幕間 小泉視点
時系列だと10話目あたりです。
悔しい。
悔しい悔しい悔しい。
私のどこが悪かったのか。
誠心誠意、頑張った。
失礼のないように常に気配りしていたし、完璧であろうと努力してきた。
それなのに、あんなトロそうなオバサンに追い出されることになるなんて。
許せない。
来年度の契約社員採用面接で、私の後任の秘書が決まることは知っていた。
私も去年その面接で採用されたし、毎年恒例のことでもあったから、支店長のスケジュールもきちんと押さえていた。
今年の応募者の中にかなり良い人材がいる、と人事課長が満足げに報告に来たのも鮮明に覚えている。
本社採用の正社員とは違って、支店単位で行われる契約社員の採用は人員補給の意味合いが強い。ただ、割とギリギリのタイミングでの募集だから、そう都合の良い人材は集まらない。それ故に応募者の殆どが社員の縁故関係になり、正社員になりそびれた人材の二次的な受け皿にもなりがちだ。かく言う私も、系列の子会社で役員をしている父の後押しで採用試験を受けている。
上機嫌を隠さない人事課長の無神経さに腹が立ったけれど秘書らしく表情には出さず、知名度の高い企業であってもいい人材を捕まえるのは案外難しいのだな、と他人事として聞き流した。
ここに配属された時、この人事課長から今の支店長が在籍している間の異動はないという説明を受けていた。取締役会のメンバーでもある支店長の異動サイクルは早くて二年、長くても三年という規定になっている。役員が総入れ替えになるような大問題でも発生しない限り、このサイクルが乱れることはないはずだった。
私の前任者は正社員の男性だ。前支店長秘書だったその人は、中堅社員だったけれど頑張り過ぎたせいで体とメンタルを壊して入院してしまった。上司との折り合いが悪かっただけなのか、何か別に深刻な理由があったのか、その辺りのことは曖昧にされている。
とにかく、単なる相性によるものだけで潰れるリスクが高くなってしまう秘書職は、正社員からではなく契約社員から配属しようという話になったとのことだ。そして全支店初の試みで、私が契約社員初の秘書として採用された。
ただ、契約社員なだけに業務内容はかなり限定的で、来客応対とスケジュール管理のみ。前任者が消耗してしまった最大の原因と考えられている、接待の同席や送迎、そして出張随行の必要は無く、勤務中に暇な時間が出来た時は好きに過ごして貰って構わない、と言われた。
お飾り的な秘書だな、と思いはしたけれど、それでもとにかく誇らしくて嬉しかった。「秘書」という響きの良さは、例え現実面ではオイシイ部分が少なくなっていたとしてもそれを補って余りある。会社から受け取った名刺の肩書きに秘書、とあるのを目にした時は、正直震えた。
二年間は契約社員として働いて、三年目の正社員採用試験へ進められれば安泰だ。暇な時間は社内教育制度の一環である通信教育の勉強時間に充てることにして、私は与えられた仕事を粛々とこなしてきた。
それでも違和感が拭えない瞬間がしばしばあった。
前任の支店長と入れ違いに着任した支店長は、会話は最低限で、しかも当たり障りのない事しか聞いてこない。
それだけでなく、私の出勤時間前から支店長室に籠ったきり、退社時間になっても部屋から出て来ないことも珍しくなかった。
これが普通の事なのかどうか、初めて秘書をする私には分からない。
ずっと気になっていたから、前秘書が復帰したら、まずその事を尋ねてみるつもりだった。年明け早々職場復帰することになった前任者は、年始の挨拶とともに思わぬ言葉を後任の私に告げた。
「あの方の下で働けるとは、ラッキーですね。とても優しい方でしょう?」
優しい、とは秘書に殆ど顔を見せないことを言うのだろうか。
現支店長とは良好な関係を築いていると信じて疑わない彼の様子に、私は「はい」とだけ答え、それ以上何も尋ねられなくなった。
