6. 秘書の先輩
採用連絡を受けた時に提出を求められた書類一式と認印を携えて研修室に入った私は、そこで事務手続きを終え、軽くレクチャーを受け、最後に雇用契約書に捺印をしました。
どうかこの契約が、来年も更新してもらえますように…と願いを込めて。これでやっと肩の荷が下りたような気がして、そっと溜め息を吐きます。
そしていよいよお仕えする上司にご対面…と思いきや、今日は出張で終日外出とのこと。
じゃあ今日は何をして過ごせばいいんでしょうか。
「配属先への挨拶と、それと…前任の秘書から、簡単な引き継ぎを受けてもらいます。心構えなどもね」
そう言えば。
当たり前ですけど前任がいないわけではないですよね。寿退社か育児休職、もしくは新たな活躍の場を求めた転身でしょうか。若いっていいなぁ…。
配属先まで案内されると思いきや、課長らしき人がわざわざ研修室まで迎えに来てくださいました。至れり尽くせりで何だか怖い。でも、彼はにこにこと愛想良く微笑んでいます。
良かった。いい人そう…。
「柏木有里と申します。よろしくお願いいたします」
ぺこり、と頭を下げると、彼は役職者と思えぬほどに愛想良く返事をくれます。
「僕は課長代理の松坂です。よろしくお願いします。会社の概要について、別室で説明しますね」
松坂課長代理に案内された先は、人気のない廊下に同化するように存在していた小会議室。
そこで会社の沿革と、昨年度の営業成績、会社における禁止事項等々のざっとした説明を受け、彼はこう締めくくりました。
「これからあなたの前任にあたる秘書から簡単な引き継ぎを受けてもらうことになります。引き継ぎ期間は一週間くらいかな」
一週間?
少なくとも一ヶ月…せめて二週間くらいは教えてもらえると思っていた私は上擦った声を上げました。
「あ…っ、あのっ。その方、一週間後に退職されてしまうのですか?」
ここの会社の給与締めは月末のはず。月初の着任の一週間後に前任者がいなくなってしまうなんてあり得ない。有休消化だとしてもあんまりすぎる…もしかして健康上の理由とか?
「いいえ。異動ですよ」
異動?
「あ、別の支店に転勤…とか?」
「同じ支店内です。階は違うけど」
あ…良かった。
近いから引き継ぎ期間が短かったとしてもフォローしてもらえるということですね。
「そうですか。安心しました」
そう言った私に、彼は小首を傾げました。
「安心かどうかは、僕の方からはどうとも言えませんが」
「?」
そのニュアンスが、ますます私の不安を大きくします。
ここまでの経緯を振り返ると、なんだか今まで総務に訪れることを極力阻まれていたような気もします。
いえいえ単なる被害妄想。初日でナーバスになっているだけ。弱気になってはいけない、いけない。
「彼女も、異動先で新しい仕事を覚えなければなりませんから」
何なのでしょう。この、期待するなと言わんばかりの牽制球は。
こういう時の直感ほど当てになるものはないと、私は経験上良く知っています。
なんだか重い空気に、私の胃は裏返りそうです。
「小泉さん、この方が後任の柏木…ええと」
「柏木有里です」
「そう、有里さん。引き継ぎよろしくね」
紹介された私を、20代から30代と思しき彼女がちらりと見ます。
…老けてると思われているだろうなぁ…。
「よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げたのですが、彼女は声も出さずに軽く会釈だけして、そして私を視界に入れないように(課長代理の表情も私からは見えないように)体の向きを不自然に捩りました。
「はい。…ところで課長代理、私はどこまで引き継げばいいんですか?」
「彼女に必要なことは全部だよ。柏木さん、頑張ってね」
「はいっ」
小泉さんの背中からひょこっと現れた課長代理の顔を見て安心したのも束の間、課長代理の席は受付の私達の席から一番遠い席。
豆粒(のように感じる)になってしまった課長代理は、私の存在などもうすっかり忘れたかのように仕事に集中されているご様子。
「一度しか説明しませんから」
「はい?」
「私も忙しいんで。本来なら私、もう経理に異動しているはずなんです。あ、それから引き継ぎ期間は明後日迄なので」