ある老マタギの死
白神の深山、旧暦一月も終わりに近い。山は雪に埋もれていた。
室田老は銃を構えていた。その銃口の先では、一頭の熊が立ち、そちらを見ている。その体重、五十貫目はありそうだ。
これ程の大熊は、室田老の五十年に渡るマタギ生活でも始めてだった。寒中の猿狩りに来て、えらい獲物を見つけたものだ。やはり大物であったアオシシ(カモシカ)が大正十五年に天然記念物に指定され狩れなくなってから十年余り経つ。血が沸いた。
「あのイタズ(熊)、ミナグロか……」
ミナグロとは、全身が黒い、胸に白い毛を持たぬツキノワグマのことだ。この熊は、マタギの間では山神の使いといわれている。狩れば、山神の怒りに遭うとされる。
室田は息を整える。心中では、山の禁忌への恐れと目の前の巨大な獲物への狩猟欲とが葛藤していた。
薄く開いた唇から抜ける息が白く煙る。長く伸びた口髭の殆どが白く、氷が纏わりついていた。顔は雪焼けで浅黒く、深い皺が刻まれている。装束はマタギのそれ、ウマのツラと呼ばれる編み笠に、羽織ったアオシシの毛皮。足にはカンジキ。背にはタテ(熊槍)が負われている。
その傍らでは、マタギ犬のクロが低い唸り声を立てていた。名前の通り、全身黒い老犬だ。今にもミナグロに飛び掛っていきそうな勢いだが、室田老により止められている。
ミナグロまでの距離は、およそ五十間。手練れのマタギたる室田老にとって、当てられぬ距離でない。
いや「アバラサンマイの三蔵」との異名を持った室田老には、この距離でさえ容易いであろう。アバラサンマイとは、三本目のあばら骨のことで、熊の急所の一つである。室田はそこに寸分違わず命中させることが出来る名人であった。
その腕は、愛用の村田銃によるところのものでもあった。後期型の口径の小さい連発銃ではない、二十八口径の単発銃だ。単発ゆえに、一発外すと命に関わる。室田は自分の名に似たこの銃と、狩りが好きだった。
室田は心を決め、引き金を絞った。狙うことは無い、撃てば当たる。そういう腕だ。
銃声と閃光、そして黒煙があがり、瞬く間に視界を遮った。
「バツケ(頭)で仕留めたか」
手応えはあった。黒煙の向こうでは、ミナグロが雪に赤い血を撒きつつ、どうと倒れているはず。クロが駆け出し、獲物に向かう。
しかし、晴れた黒煙の先には、熊の姿は無かった。外した筈は無かった。まして、熊の存在を見誤るはずは無い。
クロはミナグロがいた場所で困惑している。
室田はカンジキをつけた足で、その場所へと急いだ。足は重い。かつては、「一足三間」と言われた程の健脚だったが、年の為か衰えを隠せない。
真にミナグロはいなかった。血の跡も、それどころか足跡さえも無かった。
「夢か」
室田は、傍らにかしずいたクロの頭に手を置いた。
その後、笹小屋(狩猟に用いる山小屋)に戻り、夕飯の準備をした。小屋の中心には、簡単な炉があり、天井から鉤が下がっていて鍋が掛けられている。その鍋に昨日の獲物、臭い抜きのため一晩雪に埋めて置いた兎の肉をぶつ切りして入れ、とろ火で煮こんでいた。それに葱や大根、数種の茸、そしてひき割り納豆と酒粕を入れる。そうして完成したものは、思いのほかさっぱりして美味い。この汁を兎納豆と言う。
室田が兎納豆を椀によそると、まず笹小屋の一角に設けられた神棚に供え、拍手を打った。その時、入り口に垂れ下がるムシロの向こうから声が聞こえた。
「もし……、すいません。」女の細い声だった。「道に迷って、もう日も暮れてしまいました。どうか一晩、小屋の隅でも貸していただけませんか」
炉の傍で兎の肉を食んでいたクロが顔を上げる。
「……」
室田は渋い顔で入り口まで行き、ムシロを上げた。編み笠と毛皮を纏った女がいた。
マタギには山に入ると禁忌がある。煙草や酒を呑む事や里言葉を話す事、そして女性だ。室田が渋い顔をしたのも、そういう理由があったからだ。しかし、山で遭難した人を助けない訳にはいかなかった。
室田は女を招き入れた。始めは女を山人の一人と思った。この近くで、渡り行く山人の家族を見たことがあるからだ。だが、傘と毛皮を脱いだ女の姿を見て、室田は思い知った。
「クワツキ(化け物)か……」
