその頭の上に乗って丸くなった。
一体なんなんだ――そんな叫びが出なかったのは、まともに言葉を口にできるほど、冷静ではなかったからである。