11. 秘書の覚悟
昼休憩中も、実は多数の来客がありました。
松坂課長代理が留守番、という言い方をした意味を理解すると同時に、昼休憩もまともに取れないのか、とガックリします。
役職者に時間外勤務の概念が無いことは知っていましたが、秘書までそのとばっちりを喰うなんて思ってもみませんでした。
この労働は時間外勤務として請求出来るものなのでしょうか?
結局、午前中の復習など殆ど出来ず、あっという間に午後の引き継ぎに突入です。
「あの…昼休憩に外出しても大丈夫なのでしょうか?」
午後もギリギリまで戻って来なかった小泉さんにそう尋ねると、
「基本的に、受付を長時間空けることは望ましくありませんね。昼食は、目立たないように席で取って下さい。私もそうしていました」
と、しれっと仰います。
それって、昨日の昼…私を置き去りにする前の時点で言うべきことだったのではないでしょうか?
「昨日、私は外で取ってきたんですけれど…大丈夫だったんでしょうか?」
「さぁ、知りません。課長代理が代わりに対応されたんじゃないですか?」
そんな無責任な。申し送りひとつで済む話ではないですか。意地悪にも程があります。
しかしここは我慢我慢。
ぐっと堪える私の反応を楽しむかのように小泉さんは尋ねます。
「支店長は会議に出かけられましたか?」
「はい。五分ほど前に」
「では、これから支店長室の整理と応接室の毎日の掃除について説明します」
カツカツとピンヒールの音を響かせて支店長の執務室に向かう小泉さんを追いかけて今朝入ったきりの部屋に入ると、小泉さんは決裁箱らしき書類入れの中の書類を物凄い速さで仕分け始めました。
「午前中に決裁が終わった書類を、こうやって分別して次席に返却してください」
こうやって、のやり方を説明する気が全くないですよね。
…もういいや。
面と向かって争う気はないにしても、このままやられっ放しでいるつもりもありません。
「次席とはどなたのことですか?」
「回覧表を見れば分かります」
ぴしゃりとした返答に、「木で鼻を括るとは、まさにこれだなぁ」と昔からある比喩が生きていることに感心してしまいます。
私は小泉さんが仕分けた書類にクリップ留めされている回覧表の左端を見て、支店長の印影を確認しました。その右隣に副支店長以下、各課の課長印欄。総務課長から営業課長、人事課長…うん、これをコピーさせてもらおう。この支店内の序列は一番最初に把握しておいた方が良いだろうし。
「あの、この回覧表だけを参考のためにコピーしたいのですが」
「どうしてですか? メモなら取って構わないと言ったでしょう」
案の定、楽なんかさせてやらないと言わんばかりに小泉さんが噛み付いてきます。
そう。何気に私はコピーを取ることを邪魔され続けていました。それ以前に、ここの会社のコピー機の使い方を教わっていないのです。どうやらコピーカード制のようなのですが、そのカードがどこにあるのか知らされてもいません。
私はなるべくにこやかに、しかし一気に答えました。
「書き写すのに時間がかかりそうなので。それに、こんな大事なことを間違えてしまったら、小泉さんにご迷惑をかけてしまいますし」
「え」
小泉さんが驚いたように私を見ます。
「私がうっかり間違えてしまったせいで、小泉さんの責任を問われるようなことがあってはいけませんから」
何を言っているのか分からない、という様子だった小泉さんは、やがてすうっと青ざめました。
そう。引き継ぎの日数が短くなってしまうのは不可抗力だとしても、引き継ぎをしないことが許されるわけではないのですよ。
新人は仕事が出来なくて当たり前。つまり致命的なミスが目立つ場合は、フォロー役である指導者側に問題があると上層部は判断します。
いくら私が気に入らないからと言って、だらだらとこんな意地悪を続けるのは小泉さんにとって得策ではありません。小泉さんが正社員登用を目指しているのなら尚更。
引き継ぎに関しては、責任の所在は私ではなく小泉さんにあります。
「コピー機は自由に使ってもらって構いません。社員証をカードリーダーに翳せば使用可能になります」
これでOA機器の中でも最も重要な、コピー機の使い方がやっと分かりました。社員証がコピーカード代わりにもなっていたんですね。
それから小泉さんは人が変わったかのように、あからさまな意地悪こそしなくなったとはいえ威嚇することは怠らずに、残りの業務について説明してくださいました。
三日目の朝に、もう教えることは無いと高らかに宣言されたのには本当に驚きましたけど…。