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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

飜譯匣

屍人街殺人事件

作者: エドガー・アラン・ポー(原著) 着地した鶏(翻訳)
掲載日:2026/09/21

挿絵(By みてみん)

 「分析的」なものとして語られる、精神的な特性がある。だが、その性質そのものを、分析することはほとんど出来ない。我々がその真価を目の当たりに出来るのは、それが齎(もたら)す結果だけで、我々に理解できるのは、他の性質と比べた場合、己(おのれ)の分析能力が高ければ高いほど、その性質こそが愉悦の湧き上がる源泉になり得る、ということである。屈強な男が己の肉体美を誇り、筋肉を操(く)って肉体を動かし、そして歓びを感じるように、分析家は物事を解(・)き(・)ほ(・)ぐ(・)す(・)という、理(ことわり)の道筋を詳(つまび)らかにしていく行為にこそ誉(ほま)れを感じるのである。どんなに些細な作業であっても、己の才能を活かせるものであれば、それは悦(よろこ)びに満たされる。そのため、暗号(エニグマ)や頓智問答(とんちもんどう)、古代文字(ヒエログリフ)といったものを好み、平々凡々たる理解力しかない者から見れば、不可思議と思えるほどの洞(・)察(・)力(・)を発揮して問題を解き明かしてしまう。導き出される結論は、まさしく論理の根幹と真髄によって齎(もたら)されるものである。だが、実のところ、それこそが直観の塊なのだ。


 分析力が活性化するのは、おそらく数学的な研究、特に或(あ)る高度な分野において、それは顕著だと言えよう。その研究分野は、まるで「超(・)越(・)的(・)な(・)も(・)の(・)」として扱われることもあれば、ただ単に「過去に遡(さかのぼ)るような手順を執(と)る」という、とても合理的とは言えない理由で、人々からは「解析学」と呼ばれている。しかし、計算そのものは解析学の本質ではない。例えば、洋将棋(チェス)の指し手は、様々な計算や計略を巡らせてはいるものの、解析というものに力を注いでいるわけではない。つまり、洋将棋(チェス)という遊戯は、頭を使うという印象が強いせいで、大いに誤解を受けているのである。

 さて、私はなにも学術的な論文を書いているわけではない。ただ無作為に拾ってきた事例を通して、少しばかり奇妙な語り口で以て、この前置きを書いているにすぎない。だからこそ、この場を借りてはっきり言っておこうと思う。思索を巡らせるという高度な知性は、洋将棋(チェス)のように精巧に作り込まれた、軽薄なお遊戯(あそび)ではなく、西洋碁(ドラフツ)のように素朴な遊戯の方が、その力を確実に発揮でき、有益な結果を齎(もたら)し得るのである。洋将棋(チェス)というのは、駒の動かし方が様々(さまざま)で、そして奇(・)妙(・)であり、点の取り方にしても色々と変則的な規則(ルール)があるせいで、ただ複雑なだけのものが(よくある間違いだが)深遠なものと勘違いされている。

 宜しいだろうか、洋将棋(チェス)の盤面で強くモノを言うのは、注(・)意(・)力(・)なのである。一瞬の気の緩みで見落としが生じ、指し間違えや、延(ひ)いては敗北に繋がるのだ。指せる手は多岐に渡り、そして複雑に絡み合っているため、そういった見落としが起こる可能性は非常に高い。十局のうち九局は、優れて明晰な棋士ではなく、集中力が高い指し手の方が勝ち星を得やすいのである。


 一方で、西洋碁(ドラフツ)はと言うと、それとは真逆で,駒の動かし方は独(・)特(・)で、打つ手も限られている。そのため、間違いが起きる可能性は低く、洋将棋(チェス)と比べると、単なる集中力というものは無用の長物となってしまう。だからこそ、対局者のどちらがより優れた洞(・)察(・)力(・)を持っているかで、どちらがより有利に立てるかが決まるのである。

 さて、観念的な話ばかりでは詰まらないだろう。例を挙げよう。西洋碁(ドラフツ)で四つの駒石(いし)が敵陣に踏み込み、全てが王駒(キング)に成った盤面を考えてみよう。もちろん、見落としなどというものを想定する余地は無い。ここではっきりしているのは、勝敗を決めることが出来るのは、(対局者が双方互角の場合)ただ探究的(ルシェルシュ)な打ち方が出来る者だけである。それこそが、知性が遺憾なく発揮された果てに産み出されるものなのだ。分析的な人間は定石的な打ち筋を見失ってしまっても、相手の心中に身を投じて、そのまま相手と自分を重ね合わせる。すると、相手の誤算や、その焦燥を煽(あお)るような、(時には馬鹿らしいほど単純な一手なこともあるが)唯一の打ち手を、一瞬で見つけてしまうことも珍しくはない。


 さあ、西洋麻雀(ホイスト)という遊戯がある。二対二の、計四人で競(きそ)い合うこの遊びは、古くから「計算力」が試されることで知られている。そして、高度な知性を有する人々が、洋将棋(チェス)を軽薄なものとして避けきたのに対して、この遊戯には言いようの無い愉(たの)しみを見出してきた。それも良く知られた事実である。これほどまでに分析力が強く求められる遊戯は他に存在しない。これには疑いの余地は無いだろう。キリスト教圏という先進的な世界であっても、最も優れた洋将棋(チェス)の指し手は「洋将棋(チェス)の名人」以上の意味を持たないか(・)も(・)し(・)れ(・)な(・)い(・)。しかし、熟練した西洋麻雀(ホイスト)の打ち手というのは、思考と思考がぶつかり合うような、ありとあらゆる有意義な活動で成功を収める力を有する——そんな意味を持つのである。

 さて、「熟練」と書いたが、それには遊戯における完全性、つまり、す(・)べ(・)て(・)の根拠を包括的に理解して、合理的な勝ち筋を見出す、という完璧さを含意している。根拠というのは数が多いだけではなく、その種類も多様であり、平々凡々な理解力では全く触れることが出来ないような、脳髄(あたま)の奥深い処(ところ)に鎮座していることも良くある。注意深く観察するというのは、はっきりと記憶するのと同義だ。その観点で言うと、集中力のある洋将棋(チェス)の指し手は西洋麻雀(ホイスト)でも上手く立ち回れるだろう。洋将棋(チェス)の指し手だったエドモンド・ホイル氏が記した遊戯規則本(ルールブック)も、(それ自体は単に札牌(カード)の切り方という機械的な運用に基づくものではあるけれど)上手く書かれているし、一般人にも理解しやすいものになっている。しかし、そうなると、記憶力が良く、「教則本」の定石通りに進めることが、総じて西洋麻雀(ホイスト)の優れた打ち方と見做(みな)されてしまいがちだ。


 しかし、そのような単なる法則・規則の壁を超えた処(ところ)にこそ、分析家の技量が発揮されるのだ。分析的な人間は、沈黙のまま数多(あまた)の観察と推測を重ねる。同席している人達もおそらく同じことを考えているのだろうが、得られる情報量の違いというのは、推測の妥当性よりも観察の質に依存するものである。求められるのは、「何(・)を(・)観察すべきか」という認識である。分析的な人間というのは、自分に対して何ひとつ制限を設けない。対象が遊戯だからといって、遊びの範囲外で得られた推理を打(う)ち棄(す)てることはしない。味方の表情を窺(うかが)って、相手のそれぞれの顔色と慎重に比較する。それぞれの手牌の並べ方に思索を巡らせ、札牌(カード)を切る者の視線を追い、しばしば、その眼で切り札を一枚ずつ、褒賞牌(ドラ)を一枚ずつ数え上げる。遊戯(ゲーム)が進むにつれて、個々の表情の変化を脳裏に刻み込み、確信や驚愕、慢心、落胆といった表情の違いから思索の材料を集めるのだ。


 相手が場札(トリック)を集める仕草から、場札と同じ紋様(スート)でもう一度勝てるかを品定めする。卓上に札牌(カード)を投げる様子から、それが牽制(フェイント)かどうかを見抜く。偶然つい漏らした言葉。うっかり落として裏返ってしまった札牌(カード)や、それを隠そうと焦る仕草や軽率さ。場札(トリック)を数える時の、その順番、動揺、躊躇(ちゅうちょ)、熱狂、狼狽(ろうばい)……直観的な洞察力を介して、全ての情報が、この局面の真相に繋がっていくのである。そして、最初の二、三巡目が廻(めぐ)り終わる頃には、それぞれの手牌の内は全て把握されている。それ以降は、まるで他の参加者が自らの手札を開示しているかのように、絶対的な確信を持って手牌(カード)を切っていくのだ。


 ところで、「分析力」というものは、創造的な知性と混同されるべきではないと考えている。というのも、分析的な人間が創造的な思考になってしまうのは当然だとしても、創造力に富んだ人間が分析的な思考に不向きである事例が、しばしば認められるのだ。創造力は一般に「積み上げて、組み合わせる力」と呼ばれており、骨相学者はそれを原初的な能力と考えて、(私としては誤謬だと思っているが)それを個別の架空器官に当て嵌めた。しかし、愚鈍に近い知性の者でも創造力を有するというのは実に良くあることで、道徳論を綴(つづ)る書き手の間で広く注意を引いてきた。創造力と分析的な能力の間には大きな隔(へだ)たりが存在し、確かにその差は、空想力と想像力の違いよりも大きいのだが、その関係性は極めて良く似ている。実際に、創造力に富んだ者はいつだって空想に思いを馳せているだろうし、真(・)に想像力の豊かな者は分析的であると、言わざるを得ない。


 これから綴(つづ)る物語は、ここで掲(かか)げた諸命題に光を灯してくれる、或(あ)る種の註釈として、読者の目に映ることだろう。


 ××××××


 一八××年の春から初夏にかけて、パリに滞在していた折、C・オーギュスト・デュパン氏という人物と知り合うことになった。その若い紳士(ムッシュ)は育ちの良い、いや、実際に指折りの名家の生まれなのだが、様々な不運が重なり、ひどい貧窮に身を窶(やつ)していた。生来の気力も貧しさの前では為(な)す術(すべ)も無く、世間での立身出世や、己(おのれ)の運を取り戻そうと努(つと)めることも無かった。ただ、金貸しの温情で、彼の手元には未だに父祖伝来の資産が僅(わず)かばかり残されており、徹底した質素倹約のおかげで、生活に必要なものを、その家産から得られる収益で賄(まかな)っていた。生きるの中での余計なものについて、あれこれと心を煩(わずら)わせることも無く、彼の唯一の贅沢だった読書についても、書籍を入手するのはパリでは決して難しいことでは無かった。


 我々が初めて出会ったのは、モンマルトル通りの人目につかない図書館だった。偶然ではあるが、私も彼も、極めて稀少で非常に非凡な、とある一冊の本を捜(さが)していたのだ。それがきっかけで親しく交わるようになり、その後も幾度(いくど)となく顔を合わせてきた。特に興味を惹かれたのは、フランス人が身の上話をするときに特有の、あの飾らぬ素直さで以て、彼が詳しく語ってくれた細(ささ)やかな一族の歴史だった。また、その読書量にも驚かされたものだが、何より驚異的だったのは、その奔放な情熱と、鮮烈で奇抜な想像力だった。そのせいで、私は自分の魂が内側から燃え上がるのを感じていたほどだ。当時、パリで探し求めていたモノの中でも、こういった人物との交流は、私にとって価値の計れぬ財産になるだろうと感じていた。だからこそ、彼にこの思いを率直に打ち明けたのだった。

 しばらくして、私がこの街に滞在している間は、二人で一緒に暮らすことにした。世間での私の境遇は、彼と比べれば幾分かはま(・)し(・)なものだったので、家賃と調度品の費用は此方(こちら)で出させてもらうことにした。詮索はしなかったが、長い間、迷信のせいで打ち棄てられていた、年代物の奇怪な屋敷を借り上げて、私達の聊(いささ)か幻想めいて陰鬱な気質に相応(ふさわ)しいような、そんな様式の家具で調(ととの)えることにした。サン=ジェルマン郊外の辺鄙(へんぴ)な寂れた一角で、屋敷は今にも倒れそうに揺らめいていた。

 この地での日常が世間に知られていれば、私達は狂人扱いされていただろう——ただし、おそらくは無害な狂人としてだが。隠遁生活は完璧なものだった。訪問者は誰一人として受け入れなかった。実際、私は慎重になって、昔の知人にすら住処(すみか)の所在を秘密にし続けたのだった。デュパンが、パリで人と知り合うことも、また人に知られることも無くなってから、長い年月が過ぎていった。私達は、ただ二人だけの世界に居た。


