19. 秘書の戦果
「私、営業課の早瀬と言います。支店長にはいつも、とてもお世話になっているんです」
傍点の部分がひどくゆっくりと聞こえたのは、気のせいでしょうか。
そしてやたらと左手薬指の結婚指輪を私の視界に入るように持って来るのは何故でしょう。
マウンティングと判断するには余りにも瑣末過ぎて、ハラスメントとしてはギリギリセーフな境界とも言えます。前職でも独身者に対して「問答無用で既婚者を羨め! そして敬え!」みたいな圧をかけてくる既婚者が一定数いらっしゃって、甚だ迷惑していたことを懐かしく思い出しました。大手企業ならばそんな手合いには遭遇しないと思っていたのですが…どうやら違ったようですね。
新婚ホヤホヤの新妻の方がぴかぴかの結婚指輪を誇示される分にはむしろ微笑ましく、寿ぎの意味合いでも「素敵な結婚指輪ですね」くらいのリップサービスはしてあげられるのですが…。彼女の指輪についている細かい傷の入り具合から、そこには触れない方が良いような気がします。
営業職なのに好感の持てない言動をする人だな、と思いましたが、そこは顔に出さずにスルーすることにしました。
「小泉さんの後任の柏木と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「お疲れ様です、早瀬さん。僕は今から用事があるので、失礼します」
用事があって助かった、と言わんばかりに川本さんはそそくさと行ってしまわれ、そういえば定例会で外出されている支店長を車でお迎えに行っていただく時間になっていることに思い至ります。
「あら、残念。久し振りに川本くんと話したかったのに」
本人が去った後にわざわざ「くん」付けで言うあたり、何マウントなんでしょう。
「相変わらず総務課は忙しないわね。実は私、出産前まで一時的ですけど総務課にいたんですよ。川本くんはその年の新入社員だったの」
「そうなんですね」
明らかに私の方が年上だと確信している上で、先輩マウントと母親マウントがダブルで来ました。なかなかの強者です。
川本さんが新入社員、ということは7年くらい前? 小泉さんすらご存じではない総務課のことを知っている、という知識マウントの発動を防ぐ為にも、ここもやはりスルーしましょう。
「いつのスケジュールをご希望ですか?」
「スケジュール帳を見せていただいてから決めます」
うん? 今何と?
もしかして試されているのでしょうか。
「あの、申し訳ないんですがお見せすることは出来ないんです。ご希望の日を教えて頂けたら調整しますので」
「以前は総務課員だった、って言ったでしょう? 前の秘書はそんな事は言わなかったわよ。それに私は正社員よ!」
正気でしょうか。
私はつい、早瀬さんをまじまじと見つめてしまいました。役員のスケジュールは基本的に機密扱いです。彼女が正社員だろうが元総務課員だろうが、面会者や件名から機密事項の推測が可能になるものを容易に閲覧させる訳にはいきません。それを理解していないばかりか、正社員であることを笠に着て恫喝めいた口調で威嚇してくるなんて、論外を通り越して人間性を疑ってしまうレベルです。
正社員発言でドヤ顔になっている早瀬さんに対し、私はなるべく穏やかに、そして慇懃無礼にならないよう気を付けながら答えます。
「困りましたね。正社員の方のお願いでも、お見せすることは出来ないんです」
「支店長からアポイントの許可は貰っているって言ってるのよ!」
さすが営業。ゴリ押しが堂に入っています。ただ、その押しの強さを今この場で発揮すべきではないことが唯一残念な点です。
さて、どうしましょう。一番当てにしていた川本さんは外出されてしまいましたし、背後の空気は昨日までとあまり変わりません。この手の脅迫が珍しくない社風のようですから、また孤立無援ですね。
私は覚悟を決めて口を開きました。
「ですが…」
「どうしたの、早瀬さん。新しい秘書が何か失礼な事でも言いましたか?」
天の助け、と一瞬思ったのに私が無礼を働いたように仰るなんて、あんまりです、松坂課長代理。
「松坂課代。この新人の方、まだ仕事が分かっていらっしゃらないみたいで困ります。私、忙しいのに」
嫌味をたっぷり含んだ口調で、溜息混じりに微笑む早瀬さんは、あっという間に私の中で「生理的に無理な人」のカテゴリに放り込まれてしまいました。
「それは申し訳ありませんでしたね。お忙しいところ失礼したようで」
「いえ、私もついカッとしちゃってェ」
ニコニコ応じる松坂課長代理に対し、急にくねくねとした口調に変わった早瀬さんに唖然とします。
「さ、柏木さん。お仕事して」
「承知致しました」
気を取り直してもう一度、私は同じ質問を繰り返します。
「ご希望の日時を伺えますか?」
「だから、スケジュール帳を見せてって言ってるんだけど」
先程のくねくね声よりも2オクターブくらい低いこの声が、どうやらこの方の地声のようです。
「早瀬さん。支店長のスケジュール帳は公開できませんよ」
松坂課長代理に言われて、早瀬さんは私の時とは別人のような柔らかな態度で応じます。
「その支店長からのご指示なんですぅ。スケジュールを確認して押さえておくように、って」
また2オクターブ跳ね上がりました。こんなに露骨に使い分けられると、むしろ滑稽です。
「その確認と調整は秘書の仕事ですので、希望日を彼女に教えてやってくれませんか」
ニコニコを崩さないまま毅然と仰る松坂課長代理の命令にはさすがの正社員様も逆らえないらしく、早瀬さんは来月の中旬までに、と悔しそうに仰いました。
「30分以内のご予定ですか?」
「20分もあればいいわ」
その口調に松坂課長代理の目が冷ややかになって、これにはさすがの早瀬さんも怯みます。
「では再来週の火曜日、10時半からでは如何でしょう?」
「…分かりました」
不機嫌顔で了承して、早瀬さんはぷいっと去ってしまいました。
いい大人が、あの態度はどうなんでしょう。子育てにまで悪影響が出ていなければ良いのですが。
いえ、それよりも小泉さんは今まで彼女にスケジュール帳をお見せしていたのでしょうか。
「やれやれ」
その言葉に私は我に返って、松坂課長代理を見ます。
「お手を煩わせて申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げてお詫びすると、松坂課長代理は柔和な表情に戻られました。
「いえいえ、このくらい。初日から思っていましたが、頼もしいですねぇ。全く動じていらっしゃらない」
内心ではドン引き続きですけれども、それに気付かれていないのならば秘書として及第点でしょうか。
「恐れ入ります。でも、実を言うと動けなかった、と言った方が正しいです。松坂課長代理が来てくだされなければ、私一人では対処出来ませんでした。どうもありがとうございました」
「営業課のやり方は狡猾ですから、これからも気をつけてくださいね。それに、お礼なら僕よりも彼に言ってください」
そう示された方向を見ると、そこには昨日「飛ばしてんな」と毒を吐いた彼がいらっしゃいました。