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灰と霧  作者: ルーシー・オルコット
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7話:元凶と交渉

数日前に王都を襲った暴動の爪痕は、未だ生々しく残っていた。 割れた窓ガラス、焼けた商店の煤けた匂い、そして石畳にこびりついた乾いた血の跡。王都を覆う空は、人々の心情を映したかのように重く垂れ込めた鉛色であり、時折吹き抜ける風が、焦げ臭い灰の匂いを王宮の中へと運んでいた。


王宮の中枢にある「青玉の間」。 かつては王国の重要事項を決定する神聖な場所であったが、今の空気は葬儀のそれよりも重く、息苦しいものだった。


円卓の上座に座る国王バートラムは、もはや威厳ある君主の姿ではなかった。頬はこけ、目の下の隈は濃く、整えられていた髭には白いものが目立つようになっている。彼は震える手で水の入ったグラスを持ち上げようとしたが、指先の力が定まらず、カチカチとグラスと歯がぶつかる音だけが静寂に響いた。


対照的に、その正面に座る男は、まるで一枚の絵画から抜け出してきたかのように完璧な佇まいを見せていた。 公爵ローレンス・オルコット。 彼は喪服を思わせる漆黒の公爵服に身を包み、襟元のクラバットには一点の汚れも皺もない。

彼は背筋を伸ばし、表情筋一つ動かさず、ただ静かに目の前の憔悴しきった王を見つめていた。その瞳は、感情を持たない深海の色をしていた。


部屋の四隅には近衛兵が控えているが、彼らもまた、公爵の放つ圧倒的な静の威圧感に飲まれ、直立不動のまま冷や汗を流している。


「……ローレンス公爵」


王バートラムが、ようやく口を開いた。その声は掠れ、乾いていた。


「急な呼び出しに応じてくれたこと、感謝する」


「陛下よりの召喚とあらば、いかなる時でも馳せ参じるのが臣下の務めでございます」


ローレンスは流れるような所作で一礼した。その言葉は丁寧だったが、声音には温度がなかった。


「単刀直入に言おう。……王都は限界だ」


王は苦渋に満ちた顔で言った。


「市場から物が消えて久しい。民は飢え、先日のような暴動が再び起きるのも時間の問題だ。調査によれば、この物流の停滞は、公爵家が管理する港湾および商会連合の動きに起因しているとのこと。

 ……王命をもって命じる。速やかに物資の流れを以前の水準に戻し、王都の危機を救え」


王は必死に虚勢を張り、「王命」という言葉に力を込めた。それが、彼に残された唯一の武器だったからだ。


しかし、ローレンスは眉一つ動かさなかった。彼は手元のティーカップに視線を落とし、まるで茶の香りを楽しむかのように一呼吸置いてから、静かに答えた。


「陛下。それは大きな誤解でございます」


「誤解だと? 現に公爵領からの船が入ってこないではないか」


「ええ。ですが、それは私が止めているのではありません」


ローレンスは顔を上げ、王の目を真っ直ぐに見据えた。


「商売とは、水と同じです。安全で、利益のある場所へと流れる性質を持っております。……残念ながら、現在の王都へ向かう航路は、商人たちにとって『死の川』に等しいのです」


「どういう意味だ」


「海賊です」


ローレンスは淡々と言った。


「近年、沿岸部における海賊の活動が極めて活発化しております。彼らは王都へ向かう輸送船を狙い、略奪を繰り返している。私の管理下にある商会からも、積み荷を奪われたとの報告が相次いでおります。船主たちは恐怖し、保険組合は王都行きの船への保険料を十倍に引き上げました。これでは、誰も船を出せません」


王は激昂し、テーブルを拳で叩いた。


「嘘をつくな! そんな大規模な海賊被害など、海軍からは報告されていないぞ!」


「海軍?」


ローレンスは微かに口角を上げた。それは嘲笑の形をしていた。


「陛下の海軍は、予算不足で満足に哨戒活動もできていないではありませんか。彼らが見ていない場所で、現実は動いているのです。……それに、海賊だけではありません。陸路もまた、北方の異民族の南下により極めて危険な状態にあります」