 我が友には、夜というものを愛してやまない、という奇妙な空想癖がある(奇妙な空想癖、と私は呼んでいるのだが、他に何と名付ければ良いのだろうか?)。あらゆる奇抜な振る舞いと同じように、この奇怪な奇矯趣味にも、私は静かに惹(ひ)き込(こ)まれていった。彼の、徹底的なまでに放埓自適(ほうらつじてき)で、奔放な気紛(きまぐ)れに、我が身を委(ゆだ)ねていたのだ。

 宵(よい)の黒き女神も常に私達の傍(そば)に居てくれるわけではなかったが、彼女の似姿(にすがた)を造り出すことなら出来る。夜明けの光が差し込み始めると、古びた館の汚れた鎧戸(よろいど)を全て閉め、薫りの強い一組の細い蝋燭に火を灯す。蝋燭から放たれるのは、実に悍(おぞ)ましく、弱弱しく朧気(おぼろ)な光だけだ。この光を頼りに、夢の世界に没頭したものだ——読書に書き物、時には談話に耽(ふけ)り、やがて時計の鐘が真なる闇夜の到来を告げると、腕を組んで街へ颯爽と繰り出す。その日のことを語り続けたり、遅い時間まで彼方此方(あちこち)を彷徨(さまよ)い歩いたりしながら、人間だらけの都市の狂おしい光と影の真っただ中で、寡黙な観察を続ける。そして、それが齎(もたら)してくれる、果てしない脳髄の興奮を追い求めるのだった。

 そのときのデュパンの特異な分析能力には、ただ目を見張るほかなく、ただただ感嘆するしかなかった(とはいえ、彼の豊かな想像力からすれば、それは予期できたことではあるのだが)。デュパンもまた、その分析能力を行使することに熱狂的な悦(よろこ)びを見出しているようだった——いや、厳密には誇示するつもりは無かったとはいえ——そこで得られた歓(よろこ)びを口にするのに何の躊躇(ためら)いも無かった。そして、低い含み笑いを漏らしながら、私に向かって、こう豪語するのだ。彼に言わせれば、ほとんどの人間は胸に窓が開いているのだそうだ。そう語った後はいつも、私に関する深い洞察を述べる。直接的で、驚くべき証拠ばかりを並べ立てながら、自分の言葉を裏付けていくのだった。このときのデュパンの態度は冷淡そのもので、それでいて抽象的だった。その表情には虚(うつ)ろな眼差しを浮かべ、普段は耳心地の良い中高音(テノール)の声なのだが、それも甲高い調子へと変わり、言葉を一つ一つ紡(つむ)ぐときの慎重さと完全な明瞭さが無ければ、不機嫌な調子に聞こえたことだろう。そういったデュパンの様子を観るたびに、私は「魂魄二元論」という古い哲学に静かに思いを馳(は)せてしまう。創造者と解体者——そんな二つの精神を宿したデュパンを想像して、私は一人悦に浸るのだ。



 さて、ここまで色々と語ってきたが、私が何か神秘的な出来事のあらましを綴(つづ)っているのだとか、伝奇小説を書いているのだとか、そんな誤解はしないでいただきたい。このフランス人についての記述は、単に気持ちが昂(たかぶ)ったが故(ゆえ)の産物であって、きっと、おそらくは病的な知性が齎(もたら)した結果に過ぎない。ただし、件(くだん)の時機におけるデュパンの言動、その本質を語るには、例を挙げて語ってみせるのが一番良いだろう。


 ××××××


 ある夜、私達は故王宮殿(パレ・ロワイヤル)の近くにある長い通りをぶらついていた。どうやら私も、デュパンも、考え事に没頭していたらしく、少なくとも十五分は一言も言葉を交わしていなかった。すると突然、デュパンの口からこんな話が飛び出してきたのだ。


「確かに、あいつは本当に小柄な男だ。それは事実さ。百芸娯楽劇場(テアトル・デ・ヴェリエテ)の方が相応しいだろうね」


 思わず私は「それだ、その通りだ」と返してしまう。

 初めのうちはまるで気が付いていなかった(何しろ思索の沼に嵌(はま)り込んでいたのだから)。相手がまるで、自分の中の内なる思考に呼応するように語りかけてくる、そんな異様な一致があったのだ。それから、すぐ我に返り、驚愕して深く打ちのめされたのだった。


「デュパン」と重々しく口を開く。

「もう私の理解を超えているな。恥を恐れず言わせてもらうが、正直、吃驚(びっくり)だ。自分の感覚も信じられないくらいだ。どうして分かったんだい? どうして私が——」


 そこで敢(あ)えて、口を噤(つぐ)んでみせた。誰のことを考えていたのか、それをデュパンが本当に知っているのかどうかを、一点の疑いも残さずに確かめてみたかったのである。


「——シャンティ氏のことだろう?」とデュパンは返す。

「どうして途中で口を噤(つぐ)んでしまったんだい? 自分で独(ひと)り言(ご)ちていたじゃないか。あの人の小柄な体格は、悲劇の舞台には相応(ふさわ)しくない、って」


 それは、まさしく私の考えていたことそのものだった。シャンティ氏は、嘗(かつ)てはサン=ドニ通りで靴の修繕屋を生業(なりわい)としていたのだが、劇場狂いになってしまい、クレビヨンの悲劇「クセルクセス」でペルシア王クセルクセスの配位配役(はいいはいやく)を演じようとしたものの、骨折り損に終わってしまった。その報(むく)いだと言わんばかりに、悪名高い諷刺劇(パスキナード)の標的になってしまった人物だ。


「お願いだ、後生だから、教えてくれ」と、私はつい大声を上げてしまった。

「どうやって……種や仕掛けでもあるのなら……どうやって、今みたいに、この心の奥底を見抜いたのか、教えてくれないか」

 正直に言うと、口にしてしまった以上に、私は驚いていた。


 すると、親友は「青果商さ」と返す。

「クセルクセスよろしく諸般万端(しょはんばんたん)の役を演じるには、あの靴底の修繕師では背丈が足りない。君はそう結論付けた。その原因は、つまり果物売りにあるわけだ」

「果物売り、だって?……君の言うことにはいちいち驚かされるが……青果商には心当たりが無いんだが」

「この通りに来た時、誰かとぶつかっただろう。あれがその果物売りさ……そうだね、ちょうど十五分くらい前だ」


 確かに、思い出してみると、大きな林檎籠(リンゴかご)を頭に載(の)せた果物売りのせいで、危うく転んでしまいそうになったのだ。ただ、それは私達がC×××通りを歩いて、今、立っている大通りに入った矢先に起きたことで、あれは事故だ。単なる偶然だ。それがシャンティ氏とどんな関係があるのか、私には皆目見当がつかなかった。


 しかし、デュパンには一切の欺瞞詭計(ぎまんきけい)も無いようだった。


「それじゃあ、謎解きを始めようか」と口を開く。

「君には、この謎の全容をはっきりと理解してもらいたい。まずは君の思考の道筋を遡(さかのぼ)ってみることにしよう。僕が君に声をかけた瞬間から、例の果物売りと邂逅遭遇(かいこうそうぐう)するまでを、一つ一つ遡ってみよう。シャンティ氏、オリオン座、天文博士ニコル、エピキュロス、規矩石切法(ステレオトミー)、舗道の敷石、果物売り……こうして鎖が大きく繋がっていく」


 自分の思考回路が、どのようにして一つの結論に辿り着いたのか。その道筋を一歩一歩、遡ってみるのは存外、愉(たの)しいもので、誰だって生きていれば同じような経験をしたことがあるはずだ。多くの場合、この作業は実に興味深いもので、初めてこれを試みる者は、開始点から帰結点までの間に、一見すると無限大の距離が広がっていることに、まずは驚かされる。それにも関わらず、整合性というものが一つも見当たらないのだから、更に驚愕してしまうのだ。だからこそ、このフランス人が、つい今しがた並べ立てた言葉の群れを耳にして、それが真実だと認めざるを得なかった私の驚きはというと、どれほどのものだったろうか。


 そして、デュパンは続ける。

「記憶が確かなら、ちょうどC×××通りを抜けようとした、ちょうどその時だ。馬についての話をしていたね。それが最後の会話で、この街路(みち)に入った途端、頭に大きな籠を載せた果物売りが、足早に我々の傍(そば)を通り過ぎ、舗道の修繕のために一ヵ所に積み上げられていた敷石の山へと君を押しやったんだ。足場の定まらぬ切石を踏んでしまい、君は足を滑らせて、足首を軽く捻(ひね)ってしまった……端(はた)から見ると苛立(いらだ)っているのか、それとも機嫌を損ねていたのか……ぶつぶつと呟きながら、振り返って敷石の山に目を遣(や)った。そして、そのまま黙って歩き続けてしまった。いや、別に君の一挙手一投足に注意を払っていたわけじゃないさ。ただ最近は、観察することが一種の止(や)め難(がた)い習慣になっていてね。

 君は顰(しか)め面(つら)で舗道の穴や轍(わだち)を垣間見(かいまみ)ながら、地面にばかり顔を向けてていた。(だから、まだ敷石のことを考えているんだと思ったわけだけれど)それは、ラマルティーヌと呼ばれる小径(こみち)に着くまで続く。その通りは、敷石が重なり合うように鋲(びょう)で打たれた、試験的な舗道だった。ここまでくると、君の顔つきも明るくなって、唇が動いていることに気が付いた。断言しよう、君は『規矩石切法(ステレオトミー)』と呟いていたね。この手の舗道を呼ぶには実に気取った言い回しだ。そして『規矩石切法(ステレオトミー)』という言葉を唱えると、原子(アトミー)に思いを巡らさずにはいられない。そんな君の性分は良く分かっているよ。そこで、エピキュロスの原子論に辿り着く。あの高貴なギリシア人が、天地創造の理論である……後(のち)の星雲宇宙起源論(ネビュラ・コスモゴニー)を確信するに至った、その膨大な推論については、少し前に僕が奇矯な語り口で、それでいて何の違和感も無く、君に語ってみせただろう? だからこそ、オリオン座の大星雲(ネビュラ)に目を向けない理由は無かったし、君ならきっとそうすると予見していた。そして、君が夜空を見上げたとき、僕は思考の足取りを完全に掴んだと確信したわけだ。

 さて、シャンティ氏への罵倒の長台詞についてだけれども、あれは昨日の『藝術評論(ミュゼ)』誌で諷刺家が、ギリシア悲劇の古式ゆかしい履物(バスキン)に名前を変えた靴屋に対して、侮蔑を仄(ほの)めかしながら引用したラテン語の一節だ。我々も何度も語ってきた、あの一節だよ。


『その新(あらた)しき名が、原初(いにしえ)の名の響きを奪いさりし』


 これは以前、オリオン座について話したときに引き合いに出した言葉だ。元々はウリオン座と綴(つづ)られていた。あの時は僕も、名前の由来になった神々の放尿(ウーローン)のように、幾分(いくぶん)か鼻に刺さる説明をしたから、君が忘れるはずが無いことは分かっていたさ。つまり、君がオリオン座とシャンティ氏という二つの情報を繋げ損なうはずがない。これは明白だ。この二つが君の中で繋がったのは、君の唇が僅(わず)かに微笑んだように見えたからさ。あの憐(あわ)れな靴屋が自分を犠牲にしたことを、君は思い出していたね。それまでは前屈(まえかが)みになって歩いていたのに、急に背筋をいっぱいに引き伸ばしていただろう。シャンティ氏の縮(ちぢ)こまった体つきを思い浮かべてしまったのだと、そこで確信がいった。この時だ、僕は君の思索を遮(さえぎ)って、こう話しかけた。『確かに、あいつは本当に小柄な男だ』……これはシャンティ氏のことで……そして『それは事実さ。百芸娯楽劇場(テアトル・デ・ヴェリエテ)の方が相応しいだろうね』と続けたわけだ」



 それから程なくして、「法廷見聞報道(ガゼット・デ・トリビュノー)」紙の夕刊にざっと目を通していると、我々は次の記事に心を掴まれた。


 ××××××


『奇怪なる殺人事件――

 本日未明、午前三時頃、サン=ロッシュ地区の住民が、数度に渡って続く恐ろしき悲鳴により眠りから叩き起こされし。悲鳴はモルグ街の家屋の四階から発せられたものと覚(おぼ)しく、西国夫人(マダム・レスパニェ)なる女とその令嬢(マドモアゼル)カミーユ・レスパニェの二人暮らしの邸宅と聞く。玄関正面より家宅捜査の許しを請(こ)うも無為の試みとなりて、幾何(いくばく)かの後(のち)に、鉄梃(かなてこ)によりて門戸を破り、八から十名の近隣住民が二名の国家憲兵(ジャンダルム)と伴(とも)に突入す。時すでに悲泣(ひきゅう)は止みたるも、一団が階段を一続き駆け上がるや、家屋の上階より発せられたるものと覚(おぼ)ゆ、二人もしくは多数の言い争う荒々しき声が明瞭に聞こえたる。次なる踊り場に到(いた)るや、亦(また)も斯(か)の声は止みて、万事は全くの沈黙に帰す。一団は散開し、急ぎて各部屋を検(あらた)めたる。四階の奥の大部屋に到りて、(扉の施錠されたるを知るも鍵は屋内にありて人力にて抉(こ)じ開けし)見ゆ景色は驚愕と恐怖を持って一団を打ちのめしたる』


