109話
多分、夢を見ている。
私は鏡でできた大地の上に立っている。
紺碧の空には大きなガラス細工の月がかかって、薄明るい。
足元の鏡面には月の光と私が落とす影とが蒼く明暗を作り出している。
どこまでも無機質で冷たい印象の場所だった。
踏み出した足の底が冷たい。
「ようこそ、アタシの世界へ」
気づけば、背後にガラス細工の蜘蛛が居た。
「君の世界」
「そ」
「綺麗な所だね」
「ありがと。アタシも気に入ってんの。悪くないでしょ?」
「うん、良いセンスだ」
ガラス蜘蛛は器用に脚を折り畳んで鏡の上に座るので、私も隣に腰を下ろした。
……座布団が欲しい。
「ところで、なんで私の体を使いたがったの?」
ガラス蜘蛛もすっかり落ち着いた雰囲気だったので聞いてみた。
「そりゃあね?アンタがたっぷり魔力を持ってるのが見えたからよ」
ほう、魔力って見えるものなのか。
「魔力があるとどうなるの?」
「はあ?そんなの……強くなれるに決まってんじゃない」
……だったら、私が弱いのはおかしくないか?
「アンタは魔力を使うのが下手なのね。で、アタシは、魔力自体が少ないの。お陰様でこんな体よ」
ガラス蜘蛛はその透き通った脚を掲げて光に透かす。
「綺麗だよね」
薄青い光を透かして、ガラスの脚はとても綺麗に見える。
「……そ、ありがと。アンタ位よ、そんなこと言うの。……アタシの兄弟はね、強いのよお。皆、こんな色の無い体してないもの。皆魔法が得意でね。アタシみたいにみっともなく毒だの酸だので戦わなくてもいいのよ……それが、嫌でね」
ガラス蜘蛛は脚を鋭く鏡の表面に振り下ろすけれど、鏡は割れる事も無く、鋭い音だけさせてその脚を防いだ。
「弱いのは生まれつき。でも、強くなれないのは生まれつきじゃないわ。外部から魔力を得られれば強くなれる、って、思って、ね。……だから、アンタを狙ったのよ。ごめんなさいね」
「いや、いいよ。……それで、強くなれた?」
ガラス蜘蛛は大きくため息をついて、やれやれ、というように脚を掲げて見せた。
「駄目ね。手間取ってる内にあの様よ。まさかアンタの仲間、アンタの首斬りに来るなんてね」
ははは、驚いたでしょう。そうでしょう。
「……ねえ、変な事聞くようだけどさ、アンタ、死ぬの怖くないの?首斬らせたのってアレ、アンタの意思だったんでしょ?」
「うん、痛いのは嫌だね」
「そうじゃなくて」
うん、まあ、分かるよ、質問の意図するところは。つまり、死ぬまでの過程の話じゃなくて、死自体とか、死んだ後とかの話になるんでしょ?
