5. 秘書の出勤
初出勤までの二日間、思い切り自由に好きなことをしようと決心したにも拘らず、私は図書館で借りた本をぱらぱらと捲り、秘書業務に関するネットサーフィンを繰り返す、という体たらくでした。
読破したい本は山のようにあるというのに、情けないことに求人情報誌を捨てることも出来ず、襲ってくる不安に追い立てられるかのように新しい業務について調べ続ける、という虚しい作業の繰り返しです。
新しい職場の社風、年齢層、自分が置かれる立場と待遇、想像の世界での不安事を心配してもきりがないのは百も承知ですが、こればかりは自分の意志ではどうすることもできませんでした。
そうして過ごすまま初出勤日となり、前夜に何度も見栄えをチェックした新しいスーツに身を包んで、新しいパンプスを履いて背筋を伸ばします。
初日は書類の提出と研修の意味での軽いレクチャー。その後、新しい職場へと案内される予定と聞いています。
駅から会社までの道程を自分の心臓の音を聞きながら歩いたのは初めてではないけれど、こればかりは転職の場数を踏んだからと言ってどうにかなるものでもありません。
せめて靴擦れしませんように…と祈りつつバンドエイドを鞄の中に忍ばせて、えいっ、と最初の一歩。
そこから勢いに任せて電車に乗り、最寄り駅の朝の風景を眺めながら、出社時間の30分前に会社の前に到着しました。
念の為に一本早い電車で来たとはいえ、ぼーっとしながら潰すにはやたら中途半端な時間です。喫茶店でゆっくりとお茶をするわけにもいかず、受付ロビーで無為に過ごす訳にもいかず…。
ううう…どんどん緊張してきます。
やっぱり理想は15分前…いえ、20分前でしょうか。それでは遅過ぎる? じゃあ25分前…。
「おはようございます」
「へっ?」
間抜けな鼻濁音とともに振り向くと、面接の時に深々と頭を下げてくださった人事担当の方でした。
「随分早い出社ですね。まだ総務の担当は出社していないと思いますので、とりあえずうちの課においで下さい」
「はっ…はい。い、いえ、本日からお世話になります。おはようございます」
深々とお辞儀をするも、口から出てくる言葉の支離滅裂さに激しく落ち込みます。
「まぁそう緊張なさらずに…」
人事の方は私の取り乱しぶりに苦笑いしながらロビーに入ると、エレベーターを使わずに非常階段に向かいました。
「裏口からで申し訳ありませんが、今後、良く使われるようになると思いますので」
「はぁ…」
ほぼ知らない人と二人きりでエレベーターに乗るより目線を外したまま移動できる階段の方がずっと気楽ですが、慣れないパンプスでいきなり階段を上ることになるとは思わなかったので、これが地味に私を苦しめます。
キツい。一体何階まで上がらなきゃならないの、と思ったところで廊下に続く扉が開かれました。
良かった…三階なら大丈夫そう。
と、ほっと溜息を吐いたのも束の間、
「人事課は三階ですが、あなたの部署はもう一階上です」
と、さらりと言われました。
がっくりとする私に彼は更に楽しそうに付け加えます。
「エレベーターは主に来客用ですから、移動は基本的に階段を使用するようにお願いします。それと、執務室への移動で堂々とエレベーターを使っていいのは課長職以上という暗黙のルールがあります。それも覚えておいて下さい」
「はい…」
と、言うことは平社員の私はパンプスで一日に何回も階段の昇り降りをしなければならないのですね。
「あなたは秘書ですから、随行の際はエレベーターを使用することもあるでしょう。お客様の送迎もありますしね」
「ええ…そうですね…」
返答が適当になってしまっているのは、慣れないパンプスなのに無理して男性と同じスピードで階段を上ったせいで、息が切れてしまったからです。
…いえ、パンプスのせいと言うよりは年齢のせいかも。でも、この男性は50代くらいだから、単に私の体力が落ちているだけなのでしょうか。
ウォーキングの距離をもっと増やすべきかしら。
そういった無益なことを考えているうちに、私はパーテーションに囲まれた、打ち合わせ用と思しきブースに案内されました。
「しばらくの間、そこにお掛けになってお待ち下さい。総務の担当へ連絡した後、研修室へお連れしますから」
「あ、ありがとうございます…」
恐縮しきりで頭を下げながらも、所属先の人に挨拶もしないまま研修に突入してしまうのか…と軽く焦ります。
総務、と言うからには私の所属は秘書室ではなく総務課なのでしょう。募集にも受付秘書とあったから、この支店にはもともと秘書を付けるほどの役員がいないのかも知れません。いわゆる支店長秘書か部長秘書なのだとしたら、総務事務兼務の秘書…いえ、メインは来客応対の諸々で、課長職が管理しているスケジュールのあれこれを補佐するだけの可能性も高そうです。
だったら本当に雑務ばかりで、偉い人と対面することもないかも知れません。そう言えば以前勤めていた会社にもそんな感じの人がいました。やたら仰々しい肩書きなのに、実際はただの庶務…いえ、雑務レベルの仕事しかしていない人が。
失礼ながら、本当はそれほどでもない肩書きの人の自尊心を満足させる為だけに、私に秘書の称号が与えられただけなのでは。
だとしたらこの仕事、メイン業務は来客応対とお茶出しくらいで、もしかしたら楽勝なのかも…?
うっかりほくそ笑みそうになるのを必死で抑えながら、私は呼び出されるのを待ちました。
それは自分が選ばれたことを冷静になって考えてみたら有り得ないはずの妄想に呑気に浸っていた、ものすごく平和で能天気なひと時でした。