『乱雑無章たる奥座敷――

 室内の調度品は破壊せられ、至る処(ところ)に投げ棄てられし。ただ寝台の木枠のみぞ一つあるも、寝具は寝台より剝(は)ぎ取られ、室内中央の床に打ち棄てられたる。椅子の上に血塗(ちまみ)れの剃刀ぞ一つ置かれたる。暖炉の炉床に人間の長く太き灰色の髪束ぞ二、三束ありて、此(こ)れも亦(また)、血に汚されたるを見れば、毛髪根元より引き抜かれたるものと覚(おぼ)ゆ。床には四枚のナポレオン金貨、黄玉(トパーズ)の耳飾り一組、銀の大匙が三丁、アルジェ産の金鉱で誂(あつら)えられし小匙が三丁、及び四千フラン相当の金貨の入りし革袋を二つ認めたる。隅に置かれたる文机(ふづくえ)の抽斗(ひきだし)は皆、開け放たれ、荒らされたるものと見えしが、物品未だ多く残されたりし。鋼鉄製(くろがねづくり)の金庫は寝具の下にて発見せらる(寝台の下に非(あら)ず)。金庫は開かれたるも、其(そ)の鍵は扉に挿さりしままなり。二、三葉の古き手紙と取るに足らぬ書面を除いては、金庫の内には何も認めざる』


『室内にレスパニェ夫人の痕跡を認めず――

 されど、暖炉にて異常なる嵩(かさ)の煤(すす)を認めるが故に、煙突内の捜索を始(はじ)む。斯(か)くして(語るに悍(おぞ)ましきことなれど!)、令嬢の亡骸(なきがら)が頭(こうべ)を下にして、煙突より引き出し降ろされるなり。則(すなわ)ち、骸(むくろ)は、煙突の奥の奥深くの狭き隙間に押し込められし。屍(かばね)の身体は未だ熱を帯びたる。其(そ)を検(あらた)めるに擦過傷を多く認めし。則(すなわ)ち、乱暴に押し上げ、引き擦られし折に生じたものなるは疑いも無し。顔面には深き掻(か)き傷の多くあり、喉元には黒斑の打撲痕と爪の深く喰い込みたる痕(あと)を認めたる。さながら死因は絞殺であるが如し』


『家屋の隅から隅まで徹底に捜索すれども、更なる証拠を見出せず。一団は邸宅裏手の、舗装されし小さき中庭に足を運ぶや、其処(そこ)にて横たわる老婦人の亡骸(むくろ)を認めし。屍(かばね)の喉元は悉(ことごと)く切り裂かれたるが故に、身体を抱え上げんとすれば、忽(たちま)ち首(こうべ)は落ちけり。頭(こうべ)と同じく、身体も悉(ことごと)く損壊せられたり――肉体は悍(おぞ)ましくも全く人間の容貌(かたち)を留めず』


『斯(か)くも恐ろしき怪事件に於いて、我々の知る限り、未だ一片の手掛かりも無し』


 ××××××


 翌日の新聞には続報が載っていた。


『惨劇のモルグ街――

 斯(か)くも異常にして恐ろしき大事件(アフェール)につき、多くの関係者が聴取を受けたり【この一文ついては私から補足しておこう。「一件(affaire/アフェール)」という言葉は、フランスではまだ英語圏のように軽薄な意味は持ち合わせていなかったのだ】』


『されど、かの事件を解明する手掛かりは一つとして得られず。以下に、得られたる重要なる証言を悉(ことごと)く掲(かか)ぐ』


『ポーリーヌ・デュブール:洗濯婦。亡き母娘を三年前から知りたる。以来、母娘の洗濯を請け負いたると供述。

 あのお婆さんと娘さん、とても仲が良くてねぇ……二人とも仲睦まじく暮らしているように見えたわ。それに本当に金払いの良いお客さんだったの。え、二人の暮らし向きと生業(なりわい)? そう言われても、答えられないわ。でも、L夫人って占いで生計を立ててるって噂でしょ、あたし、それは信じてるの。それにあのお婆さん、結構、蓄え込んでるって評判よ。お洗濯物の受け取りだとか、引き渡しでお家を訪ねたことはあるけど、一度だって、お家の人以外の姿は見たこと無いわ。召使いなんて、絶対に雇ってないはずよ。あと、四階以外のお部屋は、お家のどこを見渡したって家具なんて一つも無いんだもの』


『ピエール・モロー:煙草売り。凡(およ)そ四年前よりレスパニェ夫人に少量の紙巻煙草と嗅煙草(かぎたばこ)を欠かさず卸(おろ)したると供述。

 ワシの生まれはこの近くで、昔からずっとこの辺りに住んでおる。亡くなった母娘(おやこ)は、仏さんが見つかったあの屋敷に、六年、いやもっと前から暮らしておった。もっとも、それより前は宝石商が住んでおったのだが、そやつは上の階を色んな連中に又貸しするような輩(やから)でな。一方、屋敷の所有者はL夫人だ。夫人は借主(かりぬし)が家を勝手に乱用するのを不満に思って、ついに自ら屋敷に移り住んだというわけだ。そして、他人には一部屋たりとも貸さん、と強情を張り出した。まあ、あの婆様にも子供じみた性分があるからのう。娘さん? ここ六年間じゃ、五、六回くらいは見かけたことがある。ふむ、あの母娘(おやこ)の暮らし向き?……尋常では無いほどの、隠者のような生活を送っておったそうな……金持ちだと評判だからのう。近所の者が話すのを聞くに、L夫人は占い師だとか……まあ、わしは信じておらんがな。これまで、あの婆様と娘さん以外に屋敷の門を潜(くぐ)る者? ふむむ、荷運びが一、二度、あと医者が八か十回ほどか、他は見たこと無いのう』


『他にも多くの近隣住民が、同様の証言を残したる。かの邸宅に出入りすると噂される者は一人も無し。L夫人と令嬢の他に生きた縁戚がいるのかも知らず。正面の窓の鎧戸(よろいど)の開かれることは滅多に無く、奥の大部屋を除いては、裏手の鎧戸は常に閉ざされたる。かの邸宅は造りも良く……さほど古くも無し』


『イジドール・ミュゼ:国家憲兵(ジャンダルム)。午前三時頃、かの邸宅に召集され、門戸の前で突入を試みる二、三十人の集団を目にしたと証言。

 本官が銃剣で以て、ようやく門戸を抉(こ)じ開けたのであります……エェ、鉄梃(かなてこ)は使用しておりません。両開きの門で、上にも下にも閂(かんぬき)が掛けられておりませんので、突破するのは造作もありませんでした。門を抉(こ)じ開けるまでは悲鳴が続いていたのでありますが……そのまま急に止んでしまったのであります。あの悲鳴は一人、イヤ、もしかすれば二人分の、尋常ならざる苦痛に耐えかねて発せられたものでありましょう……短く甲高いものではなく、長く長く続く大きな悲鳴でありました。エェ、階段を上がるときに先導したのは本官であります。最初の踊り場に着いたときに、大声で怒鳴りながら言い争う声が二つ聞こえたのであります。一人は野太く声を荒げて、もう一人は金切り声のような……イエ、とても奇怪な声でありました。何と言っていたか、でありますか? エェ、野太い方の声は確かに聞き取れたのであります。フランス人のものでありました。エェ、断じて女の声ではありません。聞き取れたのは、確か「畜生(サクレ)」だの、「悪魔(ディアブル)」だのと叫んでいたのであります。甲高い声の方は外国人のものでありますが、男のものか女のものか確信は持てないであります。何を言っておるのかさっぱり分からなかったのでありますが、あの言葉はきっとスペイン語でありましょう。

 この目撃者から部屋の様子や遺体の状況についても供述を得るも、昨日の夕刊で報じた通りなり』


『アンリ・デュヴァル:近隣住民。職業、銀細工師。かの邸宅へ最初に突入した一団の一人と供述。この者の供述はミュゼ憲兵の証言を概(おおむ)ね裏付けるものなり。

 突入したらすぐに、扉を閉めたんだ。野次馬が入ってこねぇようにな。まだ暗い時間だってのに、すぐに集まってきやがってな。ん、甲高い声の主のことかい? 俺っちが思うに、ありゃイタリア人だな。フランス語じゃねぇのは確かだ。あ? 男の声かどうかなんて分かんねぇよ、女かと言われりゃそんな気もしてきたな。イタリア語、分かるのかって? そんなの分かるわけねぇだろ。なんて言ってたのか、さっぱりだ。でもな、あの話し方、ありゃイタリア人の訛(なま)りだったんだよ。L夫人と娘っ子? そりゃ知ってるに決まってらぁ。前からしょっちゅう、顔見りゃ話してたよ。だから、あの甲高い声の主は亡くなった婆さんでもねえし、娘さんのものでもねぇんだよ、それだきゃ確実だ』


『×××・オーデンハイマー;料理店主人。この目撃者、自ら証言を申し出る。フランス語が喋れぬため通訳を介して聴取。

 ワタシ、生まれはアムステルダムです。悲鳴が聞こえたとき、家の前を歩きました。悲鳴は数分間……たぶん十分間、続いたです。長くて大きな悲鳴……とても恐ろしい可哀想な悲鳴です。

(この男、建物に入った一団の一人にして、その供述は、一点を除いて、先程の職人の証言をあらゆる点で裏付けるものなり。)

 ワタシ、聞きました。甲高い男の声、それは絶対……フランス人の声です。聞こえた言葉は分からない。大声で、早口で……不規則……怒ってるだけじゃなくて怖がってるように聞きました。あの声は、耳障り……甲高いより耳障りな声。あれは甲高いじゃない。太い声は、何回も「畜生(サクレ)」「悪魔(ディアブル)」と言って、一回だけ「神様(モン・ディユ)」と言いました』


「ジュール・ミニョー:銀行家。デロレーヌ通りのミニョー親子商会の父親の方のミニョー。

 はい、レスパニェ夫人は多少なりとも資産をお持ちでした。当行にも口座を開設されておりましてね、あれは、ええと……八年前の春のことですね。少額でしたが頻繁にご入金されておりました。はい、これまでずっとお引き出しはございませんでした。ですが、お亡くなりになる三日前に、ご自身で四千フランもお引き出しになったのです。はい、全て金貨でお支払いいたしまして、当行の事務員も同行してお屋敷にお届けに伺いました」


『アドルフ・ル・ボン:ミニョー親子商会の事務員。問題となった当日に関する供述。

 はい、あの日の昼頃、レスパニェ夫人のお屋敷まで、四千フランが入った革袋を持って同行したのは私です。お屋敷の門が開いたとき、レスパニェのお嬢様が見えられて、私の手から革袋を一つ受け取られました。もう一つの袋はそのまま老婦人が受け取られました。それから、ご挨拶だけして、お屋敷を後(あと)にしたのです。その時、通りには誰もおりませんでした。裏通りですので……人通りは全くありませんでした』


『ウィリアム・バード:仕立屋。かの邸宅に突入した一団の一人と供述。

 ああ、イギリス人だよ。パリで暮らし始めて、二年目かな。僕は最初に階段を昇った連中の一人で、ああ、言い争う声が聞こえてきたんだ。野太い声はフランス人のものだ。いくつかは聞き取れたんだが、もう全部忘れちゃってね。はっきり覚えてるのは、「畜生(サクレ)」と「神様(モン・ディユ)」かな。あの時はそうだな、何人かで取っ組み合ってるような……擦(こす)れる音や揉み合う音が聞こえたよ。ああ、甲高い声も聞こえたね、とても大きくてね……野太い方より大きかったね。あれはイギリス人のものじゃないことは断言しておくよ。ドイツ人じゃないかなと思うけど。あと、多分、女の声だね。ドイツ語? もちろん、分からないさ』


『上に掲(かか)げる四名の目撃者を呼び出して再度聴取す。L令嬢の亡骸(なきがら)の発見されし部屋に一団が辿り着きし際、部屋の扉は内側から鍵が掛けられたるとの供述あり。万事は全くの沈黙に帰して——呻(うめ)き声も物音の類(たぐい)も無し。扉を抉(こ)じ開けて中に入るも、誰の姿も見ず。前室と後室の窓はともに引き下げられ、留め具で内側から堅く閉ざされたる。二つの部屋を隔てる扉は閉ざされたるも施錠は無く、前室より廊下に繋がる扉は施錠され、扉の内側には鍵が挿さりしままなり。四階の廊下の突き当たりの、通りに面す小部屋の扉は半(なか)ば開きたるままなり。かの部屋には古き寝台や箱等が詰め込まれたるも、全て慎重に取り除かれ、入念に捜索されたる。

