第二章 1『邂逅』
見上げた空は青かった。
ただし、それは透き通るような蒼ではなく、暗さを残した夜の青。
拳銃を取りこぼし、静かな音とは裏腹に途轍もない衝撃を受けた両腕を投げ出す。同時に、疲れ切った身心も。
膝をつき、そのまま広場の中央、【大罪の英霊】が崩れ落ちるそのすぐ横にうつ伏せで倒れる。が、すぐに息苦しくなり、痛む身体に鞭打ち仰向けになる。
そこで目にしたのが、空だった。
つい先ほどまで、辺りは炎に包まれていたし、空には燃えて爆発する槍が存在していた。そんな状況では空に瞬く星など見えようはずがない。
だが今はハッキリと見える。いつの間にか、街を襲っていた業火も視界には映らない。完全な夜の、静かな街。
なんだかんだで、目が覚めてから初めて目にする夜空だった。
不思議な感覚だ。夜空を見た記憶なんてないはずなのに、それが夜空だとわかってしまう。
つい昨日まで、何をしていたのか──『どこか遠い場所の、アパートで暮らしていた』──そう文字として頭にチラつくも、それが光景としては現れない。
思えばそんなことはチラホラと何度かあったか。
例えば、初めて目が覚めた時。魔獣──アレはキツネだったのだろうか? 魔獣が複数いるとわかった現状、もしかしたら違う個体だったのかも──に追いかけられた時。俺は無意識に『スポーツ』なんて言葉を頭に浮かべた気がする。スポーツという言葉が何を意味するか……朧げに理解していても、いざ説明しろと言われるとなんとも言い難い。
例えば、記憶にある内で初めてこの街に訪れた時。俺は自分の名前の書き方を複数知っていた。『雪村 黒音』、『ゆきむら くろね』。そして、さらに『ユキムラ クロネ』。これらは全て俺の名前を表すものである。……が、なぜ表記が三つもあるのかわからない。
でもそれらの矛盾は不思議と頭で処理されて行く。無理解は無かったことにされ、それがさも当然であるかのように。
それを無理に思い出そうとすれば頭痛が襲う。
本当に何もかも、わからない。
もっとわからないのは、あの赤い少女の行方。
爆発に飲まれた彼女がどこに消えたのか。
はたまた、跡形もなく木っ端微塵になったのか。
「ああ、やべえ……あの子に、まだ……ちゃん、と」
──謝ってない。
何度目になるかわからない耄碌感に襲われ、意識が泥沼に沈んでいく──
ーーーーーーーーーーーー
「──うっわ。こりゃ酷いなぁ……」
改めて。僕は魔王。
初めて僕自身の外見に触れようか。
頭を守る頭髪は、真っ白。勇者の紅い髪を炎と称するのならば、僕の髪はさながら『雪』──だろうか?
元は……人間の頃は、なんの珍しさもない亜麻色の髪色だった。
ストレスや老いから白髪になった……とは思いたくない。とはいえ、亜麻色から白色になっていくのが段階を踏んでいただけに、否定しづらい部分ではある。
身につける衣服は、僕がただの村人だった頃からずぅーっと着続けている、絹製の半袖。これと同じものが何着か。さらには長袖もいくつか持っている。その中の一つ。
下に履くのはこれまた絹製の長裾。半裾もある。
魔王だからと言って、物々しいローブに身を包んだりしない。恥ずかしいし、何より重くて暑くて動きづらい。引きこもりには大分辛い装いだ。そういうのはゲームの中だけなんですよ。
そして両手を包む黒い革手袋。別にカッコつけってわけじゃなくて、魔力の放出を抑えるため。効率よく魔法陣を構築するため。
最近疲れることが多くなってきたから、最近はずっと身につけている。
はい、外見説明終了。
魔王ってたって、元が人間なんだから人間とそうそう変わらないって話ですね。
あ、ちなみに、僕は自分のことを『魔王』って呼んでるけど、ちゃんと名前はある。誰にも呼ばれないし、名乗ることもないから時折忘れそうになるけど……人間だった時の名残は、ちゃんと存在している。
「ま、それもなんていうか、過去に縋ってるって感じだけど」
もっと言えば、別にそのことに対して悲観なんかもしていない。
「そんなことより……これはまあ、なんというか。魔人の仕業では……なさそう、だなぁ」
街に入る時に感じた『ヴゥン』とかいう違和感が関係しているのか……なんて考えてみるけど、大抵こういう読みは外れるから、うん。
「お?」
場所は、大きな大きな図書館の前にある、これまた大きな広場。
何か途轍もない爆発が起きたようなクレーター。その中央で、何か大きな存在が魔素に還元されていくのが見えた。
「あれは……【大罪の英霊】? 確か、勇者と契約してた魔神だったかな……」
大方、勇者が魔人への対抗手段として召喚したのだろう。
しかしあの魔人三体はそこまで強くなかったはずだし、だとすればこの広場の惨状が説明できない。
あの魔神は、何とやり合ったのだろう?