女の服装は艶やかな絹の着物、結い上げられた頭には真紅の櫛、彩られた薄い化粧に、歯は黒く鉄で染められている。その姿、山中にしては垢抜けていた。
「あら美味しそう、わたしにもいただけるかしら」
女は炉端まで寄り、掛けてある鍋を覗いた。小屋に入った途端に横柄な態度である。室田はその態度に怒ろうともせず、椀に兎納豆をよそってやった。
すると女は、椀の中身を口中に一気に流し込み、ずるりと音を立てて食らった。
室田も神棚に供えた椀を下げ、それを食した。クロには、さらに兎の枝肉を与える。
食べ終わると、小屋の隅で室田は銃の手入れを始めた。銃身の内面を磨く。村田銃は黒色火薬を用いる為に、燃え滓がこびり付きやすいのだ。
室田の村田銃は傷だらけだった。脇に挟んで撃つために切断加工された木製の銃杷には、機械油と獣脂、そして血液が染み込んで黒く変色している。その傷の一つ、汚れの一つが室田のマタギ人生を表していた。
「お爺さん、一人身なの?」
女は地面のムシロの上に腰を下ろし、口元に淫靡な笑みを浮かべ聞いてきた。
室田は無視をして銃の手入れを続ける。妻は五年前に亡くなった。子供もいない。
「ねえ、こんな話知ってる? ある二組のマタギ衆がそれぞれ山小屋に泊まっていた。そこに子連れの女が一夜の宿を請うた。一つの小屋は女人禁制をたてに断り、もう一つの小屋は可哀想だからと入れた。その入れた小屋のマタギはやがて豊猟に恵まれが、断った小屋のマタギはコダマネズミへと変身させられた。女は山神だった……」
コダマネズミとは、ヤマネのことだ。マタギの伝承では、コダマネズミは背から割れて弾け、大音響を立てると言われている。それは山神の怒りの現れで、その音を聞いたなら山を降りざるを得ないといわれる。
「うるさい、もうスマレ(寝ろ)」
室田は整備し終わった村田銃の銃口を、なんと女に向けた。女と室田の視線が交錯した。
静けさの中、炉にくべられた薪がぱちんと弾けた。
「……」
女は口を閉じ、小屋に括り付けの寝床に入り込む。室田もその反対側に設置された寝床に入った。そして夜は更ける。
室田が目覚めた時、女の姿は消えていた。炉の火は消え、小屋は厳寒の支配下にあった。
「クロ」
室田は犬の名を呼んだ。だが、いつもは返ってくる返事が無い。起きて、犬の寝ている場所に近付く。体を丸めたまま動かないクロがいた。
手をクロの体に当てる。その感触は、冷たく硬かった。死んでいた。
「クロ……」
室田は、防寒着を着用せず、上着と雪バカマそして手には村田銃を握り、笹小屋から飛び出した。
降り固まった雪上には、二足の足跡が点々と印されている。笹小屋の先、丘の上にまで続いていた。
室田は、腰まで雪に埋もれつつも足跡を追う。その足跡は、二本足から途中四本足のそれに変化していた。
そして、室田はそれを見た。丘の上に立つミナジロを。
夜明けの空は、朝焼けと青空が混じり合い紫色に光っている。ミナジロの体も紫に染まっていた。
室田は、それが当然であるかのように、ミナシロへ向け自然に村田銃を構えた。
発射。黒煙が吹き上がる。
視界を遮る黒煙を掻き分ける様にして、銃を構えたまま前に出た。
眉間から血煙を吹き倒れてゆくミナジロの姿があった。その体が赤く染まっていく。
室田は銃を降ろし、大きく息を吐いた。白く曇った息が拡散して消える。
と、その時、周りの山中から連続して何か弾ける音が聞こえた。何度か聞いたことのある、コダマネズミの弾ける音だ。
室田は空を見上げた。蒼く色を変ゆく空には、一筋の雲がたなびいている。
低い振動音が聞こえる。
丘の上から、雪煙が吹き上がった。ナデ(雪崩)だ。
「なぜヒラツグ。ワンバ!」
雪崩は倒れたミナジロの体を呑み込み、室田に迫る。
室田は、黒煙まだ上がる排夾していない村田銃を雪崩に向けた。それが決意だった。
いとも容易く室田の体は引き倒され、山裾に向け雪崩は流れていった。
足跡も消え、一面が雪原に戻った。ただ一箇所、雪上に村田銃の黒い銃身が突き出ている。それはまるでモニュメントのようだ。
天気は急激に変わり、空から粉雪が舞い始めた。やがてその銃身も降り積もる雪に覆い隠されていった。