13. 秘書の困惑
「え、どうしたの?」
凹んだ状態のまま課長に続いて私が入室すると、支店長は驚いたように課長を見遣りました。
そうですよね、こんな辛気臭い顔で入って来てるんですから。でも、今は下瞼ギリギリで溜まっている涙を零させないようにするだけで精一杯なんです。この状態ならまだ、コンタクトレンズや花粉症のせいにして誤魔化せるので。もし一滴でも涙を零したら最後、涙と鼻水が止まらなくなるんです、私の場合。
願わくば、どうかこのまま無言が貫けますように。
背後での私の様子について全くご存知ない課長は、支店長の言葉の意味を完全に捉え間違えて入室の理由の説明を始められました。
「今後のスケジュール確認についてのご相談ですが。秘書も代わったことですし、一日のうちの何処かで、纏まった時間を設けて話し合う機会を作られてはどうかと」
あ、私もそれは思っていました。本当に変更がないのなら昨日のような門前払いに近い感じで良いんですけど、確認を兼ねたブリーフィングの時間があれば色々と助かります。
ホッとしたのも束の間、疑問形というよりはほぼ断定的だった課長の提案に、支店長が明らかにムッとされました。
「いいよ別にそんなの」
えええー。あからさまに不機嫌になられる程、私と話すのが嫌なんですか?
それってやっぱり、私の存在が目障りだということでしょうか。出社時間は私よりもだいぶお早いようですし、私の出勤前退勤後は課長代理以上の方々がスケジュール帳を管理されることになっていますから、私の不在時を狙ってご自分の目で確認されたいというご意志でしょうか。
「私が都度確認しに行くから。さっきみたいに」
やっぱりそうなんですね。
「え」
一拍置いて、心無しか課長が固まられていらっしゃいます。
フリーズしてしまうのが私ならともかく…今の言葉のどこに、課長がフリーズされてしまう要素があったのでしょうか。
「ですが、予め支店長のスケジュールに組み込んでおいた方が…」
「ああもう、解った。柏木秘書の始業は何時?」
課長の存在を飛び越えて問われてしまい、驚きのあまり涙も引っ込んで、私は慌てて答えました。
「くっ、9時です」
あああ噛んだ。穴があったら入りたい。
「そう。じゃ、9時に部屋に来て。この話はこれで終わり」
「かしこまりました」
私は深々とお辞儀をして、支店長室を後にしました。
あ、課長を残したまま勝手に出てきてしまった、と思っても後の祭り。でも今の話の流れだと、私はもう退出するしかなかったですよね?
自席に戻り、支店長室を睨み据えたまま固唾を飲んでいると、部屋の中でボソボソと何かを話している声が聞こえてきます。その会話の内容が「あの秘書は失敗」「小泉の方が良かった」とか言われているような気がしてなりません。
どうしてあの年代の男性達は、普段の地声の音量はものすごく大きいのに、いざという時には他人に決して聞き取らせない絶妙な音量で会話することができるのでしょうか。あれができないと出世できないのか、というくらい上層部の方は皆ソレがお上手ですよね。
やがて苦虫を噛み潰したような表情の課長が現れ、目礼する私に聞こえよがしに「天の岩戸が開いたな」と謎のぼやきを残し、真っ直ぐ課長席に戻られてしまいました。
自席に戻られてしまった課長から追加で指示を受けることもなく放置されてしまった私は、再び受付席へ戻ってきた同僚達から支店長のスケジュール調整依頼と秘書業務について指示を受けることになりました。
どうやら課員全員が、小泉さんが一切引き継ぎをしないという前提で私に業務指示を出す準備をしていたようなのです。
それは指示という名の引き継ぎのようなもので、次から次へと同僚達がやって来るのは彼等が過去に秘書業務を分担して担っていたからなのでした。何でも、小泉さんの前任の方が入院されていたことがあったらしく、その期間は総務課員が全員でフォローしていたそうなのです。昨日までの引き継ぎを「触らぬ神に祟りなし」とばかりに傍観していたのは、小泉さんが私に引き継いだ内容を正確に把握しておく必要があった、との事ですが、新入社員を生贄に差し出して傍観というスタンスは組織人としてどうなんでしょうか。
しかしそのような準備が出来ているならばそもそも小泉さんの引き継ぎは不要だったのでは、と言いたくなりましたが、適切で無駄がない説明をしてくださる彼等に対して今そのような不平を口にするのは、社会人として憚られました。
その代わり、と言っては変ですが、
「もしかして…私がいなくても皆さんだけで仕事が回せるのでは」
とつい溢してしまうと、とりわけ物腰が柔らかく、丁寧な説明をしてくださる三十代前後の男性に困ったように苦笑いされてしまいました。
「僕らとしては本来の担当業務に専念したいところなので、秘書の方にいて頂かないと困ります」
それもそうだな、と思いはするものの、それならばどうして小泉さんが異動して私が着任することになってしまったのか、改めて不思議でなりません。