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灰と霧  作者: ルーシー・オルコット
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6話:理想を愛した

王宮の最奥、王太子ヘンリーに与えられた私室は、かつては王国の未来を語るにふさわしい、光と希望に満ちた場所であった。 しかし今、この部屋を支配しているのは、腐敗した果実のような甘ったるく淀んだ空気と、逃げ場のない閉塞感だけであった。


窓には幾重にも重ねられた分厚いビロードのカーテンが隙間なく引かれ、昼間であるにもかかわらず、室内は墓所のように薄暗い。外界からの光を拒絶しているのは、王太子自身の意思だった。窓を開ければ、そこには彼が直視したくない現実である黒煙を上げる王都と、彼への呪詛を叫ぶ民衆の姿があるからだ。


部屋の隅にある燭台で、蝋燭が頼りなく揺れている。その不安定な灯りが、壁に巨大な影を投じていた。影の主は、王太子ヘンリーである。 彼は乱れた髪をかきむしりながら、部屋の中を亡霊のように行ったり来たりしていた。かつて貴婦人たちを虜にした美しいブロンドは脂で汚れ、整っていた顔立ちは極度の疲労と睡眠不足で歪んでいる。その瞳は血走り、どこか焦点が合っていなかった。


「……違う。何かが間違っている」


ヘンリーはブツブツと、うわ言のように繰り返した。


「僕は正しいことをしたはずだ。悪しき旧弊を打破し、真実の愛を選んだ。それは物語であれば、必ず称賛される結末のはずだ。なのに、なぜ……」


部屋の隅、高価な絨毯の上に、ボロ雑巾のような白い塊がうずくまっていた。 聖女マリアである。 昨日の暴動で民衆から石を投げられ、泥にまみれた彼女のドレスは、もはや本来の色を留めていない。頬には擦り傷があり、乾いた血がこびりついている。彼女は膝を抱え、小刻みに震えていた。


「ヘンリー様……」


マリアが、壊れた楽器のような掠れた声で呟いた。


「どうして、私たちがこんな目に遭わなければならないのでしょうか……。私は聖女なのに。あなたは王太子なのに。なぜ、誰も私たちを助けてくれないのですか?」


その言葉は、ヘンリーの神経を逆撫でするに十分だった。 彼は足を止め、ゆっくりとマリアの方を向いた。その目には、かつて彼女に向けられていた情熱的な愛の光はなく、あるのは獲物を見つけた野獣のような、昏い憎悪の炎だった。


「どうして、だと?」


ヘンリーの声は低く、地を這うような響きを持っていた。


「答えは明白だろう、マリア。……お前だ。お前がすべての原因だ」


マリアは弾かれたように顔を上げた。大きな瞳が見開かれ、困惑の色が浮かぶ。


「え……? 何を仰っているのですか、ヘンリー様。私が原因? そんな……私はただ、あなたの愛をお守りしたかっただけで……」


「黙れ!」


ヘンリーの怒号が部屋の空気を切り裂いた。彼は大股でマリアに歩み寄り、彼女を見下ろした。


「愛? 愛だと? そんな戯言を聞きたいのではない! 現実を見ろ! お前の軽率な行動、その浅はかな被害者意識、そして何より、お前自身の『無能さ』が、この王国を崩壊させたのだ!」


「ひっ……!」


マリアは悲鳴を上げ、後ずさりした。だが、壁に阻まれて逃げ場はない。


「ル、ルーシー様やセシリア様が、私に酷い嫌がらせをしたから……私は耐えていただけです! あなたが私を救い出してくださったんじゃないですか! 『君こそが僕の真実の相手だ』って……!」


「そうだ、救い出したさ! だがそれは、お前が『使える』と思ったからだ!」


ヘンリーは屈み込み、マリアの肩を乱暴に掴んだ。指が肉に食い込み、マリアが痛みに顔を歪める。


「聞け、マリア。俺が愛したのは、お前という中身のない女ではない。お前が持っていた『聖女』という肩書きだ! 法衣男爵の庶子でありながら、奇跡の力を持つ健気な少女……。

 その物語性が、腐敗した貴族社会を粛清し、俺を高潔な王にするための最高の旗印になると思ったからだ!」


ヘンリーの口から唾が飛び、マリアの顔にかかる。だが彼は構わずに続けた。


「公爵家と辺境伯家という、王家の目の上のたんこぶを排除するための大義名分として、お前を利用したんだ。……だが、どうだ? 蓋を開けてみれば、お前は何の役にも立たなかった!」


