俺の弟はネットアイドル
「おーい、お前に荷物届いてたぞ。なんか水着のおねーちゃんのフィギュア」
学校から帰って来るや否や速攻自室に閉じこもった京介にそう呼びかけると、奴はドタバタと音を立てながら凄い勢いで階段を駆け下りてきた。
「また勝手に荷物開けたの!?」
京介は髪をボサボサにし、肩で息をしながら慌てたようにそう尋ねる。俺は静かに頷いた。
「うん、だって早く片付けないと段ボール邪魔だし」
「いつも言ってるよね!? 勝手に荷物開けないでって!」
「別に男同士なんだから恥ずかしがるなよ。お前がエロいフィギュア買おうがAV買おうが兄ちゃんは気にしないぜ?」
「ちっ、違う! そのフィギュアそういうのじゃなくて、もっと高尚な……いや、もう良い!」
京介は顔を真っ赤にして俺からフィギュアの入った箱をぶんどると、鼻息荒く自室へと戻っていった。奴が乱暴に部屋の扉を閉める音を聞いて俺は小さくため息を吐く。
「……なーんで怒ってんだアイツ?」
小学生の時はただただ可愛い弟だった。
昔から同年代の子と比べて小柄で運動神経も良くなかった。ゆえにいじめられることも多く、よく俺がいじめっ子を成敗したものだ。そのおかげか京介は俺をお兄ちゃんお兄ちゃんと慕ってくれて、いつも俺の後ろをついてまわっていた。
変わったのは中学生になってからだ。急によそよそしくなり、ぶっきらぼうな態度をとるようになった。今や一緒にお出掛けどころか食事を共にすることも稀である。
今京介は中学二年生。反抗期真っただ中なのは理解できる……が、やはり寂しいものは寂しい。
とにかく俺は京介の情報を知らなさすぎる。アイツと共通の話題があればきっと話も弾むはずなのだ。
しかしアイツに直接「学校はどうだ?」だの「今なににハマってるんだ?」だの「好きな子はいるのか?」だのと聞いても返事は「普通」とか「別に」とか「兄ちゃんに関係ないじゃん」などのそっけない物ばかり。
なにか良い方法はないものかと考えていたある日、ふと京介の部屋からなにか音が漏れているのに気が付いた。
壁に耳をくっつけて様子を窺う。すると女の子の可愛い声を聞き取ることができた。
「今日も生放送を見てくれてありがとうっ! みんなのアイドルきょんちゃんだよ~!」
「……アイドル?」
京介の部屋にテレビはない。とすると、パソコンか。
俺は部屋の隅っこで寂しそうにしているパソコンを引っ張り出し、『きょんちゃん アイドル』で検索をかける。すると検索画面のトップにある動画サイトが出てきた。
それをクリックすると、「みんなのアイドル☆きょんちゃんの夜会」なる放送が画面いっぱいに映し出される。その中心にいたのは色の白い可愛い女の子だ。サラサラストレートの黒髪、大きな目、どことなく子供っぽい無邪気な表情、そしてわざとらしいほど甘い声――なるほど、まさに「アイドルっぽいアイドル」である。
しかしどうにも違和感……いや、既視感があるような。
その曖昧で微妙な感覚は、彼女の次の行動でハッキリとした物に変わった。
「ふふふ、実はこの前言ってたマリンちゃんのフィギュア……買っちゃいましたーっ!」
彼女が嬉嬉として取り出したそれは、この前弟がネット通販で購入していたあの水着のフィギュアであった。
そうだ、彼女の背後からチラリと覗いている棚、あれは弟の部屋にある家具と全く同じだ。いや家具だけじゃない。あのペン立ても、クローゼットも、壁紙も、全部弟の部屋にあるものじゃないか!
