9. 秘書の疑問
「おはようございます。柏木有里と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
心の中を読み取られないよう、目線を逸らすついでに頭を下げてしまいましょう、と、私は深々と頭を下げました。一応直属の上司ですし、私を秘書として拾って下さった感謝も込めて。
「総務課長の田島です。よろしくお願いします」
すると意外なことに課長は、横柄どころか非常に丁寧に挨拶を返して下さいました。
「田島課長。彼女、まだ支店長にお会いしてないそうです」
松坂課長代理にそう言われ、田島課長は少し驚いた様子です。
「変だな。あの人、もう来てるだろ」
えっ?
そんなこと、小泉さんからは全く聞いてませんよ。そもそも、気にもかけていませんでしたし。役員って、普段から重役出勤するものじゃないんですか?
でももしそうなら、秘書としてお茶出しを…いえ、朝はとりあえずコーヒーでしょうか?
「まずは支店長に挨拶だ。一緒に来て」
「は…はいっ」
田島課長は受付席の真向かいの、ぴったりと閉ざされた扉へ向かっています。私は慌てて扉の前に向かいました。
私が背後に来たことを確認すると、課長はドアをノックしました。
「はい」
中から返事が聞こえて、今更ながらぎょっとします。
本当にいらしてたんだ…。
思いのほか声が近い…ということは、私の席での会話も割と筒抜けなのに違いありません。
なんだか悪趣味。
そんな考えがちらりと過りましたが、慌てて打ち消します。課長が執務室にすっと入っていったからです。
課長の後を追って部屋の中へ入ると、両脇に山積みの書類を積み上げたデスクの上でノートパソコンを叩いている、50絡みの男性がそこにいらっしゃいました。
白髪混じりの好々爺…いえ、そこまで年配ではないようです。
「支店長、おはようございます。こちら、昨日付けで秘書に着任した柏木です」
「おはようございます。柏木有里と申します。よろしくお願いいたします」
さっきよりもずっと深くお辞儀し、顔を上げた私は、ふと妙な既視感に囚われます。
この人、どこかで…。
「近江です。よろしくお願いします」
席を立ち上がったその人は、あろうことか私よりも深くお辞儀されました。
えええー!
一応、全国的にも上場企業である、この会社でトップ10に入る地位の方ですよね?
そんな方がアリンコよりもちっぽけでしがない契約社員の、立場的には貴方の奴隷にも等しい新入社員に向かって最敬礼って有り得なくないですか?
支店長は頭を上げると、恐縮して再び頭を下げた私をちらりと見て、
「頑張ってね」
と一言残し、また席に着かれました。
本当に挨拶だけ終えて執務室を出、自分の席に戻って呆けていると、小泉さんが始業のベルとほぼ同時に現れました。
どの交通機関を使ってもこのタイミングで出社するのは不可能。
ということは、ロッカー室かトイレか何処かでギリギリまで時間を潰していたということでしょう。
ちょっとした雑談も嫌、という意思表示であるとしたら私も相当嫌われたものですね。
「お…」
「おはようございます」
先を越されまいと、ぴしゃりと叩きつけるようにそう言うと、彼女は私の着席している机の引き出しからスケジュール帳を出し、
「支店長へのご挨拶を兼ねて、朝のミーティングに行きます」
と言われました。
「ご挨拶は、さっき課長に連れて行って頂きました」
そう告げると、小泉さんは意外そうに課長の座る席を見ます。
「…では紹介は不要ですね。私一人で行ってきます」
え? 一緒に連れていってくれないの?
挨拶はしたけれどミーティングはしていませんよ?
心の声が聞こえたのか、小泉さんはくるりと私を振り向き、
「内容について確認するだけです。特に変更がないか聞くだけですので」
そう言ってさっさと支店長の部屋に入り、そしてあっという間に戻ってきました。
「特に変更はありませんでした。今日はスケジュール登録について話します」
いくぶん口調が柔らかいのは、支店長の部屋からここの会話が聞き取れてしまうことをご存じだからでしょうか。
でもこの状況は、私にとってある意味アドバンテージでもあります。昨日の彼女の酷い対応は、少なくとも支店長が執務室にいらっしゃる間は発動されないということですね。
これは願ってもないチャンス。
「あの…朝、お茶かコーヒーをお出しする、とかはしなくていいんでしょうか?」
「私は特にしなくても良いと聞いています。もし今後、指示が変わったらそれに従って下さい」
「じゃあ、そのために早く出社とかはしなくていいんですね」
だったら私もそれに倣いましょう。契約社員ですし、正社員のようなサービス早出は不要ですよね。正社員の小泉さんですら、そのスタンスなんですから。
それにしても、若い世代は割り切りが凄いですね。特に秘書なんて職種、その手の気遣いで禿げそうだと思っていましたが。
これも時代なんでしょうか。
「柏木さんは、正社員なんですか?」
急な質問に、私はきょとんとしました。
小泉さんから質問されるとは思っていなかった、ということもありますが、質問の内容が明らかに変だからです。
それは私が契約社員枠で採用されるには年を取りすぎていると言いたい…のだろうなぁ。