その前任者は総務課に戻って私を指導することなく、新たに営業課に配属されて副支店長の業務補佐をすることになった。指導役兼相談相手を営業課に取られてしまった形になって、私は途方に暮れた。
アポイントを取りに来る社員達が皆一様に羨ましがる様子からも、あの支店長は相当人望が厚いはずなのだ。
けれど、私とは極力接触しようとしない。
セクハラで訴えられることを恐れているかも知れないとも考えたけど、それとは違う気がする。
どちらかと言えば、あれは拒絶だ。
質問をすれば答えてもらえるし、挨拶だってしてくれる。嫌悪感を覚えるような物言いもしないし、だからと言って不自然に距離を詰めてきたりもしない。
ただひたすら、よそよそしかった。
身に覚えのない拒絶に私は戸惑った。
その戸惑いの原因となる支店長の態度は瞬く間に社内に知れ渡り、社員達の私への態度も益々よそよそしくなる。その状態が自然なこととなってしまったまま2月に入り、私は営業課への異動の打診を受けた。
新しい支店長秘書を募集するので、4月からは副支店長秘書になって欲しい、ということだった。
やっと報われる、と思った。
何をやらかしたのかは知らないが、あの支店長は異動になるのだ。
役員秘書から部長級の秘書に降りることは残念だったけれど正直ほっとしたし、前任者から秘書業務の手解きを直接受けられるのなら、と思い快諾した。
それに、新しく来る秘書からも何か学べるかも知れない。今度はベテランを採用するだろうから、今までのような手探り状態ではなく、副支店長秘書としての業務をきちんと全う出来るはず。
もしかしたら、父が動いてくれたのだろうか。父はかなりの遣り手のはずだ。親会社への発言権だってあるだろう。私から直接、父へ愚痴を言うことはしなかったけれど、きっと誰かが見かねて父の耳に入れたのだ。見ている人は見ている。そう信じて今までずっと屈辱的な扱いに耐えてきた自分を誉めてあげたい。
私は心から安堵した。
なのに、2月の終わりになっても支店長が異動するという話は表立ってこなかった。
支店長が異動しないのなら、副支店長が異動するのだろうかと思い、副支店長秘書にも探りを入れてみたが、何も出てこない。
ただ、副支店長秘書は何かを知っているようだった。
正社員だったら知らせてもらえたかも知れない情報が、私には届かない。私は契約社員だから。
…でも。いつも心の何処かに引っ掛かっている不安が頭をもたげてくる。
正社員じゃないから、なのではなかったとしたら?
私だから、だったとしたら?
3月に入っても支店長の異動の噂が聞こえることはなかったけれど、営業課への異動の話は消えなかったから私は引き継ぎ用の資料を作ることに没頭した。私のいない4月以降に、私のような目に遭わないように…困る事がないように、今期のスケジュールを再確認して来期分の定例行事スケジュールを事前に押さえておく。
私がここに来た時、いきなり入院した前任者の業務のフォローは総務課員が総出で対応していて、そのせいで継ぎ接ぎだらけになってしまっていて、とても分かりにくかった。それを一年かけて纏め上げ、やっとここまでの形にしてきた。
どんなベテランが後任に来たとしても、苦言を呈される謂れはない。そのくらい万端に整えて臨んでいた。
なのに急転直下、3月の最終週に、私は突然経理課への異動を命じられた。
どうして私が経理課に。支店長も副支店長もどこへも異動せず、私だけが秘書職まで追われないといけないの?
そしてもっと納得がいかないのが後任が言ったことだ。
秘書職が未経験なだけでなく、そもそも秘書には応募していない?
確かに職歴は私よりずっと長いだろうから秘書職が務まるかも知れないし、見た目も年齢の割には若く見える方なのかも知れない。
だけど、私はこんなのに負けたことになるの?
秘書職を全く希望していなかったオバサンに、秘書職を追われることに納得できていない私が何を引き継げと?
冗談じゃない。
どうして私が、こんなのに今までの私の努力の全部を引き渡さなければならないのだろうか。