俺はゆっくりと画面の真ん中でフィギュアの出来のよさを語る少女に視線を移す。
化粧でだいぶ印象が変わってはいるが、間違いない。
彼女は――我が弟である。
「それではみなさんさようなら! また見てくださいねーっ?」
呆然としている間に放送は終わった。
ショックを受けすぎて内容は頭に残っていないが、特に変わったことをしたり喋ったりといった様子はなかった。自分が購入したものや今後買う予定の物、それから最近あった面白い話など――小学生の時までは俺に話して聞かせてくれたようなことだ。
俺は腹の底からふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。
弟は俺がもう2年も見ていないような満面の笑みでとても楽しそうに話をしている。しかも相手は俺じゃなくどこの馬の骨とも分からない野郎共!こんな理不尽があって良いものか。
俺は怒りを必死に抑え込みながらフラリと立ち上がり、弟の部屋に乗り込んだ。
「おい京介ェ!」
「う、うわっ……ななななんだよ!! 勝手に入ってくんなって言ってるだろ!?」
ウィッグを外してはいたがまだ化粧は落としていないらしく、京介はこちらに顔を向けようとしない。
俺は大きく深呼吸し、怒りを抑えて優しく声をかける。
「……放送を見た」
「ッ!?」
京介がビクリと体を震わせ、そして息をのむのが分かった。
重たい空気が部屋に充満する。俺はそっと京介の肩に手を置き、諭すように言葉をかける。その肩は微かに震えていた。
「どうしたんだ京介。もしかして悪い奴らに無理矢理やらされているのか?」
俺の言葉に京介はゆっくりと首を振る。
その返事は俺の心を大きくえぐった。京介は自ら望んでこんな事をやっていたというのか。
「どうしたんだ京介。寂しかったのか? だからみんなにチヤホヤしてもらいたくてこんな真似をしているのか? なにか悩みがあるなら兄ちゃんが相談に乗ってやるから、な?」
「……違う」
「なにが違うもんか。お前は本当はこんなことやる子じゃないだろ? お前の心にはきっと何か異変が起こってるんだ。お兄ちゃんに話してみろ」
「どうしてこんなタイミングで……」
「ん? なんだ?」
京介はすごい勢いで俺の手を払い落とした。
驚いて呆然とする俺。京介は立ち上がって今まで見たことのないような顔で俺を見下ろし、紅で色付いた唇を小刻みに震えさせる。
「兄ちゃんに俺のなにが分かるんだ。俺の事を知ったような口利くのはもうやめてくれよ、なにも知らないくせに」
「お、おい。その言い方はないだろ。俺はお前の事を想って――」
「もう二度と……俺に話しかけないで……!」
それは静かで、しかし怒りに満ちた言葉だった。
「お前、それ本気で――」
「出てけッ!」
俺は弟に追われるようにして部屋を出たのだった。
それからの弟の態度と言ったら、酷いなんてものじゃなかった。
挨拶は無視、話しかけても無視、お菓子を差し出しても受け取らない。兄弟間での喧嘩らしい喧嘩をしたことのない俺にとってこの無視攻撃は物凄いダメージだった。そして喧嘩らしい喧嘩をしたことがないために仲直りの方法も良く分からない。
第一、どうして京介があんなに怒っているのかも良く分からないのだ。もう分からないことだらけである。
しかしこのまま放っておけばもう一生京介と仲良く喋ったり飯を食ったりできなくなってしまうかもしれない。京介が20歳になったら一緒に酒を飲むことが夢だったのに、その夢ももはや風前の灯。下手すれば結婚式に呼んでもらえないかも……。
とにかく何か突破口を探さなければ。
俺は藁にもすがる思いで京介――いや、「ネットアイドルきょんちゃん」を調べることにした。
俺に見つかってしまったのでページを非公開にするとか削除するなどの策をとっているかもしれないと考えたのだが、そんなのは全くの杞憂であった。
俺は考え得る最悪を想定しながらそうっと文字をクリックし、恐る恐るプロフィールに目を通す。
しかしどうしたことだろう。プロフィールには想像していたようなふしだらな事は書いておらず、むしろ等身大の京介そのものを映していた。
性別は女となっているものの、年齢、身長、好きな食べ物などは俺の知っている京介の情報と同じである。
ネットアイドルにはあまり詳しくないのだが、コメントもたくさん書かれていてファンもそれなりの数いるようだ。まるで本物のアイドルである。兄の贔屓目も入ってはいるだろうが、確かに女装した京介はその辺の女よりよっぽど可愛い。
しかし京介はやっぱり女の子ではないのだ。
「……ん?」
アイドル、きょんちゃんで検索をかけてあちこちを覗いてみたところ、あるページが目に留まった。
「ネットアイドルきょんちゃん 男疑惑?」と題されたその記事に目を通す。題名の通り、きょんちゃんが男ではないかという議論とそれを検証する画像の数々が貼ってある記事であった。やはり同年代の少年に比べて小柄であるとはいえ男は男だ。日に日に身長は伸びていくし、筋肉だってついていく。誤魔化し切れない面も出てきてしまうのだ。
少々安心した。俺が無理に止めなくてもいずれ止めざるを得ない日が遠からず来るはずだ。
でも――
「みなさんいつも応援ありがとうございます☆ なんと再生回数が10万突破しちゃいました!!」