 邸宅の隅々まで遍(あまね)き捜索の手の入らぬ処(ところ)、一寸も無し。煙突は掃除拭具(スウィープ)によりて上から下まで調べられたる。かの邸宅は四階建てで、(マンザードと呼ばれし)屋根裏部屋あり。屋根の跳ね戸は釘で厳重に打ち付けられ——数年来、開けられたる形跡は無し。口論の声を聞きて扉を打ち破るまでの経過時間は、目撃者によりて種々雑多なり。三分ほどの短い時間と供述する者もあれば——五分もの長い時間と供述する者もあり。扉は困難の末に開けられたる』


『アルフォンゾ・ガルシオ:葬儀屋。モルグ街の住民と供述。

 その、わたしの出身はスペインで、はい、お屋敷に駆け付けた一団の一人です。いや、階段は昇ってはおりません。あの、神経質なもので、興奮してしまうと後が怖くてですね。はい、口喧嘩のような声は耳にしました。フランス人の野太い声が聞こえましたが、いや、すみません、何を言ってたまでは……。甲高い声の方? はい、イギリス人の声ですよね?……そうに決まってます。わたし、英語は分かりませんが、訛(なま)りで、きちんと判別はできるんです』


『アルベルト・モンターニ:菓子屋の主人。初めに階段を駆け上がりし者の一人と供述。

 ああ、例の声が聞こえてきたんだ。野太いフランス人の声だよ。何て言ってたか、少しくらいは聞き取れたさ。なんだか文句を言ってるみたいでね。甲高い声の方は、何て言っているか全然分からなかったな。早口だし、喋り方もちぐはぐでさ。思うに、ロシア人の声じゃないかって思うんだ。

 男の供述は他の証言を裏付けるものの、男はイタリア人で、ロシア生まれの者と話したことは無し』


『目撃者の幾人かを呼び戻して再び聴取するに、四階のいずれの部屋の煙突も、人の身の通るには狭きに過ぎたると証言す。「掃除拭具(スウィープ)」と称するは円筒形の束子(ブラシ)にして、煙突掃除に用いられるものなり。この束子(ブラシ)を以て、邸宅の全ての煙道を上下させて確かめたる。一団が階段を昇りし間、裏手より下に降り得る道は無し。レスパニェ令嬢の亡骸(なきがら)は煙突内に堅く押し込まれ、一団の四、五人の力を合わねば引き抜くこと能(あた)わざるほどなり』


『ポール・デュマ:医師。夜明け頃に二体の亡骸(なきがら)の検分のため呼び出されたると供述。

 私(わたくし)が案内されたのは、L令嬢が発見されたと云う部屋で、そこには麻布の張られた寝台があり、その上に両名の遺体が横たえられておりました。令嬢の遺体には著しい打撲痕と擦過傷が多く認められ、これらの所見は煙突内に押し込まれたことで生じたものだと説明できましょう。咽喉部には強く擦(こす)られたと思われる糜爛(びらん)を認め、顎部の直下には深い掻(か)き傷が数条、加えて明らかに指の跡と思われる青灰色の死斑が並んでおりました。顔面は恐ろしいほどに変色しており、眼球は突出し、舌は一部を嚙み切っておりました。鳩尾(みぞおち)には大きな打撲痕があり、膝によって圧迫されて生じたものと思われます。私(わたくし)の見解では、L・レスパニェ令嬢は、単独犯か複数犯か、何者かの手により絞殺されたものと推察します。そして、御母堂の遺体の方は、損壊が激しく、右腕と右脚の骨に至っては悉(ことごと)く砕かれておりました。左脚の脛骨(ティービア)は大きく裂けており、左側の肋骨も同様に砕裂(さいれつ)しておりました。全身にわたって打撲痕と変色が甚だしく、如何(いか)にして、これらの損傷が加えられたのか、見解を述べることは出来かねます。木製の太い棍棒か、幅の広い鉄の棒か……椅子など……大きく、幅のある鈍器を、仮に非常に力の強い男が振り回せば、こういった傷痕になるかもしれません。女の手では、どのような武器を使おうとも、こういった損傷を与えることは不可能です。御母堂の首は、私(わたくし)が検分したときには既に身体から完全に切り離されており、損壊も酷くありました。咽喉部に極めて鋭利な刃物が当てられていたのは明白で……おそらく剃刀によって切り裂かれたものでありましょう』


『アレクサンドル・エティエンヌ:外科医。亡骸(なきがら)の検分のためデュマ氏とともに呼び出されたる者にして、デュマ氏の証言と診断所見を裏付けたる』


『他にも数人に聴取すれども、斯(か)くたる以上の重要な証言は得られず。斯(か)くも不可解極まる、万事に於いて難解極まる殺人事件は、このパリ市においては未だ嘗(かつ)て先例は無し——元より、殺人の行われたるや否やすら疑わしくあり。警察当局は全く打つ手を失いて——斯(か)くたる事件としては異例の事態となれり。されど、手掛かりの影すらも見えず』


 ××××××


 その日の夕刊では、サン=ロッシュ地区では異常な騒ぎが今なお続いていると報じていた——問題の屋敷は再び入念に捜索され、目撃者への新たな事情聴取が行われたものの、いずれも徒労に終わったと綴(つづ)られている。しかし、追伸には、アドルフ・ル・ボンが逮捕され収監されたと記されていた——既に報じられた事実以外に、彼を罪に問うべき証拠は何一つ見つかっていないのにも関わらず。


 デュパンはこの事件の成り行きに並々ならぬ興味を示しているように見えた——とはいえ、彼自身は何も語らないので、少なくとも彼の振る舞いからそう判断している。ただ、ル・ボン氏が収監されたと報じられたときだけ、私にこの殺人事件についての見解を尋ねてきたのだった。

 だが、私には他のパリの人々と同じく、この事件を解決不可能な謎だと受け入れる以外に言えることは無かった。犯人を突き止めるための手立てなど、まったく思い浮かばなかったからだ。


「そんな殻(から)の表層をなぞっただけの調査で、推理の手立てを見極めてはいけないな」とデュパンは語る。

「鋭い洞察力(アクーメン)とやらで大いに讃(たたえ)えられるパリ警察は狡猾ではあるけれど、それ以上のものじゃない。連中はその場しのぎの方法には長けているが、それ以外の捜査の仕方は知らないらしい。大袈裟に捜査の手口を並べ立ててはいるものの、偶(たま)にというわけではないけれど、全く見当外れなこともよくある。脳裏を過(よぎ)るのはモリエールの喜劇『町人貴族』だ。紳士殿(ムッシュ)ジョルダンが『音楽を(プール・ミュ)響き良く(・アンタンドル)聞くため(・ラ・ミュジック)』に——『居間着(ロブ・ドゥ・)の羽織(シャンブル)』を欲しがったようなものだよ。ただ、そんな警察殿の捜査でも、偶(たま)にというわけではないけれど、驚くべき結果を出すこともよくある。だが、それも多くの場合、単に勤勉に立ち回った結果に過ぎないわけで、その勤勉さと行動力が役に立たないときは、捜査計画は頓挫してしまう。

 例えば、ヴィドックという男は勘が良くて根性もあるけれど、思考の鍛錬が足りていなかった。だから、熱心に捜査をするあまり失敗ばかりしていた。捜査対象にばかり目を向けていたせいで、視野が狭くなってしまっていたんだ。おそらく彼は、一つ二つの点を異常なほど詳しく見つめていたんだろうが、そんなことばかりしていたせいで、必然的に全体を見失ってしまっていたというわけだ。つまり、深く考えすぎてしまった、ということだよ。真理はいつだって深い井戸の底にあるわけじゃない。実際、知っておくべきなのは、真理はいつだって表層にあるということだ。僕はそう信じている。我々が思索の深さと思い込んでいるものは、真理を求めて探し回る谷間にこそあるもので、実際に真理が見出される山の頂(いただき)にはそもそも存在しない。この手の誤解は、形式的なものにしても本質的なものにしても、天体観測をするときの錯覚がその典型例さ。

 星をちらりと見ることは……横目で見るということで、つまり網膜(レティーナ)の外縁部で捉えるため、(そこは中心部と比べると弱い光に対する感受性が高く)星はより鮮明に目に映る……これが星の輝きを味わう最善の方法で……真(・)正(・)面(・)から見ようとするにつれて、この輝きは次第に翳(かげ)ってしまうのさ。実際に真正面から見ると、より多くの光が目に降り注いでしまい、星の光を捉えるには、横目で見た方が観察力を繊細に働かせることが出来るのだよ。度を越した深さは、思考を却(かえ)って困惑させ、鈍らせてしまう。あまりに長く、集中したままで、真正面から凝視してしまうと、金星(ヴィーナス)でさえ天球から姿を消してしまう。

 さて、この殺人事件についてだけれど、結論を出す前に、我々でも少し調べてみようじゃないか。きっと調査は愉(たの)しいものになるぞ【この言い方は奇妙に思えたが、私は黙っていることにした】。それに、昔、ル・ボン君には良くしてもらったことがあるんだ。僕も恩知らずじゃないからね。さあ、我々の目で実際に現場を見に行こうじゃないか。警視総監のG×××氏は知り合いだから、許可をもらうのはそう難しいことじゃない」


 許可が下りると、すぐにモルグ街へと足を運んだ。そこは、リシュリュー街とサン=ロッシュ街に挟まれた陰鬱な通りの一つだ。我々が住んでいる地区からは随分と遠く、着いたときにはもう昼も遅い時間になっていたが、屋敷は簡単に見つかった。なにしろ、通りの向かい側に、目的も無く、ただただ好奇の目で、閉ざされた鎧戸(よろいど)を見上げる人たちが未だに多くいたからだ。それはパリによくある造りの家で、門戸を構え、門の片側には硝子張(ガラスば)りの詰所が見える。詰所の窓には引き上げ(スライド)式の板が設(しつら)えてあって、そこが管理人室(ロージュ・ドゥ・コンシェルジュ)であることが分かる。屋敷に入る前に、私達は通りを上がって行き、そのまま曲がって路地に入り込み、再びぐるりと建物の裏手に回り込んだ——その間、デュパンは屋敷と同じように近隣一帯を調べ上げていた。緻密なまでの注意を払っているようだったが、私にはその目的が少しも想像できなかった。

 来た道を引き返し、再び屋敷の正面口まで戻る。呼び鈴を鳴らして、担当の警察官に許可証を見せると、そのまま中へと通された。階段を昇り——レスパニェ嬢の遺体が発見された部屋に足を踏み入れる。そこにはまだ、二人の亡骸(なきがら)が横たえられていた。室内は無秩序に、まるで普段通りであるかのように、荒らされたまま放置されていた。「法廷見聞報道(ガゼット・デ・トリビュノー)」紙に書かれていた以上のものは何も得られなかったが、それでも、デュパンは細かく調べあげる——そう、被害者の亡骸さえも。それから他の部屋を回って、中庭に入る。調査の間は、国家憲兵(ジャンダルム)がずっと同行していた。調査は陽が沈むまで続き、我々はそのまま屋敷を後にした。帰り道の途中で、少しの時間ではあるものの、とある新聞社の編集部に立ち寄った。


 これまで、この友人の気紛(きまぐ)れは実に多岐に渡ると述べてきたのだが、これについては——このフランス語の言い回しに相当する英語の表現はないのだが——上手く取りなしてきた(ジェ・レ・メナジェ)つもりだ。今回の気紛(きまぐ)れは、翌日の正午になるまで、例の殺人事件についての話題は一切しない、というものだった。

 そして正午になると突然、「あの惨劇の現場に、何かお(・)か(・)し(・)な(・)点が無かっただろうか?」と尋ねてくるのだ。その「おかしな」と語気を強める言い方に、何か得体のしれないものを感じて、何も分からないまま、私は思わず身震いしてしまった。


