第一章 6『狼× 猫○』
誰かが俺を呼んでいる。
────クロネっ!
誰だろうか。俺を名前で、呼び捨てで呼ぶような人。……両親くらいしか思いつかない。
だけど、その両親は死んでしまった。
ならば、誰が俺のことを名前で呼ぶ?
友達だっていなくなった。かつてはいたが、彼らもクロネのことは名前では呼ばなかった。
『黒猫』──彼らはそう、俺のことを呼んでいた。
────クロネぇっ!
その声は段々と悲痛になっていく。
手を伸ばしても届かなくて、離れて行く。そんな情景が目に浮かぶ。
誰?
気付けば、身体の節々が悲鳴を上げている。ギシギシと軋み、ズキズキと刺すような、熱い痛みが全身を包む。
身体の先から寒くなって行く感覚。血が無くなっていってるのだろうか。
────クロネ、クロネぇ……。
声が少しずつ小さくなって、プツリと途絶える。
顔に当たる、ちょっとだけ温かいそれは、一体何なのだろう。
────ゴメン、折角、 って言ってくれたのに……
やがて意識が、混濁に飲まれ──
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目を覚ましたら黒い魔獣の上にいて、赤い少女が覗き込んでいて。
あれ、何か夢を見ていたような──とは思うモノの、思い出すことはできない。頭痛はしないから、単純に夢として処理され、消えただけだろう。
「──聞いてます?」
ジト目で俺のことを睨むのは全身が赤い少女。
空から降ってきた、人形のように可愛らしい……ロリだった。
「……えっと、俺はどこか別の世界から来て、帰る方法が分からない……ってことだよな。聞いてる聞いてる」
だが、俺はその状況を特に不安に思うことはなかった。
だって、思い出せないのだから。自分がどんな世界にいたのか。どんな生活を送っていたのか。それらが欠けている現状で、帰りたいなどという感情は生まれて来ない。
──転生。
脳裏に浮かぶ二文字。
俺の置かれた状況が転生であるとは限らない。単なる世界、次元移動だとかかもしれない。
けどまあ、知識として一番知っているのは転生についてであって、自然それが候補として上がる。
まあ、思うだけで口にはしないのだが。
「で、お節介って何よ」
「……何でしょうね?」
「おいっ?」
「いやぁ……お節介を焼く、ってことは決まってるんですけど、どう焼けばいいのやら。ホント、こんなめんどくせー人は放って久々の魔界を楽しみたいんですけど……はぁ。勇者って本当に融通が効かないんですよねぇ」
「今サラリと俺のことを放って観光したいと言われた気がするんだけど気のせい?」
「あ、炎の魔法で焼けば良いんですかね」
「物理的に焼くと!? お節介を焼くってそういう意味じゃないから! っつーか話を逸らすな! 俺を放って、何をしたいって!?」
「話を逸らしてるのはあなたですよクロネさん。今はどうあなたを焼くかについて話してるんですから。……やっぱり火の玉ぶつけるか、炙るか?」
「お前も十分逸れてるから。焼くのは俺じゃなくてお節介だから。もしくは世話だから!」
「うーわー、女の子に世話焼かせる気ですか? このヒモ」
「テメェが自分でそう言ったんだろうが、このドチビがぁああああ──ッ!?」
話が進まない。
なんだろうか。根本的に、俺はこの少女と馬が合わない気がしてならないのだが。
はぁ〜……あのネーマーの女の子が恋しくなってき──ん?
「あ、そうじゃん」
とりあえず、あの街に行けば良いじゃん?
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「──で、その街に行くのは賛成ですけど。その前に懸念事項が二つ」
そう言って、人差し指と中指を立てる。
「あなた、セイレーン語話せます?」
「セイレーン語?」
俺が尋ね返すと、やっぱりと言ったように眉根を寄せる。
考え込む素振りを見せながら、やがて、
「 、── …」
と、よく聞き取れない声を発した。
そして気付く。これはあの街の人たちが話していた言葉であると。
「……今の、聞き取れました?」
「じぇんじぇん」
「でしょうね。聞き取れてたら今頃、私に掴みかかっているでしょうから」
「何を言ったテメェ」
「ちょ、くる、苦しいです。放してくださいいやマジ本当に! あなたどんな力してんですか!」
何を言われたのか気になったものの、このままでは話が進まないため仕方なく解放する。
「はふぅ……。か弱い乙女の胸ぐらを二度も掴むとかどういう了見してんですかこの男。安心してくださいよ、別にバカだのアホだのとは言ってませんから」
「俺がその程度で掴みかかると思ってんのっ?」
「ヤー」
わざわざロシア語で返答してくるこいつに腹が立──あれ、ロシアゴってなんだ?
