極私的俳句論、その6 駄句と秀句は紙一重。
その1
朝顔に釣瓶とられてもらい水 千代女
朝顔のつるが釣瓶井戸に絡まって使えないのでもらい水しました。
私はそんなにしおらしいのよ?というわざとらしい臭み?がある意味感じられる句ですよね?
でも一説によると
『朝顔や釣瓶とれてもらい水』だというのですね。
これだと誰かに釣瓶を盗まれて仕方なくもらい水しましたとなります。
せちがらい世間のコソ泥?が盗んだのでしょうか?
立った一字替えただけで全く別の意味の句になるのです。
だから俳句はおそろしい?
その2
算術の少年しのび泣けり夏 三鬼
これは算数の問題が解けずに泣いていた少年の夏ということになっていますよね。
私はでもこう、解しました。
その昔算術の少年で出来なくて苦しんだ自分を今偲んで思わず泣いてしまった、、、と。
この解釈が全く誤りだとは言えませんよね。
なんせ俳句は省略の極致ですからどういう風にだって解釈は可能な文芸なのですからね。
その3
寒卵コツと割る聖女学院 不死男
これはどうでしょう。
寒い冬に朝でしょうか?
女学院の厨房で女生徒がコツと割る卵、
静かな讃美歌でも流れてきそうな静けさという句でしょうか?
その4
山鳩よ見ればまわりに雪が降る 窓秋
山鳩よ周りを見てごらん、雪が降っているよ。
私が山鳩に見とれていると、ふと気が付くと周りは雪が降っていた。
さてどっちが正しい?解釈でしょうか?
いいえ、どっちも正しいのです。
俳句は極端に切り詰めていますからどっちの解釈も成り立つのですよ。
その5
山又山山桜又山桜 青畝
漢字ばかりの句ですね。しつこい?と感じるかもしれませんあるいは
技巧的すぎると感じるかも、
効果的には山桜の群生しているさまがよくあらわれてはいるでしょうね。
その6
其銀で裘なと得よ和製ユダ 草田男
この句は罵倒の句ですね?
軽蔑というか、でも和製ユダとは?いったい?誰でしょうか?
駄句と秀句は紙一重
俳句に絶対の鑑賞法はない。
これが俳句の鑑賞にまつわる恐ろしい?現実である。
まあ。別に俳句に限らずあらゆる芸術、文学、演劇、舞踊、音楽。絵画。彫刻などなど
およそ芸術作品には、
これが絶対だという鑑賞法はない。
しかし、
こと、俳句に於いては
それがまた倍加されるというか
より一層鮮明なのである。
なぜか?
それはたった17文字しかない表現方法だからである。
たった17文字でいったい何が伝えられるというのでしょうか?
はっきり言って無理です。
「おーいやあこんにちは元気かい?」これで17文字です。
こんなあまりにも短すぎる文章では
そもそも何かを表現しようとか伝えようとか無理なのです。
それをあえてやるわけですから
相当無理しているわけですね。
紋切型で
シンボライズして
暗号のように意味めかして
言外に意味を込めて
余韻に託して
述べるしかないのが俳句の宿命です。
ですからそんな俳句から何をどう読み取るかは
10人10色
100人100用なのです。
たった17文字から何を読み取るかは
全く読者任せです。
まあ。小説だって、人それぞれ感じ方は違うわけですが
それにしても小説ならページ数で300ページとかあるわけで
それだけあればなんというか読み解くのはたやすいでしょう?
でも考えてみてくださいよ、
たった17文字ですよ、俳句は。
それをどう読めというのですか?
鑑賞って言ったって
どうしようもないでしょ?
ですから俳句の鑑賞程意見が分かれるものも無いでしょうね。
『ウシガエルぐわぐわ鳴くよぐわぐわ」
こんな俳句はどうでしょう。
全く知らない人が見れば
これは小学生の作った俳句ですか?ということになるでしょうね。
でも実はこれは金子兜太の句ですよ。
この句が秀句かどうか?
私はあまり感心・感動しませんがね。
「曼珠沙華どれも腹だし秩父の子」
こんなのはどうでしょう?