俺は明るくて元気いっぱいの「きょんちゃん」の書き込みを見て何故だか酷く心が痛んだ。
********
「今日も生放送を見てくれてありがとうっ! みんなのアイドルきょんちゃんでーす!」
この前とほとんど変わらない元気な声が画面の中と壁の向こうから聞こえてくる。
しかし兄であり長年弟を見続けてきた俺には京介の微妙な変化が分かった。そしてその理由を俺はここ数日で嫌という程学んでいた。
『きょんちゃん男なのー?』
『オカマ?wwwww』
この前の放送にはなかった悪意あるコメントが目立つ。
ここ数日で「きょんちゃん男説」が急速に広まり、今までネットアイドルなんかに興味なかった連中が興味本位や冷やかし、もしくは中傷をするためにわざわざ放送を見に来ているのだ。その注目はものすごいもので、いつもの放送の3倍もの人間がこの放送を見つめている。京介のほんの少し強張ったような表情はそれが原因であるに違いなかった。
「いや、男説とかネットで流れてるのは知ってますけど! 私は女の子ですから! みんなほんと失礼~」
笑いながら砕けた口調でおしゃべりするきょんちゃん。しかしその声がわずかに震えているのが俺には分かった。視聴者もそんなことで納得するはずなく、追撃の手を緩めない。
『口で言うだけならなんとでも言えますもんね^^』
『骨格完全に男だろwwwwwww』
「も~、わたし肩幅広いのコンプレックスなんですから言わないでくださいよっ!」
そう言って可愛らしく自らの身体を抱きしめるが、そんなのが通用するような連中ではない。
それどころか奴らはさらに勝手で酷い事を言い始めた。
『男じゃないって言うなら証拠見せろよ』
『そうだ! おっぱいみせろよ』
「はぁっ!?」
俺は思わず素っ頓狂な声を上げる。
コメントはさらに過激さを増し、もう男とか女とか関係なくなってしまっていた。
『おっぱいみせろおっぱいwwww』
『取りあえず脱ごう、な?』
『そしたら信じてやるよ』
『お前らいい加減にしろ、女の子になにさせる気だよ』
『いや女の子なら見せれるだろwwww男だから見せられないんだよwwww』
きょんちゃんのファンと思われるコメントもちらほら見受けられるが、数の暴力にかき消されて良く見えない。
きょんちゃんはと言うと、今までの放送では見せたことがないほど小さくなって肩を震わせている。もはや元気な声を出すそぶりも見せない。
このまま放っておけば京介のアイドル生命は絶たれる。それは当初から俺が望んでいたことだ。
しかし、弟が多数から一方的に辱めを受けているのを黙って見ていることはできなかった。俺は部屋に飾っていたワインをグイッと飲み込み、弟の部屋へと向かう。
「クォルァー!!!! 京子ォー!!! お兄様が帰ったぞォーッッ!!」
京介は突然の乱入者に目を見開き、ポカンと口を開く。
「に、兄ちゃん……?」
「はぁぁぁぁ京子はいつも可愛いなぁ、ほらチョコレエト買ってきたぞチョコレエト」
「は!? ちょっと何やってんの!? あっちいってってば!!」
京介は俺を部屋から押し出そうと体をぶつけるが、俺はてこでも動かなかった。そうすることで京介がよりか弱く、そして女性らしく見えるはずだ。
「そうだ、京子。お前が通販で頼んでたブラジャーが昨日届いてたぞ。俺の部屋にあるから」
「はぁっ!?」
「あの、あれあれ。ピンクのレースが付いたやつ。あとお前のパンツが俺の洗濯物に混じってたぞ。俺の部屋にあるけど。あの水玉のやつ」
「は……はぁっ!?」
「あとさぁ、お前の友達のゆみちゃんいい加減に紹介してくれよぉ」
京介は困惑したような表情を浮かべる。
それもそうだ。京介が女物の下着など持っているはずもない。ゆみちゃんなどという友人もいない。
俺は酔っ払いを演じながら――というか半分本当に酔っていたのだが、とにかく京介にセクハラ発言をしまくった。
結局放送は俺のセクハラ発言を垂れ流すだけ垂れ流して終わってしまった。
まさに放送事故。これでますます京介の評価が下がることもあり得たが、とにかくなにか助けになりたかったのだ。
その思いが通じたのかは分からないが、トイレでゲーゲーやっている俺に京介は水を差しだしてくれた。
「……弱いのにワインなんて飲むから」
「はは……こういうのはリアリティがないと……だろ?」
俺はそう言って力なく笑う。
京介は俺の背中をさすりながら小さくため息を吐いた。
「もう兄ちゃんのせいで大変だよ。男疑惑とか吹っ飛んで、兄ちゃんの話題ばっかり」
「そ、そうか……吐くまで飲んだかいがあったかな」
「別に男だってバレたら男の娘アイドルとしてやってこうと思ってたから良かったのに」
「えっ」
「……嘘、ありがとう兄ちゃん」
「えっ」
俺は吐き気をこらえて京介の方に顔を向ける。
久しぶりに間近で見るその顔は、成長しても化粧をしていてもやっぱりあの可愛い京介であった。
「あのワインさ、お前が20歳になったら飲もうと思ってたんだ……飲んじゃったけど」
「気早すぎ。ワインとかじゃなくて俺もっとジュースっぽいのが良いし……20歳になったら一緒に買いに行こうよ」
「それもそうだな」
小学生の時のように――とは行かないだろうが、京介との距離が以前より縮まった気がした。