響き的にニホンゴと似て──痛っ!
「……っ」
「というか、私は絶対にあなたより年上なんですけど。なのに敬意の一つも払わないで──って、どしたんですか、急に頭抑えて。中二病?」
「……いや、今なんか、何かを思い出そうとして、頭痛が……」
「……やっぱ、思い出すのは無理そうですね。はぁ〜……記憶喪失で、記憶を呼び起こそうとすれは頭痛に阻害され、ってどんだけテンプレートなぞってんですかねぇ……」
また頭をがしがしとかく仕草。
「とりあえず日も暮れ始めたし、さっさと街に行きたいんですけど……はい、ここで懸念事項二つ目。……この黒いのどうするんですか」
まさかここに置いてくわけにもいかないし……と、俺たちが立つ黒い絨毯を指差す。
…………ああ、これどうしよう?
俺たち二人が立って組み合ってもまだ余裕のある広さの背中……そこから魔獣の途轍もない大きさを想像してみて欲しい。
こんなのがあの街に近付く。……考えるだけで恐ろしい。瞬く間にサイレンが鳴り、パニックになるだろう。
「ブッ殺すことも可能なんですけど……おわぁっ!?」
不穏なことを言う赤い少女。その言葉に反応したのか黒い絨毯が大きく揺れる。まるで、驚いた時のリアクションのように、ビクゥッ! と。
「……いやぁ、殺すことは無いんじゃないか?」
「……正気ですか? こいつは、今は大人しくしてるけど、人を襲ったりする害悪なんですよ? 殺せば感謝されるような、そんな魔物なんですよ?」
「そんなのは知ってるけどさ……」
事実、俺の脳裏にはその恐ろしさがこびりついている。
一度目はその大きな顎に噛まれ、
二度目は少女が喰われるのを目の前で見て、
その恐怖は完全に払拭されたわけではない……が。
「……こんな顔されちゃあ」
「……む」
「……………………」
俺ら二人の会話を理解しているのか、悲しそうな目で背中に立つ俺たちを見る黒い獣。
その目は心なしか、潤んでいるように見えた。今にも泣き出しそう、そんな具合に。
……なんだろうな、凄く可愛く思えて来たんだが。
「ええい、ダメ、ダメですよ甘やかしちゃ! そもそも、他に方法が無いんですから! まさかこの巨体を街まで連れて行くわけにもいかないし……」
そう言った瞬間。
「お、おおっ?」
俺は首の後ろ、ジャージの襟を誰かに掴まれた……ああ、魔獣に咥えられてるのね。そんなことをされているのにまったく恐怖がない。
そのまま俺は背中から降ろされ、再び草原に降り立つ。
そして。
「わ、ちょ、何するんですか、この──わきゃう!」
赤い少女は俺みたく優しく扱われることはなく、首の後ろを咥えられ投げられた。
「っくぅ……ほ、ほら見ましたか? 私を投げましたよ、危害を加えましたよ! やっぱこいつ殺しましょうよ!」
「……………………」
赤い少女が何かを喚いているが、俺はそれを無視した。
いや、わざとじゃない。そうせざるを得なかった。
だって、なぜなら──
────フシュゥウウウウウウウウ
そんな音を立て、魔獣が小さく──いや縮んで──萎んで(?)行く。
黒い煙は魔力だろうか。魔獣から勢いよく噴出し、その姿はドンドンと小さくなって、やがて、猫ほどのサイズに。っつーか、まんま猫。黒猫。オオカミみたいな姿してたくせに小さくなったら猫。
小さくなった魔獣は俺の足元にとてとてと可愛らしく寄って来て、ニャァ〜と鳴く。やっぱこいつ猫だ。
「…………あの、まさか、連れてくなんて言いませんよね……? 小さくなっても魔獣は魔獣。いつ襲われるかわかったもんじゃ──」
「よぉーし、日も暮れて来たし、さっさと街に向かおうか。結構時間もかかるし」
「ニャ」
「ちょっとォおおおおおおおお!!??」
空は既に朱より暗い青に染まり始め、あと十数分もすれば闇に覆われることだろう。
その前に、早く街に着いてしまいたい。
何より、あのネーマーの少女に会いたい。俺がこうして生きているのだから、あの子だって生きているに決まっている。
そう、あれは全部夢なのだ。超高性能な夢。
俺はそう思い込むことにした。
また、目を逸らす。
──あんなにリアルだったのに、それが嘘なわけがないのに。