ローレンスは指を組み、諭すように続けた。


「商人たちは命が惜しいのです。危険な王都へ向かうよりも、安全で、しかも高値で買い取ってくれる辺境伯領や内陸部へ商品を流すのは、至極当然の経済活動。これを『王命』で禁じることは、自由経済への不当な介入となります」


「ぬ、ぬう……」


王は言葉に詰まった。 ローレンスの主張は、すべて「外部要因」と「経済原則」で構成されていた。「私が止めた」とは一言も言っていない。「環境が悪化したから、商人が逃げた」と言うのだ。その環境悪化の原因を作ったのが誰であるかは明白だが、証拠がない。


「海賊も、異民族も、元を正せば王国の治安維持能力の低下が原因。……つまり、すべては王家が招いた結果でございます」


ローレンスは冷たく言い放った。


「公爵家は、陛下に抗議するつもりも、反逆するつもりもございません。ただ、リスクを回避し、利益を追求するという商人の論理に従っているだけです。私個人の力で、経済という巨大な怪物を御することなどできませんよ」


それは完璧な詭弁だった。だが、今の王家にはそれを覆す力がなかった。


「ローレンス……お前は、この国を滅ぼす気か」


王は絞り出すように言った。


「国を滅ぼす? とんでもない」


ローレンスは首を横に振った。


「私は国を守ろうとしているのです。腐敗した臓器を切り落とさなければ、身体全体が死んでしまう。……時には、痛みも必要でしょう」


その時だった。 バンッ! と激しい音がして、会議室の扉が乱暴に開け放たれた。


「戯言を言うな、ローレンス!」


怒号と共に飛び込んできたのは、別室での待機を命じられていたはずの王太子ヘンリーだった。 彼の姿を見て、王は息を呑んだ。 かつての輝くような王太子の面影はどこにもない。髪は振り乱れ、目は充血し、衣服のボタンは掛け違えられている。腰には帯剣しており、その手は白くなるほど強く柄を握りしめていた。


「ヘンリー! 控えろと言ったはずだ!」


王が叫んだが、ヘンリーの耳には届いていなかった。彼は一直線にローレンスへと歩み寄り、その目の前で立ち止まった。


「貴様が裏で糸を引いているのは明白だ! 海賊だと? 笑わせるな! 貴様の私兵団が海賊に偽装して船を襲っているのだろう! 辺境伯への優遇も、すべては王家への当てつけだ!」


ヘンリーは唾を飛ばしながら叫んだ。


「これは復讐だ! 僕がルーシーとの婚約を破棄したから、その腹いせに王都の民を苦しめているんだ! 公爵ともあろう者が、なんと狭量で、なんと卑劣な!」


近衛兵たちが慌ててヘンリーを取り押さえようとしたが、ヘンリーは剣を半分ほど抜き放ち、彼らを威嚇した。


「触るな! 僕は王太子だぞ! この男は逆賊だ! 今すぐ捕らえて処刑すべきなんだ!」


会議室は騒然となった。 だが、その喧騒の中心にありながら、ローレンス公爵だけは、まるで別世界の住人のように静止していた。 彼は、目の前で喚き散らす王太子を一瞥もしなかった。彼の視線は、依然として玉座の王バートラムに固定されていた。


「……陛下」


ローレンスの声は、騒ぎの中でも驚くほど鮮明に響いた。


「私の娘、ルーシーは、殿下が掲げた『真実の愛』とやらに従い、一切の弁明も抵抗もせず、自発的に修道院へと入りました」


ヘンリーの動きが止まった。


「あの子は、公爵家の娘としての誇りを守るため、自ら身を引いたのです。……だというのに、王太子殿下は、ご自分の失策を棚に上げ、被害妄想に囚われて声を荒げられる」


ローレンスは、ここで初めてゆっくりと視線を動かし、ヘンリーを見た。 その瞳には、侮蔑すら通り越した、純粋な評価の色があった。それは、壊れた道具を値踏みするような、冷酷な眼差しだった。