「私は別に死にたいわけではないよ。私が死ぬより仲間の誰かが死ぬ方が余程問題だっていうだけで」
ガラス蜘蛛は私を見つめてくる。あんまり見つめるなよ、照れるじゃないか。
「それ、アンタの他の人はたまったもんじゃないんじゃないの?どう見ても、あれ、苦渋の選択だったわよ」
「どうだろう。そうだったとしてもやっぱり切るなら私ってことになるよ。事実、そうなったし」
鈴本が私を斬ったって事は、それが合理的だったからだ。
例え、それが苦渋の選択の末でも、それが一番いい解答だった。そして、私たちはそれを実行できる。それだけの事だと思うんだけどな。
「それに、私は家事やってる位で直接戦闘に関わってる訳じゃ無いから。布製品なんかは最悪町に行って作ってもらって加鳥が『染色』だけすれば済むし、食事なんて外食とか、幾らでもやり様はある訳だし。私が居なくても普通にやっていけると思うよ」
戦闘員と違って、私のやっていることは私じゃなくても幾らでもできる事だ。
それこそ、分業なんて幾らでもできるし、外部委託だってできるし。
もしかしたら、私がいるからできていないだけで、そういう事をやらなきゃいけない状況になったらスキルが入手できるっていう可能性もある。
居たら便利であることに変わりは無いだろうけど、少なくとも、戦闘員が欠けるよりは余程マシだと思う。
「分かってて言ってんのよね、それ。余計性質悪いけど」
……まあ、うん、分かるよ。だから私が死ぬか誰かが死ぬかの2択ならともかく、私が死ぬか否かの2択だったら私は死なない方をできるだけ選択するようにするつもりだよ。
でも、さ。もう合理的な何かとかが無くても、多分、そうすると思う。
「私は……自分勝手だからさ、死ぬなら私がいい」
私は、自分の大事な人が死ぬなんていう事には耐えられない。
「……ああ、だからアンタ、自分が死んでも周りは平気だって思っていたいんだ?」
ガラス蜘蛛がガラスの目で私を見る。
何となく視線に耐えきれなくなって俯くと、鏡に自分の顔が映る。
「そうだね、私は卑怯だ」
この世界じゃ、俯くこともままならない。目を閉じるか、まっすぐ前を見ているかしかできないじゃないか。
「……アンタ、本当にあのアンタの仲間達が好きなのねえ」
ガラス細工の脚がふと擡げられたかと思うと、ぽす、と私の頭に着地して、ぐいぐい前後左右に頭を動かしてくる。
……撫でてくれてるらしい。
閉じかけた目を開いて、前方を見る。
その方が、こんな言葉を吐くには相応しい気がしたから。
「うん、好きだよ」
コバルトガラスの空と鏡の大地は混ざることも無く、只、綺麗なラインを描いている。
ふと、コバルトガラスの空に銀の星が流れた。
銀の星は空を割りながら流れていく。
「……あーあ。もうちょっとほっといてくれたらよかったのに」
ガラス蜘蛛は舌うちしそうな勢いで憎々しげに言うと、空から私に向き直った。
「……暇つぶし程度にはなったわ。ありがとね」
その言葉がきっかけだったかのように、割れ砕けた空が降り注いで、世界が砕けていく。
鏡が砕けていく。空は降りやまず、ガラス蜘蛛の体を打ち砕いて、伸ばした私の手はガラス片を掴んだだけだった。
気づいたら、知っているような、知らないような、変なところに居た。
前方右には巨大な歯車が幾つも噛み合い、回っている。青い空に華奢な金色が映えて、凄く綺麗だ。
左の方に行くにつれて歯車は小さく精緻な銀色のものとなり、どこか退廃的な雰囲気になってくる。うん、悪くないね。
しかし、後方には……なんかごちゃごちゃと色々ある。あんまりよろしくないな、これ。
周りを見ていたら、何時の間に来たのか、すぐ横になんか居た。
ええと……のっぺらぼうの、腕は数本、足は無い、白いだけの、女性のマネキンみたいな……ええと……なんだ、これは。
敵意は感じられなかったので観察していると、不意に、それは私をむぎゅ、と抱きしめてきた。
……肋骨が折れないのって、久しぶりだなあ。
なんとなく嬉しくなったんで、そのよくわからん奴の背中(?)に腕をまわして抱きしめ返してやると、ぴしり、と何かが割れるような音がした。……あれ、肋骨折っちゃった?
心配になったんでちょっと離れてみてみると、マネキンみたいなのの顔面の一部が割れ落ちていて、その奥にあった目と目が合った。
その目は少し笑うと、屈んで、割れ落ちた顔面を拾い上げて、元の位置に戻そうとする。
「あ、待って」
思わずそれを止めて、手に持っていたガラス片を差し出す。
「こっちの方がいい」
ガラス片はいつの間にか形を変えて、マネキンみたいなのの割れた箇所をぴったり塞ぎそうな形になっていた。
「前が、見えた方がいいでしょう?」
見えるものが美しいものばかりとは限らないけれど、見るべきだと思うから。
マネキンみたいなのは少し驚いたような目をしてから、目を細めて笑い、ガラス片を受け取って少し眺めた後、意を決したように顔面にそれを収めた。
ぱちり。
これは夢だ。目が覚めたらきっと私は何も覚えていないだろう。