魔神が魔素に還元されている──それはつまり、【大罪の英霊】が何者かに殺されたということになる。
確かに、召喚されたからといって、魔神だからといって、絶対に負けない、死なないわけではない。
しかし、彼はかつてあの天界で名を馳せた英雄だ。あまりに強すぎて、彼に素手で勝てるのは、おそらく魔王と勇者を除いてこの魔界にはいないのではないかというほど。
だから、この状況では勇者が【大罪の英霊】を倒したと考えるのが当然。だがその理由が説明できない。
「暴走でもしたのかな? まあ何にせよ……」
この場に勇者の姿はない。
「【大罪の英霊】はたった今魔素に還元されていった──あまり遠くにはいないはずだけど。…………」
魔力を目に集中させ、とある呪いによる効果を発動させる。
「────開・眼」
何百年と昔、勇者にかけた──監視の呪いを。
これがあれば、勇者がどこにいようと、周りの景色と共に覗くことができる。それが例え、異世界であっても。
「…………んん?」
だから、視界に飛び込んできた光景に首を捻った。
視界にあるのは、暗い、どこかの広場。
すぐ側にはとても大きな図書館があり、ふと見てみれば頭の白い誰かがいる。言うまでもない、僕だ。
目を閉じ、今の光景の意味を考える。
「……勇者はここにいる。魔素の波動も感じないし、隠れる魔法を使ってるわけでもない。──と、すれば」
そして、一つの結論に辿り着く。
「肉片も残さず、木っ端微塵になって、死んだか」
視界の端で、ピクリと動く影があった。
ーーーーーーーーーーーー
『名前、知りたいですか?』
『教えてやりませーん! ばーか!』
『あなたを、死なせはしません』
赤い少女の声が、脳内に響き渡る。
その度に、何か、心のどこかでチクリと棘が刺さる気配。
「──死んだか」
どこかから、そんな声が聞こえる。
それと同時に──意識が、覚醒した。
ーーーーーーーーーーーー
途轍もない爆音に、妙な焦燥感を抱いた。
しばらく放心して動けなかった。あの赤い子が少女をここまで連れてきて、どれほどの時間が経ったのだろう。
「こ、今度はなに……!?」
遠く、図書館の方。
見れば、本来なら遠くからは視認することができない図書館を確認することができている。つまり、図書館を包んでいた透過結界は既に存在しないことになる。
普通の手段では消し去ることのできない結界をも吹き飛ばすような戦闘が起きているのか、それとも何か別の方法で結界を消したのか。
そうだとして、そのことには何の意味があるのか。
少女は悔しかった。自分の無力さが。
この街を襲う魔人に太刀打ちできず、逃げ惑うことしかできなくて。
自分を助けてくれたのは、見ない顔だったことから、どこか外から来た旅人なのだろう。彼らを案内するのが少女の役目──だったのに、逆に助けられた。
悔しい。悔しい。
「……何が出来るともわからない。けど……」
このまま、無関係で終わりたくはない。
覚悟を決めたネーマーは、煤けた顔もそのままに駆け出した。
ーーーーーーーーーーーー
────ガバッ!
身体を起こすと同時に全身に激痛が走る。
「あがぁゃああああ!?!?」
痛い痛い痛てーっつの痛てーわちくしょう!!
突然起きて叫び出して、傍から見なくても変人だ。
いやでも痛いんですもん。
どうにか落ち着いて、辺りを見回してみる。
どれくらいの間気を失っていたのだろうか。
ふと、自分にかかる黒い毛布のようなモノの存在に気付く。どこか、知っているような温もりに、
「……キツネ?」
思わずそう声に出してしまった。
すると、毛布が蠢き──小さく分裂した。その様は軽く衝撃的で、思わずまた気絶してしまうところだった。ビビって。
分裂した、まっくろくろすけのようなそれは各々が形を作って、それぞれ猫の姿を取った。とはいえ、かなり小さくて、子猫というよりハムスター的な感じではあったが。ちょうど手のひらに収まりそうなサイズが可愛い。
……が、それが何十匹もいるとなると少々引く。
小さくなってしまった理由は……あまり理解できてはいないが、おそらく魔力不足だろう。図書館を覆う結界に込められた魔力をキツネに食わせた時、心なしかコートが長くなったし。
「……ん?」
ふと、何かが足りないことに気がつく。
「──ああ、あのデッケェ騎士だ。アイツがいないから、威圧感ないんだ」
自分が倒した──そう考えて良いのだろう──騎士の巨体がどこにも見当たらない。死んだら跡形もなく消えてしまうのだろうか? それとも、召喚されただけだから、元の世界に戻ったとか?
なんて考えている内に、ようやくその存在に気付いた。
騎士が消えた代わりに、そこにいたのは。
「──白髪の少年……!」
「あ、お前街の外で勇者と仲良さげに話してた奴だな!?」
休まる時が……ない。