「王太子殿下。私の管理下にある商人たちが、なぜ王都との取引を避けるか、本当の理由をお教えしましょうか」


ローレンスは静かに、しかし会場の全員に聞こえる声で言った。


「彼らは『感情的で、非論理的で、契約を軽んじる王族』との取引を、極めて高い商業的リスクだと判断しているのです」


「な……!」


「昨日まで是とされていた契約が、今日の王太子の気分一つで破棄される。忠実な臣下が、個人的な色恋沙汰のために断罪される。……そんな信用のおけない相手と、誰が真面目に商売をしますか?」


ローレンスは淡々と事実を突きつけた。


「殿下。貴方が未来の国王である限り、この国の経済的信用は地に落ちたままです。海賊よりも、異民族よりも、貴方という存在そのものが、商人たちにとっては最大のリスクなのです」


ヘンリーの顔が、怒りで紫色に変色した。 図星を突かれた屈辱と、公衆の面前で「リスク」扱いされた衝撃が、彼の理性を完全に焼き切った。


「き……貴様……! よくも! よくも僕を愚弄したな!」


シャキンッ! ヘンリーは剣を抜き放った。切っ先が震えながらローレンスの喉元に向けられる。


「逆賊だ! これは王家への反逆だ! 殺してやる! 僕の手で、正義の鉄槌を下してやる!」


「ヘンリー、やめろ!」


王バートラムが悲鳴のような声を上げて立ち上がった。 もしここで王太子が丸腰の公爵を斬れば、それは王家による公爵家への宣戦布告となる。正当防衛を大義名分に、公爵家の私兵団と辺境伯軍が王都になだれ込み、王家は一夜にして滅亡するだろう。


「衛兵! 何をしている! 王太子を取り押さえろ! 剣を取り上げろ!」


王の命令に、躊躇っていた近衛兵たちが一斉に動いた。 数人がかりでヘンリーに飛びかかり、その腕をねじ上げる。剣がカランと音を立てて床に落ちた。


「離せ! 無礼者! 父上、なぜ僕を止めるのです! こいつが元凶なんだ! こいつさえいなくなれば、マリアも泣かずに済むんだ!」


ヘンリーは獣のように暴れたが、屈強な兵士たちには敵わなかった。彼は床に押し付けられ、無様に引きずられていく。


「ローレンス! 覚えていろ! お前は悪魔だ! 王国を乗っ取る悪魔だ!」


ヘンリーの絶叫が、廊下の向こうへと遠ざかっていく。 最後には重い扉が閉ざされ、会議室には再び、重苦しい静寂が戻った。


王バートラムは、全身の力が抜けたように玉座にへたり込んだ。 額には玉のような脂汗が浮かび、呼吸は荒い。彼はハンカチで口元を抑え、震える声で言った。


「……公爵、すまない」


王の謝罪。それは、王家が臣下に完全に屈服したことを認める瞬間だった。


「ヘンリーの乱心……私の教育不足だ。どうか、この無礼を許してほしい。彼には厳重な処罰を与える」


ローレンスは衣服を整えることもなく、変わらぬ姿勢で座っていた。剣を突きつけられた恐怖など、微塵も感じさせない。


「陛下。謝罪など不要でございます」


ローレンスは立ち上がった。


「殿下のご乱心は、今の王国の混乱を象徴しておられるようでお気の毒です。……しかし、これで明らかになりましたな」


「何がだ……?」


「感情に任せた政治が、いかに脆く、危険であるかということです」


ローレンスは一礼した。その所作は完璧で、つけ入る隙がない。


「公爵家は、王家の決定に、表面上は従います。……しかし、先ほど申し上げた通り、経済の流れを変えるには、それ相応の『信頼回復』が必要です。殿下があのような状態では、商人たちを説得するのは……極めて困難でしょう」


「待ってくれ、ローレンス!」


王が縋るように手を伸ばした。


「では、どうすればいい! どうすればお前は納得するのだ! ヘンリーを処罰すればいいのか? 望みは何だ!」


ローレンスは足を止めたが、振り返ることはなかった。 背中越しに、冷ややかな声だけが投げかけられた。


「私が納得するかどうかではありません。市場が納得するかどうかです。……王家が、再び信用に足る存在であることを、行動で示していただきたい。それまでは、物資の流れは今のままでしょう」