「お(・)か(・)し(・)な(・)ことなんて、なにも。少なくとも、新聞に書かれていた以上のことは何も無かっただろう?」と私は答える。


 すると、デュパンはこう返す。

「残念だけど、その『新聞』は、異常な恐怖という、あの事件の本質には一歩も踏み込んでいないのだよ。そんな紙片(かみきれ)に刷(す)られた、根拠ない意見は棄てた方が良い。僕に言わせると、この事件は容易に解ける理由があるのに、そのせいで逆に未解決の謎にされているようだ……つまり、言うならば、この事件の特徴そのものが常軌を逸して異様異質(いよういしつ)なのだ。警察当局は困惑を極めている。それは何故か? 動機が存在しないように見えるからだ……殺しの動機じゃない……何故、ここまで残虐に殺さねばならかったのか、という動機だ。更に、当局も頭を悩ませているのは、両立しようが無い二つの事実だ。激しく言い争う声を耳にしたと何人もの証人が供述している。それなのに、彼らが階段を昇った時には誰もいなかった。そこにいるはずのレスパニェ嬢は人知れず殺害されていた。その上、階段を昇っている一団に気付かれないように、現場から逃げ去る術(すべ)も存在しない。凄まじく荒らされた部屋。頭を下向きにされ、煙突の中に押し込まれた遺体。そして、悍(おぞ)ましいほどに幾重(いくえ)にも傷つけられ老婦人の遺体。こうした考慮すべき事項と、さっき僕が語ったこと、そして語る必要の無かったこと。こういった情報は、政府の忠犬(いぬ)の自慢の洞察力(アクーメン)を完全に狂わせ、その嗅覚を麻痺させるには十分だった。異常なことと難解なことを混同するあまり、当局は重大ではあるが、よくある誤りに陥(おちい)ってしまっている。しかしだ、常識の平面から逸脱した、この異様な点こそが、理性を働かせることで、真実を捜すために推理を進める手掛かりとなる。我々が、今、調査を進める中で、まず問わなければならないのは『何かが起きたのか』ではなく、『これまで一度も起きたことが無いことは何か』ということだ。事実、この怪事件の解決に辿り着きそうではあるし、既に辿り着いていると言えるかもしれない。この怪事件が警察の目に不可解に映れば映るほど、それに比例して謎解きは容易になっていくものさ」


 私は驚いてしまい、声も出せないままに、そのまま語り手を見つめるしかなかった。


「だから、ちょうど今、待っているのさ」

 語り手は、自室の扉に目をやりながら、そのまま話を続ける。

「……待っているんだ、あの残酷な殺人事件の、おそらく実行犯ではないとは思うけれども、何らかの形で犯行に関与しているはずの人物を、待っている。犯行の最も残虐な箇所を鑑(かんが)みれば、その人は無実である可能性が高い。この推測が正しいと願いたいね。というのも、この推論を元に、今回の謎を完全に読み解こうとしているんだ。だから、ここで……この部屋で……今か今かと、その人物を待ち構えているというわけだ。来ない可能性は確かにあるけれど、来る可能性の方が高いと思うよ。もし来たら、捕まえておく必要があるだろう。拳銃がある。使わねばならない時が来たら……君も使い方は知ってるだろう?」


 拳銃を受け取ったものの、自分か何をしているのかほとんど理解できなかった。というか、言われたこともほとんど信じられなかった。そんな中、デュパンはまるで独り言でも呟(つぶや)くように話を続ける。こんなときのデュパンの抽象的な話し方については既に語った通りだが、彼の語り口は確かに私に向けられたものだった。ただ、大声というわけではないが、遠く離れた人に話しかけるような、あの独特な調子で話すのである。表情は虚(うつ)ろなまま、瞳は壁だけを見つめている。


「屋敷に駆け付けた証人達が、階段で耳にした言い争う声についてだけれど、あれが令嬢や老婦人のものじゃないことは、いくつもの証言によって完全に証明されている。だからこそ、老婦人がまず娘を傷(いた)め付けて、その後で自害したのではないか、という疑いは完全に消え去った。なぜ、その話に敢えて触れるのか、って? 推理の道筋を辿るためだよ。それ以外の理由は無いさ。娘の遺体を、発見されたときのままに、娘の遺体を煙突内に押し込むには、レスパニェ夫人の細腕では全く以て力不足と言えるだろう。そして、老婦人の自決という線も、その身に刻まれた傷の性質を考えると否定される。つまり、殺人は第三者の手によってなされたわけだ。そして、第三者の声は口論をしているように聞こえた。ここで言及しておこう……この声に関する全ての証言について、じゃないさ……この証言のお(・)か(・)し(・)な(・)点についてだ。君には、この証言の特異な点が何か分かったかい?」


 私の意見はこうだった。野太い方の声がフランス人のものだ、というのは全ての証言で一致している。一方で、甲高い声——いや一人は耳障りな声だと言っていたが——それについては意見が全く一致していない。


「それこそが証拠なのさ」とデュパンが口を開く。

「でも、この証拠の特異なところはそこじゃない。特徴的な要素に目を向けられていないんだ。それでも、目を向ける場所は確かにある。君が述べてくれたように、野太い声については証人の認めるところで、ここは全員一致している。しかし、甲高い声について語らせてもらうと、特異なのは……全員の意見が一致しないことじゃない……イタリア人、イギリス人、スペイン人、オランダ人、そしてフランス人がその声について証言しようとしたが、誰もがそれを外(・)国(・)人(・)の声だと供述していたことだ。皆、その声が自国のものでないことは確信していたのだ。その声を例えるにしても……自分が慣れ親しんだ土地の言葉に譬(たと)える者は無く……むしろその逆だった。声の主をスペイン人だと思い込んでいたフランス人も、『ス(・)ペ(・)イ(・)ン(・)語(・)を(・)知(・)り(・)た(・)れ(・)ば(・)、幾何(いくばく)か言葉を聞き取れたかも知れず』。オランダ人は声の主をフランス人だと主張するけれど、その発言が『フ(・)ラ(・)ン(・)ス(・)語(・)が(・)喋(・)れ(・)ぬ(・)た(・)め(・)通(・)訳(・)を(・)介(・)し(・)て(・)聴(・)取(・)』したものだと知っている。イギリス人はドイツ人の声だと思っているけれど、彼もまた『ド(・)イ(・)ツ(・)語(・)に(・)明(・)る(・)か(・)ら(・)ず(・)』。スペイン人はイギリス人の声に『違いなし』と供述するけれど、『訛(なま)りで以て判じたる』もので、その上、『この者、英(・)語(・)は(・)一(・)つ(・)と(・)し(・)て(・)知(・)り(・)た(・)る(・)は(・)無(・)し(・)』。イタリア人はロシア人の声だと信じていたが、『ロ(・)シ(・)ア(・)生(・)ま(・)れ(・)の(・)者(・)と(・)話(・)し(・)た(・)こ(・)と(・)は(・)無(・)し(・)』ということだ。更に言うと、二人目のフランス人の証言は、一人目のものとは異なり、声の主はイタリア人だと確信を持っていた。しかし、そ(・)の(・)国(・)の(・)言(・)葉(・)は(・)知(・)ら(・)な(・)い(・)ので、前述のスペイン人と同じように『訛(なま)りのみで確信したる』。さて、ここまで証言を引き出すことが出(・)来(・)た(・)んだから、この声というのは、実に奇妙で異常なものだったに違いないだろう!——欧州(ヨーロッパ)の五大地方の住人でさえ、その声の聞(・)き(・)心(・)地(・)に心当たりが無いのだ!

 君はこう言うだろう、アジア人の声である可能性はあるんじゃないか……いや、アフリカ人かもしれない、と。だが、アジア人もアフリカ人もパリにはあまりいないんだ。もちろん、その推測を否定するわけじゃないけれど、今、着目してほしいのは、たった三つの点だけなんだ。証人の一人は、その声のことを『甲高いというより耳障り』と語っていたね。そして、二人の証人はその声を『早口で不(・)規(・)則(・)』と表現している。言葉は一つも無い……言葉として聞き取れたものは一つも無い……どの証人も言葉らしい音は一つも聞き取れていないんだ」


「どんな印象を、君の思考に与えられたかは分からないけれど」と続ける。

「はっきり言わせてもらうと、野太い声や甲高い声について……こんな証言の一部でさえ、正当な推論を重ねていけば、一つの疑いを生むのには十分だ。この怪事件の、今後の調査の進め方をまるっきり変えてしまうような、そんな疑いがあるのさ。だだ『正当な推論』とは言ったものの、まだ僕の考えを全て説明できているわけじゃない。僕が言わんとしているのは、導き出される推論のうち唯(・)一(・)正しいものからのみ、必(・)然(・)的(・)に疑いが生まれてくるもので、それこそが一つの結論だということだ。しかし、その疑いについては、まだ言わないでおこう。ただ、私の言葉と一緒に、これだけは心に留めておいてほしい。その疑いは、あの部屋での調査に……或(あ)る一定の方向性で以て……はっきりとした形を、否応なく与えるくらい強いものだった。


 それでは、想像の中で、あの部屋に戻ってみることにしよう。まず、探すべきは何だろうか? 殺人犯が使った逃走経路だ。僕達は二人とも、超常現象は信じていないと言って良い。レスパニェ夫人と令嬢は亡霊に惨殺されたわけじゃない。この犯人は物理的な実体があって、物理的な手段で逃走したのだ。では、どうやって? 幸いなことに、この点については推理する方法が一つだけある。その方法を使えば、必(・)ず(・)明確な結論に至れる。

 可能な逃走法を、一つ一つ、検討してみよう。証人達が階段を昇っていたとき、暗殺者がいたのは、レスパニェ嬢の発見された部屋か、少なくとも隣の部屋だというのははっきりしている。なので、逃走経路を探すのはこの二つの部屋だけで良い。床や天井、石造りの壁は、警察があらゆる角度から徹底的に調べ上げている。秘密の抜け穴があれば、警察の注意深い目から逃れられるはずはない。しかし、連(・)中(・)の目を信用していなかったので、僕は自分の目で確かめてみることにした。もちろん、秘密の抜け穴は見つからなかった。各部屋から廊下に繋がる扉はしっかりと施錠されていて、鍵は内側から掛ける仕組みだ。煙突の方に向かってみようか。暖炉から八か十呎(フィート)ほど上までは通常の幅の煙突だけれど、全長に亘(わた)って見てみると、大きな猫の体も通れないほどの狭さだというのが分かる。つまり、これまで見てきた経路を使って逃げ出すのは完全に不可能だ。つまり、残されたのは窓だ。通りにいた群衆に気付かれずに、正面の窓から逃げ出せる者はいない。つまり、殺人犯は裏手の窓から抜け出したに違(・)い(・)な(・)い(・)。

 さて、これだけはっきりとした形で結論に辿り着いた以上、不可能に見えることを理由に、この結論を退(しりぞ)けるのは、推理を進めてきた我々の役目ではない。我々の仕事は、『不可能』に見えることが、実際には『不可能ではない』と証明することさ。


 部屋には二つの窓がある。一つは家具で塞がれることなく、窓の全景を見ることが出来た。もう一つの窓は、動かしにくい寝台がぴったりと押し付けられているせいで下の方が隠れている。最初の窓は内側からしっかりと留め具で留められているのを確認している。窓を開けようと力を込めてもびくともしなかった。錐工具(ギムレット)を使って、外枠(フレーム)の左側に大きな釘坑(くぎあな)を空(あ)けて、壁に取り付けたのだろう、厳(いか)つい太い釘が頭近くまで深く埋められていた。二つ目の窓を調べてみると、同じような釘が同じように打ち込まれている。窓の内枠(サッシ)を持ち上げようと力を込めてみたが、これもまた失敗に終わった。こうした状況から、窓から逃走した線は無いと、警察は完全に確信していた。だ(・)か(・)ら(・)こ(・)そ(・)だ、釘を抜いて窓を開ける、そこまでする必要は無いと考えたんだ。


 僕の調べ方は少し細かすぎたかもしれないけれど、だからこそ、先ほど述べたような結論に至ることができたわけで……僕が思うに、『不可能』に見えることが、実際には『不可能ではない』と証明しなければな(・)ら(・)な(・)い(・)|のは、まさにその瞬間だったのだ。


 では、結果から原因を探る(ア・ポステオリ)——そのようにして推理を進めよう。殺人犯は二つの窓のどちらかから逃走している。そうだとすると、窓枠の鍵を再び内側から掛けることはできないのだけれど、実際には窓には鍵が掛けられていた……あまりに一目瞭然の事実だったため、この一点のせいで、警察はこの方面での調査を止めてしまった。しかし、窓枠は確かに固定されてい(・)た(・)。だとすれば、窓自体が自ずと固定される力を有していたに違(・)い(・)な(・)い(・)。この結論から逃れる余地は無い。家具に塞がれていない方の窓に歩み寄って、釘をなんとか引き抜き、窓枠を引き上げようとしてみたが、案の定、窓はびくともしなかった。そこで、隠し発条(バネ)があるに違いないと思い、この発想も相まって、少なくとも前提が間違ってはいないことは確認できた。ただ、釘を取り巻く状況については依然として謎めいていた。念入りに調べてみると隠し発条(バネ)はすぐに見つかった。その発条(バネ)を押して仕組みを確認すると、もう満足してしまったから、窓を敢えて開けみせる真似はしなかった。


