2. 秘書のおシゴト
秘書。
重責を持つ人を補佐し、その雑務を引き受ける人。主にスケジュール管理や機密文書の取り扱いを行う。
とりあえずネットや辞書で調べてみると、大体そんなところに落ち着くようです。
秘書的業務なら過去に何度か経験したことはありますが、専任の秘書として働いたことは長い勤め人生活の中で一度もありません。
ただ、東京で働いていた頃の同期が専務秘書をしていたので、当時の他愛ないお喋りを通して、彼女の業務については大まかに把握しているつもりです。
スケジュール管理に経費精算、お茶出しにコピー取り…ええと他は…それだけ?
新入社員に任せられていたぐらいの業務…と言うよりむしろあれは花嫁修業の一環、と言った方が正しい気がします。専務も退職間近であまりお忙しくない、という話でしたし。男性の身の回りの世話だけを甲斐甲斐しくこなしていく毎日ながらも、彼女は良家の子女だったので黙々と「花嫁修業」としての秘書経験を積みながら家族の勧めでお見合いし、すぐに寿退社してしまいました。
彼女から機密書類や重要文書を取り扱っているなんて話は聞いたことがありませんでしたが、それこそ彼女がまともな秘書であったならば、仲間内の近況報告で迂闊に口にするはずがなかったということでしょうか。
…なんだか余計に秘書の仕事が分からなくなってきました。
それでも言えることは、扱う書類が機密事項であろうということ。
そして秘書に求められているものは若さでも美貌でも知性でも家柄でも色気でもなく、口の堅さに尽きるということ。
あああ…自分で言いながら、この現実には激しく落ち込みます。
知性を求められない雑用係なんかに、プレ花嫁修業になんかに、40を過ぎてから就くことになるなんて。
どんなにキャリアを積んできても、どんなに頑張ってきても、年齢とともに自負とは正反対の仕事しか得られなくなってくるのでしょうか。これから先も、ますます。私はただ、普通の事務職に就きたいだけなのに。
秘書になって磨かれるスキルなんて、せいぜい一般常識と、いち社会人として余計な事を言わない智恵くらいでしょう。
どうせ秘書になるのなら、勘違いでいることを許される20代の時になりたかった。美貌と知性で選ばれたのだ、と能天気に浮かれていたかった。
とにかく、秘書は徹底して黒子。裏方です。
字面から来るイメージがどんなものであれ、マトモにキャリアを積んできた社会人であれば、あんな地味でキャリアにもならない仕事、今更やってられないっていうのが本音です。
はたして今の私に務まるかどうか…。
せっかく屈辱的な偏見に耐えながら田舎で独身を貫いているのに、自分のことだけでも精一杯なのに、何が嬉しくて惚れているわけでもない男性の世話なんてしなければならないのでしょうか。いえ、惚れていたとしても、たとえ女性の上司であったとしてもそんなの願い下げ。いち社会人としての自覚があるのなら、自分の面倒くらい自分で見て欲しい。能力があるのだから雑務くらい自分で片付けて欲しい。
この年齢で使いっぱ…いえ、妻兼母みたいな役割を強いられるとは。
家庭では本物のお嫁さんがいて、職場でも仮のお嫁さんみたいな人をつけているなんて、男性ってどこまで自分で自分の面倒が見られないんでしょう?
ああ。嫌だ嫌だ嫌だ。
ネットで検索して出て来る「秘書」の体験談は、がっちりお洒落して髪の毛の手入れに何時間もかけていそうなお嬢さんが、父親のような年の差の上司を「ボスは本当に優しくて…」と賞賛し惚気ているようなのばっかり。ま、立場上メディアの前で堂々と悪口なんか言える訳ないんでしょうが。
この秘書のようなお嬢さんだったら、年齢的にもすぐに次の仕事が見つかるんだろうなぁ…。
まぁ、こういうお嬢さんはすぐに家庭に引っ込んでお伽話のような結婚生活に入るんでしょう。
結婚生活かぁ…。もし結婚するのなら、旦那さんではなくてお嫁さんが欲しい。
自分は仕事だけ頑張っていればオッケーで、家事その他一切合切、安心して任せられるお嫁さん。いいなぁ…。
不意に携帯が鳴って、妄想に耽っていた私は現実に引き戻されました。
見ると、例の会社の電話番号です。
昨日の今日で、しかも就業時間を大幅に過ぎたこんな時間に…。
「もしもし」
電話に出ると、例の会社の人事課という男性(声と話し方からして明らかに私より若い)が、少し申し訳なさそうに遅い時間に連絡した非礼を詫びました。
その短い間に、私の頭の中では色々な考えが駆け巡ります。
こんな時間に電話をかけてくるなんて本当に失礼だけどやはりそれはあんまり待たせたら気の毒だからという思いやりというか彼にしてみればこれは単なる仕事な訳でもしかしたら朝からずっと電話をかけ続けていて本命とやっと連絡ついたから私への連絡がこんなに遅い時間になってしまってやはり私は不合格で彼は明日から別の仕事で忙しいから私への不合格の連絡はきっと彼の今日の最後の業務でこの電話が終わったら彼はさっさとおうちに帰りたいんだろうな…。
「…ですので、来週から来て頂けますでしょうか?」
「はい?」
思わぬ語句に思わず語尾を上げてしまったせいで、相手は一気に不安そうな声になりました。
「あの…もしかして我が社以外にも面接を受けられていて、そちらの結果待ち、という状況なのでしょうか?」
まるで年下の彼氏から浮気を責められているような変な気分になって、しかし声色に出すなんて愚は犯さず、私はやんわりとした口調で返事をしました。
「いいえ。現在面接を受けているのは御社だけです」
世知辛いことに、私の年齢で履歴書を受け付けてくれる会社はそう多くはありません。
「そうですか」
明らかにほっとしたその口調は、私に断られたらまるで彼の失策と責められんばかりのプレッシャーだったように感じさせます。
もしかして、彼にとってはこういう連絡って初仕事だったんでしょうか。
ということは、受験者の中で一番最初に連絡を貰ったのは私ということ?
いえいえいえ。自惚れてはいけない。常識的な考え方ならばもっと早い時間帯に連絡して来るはず。やはり私の前に連絡を受けた人がいて、その人(達)が断った可能性が高い。
でも私の年齢で、会社から求められるなんて願ってもないこと。…というか、私こそ選り好み出来る立場ではないのが悲しい実情。
「それで、このお話を受けて頂けますでしょうか?」
「はい」
どんなにつまらない仕事だろうが、求められるのなら行くべきなのでしょう。
彼は今度こそ、本当に安心した様子でした。
「ありがとうございます。では、来週までに揃えていただきたい書類ですが…」
ああ。とうとう足を踏み入れてしまった。
今まで軽く軽蔑していた、全く以て未知の世界に。
…それにしても、人事の採用担当に「ありがとうございます」なんて言われたの、これが初めてかも。