扉が開けられ、ローレンスは会議室を後にした。 彼の足音は、王宮の長い廊下にカツ、カツと響き、やがて聞こえなくなった。


残された王バートラムは、両手で顔を覆った。 「行動で示せ」……。その意味を、彼は理解していた。 それは、ヘンリーを切り捨てろという要求だ。愛する息子を、王位継承者という地位から引きずり下ろし、社会的に抹殺しろと言っているのだ。


「陛下……」


側近の宰相が、青ざめた顔で囁いた。


「これで、公爵との関係修復は不可能です。公爵は、王家の謝罪を受け入れつつ、実質的には最後通牒を突きつけていきました。我々は……生命線を握られたまま、生殺しにされます」


王は小さく頷いた。 窓の外からは、再び風の音が聞こえてくる。それは王国の終わりの歌のように聞こえた。


「ヘンリー……。お前の軽率な愛と正義が、王家を、そしてこの国を終わらせたのだ」


王の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは王としての悔恨か、父としての悲哀か。


一方、会議室から連行されたヘンリー王太子は、自室に押し込められていた。 衛兵たちは王の命令により、扉の外から鍵をかけ、厳重な監視体制を敷いた。


「開けろ! ここから出せ!」


ヘンリーは扉を拳で殴りつけ、蹴り飛ばした。だが、分厚いオーク材の扉はびくともしない。 彼の掌は破れ、血が滲んでいるが、痛みなど感じていなかった。彼の心を満たしているのは、公爵へのどす黒い憎悪だけだった。


「ローレンス……! 許さないぞ……! 僕を愚弄し、マリアを苦しめ、国を奪おうとする逆賊め! 絶対に殺してやる!」


部屋の隅には、マリアがいた。 彼女は昨夜からこの部屋に閉じ込められており、ヘンリーが会議室へ飛び出していった間も、恐怖に震えながら待っていたのだ。 戻ってきたヘンリーの狂気じみた姿を見て、彼女はさらに小さくなった。


「ヘンリー様……」


マリアがおずおずと声をかけた。


「あ、あの……公爵様は、なんと……? 物流は戻るのでしょうか……?」


ヘンリーは血走った目でマリアを振り返った。


「戻るものか! あの男は悪魔だ! 僕を……次期国王である僕を、商売のリスクだと言ったんだ! お前との愛を、リスクだと言い放ったんだぞ!」


ヘンリーは近くにあった花瓶を壁に投げつけた。ガシャンという破壊音が、マリアの悲鳴と重なる。


「全部あいつのせいだ! あいつさえいなければ、僕たちは幸せになれたのに! なんで誰も僕の正しさを理解しないんだ!」


ヘンリーは頭を抱えて座り込み、うわ言のようにブツブツと呟き始めた。


マリアは、その姿を見て、心の底から凍りついた。 彼女を守ってくれるはずの王子様は、もうどこにもいない。そこにいるのは、憎悪と被害妄想に囚われた、哀れな一人の男だけだった。


「私……どうなっちゃうの……?」


マリアは自分の冷たい手を握りしめた。 王太子が自分を愛していないことを知っただけでなく、王国の破滅の責任を自分に転嫁されたことで、さらに深い孤独と恐怖に突き落とされた。公爵の復讐は、彼女の想像を遥かに超える形で、彼女の幸せな物語を粉々に打ち砕いていた。


その夜遅く。王宮の執務室。 国王バートラムは、一本の蝋燭の灯りの下で、震えるペンを走らせていた。 彼は決断した。王家が生き残るための、最後の、そして最も残酷な手段を。


「……ヘンリーを、廃する」


その呟きは、誰にも聞かれることなく、夜の闇に吸い込まれていった。 だが、その選択が事態を好転させることはない。公爵ローレンスは、王家がそのカードを切ることさえも予測し、次の一手を準備しているのだから。


王国の命運は、もはや風前の灯火であった。


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