 それから釘を元の場所に戻し、注意深く観察してみる。この窓から出た者によって、窓は再び閉ざされたのだろう。隠し発条(バネ)が作動して窓が閉まるのは分かる……だが、釘を元に戻すことは出来ないはずだ。そうなると、結論は明白で、調査の範囲が更に絞られる。つまり、暗殺者は、二つ目の窓から逃走したに違(・)い(・)な(・)い(・)。例えば、仮にどちらの窓枠も同じように発条(バネ)が仕込まれていたとしよう。実際にこの可能性は高いと思う。そうならば、釘に違いがあるは(・)ず(・)で、少なくともその固定方法に違いがあるに違(・)い(・)な(・)い(・)と思ったわけだ。麻布張りの寝台に上がって、枕板(まくらいた)越しに、二つ目の窓を細かく観察してみた。枕板の裏側に手を差し込むと、すぐに発条(バネ)が見つかり、押してみると予想通りで、隣の窓と同じ仕組みだった。すると釘を見つけた。他と同じ太い釘で、見たところ外枠(フレーム)のものと同じように……窓の内枠(サッシ)に頭近くまで打ち込まれている。


 混乱していると言いたいのかい? そう思っているなら、君は推理というものの本質を誤解しているよ。狩人の言葉を借りるなら、僕はまだ一度も『匂いを外し』てはいないのさ。一瞬たりとも匂いを見失ってはいない。推論という鎖の輪には一つとして欠陥はない。この秘密を果ての果てまで追い詰めた……それが釘(・)というわけだ。言うならば、この釘は、もう一つの窓のものと見た目は全く同じだった。でも、ここに来て手掛かりが途絶えてしまうことに比べたら、(如何(いか)に決定的に見えようとも)そういった事実は全く意味を成さないのだよ。『この釘に何かおかしなところがあるに違(・)い(・)な(・)い(・)』と私は言った。釘の頭に触れてみると、軸が四分の一吋(インチ)ほど付いたまま、私の手中に収まった。残りの軸は、折れたまま、窓の外枠(フレーム)の釘坑(くぎあな)に収まっていた。折れたのは古い釘で(端々(はしばし)が錆で覆われていた)、どうやら、金槌(かなづち)の一撃で役目を終えて、釘の頭の部分だけが、窓の下側、その内枠(サッシ)の上面の窪みに挟まったのだろう。そして、釘の頭を元あった窪みに慎重に戻してやれば、一見すれば内枠(サッシ)と外枠(フレーム)を繋ぐ完璧な留め釘の完成だ……裂け目は見えない。発条(バネ)を押して、数吋(インチ)だけ窓を引き上げると、釘の頭も一緒に上がり、窓枠の窪みにしっかりと嵌(はま)ったままだった。窓を引き下げると、釘は完全に元と同じ状態に見えた。


 ここまでのところは、既に謎は解かれれている。暗殺者は寝台に面する窓から逃走した。犯人が逃げたとき、窓は自然と下がり(もしくは犯人が意図的に閉じたのかもしれないけれど)、発条(バネ)によって鍵が掛けられた。この発条(バネ)によって閉められたのを、警察は釘によって固定されたものだと誤解し……更なる調査は不要と判断したわけだ。


 次の疑問は、どのようにして降りたかということだ。これについては、君と建物の周りを見て回っているうちに得心がいった。問題の窓からおよそ五呎(フィート)半くらい離れた処(ところ)に避雷針が一本通っていただろう。誰であろうとも、そこから窓に手をかけられるわけもなく、ましてや部屋に入ることなど不可能だ。しかし、私は気付いたわけさ。四階の鎧戸が、パリの大工が一枚扉(フェラーダ)と呼ぶ様式のものだということにね……近年では滅多に使われることは無いが、リヨンやボルドーの古式ゆかしい屋敷ではよく見かける形だ。普通の扉(つまり、両開きではない一枚扉)の形をしているのだけれど、下半分は格子や粗目の柵のような造りをしていて……手で掴(つか)むには非常に都合が良い。この屋敷の場合、鎧戸の全長は幅が三呎(フィート)半もある。屋敷の裏手から眺めたときは、二つの窓の鎧戸はどちらも半開きに近い状態だった……つまり、壁から直角に突き出す形になっていたわけだ。警察も同じように建物の裏手から調べた可能性はあるけれど、そうだとすると、一枚扉(フェラーダ)を真横から見たのだろう(そうに違いない)。そのせいで、この鎧戸の幅広さに気が付かなかったか、もしくは少なくとも幅のことを考慮に入れていなかったのだろう。こちらの方面から逃げ出したはずは無いと一度納得してしまったために、当然、ごく表面的な調査しか行われなかったわけだ。しかし、僕にははっきり分かる。寝台の頭側の窓に設(しつら)えてあった鎧戸を、仮に壁に向かって全開にしてしまえば、避雷針までは二呎(フィート)以内の近さになるのだ。それに、はっきりしているのは、並外れた身体能力と勇気を発揮すれば、避雷針から窓へと、このように侵入したかもしれないということだ。(鎧戸が完全に開いていたと仮定すると)二呎(フィート)半ほど手を伸ばせば、盗人は鎧戸の柵をしっかりと掴むことができる。そして、避雷針を掴んでいた手を離し、足を壁にしっかりと押し当てて、そこから跳ねるように思い切って身を躍らせれば、鎧戸が揺れてそのまま閉じていく。そして、そのとき窓が開いていたと想定すれば、鎧戸が閉まる勢いのまま、盗人は部屋に侵入できるというわけだ。


 ここで心に留めておいてほしい。この危険で困難な離れ業を成し遂げるのに必要な要素は、先ほど述べたように極(・)め(・)て(・)並外れた身体能力だ。まず、僕が言いたいことを先に明らかにしておこう。第一に、こうした離れ業は可能だったかもしれない……しかし、第二に、そして主(・)と(・)し(・)て(・)、君の思考に刻み付けたいのは、極(・)め(・)て(・)尋《・》常(・)な(・)ら(・)ざ(・)る(・)……ほとんど超自然的と言える敏捷性が必要だということだ。


 法律家の語り口を借りると、君は『自分の主張を立証するには、本件で求められる身体能力をありのままに評価して主張するよりは、控えめに見積もるべきだ』と言うに違いない。法曹界の慣習ではそうなのかもしれないけれど、理性の世界ではそんなものは通用しないよ。僕の究極の目的は、ただ真実のみだ。僕が語ってきた極(・)め(・)て(・)並《・》外(・)れ(・)た(・)身体能力と、国籍についての証言が誰一人として一致せず、音節らしきものも聞き取れなかった、あの極(・)め(・)て(・)特(・)異(・)に(・)甲高く(もしくは耳障りで)、不(・)規(・)則(・)な声……当面の目的は、この二つを並べて考えられるように君を導くことさ」


 その言葉を聞いたとき、デュパンが言わんとしていることが、曖昧で半(なか)ば形を成した概念として、僕の心にふっと浮かんだ。もう理解の際(きわ)まで来ているのに、肝心の理解に至(いた)る力が無い、そんな気がする……まさに人が、何かを思い出そうとして、結局、何も思い出せないときのようだ。


 友人は話を続ける。

「君なら分かるだろう、問題の焦点が、脱出の方法から侵入の方法に変わっていることに。その二つが、同じやり方、同じ場所で実行された。それを伝えたかったのだ。では、室内の件に戻るとしよう。部屋の有様に考えを巡らせてみる。新聞に書かれていたように、机には物色された形跡があった。にも関わらず、箪笥(たんす)を兼ねたその机の抽斗(ひきだし)の中には衣服の類(たぐい)が多く残されていた。ここで結論を出すのは合理的じゃない。これは単なる憶測だ……それも実に愚かな憶測で……それ以外の何物でもない。抽斗(ひきだし)で見つけた物品が、元々納められていた物の残りだと、どうして言い切れるのだろうか? レスパニェ夫人と娘は並々ならぬ隠遁生活を送り……誰と会うことも無く……外出することも滅多に無かったのだから……着替えを多く用意する必要は無い。見つかった衣服は、少なくとも夫人達が身に着けていたであろう品々と劣らぬくらいには質の高いものだ。仮に盗人が何かを盗(と)ったならば、どうして最も価値のあるものを盗(と)らなかったのだろうか……なぜ全てを盗んでいかなかったのだろうか? つまりだ、なぜ四千フランもの金貨を捨てて、布の束なんかを背負い込む必要があるのだろうか?

 ああ、金貨は打ち棄てられてい(・)た(・)。銀行家のミニョー氏が語っていたほぼ全額が、革袋に入って、床の上で見つかったのだ。だからこそ、屋敷の戸口で金を渡したという荷運び人の証言の一部を切り抜いて、警察が自らの脳内に産み出した、そんな動(・)機(・)という稚拙な考えは捨ててほしい。金が届けられ、その受取人が三日と待たずに、殺害される……これより十倍も特筆すべき偶然は、日常の中で起こっているものだけれど、誰一人として気に留めはしない。そもそも偶然というのは、確率論を習わずに育てられてきた人間が思考を巡らせるには、実に大きな障害となる……そして、確率論こそが、人類が解き明かそうとしてきた最も輝かしい事象に対して、最も美しい説明を与えてくれる理論なのだよ。今回の場合、仮に金貨が盗まれていたなら、三日前に届けられたという事実が単なる偶然以上の意味を帯びてくるだろう。動機を裏付けることもあっただろう。だがしかし、現状を踏まえると、この野蛮な行為の動機を金貨と仮定するなら、金貨と動機を同時に放棄するような、そんな極めて優柔不断な愚か者を想定しないといけなくなる。


 これまで君のために示してきた幾つかの点……犯人の声、その異常なまでの敏捷性、そして、この異様で凶悪な殺人事件に動機が見当たらないという驚異……これを念頭に置いて、殺害そのものに目を向けてみよう。ここでは、素手で絞め殺された女性が、頭を下向きにされ、煙突へ押し込まれていた。普通の暗殺者なら、こんな殺し方はしない。ましてや、殺した相手をこんな風に処理するなど有り得ない。死体を煙突に押し込むという手口が、極(・)め(・)て(・)異(・)様(・)であることは、君も認めるところだろう……たとえ犯人が極めて邪悪な人間だとしても、それは人間の行動として、我々の常識とはかけ離れている。そして、思い出してほしい、煙突の口に死体を押(・)し(・)上(・)げ(・)た(・)、その力がどれほど強力なものだったのかを。無理矢理に押し込んだせいで、数人で力を合わせて、辛うじて引き摺り降《・》ろ(・)せ(・)た(・)のだ!


 では、その驚くべき怪力が使われたと思(おぼ)しき、他の証拠に目を向けてみようか。暖炉の炉床には、人の灰色の髪が……太い束となって……非常に太い髪束となって落ちていた。その髪束は根元から引き抜かれている。頭から髪を二、三十本まとめて引き抜くにしても、相当な力が必要なことは君も知っているだろう。この髪束を、君も目にしたはずだ。髪の根本には(見るも悍(おぞ)ましいが!)、頭皮の肉片がこびりついていた……これこそが、凡(およ)そ五十万本ほどの髪の毛を一度に引き抜くのに、途方もない力が使われたことの確かな証拠だ。そして老婦人の喉はただ切られただけではなく、頭部が身体から完全に切り離されていた。しかし、凶器はただの剃刀にすぎない。こうした行為の残(・)忍(・)極《・》ま(・)る(・)凶暴性にも目を向けてほしいのだ。ただ、レスパニェ夫人の身体に残された打撲痕については、この限りではない。デュマ医師と優秀な助手のエティエンヌ氏が、その打撲痕が鈍器のようなもので付けられたと供述していたけれど、その点については全く正しい証言だ。鈍器というのは、実は中庭の石畳で、被害者が寝台の上にある窓から落ちて、石畳に叩きつけられたというわけだ。今となっては単純な考えに見えるかもしれない。それでも、鎧戸の幅を見落としていたのと同じ理由で、警察の頭からは抜け落ちていた……釘の一件で、窓が開くかもしれない、という認識が完全に闇に覆われていたのと同じさ。


 さて、以上のことを踏まえて、あの部屋の奇妙な荒らされ方を正しく考察できれば、我々は一連の思索を一つに繋げる処(ところ)まで辿り着いたことになる。驚異的な敏捷性、人間離れした怪力、獣のような凶暴性、動機の欠落した殺戮行為、人間らしさとは完全に乖離した怪奇醜悪(グロテスクリィ)な恐怖。そして、どの国の人間の耳にも異邦人のように響く、明確な音節構造を持たない、理解不能な声。さあ、これで、どんな結論が導きけるだろうか? 君の想像力に、僕はどんな印象を刻みつけたのか?」


