3. 秘書の服装
来週から、と、さらりと言われてしまいましたが、連絡を受けたのは水曜日の20時前。月曜日まで実質四日間しかありません。
うち一日は市役所に書類を取りに行ったり職業安定所で諸々の手続きしたりしなければならないので、買い物に費やせるのは最長三日。
秘書職となると、やはりスーツを着るべきなのでしょう。
地元に帰って来てからの仕事着は制服かカジュアルな私服で(逆にスーツで出勤しようものなら、悪目立ちして正社員に嫌味を言われる始末。制服以外のスーツは管理職に近い人達の服装、という認識の会社でばかり働いていたせいもあります。どちらかと言うとスーツの方が、初期投資さえ頑張れば後々エコになる服装なのに…。)、手持ちの服の殆どはカーディガンやコットンパンツ。スーツと呼べる服はフォーマル用の黒スーツくらいしかありません。
面接の時に着ていたスーツもどきの服装は、実は黒のコットンパンツにこのフォーマルスーツのジャケットを組み合わせたものでした。
この状態からオフィス用のスーツを揃えるとなると、どう考えても金銭的に厳しいものがあります。契約社員のお給料から貯蓄出来る金額なんて限られています。主に突然の契約社員切りに遭った場合の為や老後の蓄えに向けて貯蓄しているのですから、当然、たった数年の契約期間の仕事の為に無駄な出費はしたくありません。…でも、業務上それなりの服装は必須。とりあえず最初のシーズンは最低二着のオフィス用スーツを新調し、それらを着回す覚悟でいくことにします。
シンプルなスーツならばここにもあるだろう、と、翌日の午後から(役所関係は午前中のうちに速攻で済ませました)早速、ファストファッションの店を覗いてみました。が、いくらサイズが豊富でもデザインは若者向けのものばかり。試着ブースの中でどう着方を工夫してみてもしっくりきません。それならば、と紳士服量販店で女性用リクルートスーツを物色してみましたが、こちらの方こそ本当に似合わず、すごすごと店を後にすることになりました。
若い女性対象のショップならともかく、着る人間を選ばないと思っていた量販店のスーツすら似合わなくなってしまうとは…。若さって、なんて偉大な武器なんでしょう。
こんなことなら断捨離ブームに乗って処分してしまった20代後半に買ったあのジャケット、年齢的にもう少し大人っぽい物に買い替えればいいや、なんて思って捨てるんじゃなかったなぁ。
思わず遠い目になってしまう自分を叱咤激励しながら正気に戻り、次に行くべき店を頭の中で検索します。
百貨店で売っている有名ブランドのミセス向けスーツは金銭的にもデザイン的にも抵抗があります。大体、開業医の妻でもなければ、あんな高額なスーツなんて買えません。
ファッション雑誌に載っているようなスーツではなく、家計的にそんなに負担の大きくない価格帯のスーツを扱う店…。あれこれ考えて郊外型ショッピングセンターの自社ブランドに思い至り、今度は郊外のショッピングセンターへと車を走らせました。
狙い通り、そこに婦人用スーツがありました。冠婚葬祭用でも入学・卒業式用でもない、オフィス用のスーツが。
20代の頃よりワンサイズ上になってしまいましたが、当時はこんなにタイトなデザインが主流ではなかったから、まぁ許容範囲内とします。
スーツのボトムはスカートではなくパンツにすることにしました。膝丈のタイトスカートでは足捌きが悪く、ミニスカートは年齢的にNGだからです。
何だかんだで揃えたのはダークカラーのスーツ二着にパンプス二足。白のブラウス三着と、通勤用にA4サイズのシンプルなバッグ一つ。
ああ、見つかって良かった…と安心したのも束の間、価格抑えめの買い物の割にはレシートを集めると合計金額は一気に五万超えです。
人生最初の就職が決まった時、母親がスーツを数着、揃えてくれたけど…。あの時は当たり前のように母に買って貰っていたし、デザインが好みじゃないとかさんざん文句を付けていたけれど、お金を稼ぐ大変さが分かってからは、それが全然当たり前とは言えなかったことが痛いほど分かります。
内定を貰って短大を卒業して…卒業式、引っ越し、スーツや靴やあれこれ…。当時の母に良い収入があったとは言え、当然、なんて言いながら気軽に払える金額ではありません。
それに、いくら夫婦仲が冷め切っていたとは言え、夫を亡くしたばかりの状況で、きっと母自身も色々不安で寂しかったはず。
それでも就職を喜んでくれて、本当に嬉しそうに準備してくれて、気持ち良く送り出してくれた。
…お母さん、本当にありがとう。
親の有難さに暫くしんみりしてしまいましたが、気を取り直して今度は化粧品売場に向かいます。
パソコン業務で視力が落ちてしまってから仕事中はずっとメガネをかけているので、段々アイメイクも手抜きをするようになって、最近ではアイメイクに全く気を遣わなくなっていました。
メガネは楽だし金銭的な負担も少ないけれど、化粧は崩れるしレンズも頻繁に磨かなければならなかったり…と意外に手間がかかるので、今度の会社からはコンタクトレンズに変えるつもりです。
となると、きちんとアイラインまで入れなくては。
今風のメイクとは全く縁のない生活でしたが、来客応対も業務に含まれている以上、化粧っ気がなさすぎるのは問題に違いありません。
今時の化粧を学ぼうと思うのなら、美容部員の人に教えて貰うのが一番。
彼女達は顧客にメイクをするのが楽しくて仕方が無い人種なので、商品の購入がてらアイメイクの依頼をします。
しかし、アイメイクだけを頼んだにも拘らず結局フルメイクをされてしまい(化粧を落とされ基礎からやり直された)、購入したアイシャドウと一緒にエイジング基礎化粧品サンプル一式を手に入れてしまったのには、ちょっと閉口してしまいましたが。
そしていつになく厚化粧のまま、私は今度は本屋に向かうことにしました。