秩父の子がみんな腹出してる?って
秩父の子が聞いたら怒るでしょう?
俺たち、腹なんか出してませんよって。
なんか秩父の山っ子を小ばかにした句?ではないでしょうか?
不快ですよね?
さて、
俳句歳時記を見れば
いわゆる引用句がたくさん載ってますが
まあ。正直私にとっては秀句と言えるものは
それらの引用句の10分の1もありませんがね。
「ぬかづけば吾も善女や仏生会」久女
この句もわざとらしい臭みばかりが感じられて私は好みませんね。
まあいくら例を挙げてみ仕方ないのでやめますが。
俳句には
絶対の鑑賞法も無ければ
秀句と駄句はまさに紙一重だという事実は
肝に銘じておいた方がいいですね。
じつは、
俳句ほど、
秀句と
駄句の判定が難しいものも無いのである。
何をもって秀句となすのか?
なぜこれは駄句なのか?
その判定は非常に紙一重である。
なぜならば
たった17文字では実は何も言い表せないからなのである。
そもそも、17文字で何をどのように表現すればいいのか?
これは俳句の永遠の謎である。
はっきり言って無理なのである。
17文字で何かを表現するなど、
それをあえてやろうというのが俳句なのであるから
最初から無理を承知でやっているという
とんでもない?文芸。
それが俳句なのだ。
有名な
『古池やかわず飛びこむ水の音』にしても、
なぜこれが名句?なのか、
それは読者の思い入れでしかないのかすら知れないのだ、
深読み?しすぎてああでもないこうでもないと、
忖度しすぎて名句に仕立てられただけ?
とすら、言いうるのだ。
ことほど左様に俳句は読者任せ文学?なのである。
『霜の墓抱き起されし時見たり』にしても、
一般には「病床で家人に抱き起されてその時霜のお墓が見えた』と解釈されていますが。
お墓が抱き起された?という解釈も十分成り立つのですね。
まあいずれにしても、
短文過ぎてどうにでも解釈できるのが俳句の宿命ですから
これはは良い句と絶賛されても、
他人には『なんだこんな駄句』という評価だってありうるのが
俳句の宿命なのである。
俳句にはまた
ああしてはいけないこうしてはいけないという
禁じ手?がありますね。
たとえば『二重季語」はダメ。
でも二重季語で名句と言われているものがたくさんあるのですね。
それは例外なんでしょうか?
三段切れもいけないと言いますが
三段切れで名句もあるのですね。
ある俳句賞で
「もうだれの形代ということもなく』という句が
確か大賞を受賞しました。
まあでもどうでしょうか。
わたしには凡句だとしか思えないのですが、
まあこうした俳句コンクールは
一般受けするような当たり障りのない句が受賞するケースが多いと思うのは私だけでしょうか?
独創的な
奇抜な句はまず受賞しないでしょうね。
まあ奇抜ならそれだけでいいとも思いませんが。
あまりにも個性句は除外されるでしょう。
一般人対象の「おーいお茶新俳句」になれば
もっと月並み俳句が受賞しますね。
『風薫るこの町出ればさあ大人』
これが確か文部大臣賞?だったような記憶がありますね。
素人が作る俳句モドキ?ですから仕方がない?のかもしれませんが、
これがのちのちまでも残る名句でしょうか?
俳句には座興の遊興芸という面もあります。
言葉遊びですね。
座で盛り上げるための遊興的な芸道としての
存門俳句ですね。
それと対照的なのが、いわゆる
境涯俳句であり、それと彼とは、乖離は相当なものでしょう?
俳句はお遊び的に座興でも良いし、
その場でもお遊び俳句でもよいし、
或いはもっと人生道を極めて
人生俳句を目指すか。
両極端が並立しうるのですね。
さてあなたの俳句は
あなたの俳句の道は
さあどっち?
お知らせ
私の作品で、、続き物、連作、シリーズものを、すべてお読みになりたい場合には、「小説家になろう」サイトのトップページにある「小説検索」の欄に、読みたい連作シリーズ作品群の「共通タイトル名」を入力して検索すれば、全作品が表示されますので、たやすくお読みになれます。