 デュパンがその問いを投げかけた瞬間、身の毛の弥立(よだ)つ感じがした。

「狂人だ」と、私は言葉を発した。

「この犯行をやり遂げたのは、狂人だ……錯乱して発狂した人間が、近くの精神病院(メゾン・ド・サンテ)から逃げ出してきたんだ」


 しかし、デュパンの返答はこうだった。

「君の推理は、ある意味では、全くの的外れというわけじゃない。しかし、狂人の声というものは、たとえ激しい狂乱状態にあったとしても、階段で聞こえた例の奇妙な声と一致するはずがない。狂人にしても、どこかの国の人間で、支離滅裂な言葉遣いだったとしても、その国の言語の音節構造は必ず保たれるものだ。それに、今、僕が手にしている髪の毛は、どう見ても狂人のものとは言い難い。この小さな髪の束は、レスパニェ夫人の硬直して固く握り締めていた指を解(ほど)いて、取り出したものだ。これをどう解釈するのか、君の考えを聞かせてほしい」


「デュパン!」

 私は、酷く動揺しきって、思わず声を上げた。

「変だ、この髪の毛は、全く以ておかしい……これは、人(・)間(・)の髪の毛じゃない」


「これが人間のものだと、言った覚えは無いよ」とデュパンは告げる。

「しかし、その結論を出す前に、この小さな素描(スケッチ)を見てほしい。僕が紙に描き写したものだ。証言の中にあった、レスパニェ夫人の喉元にあった『黒斑の打撲痕と爪の深く喰い込みたる痕(あと)』を正確に写し取ったもの(ファク・シミリ)だ。それと、他の(デュマ医師とエティエンヌ医師、両先生方の)証言で、『明らかに指の跡と思われる青灰色の死斑が並んで』いた、とある。それも模写しておいた」


「君なら分かるだろう」と、目の前の机で紙を拡げながら、友人は続ける。

「この絵を見るに、かなりの力で、動かせないほど強固に掴まれていたらしい。ほら、どこにも滑(・)っ(・)た(・)形跡が無いだろう? 一つ一つの指を……おそらく被害者が息絶えるまで……最初に食い込んだままの形で、悍(おぞ)ましいことに、握り締め続けたんだ。それでは、試してみてくれ。君の指の一つ一つを、同時に、この指の跡に、その通りに置いてみるんだ」


 試してみたが、それも徒労に終わった。


「もちろん、この試みは公正性を欠いている可能性もある」とデュパンは語る。

「紙は平坦な面に拡げられているが、人間の喉というのは円筒形だ。ここに木片がある。この一周りの長さは喉の太さと凡(およ)そ同じだ。これに素描(スケッチ)を巻き付けてから、もう一度、試してみてくれ」


 言われるままにやってはみた。だが、難しさは前よりもいっそう明確になってしまった。


「これは……人間の手の跡じゃない」と私は零(こぼ)した。

「では、これを読んでみたまえ。博物学者キュヴィエの一節だ」とデュパンは返す。


 それは東インド諸島の大きな黄褐色の森林猩猩(オラン・ウータン)に関する、緻密な解剖学的所見と概要的な記述を兼ねた報告書だった。


『その巨躯から成る、驚異的な怪力と敏捷性、野生的な凶暴性、並びにこの哺乳動物に特有の模倣癖は、万人のよく知る処(ところ)なり――』


 その瞬間、この恐ろしい殺人事件の全容を、私は悟ってしまったのだった。


 最期まで読み終えて、私は口を開いた。

「この手指についての記述は……この素描(スケッチ)と確かに一致している。そうだ、ここに書かれている種類の森林猩猩(オラン・ウータン)以外に、君が描き写した傷痕(きずあと)を残せる生き物はいない。この褐色の毛の束も、キュヴィエの獣(けもの)の特徴と全く同じだ。だが、それでも、この悍(おぞ)ましい謎の細部については、どうしても理解が及ばないんだ。ああ、そうだ……証人達が耳にした、言い争う声は二(・)つ(・)も(・)あった。そのうちの一つは、間違いなく、フランス人の声だったじゃないか」


「その通りだ。君も覚えているだろう、証言者のほぼ全員が、その声については同じ言葉を残している……その言葉は『ああ、神よ(モン・ディユ)』だ! 状況からして、目撃者の一人(菓子職人のモンターニ)が評していたように、この言葉は抗議や諫(いさ)める思いから発せられたものと見るのが妥当だろう。だからこそ僕は、この『私の(モン)』『神様(ディユ)』という二語に、謎を解き明かすという一縷(いちる)の望みを一心に託したのだ。フランス人はこの殺人事件を認知していた。そこで行われた血生臭い犯行には、その男は一切関与していない可能性はある……いや、むしろその確率の方が高い。森林猩猩(オラン・ウータン)は、その男の元から逃げ出したのだろう。男はそれを追って屋敷の一室まで辿り着いたのかもしれない。けれど、その後に続く大混乱の状況では、再び捕獲することなど到底できなかったのだろう。つまり、猩猩(オラン・ウータン)は未だ逃走中というわけだ。さて、これ以上、推測を重ねるつもりはない……何しろ、『推論』としか呼べないからね……こうした推測の論拠となる思索の跡は、僕の知性でさえも十分に感知できないほどに淡く、他人に理解できるよう分かりやすく説明してみせることも出来ない。だから、これは『推論』と呼ぶに留(とど)めて、そのように語るとしよう。もし、推論の通り、その例のフランス人が実際にこの残虐な行いと無関係なのだとしたら、昨夜の帰り際に、(海運関係の記事を扱い、多くの船員が目にする)「世界情勢(ル・モンド)」誌の編集部に出しておいたこの広告が、その男を住処(ここ)に連れて来てくれるだろう」


 デュパンが手渡してくれた一枚の紙には、こう書かれていた。


『捕獲せり――

 当月××日の早朝(かの殺人事件の朝なり)、ブローニュの森にて、甚(はなは)だ巨大な黄褐色の、ボルネオ種の森林猩猩(オラン・ウータン)を捕獲せり。(マルタ船籍の船に属す水夫と判明せらる)所有者に告ぐ。身元を十分に証明し、捕獲及び保管に要せし若干の費用を支払わば、この獣(けもの)を返還す。

 サン・ジェルマン郊外×××通り×××番、三階まで来られたし』


「どうして分かったんだ?」と尋ねた。

「その男が水夫で、それもマルタ船籍の船の乗組員だって」


「分かってなんか無(・)い(・)さ」とデュパンは答える。

「確(・)信(・)は無いんだ。しかし、ここに小さな飾り紐(リボン)の切れ端がある。形状やその脂染(あぶらじ)みた見た目からして、水夫が好んでしている、あの長い辮髪の類(たぐい)を束ねるのに使われていたのは明らかだ。さらに言うと、この結び方は水夫以外に出来るものじゃないし、これはマルタ島特有の結び目だ。この飾り紐は、あの避雷針の真下で拾ったんだ。亡くなった二人のものであるはずがない。いずれにせよ、もし、この飾り紐のせいで推論を誤ったとしても、例のフランス人がマルタの水夫だ、と新聞広告に書いたところで何の害もないだろう? 僕が間違っていたとしても、何か事情があって誤解をしていると思うだけで、その男はわざわざ調べるような真似はしないさ。逆に僕が正しければ、大きな利点になるというわけだ。無実ではあるけれど、殺人のことを知っているせいで、自然とそのフランス人は広告に応じるのを躊躇(ためら)う……つまり、森林猩猩(オラン・ウータン)を引き取りに来るのを躊躇(ためら)うだろう。男の言い分はこうだ——


『俺は無実だ、それに貧乏なんだ、この猩猩(オラン・ウータン)は随分と値が張ったさ……今の俺にとって、こいつは財産そのものだ……どうして、根拠も無い、危険なことに巻き込まれてしまったという恐怖に怯(おび)えて、あいつを手放さなきゃいけないんだ? もう俺の手の届くところにあるじゃないか。ブローニュの森で見つかったらしい……あの殺戮の現場からは、遥かに離れてる。だったら、あの凶暴な獣(けもの)が、あんなことをしでかしたなんて、そんな疑いを掛けられるはずはないだろう? 警察の方は手詰まりのようだ……僅かな手掛かりすら連中は掴めていないじゃないか。連中が猩猩(オラン・ウータン)に辿り着いたとしても、あいつが人を殺したことを俺が知っているなんて、それを突き止めるのは不可能だ。ましてや、知っているという理由だけで、俺に罪の呪いをかけることなど出来はしまい。それに何より、もう俺(・)の(・)素(・)性(・)は(・)割(・)れ(・)て(・)い(・)る(・)ん(・)だ(・)。広告主は俺を、あの獣の所有者として指名してやがる。そいつがどこまで知っているかは分からないが、俺が持ち主だってことは知られてるんだ。俺があの値の張る財産の所有権を主張しないと、あいつに疑いの目が向けられてしまう。俺にも、あの獣にも、注意を向けられるのは本意じゃない。この広告に応えよう。猩猩(オラン・ウータン)を受け取って、事が収まるまで隠しておこう』」



 そして、その時、階段を昇る足音が聞こえてきた。


「拳銃の用意をしておいてくれ。だが、僕が合図するまでは、使うな、見せるな」


 家の玄関は開け放たれている。訪問者は呼び鈴も鳴らさずに屋敷に入り、数歩、階段を昇った。しかし、どうにも男は躊躇しているらしい。そのまま、階段を降りていく音が聞こえる。そして、再び階段を昇る音がすると、デュパンは素早く扉の方に向かった。二度目は男も引き返すことは無く、決心したように階段を昇りきり、我々の部屋の扉を叩いた。


「どうぞ、お入りください」

 明るく親しみのこもった声で、デュパンが呼びかけると、男は部屋に足を踏み入れた。どう見ても水夫で——背が高く、がっしりとした筋肉質な見た目の男だった。どこか向こう見ずな気配を漂(ただ)わせた顔つきで、全く悪印象というわけではない。よく日に焼けており、顔の半分以上が頬髯(ほほひげ)と湾曲した大きな口髭(くちひげ)で隠れていた。大きな樫(かし)の棍棒を携(たずさ)えていたが、それ以外に武器らしきものは何も持っていないように見えた。ぎこちなく頭を下げて、フランス語訛(なま)りで「こんばんは」と挨拶をした。少しスイスのヌーシャテル地方の響きも混じっているが、それでも出自がパリであることは十分に分かった。


「どうぞ、お掛けください、お客さん」とデュパンは続ける。

「あの森林猩猩(オラン・ウータン)の件でお越しになったのでしょう。いやはや、あれをお持ちだとは、何とも羨ましいかぎりですよ。実に見事な個体だ、極めて高価な動物なのは間違いないでしょう。あれの齢(とし)は、いくつくらいでしょうね?」


 耐え難い重荷から解き放たれたように、水夫は長く深い息を一つ吐いて、どこか確信めいた口調でこう返した。


「正確なことは分からんのですが……四、五歳を超えてはおらんでしょう。それで、あの……あれは、ここにいるんで?」

「ああ、いえいえ、あの子を預かるには、ここは勝手が悪くてですね。すぐ近くの、デュブール通りの貸し馬屋に預けてますよ。明日の朝にはお渡しできますとも。さて、もちろん、身元を証明するものはお持ちですよね?」

「ええ、旦那、それは間違いなく」


「しかし、あれを手放してしまうのは、少し残念ではありますね」とデュパンが一言。

「いやいや、旦那、こんなご迷惑をおかけしたのに、只(ロハ)で済まそうだなんて、そんなつもりは全然」と水夫が続ける。

「ええ、毛ほども思っちゃおりません。あの獣(けもの)を見つけてもらったお礼を、ぜひとも喜んで支払わせてもらいますとも……とはいえ、常識的な範囲でお願いしますよ」


「良いでしょう」と、我が友は返す。

「確かに、それならお互いに損得なしだ! ちょっと考えさせてください……何をしてもらおうかな? ああ、そうだ、あれにしよう! 報酬はこれでお願いします……貴方が知っている限りの情報を、全て話していただきたい……モルグ街で起きた、殺人事件の話を」


 デュパンの口から紡(つむ)がれた、その最後の言葉はひどく低い音で、ひどく静かな口ぶりだった。そして、その声と全く同じ静かさで、扉の方へ静かに歩み寄り、鍵を閉め、衣嚢(ポケット)にそっと錠を仕舞った。そして、懐(ふところ)から拳銃を取り出して、慌てる素振りは少しも見せずに、そのまま拳銃を机の上に置いた。


 その時、まるで窒息で悶え苦しむかのように、水夫の顔が紅潮し始めた。そして、跳ね上がって、棍棒を掴み取った——のだが、次の瞬間には激しく震えながら、背後の椅子へと崩れ落ち、屍人のような表情を浮かべていた。一言も発することが出来ない水夫を見て、私は心の底から憐(あわ)れんだ。


「ねえ、お客さん」と優し気な口調でデュパンは声を掛ける。

「そんなに怖がらなくてもいいじゃありませんか……ああ、そんなに怯(おび)えないで。貴方に危害を加えるつもりなんて少しもありませんよ。紳士の名誉に、そしてフランス人の誇りに懸(か)けて誓いましょう。貴方を傷つけるつもりはありません。貴方がモルグ街の惨劇と無関係なことは、十二分に承知しておりますとも。しかし、全てを否認しきることは出来ないものでしてね。ええ、少しくらいは関与しているのでしょう? 既に申し上げた通り、あの一件に関する情報を集める術(すべ)が僕にはありましてね。もうお理解(わか)りでしょう……まあ、そんな術(すべ)が存在するとは夢にも思わなかったのでしょうけど。さて、状況はこんな感じです。貴方がしてきたことは、避けることの出来なかったことばかりです……貴方のせいじゃありませんとも、何も罪に問われることはありません。それに、盗みを働いても罰せられない立場にあったのに、窃盗の罪を犯すこともしなかったのですから。何も隠し立てすることなど無いじゃありませんか。隠し立てする理由なんて何も無いんですよ。ただ、それでも、フランス人の名誉に則(のっと)るならば、知っていることを全て語るのが、貴方の義務ではないでしょうか? 無実の男が今、ある罪で告発され、牢獄に入れられているわけです。貴方なら、その罪の犯人を指し示すことができるはずだ」


 デュパンがその言葉を発した時には、水夫は随分と落ち着きを取り戻していた。だが、元来の威勢の良さはもはや消え去ってしまっていた。


「う、うあぅああぁ、ああ、神様、どうか助けてくれ!」

 短い沈黙を引き裂くように、水夫が叫ぶ。

「話(・)す(・)、話(・)す(・)よ(・)、この事件で知ってることは全部話すから……ああ、俺の言うことを、旦那が半分も信じちゃくれないのは分かってる……信じてもらえるなんて思ってるなら、俺はとんだ馬鹿野郎だ。それでも、俺(・)は(・)無実なんだ。だから、たとえ死ぬことになったとしても、この胸の内を全部、曝(さら)け出すよ」


 水夫の語るところによると、大筋は次の通りだった。

 水夫は最近、インド諸島を巡る航海に出ていたそうで、ボルネオ島に上陸した水夫一行は、内陸へと足を延ばし小旅行を楽しんでいたのだと云う。そこで、水夫はもちろんだが、仲間の一人も一緒になって森林猩猩(オラン・ウータン)を捕まえたのだ。しかし、その仲間が亡くなったために、その獣(けもの)は水夫一人の所有物となった。故郷へ帰る船路では、捕らえた獣の手に負えぬほどの凶暴さのせいで随分な苦労をしたが、ついに無事、パリの自宅に運び込むことが出来た。ただ、船上で木片でも刺さったのだろう、獣(けもの)は肢(あし)に傷を負っていた。傷が癒えるまでの間は、近隣住民から煩(わずら)わしい好奇の目を向けられぬように、水夫は獣を厳重に隔離し続けていた。男の最終的な目的はその獣を売り払うことだった。


 事件当日の夜——いや、むしろ朝というべきだろう。水夫仲間との乱痴気騒ぎから帰ってきた男が目にしたのは、寝室を占拠する獣(けもの)の姿だった。隣の物置に厳重に閉じ込めていた、と思っていたのに、そこから抜け出して、寝室に侵入したのだった。手には剃刀、顔は石鹸の泡に塗(まみ)れて、獣が姿見鏡(すがたみ)の前に座り、髭剃りの真似事をしようとしていた。間違いなく、飼い主の真似をしているのだろう。前々から物置の鍵穴越しに覗き見ていたのだ。あの凶暴な獣が、剃刀という凶器を手にしている——それも、器用に使いこなしているではないか。そんな光景を目にした男は恐怖のあまり、しばらくの間、呆然と立ち尽くしてしまった。それでも、この怪物を大人しくさせる心得はある。荒れ狂っている時でさえ、鞭を振るってきたのだ。だから、この時も男は鞭に頼ろうとした。しかし、それを目にした途端、猩猩(オラン・ウータン)はすぐに部屋の扉から飛び出してしまった。階段を駆け降りて、そこから、不運にも開け放たれていた窓を抜けて、通りへ逃げ出してしまった。

 絶望的な気持ちで、このフランス人は後を追いかけた。あの猿猴(サル)の手にはまだ剃刀が握られていた。時折、立ち止まって後ろを振り返ると、追いつかれそうになるまでは、追手を威嚇し続ける。それから、再び逃げ出すのだった。このようにして、追走劇は長い間続いた。そして、時刻にして夜明け前の三時頃、街は深い沈黙が覆っていた。モルグ街の裏路地を抜けるとき、そこの屋敷の四階にある、レスパニェ夫人の部屋の開いた窓から零(こぼ)れる灯(あか)りの煌(きら)めきに、逃亡者の意識は釘付けになってしまった。建屋(たてや)に駆け寄って、獣(けもの)は避雷針を見つけるなり、信じられぬほどの敏捷性で駆け登り、鎧戸を掴んだのだった。鎧戸は開け放たれたまま、壁にぴったりと寄り沿っており、それを足場にして身を躍らせると、そのまま寝台の枕板(まくらいた)に跳び乗った。この一連の動作には一分もかからなかった。猩猩(オラン・ウータン)が部屋に侵入する際に蹴られた鎧戸は再び開くことになる。

 その頃、水夫の胸中では歓びと困惑が入り混じっていた。あの獣は自ら罠に入り込んだようなもので、とても逃げ出せるような状況ではない。だからこそ、これで、あの野獣を再び捕まえられるのだという強い期待を抱いていた。逃げ出すには避雷針を使う他なく、降りてくる途中を狙って捕まえられるかもしれない。それとは別に、あの獣が屋敷の中で何をしでかすか分からない、というのが大きな不安の種だった。そうした懸念に駆り立てられて、水夫は逃亡者の追跡をなおも続けたのである。避雷針を登るのは、水夫にとっては特に難しいことではない。だが、窓がある高さまで登ったのは良かったが、肝心の窓は左手の遥か離れたところにある。水夫の道程(みちのり)は、そこで閉ざされてしまった。それでも、どうにかして身を乗り出し、部屋の中を少し覗き見る程度までは首を伸ばせた。そして部屋を覗いた途端、恐怖のあまり掴んでいた手を離して、落ちてしまいそうになった。そして、まさにその時、あの悍(おぞ)ましい叫び声が夜の闇に響き渡り、モルグ街の住民を宵(よい)の微睡(まどろみ)から目覚めさせたのであった。寝間着に身を包んだレスパニェ夫人とその娘は、前述の鋼鉄製(くろがねづくり)の金庫を車輪で部屋の中央まで運び、どうやら書類の整理に勤(いそ)しんでいたらしい。金庫の扉は開け放たれ、中身は周りの床に散らばっていた。二人の犠牲者は窓に背を向けて腰を下ろしていたに違いない。つまり、獣が侵入してから悲鳴が上がるまでには幾何(いくばく)か時間があったことから、すぐには気付かれなかったものと思われる。鎧戸が音を立てたのも、風で自然に鳴ったものだと思い込んでいたのかもしれない。

 水夫が部屋を覗いたときには、(櫛(くし)で梳(す)いていた最中だったのだろう、その解(ほど)けた)レスパニェ夫人の髪を、巨大な獣が掴み上げて、まるで床屋の真似事でもするように、老婦人の顔の周りで剃刀を振り回していた。娘の方は気を失っていたのだろう——倒れ伏して、少しも動いていなかった。(頭皮から髪が引き千切(ちぎ)られる間)老婦人は叫び声を上げ、必死で抵抗をするのだが、おそらく楽しく真似事遊びをしていた森林猩猩(オラン・ウータン)を刺激してしまい、憤怒の色へと変えてしまった。筋肉質の太い腕は、その迷いの無い一振りで、老婦人の頭と胴体をほとんど切り離してしまった。そして、舞い散る血飛沫(ちしぶき)を見て、何か煽(あお)り立てられるものがあったのだろう、怒りは狂乱へと姿を変えていく。歯を軋(きし)ませ、瞳に焔火(ほのお)を燃え上がらせた獣が、若き娘の身体に跳び掛かり、その恐ろしい鈎爪をその喉元に深く突き立てる。そして娘の息が絶えるまで、掴んだまま離すことはなかった。この時、所在の無い野生の眼差しが向けられたのは、寝台の枕板越しから辛うじて見える、恐怖で強張(こわば)った飼い主の顔だった。きっと鞭の恐ろしさは忘れていなかったはずだ。主人の姿を見た途端、獣の激しい怒りはすぐに恐怖へと姿を変えた。罰せられることを自覚した獣は、己の血塗(ちまみ)れの所業をどうにか隠したいと思い、昂(たかぶ)る神経に悶え苦しみながら部屋の中を跳び回るばかりだった。動き回る度に調度品を倒しては壊し、そして寝台から寝具を引き剝がした。ついには、最初に娘の亡骸を掴んで、発見された時と同じように、煙突の中に押し込み、それからすぐに老婦人の亡骸を、頭から窓へ投げ込んだ。


 壊し尽くした重い肉塊を抱えながら、猿猴(サル)が窓に近付いた。その時、水夫は怖(おそ)れ慄(おのの)いて縮み上がり、避雷針に身を寄せた。そして、這(は)い降りるというより滑り落ちるようにして、一目散に家へと逃げ帰った——この虐殺が齎(もたら)す結果を思い描き、怯(おび)えきってしまっていたのだ。そして、恐怖のあまり、森林猩猩(オラン・ウータン)の行く末について気に掛けねばならぬことは全て、狂喜(よろこ)んで棄て去ってしまったのだった。屋敷に突入した一団が階段で耳にした言葉は、このフランス人の恐怖と戦慄の叫びと、野獣の悪魔のような喚(わめ)き声が入り混じったものだった。


 ××××××


 さて、ここに付け加えることは何も無い。扉が破られる直前に、森林猩猩(オラン・ウータン)は避雷針を伝って部屋から逃げ出したはずだ。獣が潜(くぐ)った際に、窓は閉じられたのだろう。その後、飼い主の手によって捕らえられ、パリ動植物園《ジャルダン・デ・プラント》で相当な高値で取引されたそうだ。そして、我々が警視庁捜査局で事情を説明すると(デュパンの申し添えのおかげもあったが)、ル・ボン氏は速やかに釈放された。ただ、警視総監殿について一言添えておくと、私の友人には好意的な態度を保ってくれてはいるが、今回の事件の成り行きに対しては不満な様子を隠しきれない様子だった。「各人、各自の務(つと)めにのみ精を出せば宜しかろう」と一言、二言、皮肉を漏らさずにはいられないらしい。


「言わせておけばいいさ」とデュパンは告げる。この男、返答の必要性すら感じていない様子だ。

「それにもっと喋らせた方が良い。あの善人の気休めになるだろうし、僕も満足だよ。なにしろ、相手の領分で打ち負かしてやったんだからね。とはいえ、今回の謎を解き損ねたのは、警視総監殿が思うほど不思議なことじゃない。正直に言うと、我らが警視総監殿は深い思索を巡らせるには、どうにも狡猾な道に頼りすぎてしまったのだ。彼の知恵には一本芯の通った『花蕊(はしら)』が無いんだ。盗人の女神ラウェルナの絵のように、頭ばかりが大きくて、身体が無い……良く言えば、鱈(たら)のように頭と肩ばかりが厳(いか)つくなってしまったわけだ。とはいえ、とどのつまり、善良な生き物なのさ。僕が特に気に入っているのは、彼の見事な偽善の一手だ。その一手で以て、世間から知恵者という評判を得ている。あの警視総監殿の手腕をフランスではこう呼ぶのさ。『実在するもの(ドゥ・ニエ・)を否定し(スキエ)、実在しない(エ・ドゥ・)ものを尤も(ゼクスプリケ・)らしく語る(スキネパ)』とね」(※)

(※原註)ジャン・ジャック・ルソー著『新悲恋譚(ヌーベル・エロイーズ)』


原著:「The Murders in the Rue Morgue」(1841)

原著者:Edgar Alln Poe (1809-1849)

(E. A. Poeの著作権保護期間が満了していることをここに書き添えておきます。)

翻訳者:着地した鶏

底本:「The Works of Edgar Allan Poe: The Raven Edition」(Project Gutenberg)所収「The Murders in the Rue Morgue」

初訳公開:2026年9月21日

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