ヘンリーはマリアを突き飛ばした。彼女は無様に床に転がった。


「飢餓一つ癒せない! 暴動も止められない! 異民族が迫ってきても祈ることしかできない! 公爵の経済力と辺境伯の軍事力、その二つを天秤にかけてまで手に入れたのが、こんな役立たずの石ころだったとはな!」


マリアは床に這いつくばったまま、涙を流して首を振った。


「違います……私は悪くない……! 私をいじめた周りが悪いんです! ルーシー様が私を見下したから……セシリア様が私を脅したから……! 神殿がもっと力をくれないから! 民衆が愚かで、私の聖なる愛を理解しないからいけないんです!」


彼女の口から出るのは、相変わらずの他責の言葉ばかりだった。彼女にとって世界は、自分を愛するか、自分を害するか、その二種類しか存在しなかった。


ヘンリーは冷ややかな目で彼女を見下ろした。その目つきは、汚物を見るそれだった。


「まだ言うか。……思い出せ、マリア。あの卒業パーティーの夜、セシリアが言い放った言葉を」


ヘンリーは、呪文のようにその言葉を口にした。


「『ドレスのシミと一撃の重み』……。あの時は、負け惜しみだと思った。だが今ならわかる。あれこそが真実だったのだ」


ヘンリーは自分の手を見つめた。かつては剣を握り、王国の未来を背負うはずだった手は、今や恐怖と怒りで震えている。


「お前のドレスについたワインのシミなど、洗濯すれば落ちる程度の些事だった。だが、お前がそれを『許せない悲劇』として騒ぎ立て、俺がそれに乗っかった結果、どうなった? 王国の国境は破られ、民の血が大地を染めている。……洗っても落ちない、鮮血のシミだ」


「ヘンリー様……やめて……」


「お前はただの庶民上がりの小娘だ。王族の婚約者になるための器量も、覚悟も、教育も、何一つ持っていなかった。ただ『可哀想な私』を演じ、男の庇護欲を刺激することだけに長けた寄生虫だ!」


ヘンリーの言葉は、鋭利な刃物となってマリアの心を抉った。 彼女が信じていた「真実の愛」という名の幻想が、音を立てて崩れ落ちていく。


「そんな……酷いです……。私を愛してくれたのは、全部嘘だったの……?」


マリアは縋るようにヘンリーを見上げた。その瞳には、まだわずかな期待が残っていた。否定してほしい。これは悪い夢だと言ってほしい。


だが、ヘンリーは無慈悲に告げた。


「嘘ではない。理想を愛していたのは事実だ。……だが、現実のお前は、俺の理想を食い荒らす毒婦だった。それだけだ」


ヘンリーはマリアから背を向け、ベッドの端に力なく座り込んだ。 彼はもう、マリアを見ていなかった。彼の視線は虚空を彷徨い、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す。


「俺の王国が……公爵ごときに……俺は王になるはずだったのに……」


部屋に、重苦しい沈黙が降りた。 蝋燭の炎がパチリと爆ぜる音だけが響く。 同じ部屋にいながら、二人の間には、修復不可能な断絶の峡谷が広がっていた。愛は憎しみに、期待は軽蔑に変わり、かつて二人を結びつけていた燃えるような熱情は、冷たい灰となって床に降り積もっていた。


その頃、王宮の廊下では、王太子の私室の前を通りかかった側近たちが、声を潜めて立ち話をしていた。 分厚い扉の向こうからは、ヘンリーの怒号とマリアの嗚咽が漏れ聞こえてくる。


「……また始まったか」


一人の侍従が、嫌悪感を隠さずに眉をひそめた。


「王太子殿下のご乱心は、日に日に酷くなっていくな。昨日は花瓶を投げつける音が聞こえたぞ」


「聖女様も聖女様だ。『私は悪くない』と泣き叫ぶばかりで、事態を収拾しようという気概が全く感じられない。……やはり、あのお二人は『王器』ではなかったのだ」


別の文官が、ため息交じりに書類を叩いた。


「下級貴族たちの間では、もう王家を見限る動きが公然と始まっている。昨夜だけで、三つの家が公爵派への鞍替えを表明したそうだ」


「無理もない。公爵につけば、少なくとも食い扶持には困らないからな。王家にはプライドはあっても、パンがない」


「神殿長ニコル殿の動きも怪しいぞ。最近、王宮に顔を出さなくなった。沈みゆく船から逃げる準備をしているのかもしれん」


彼らの懸念は正鵠を射ていた。 王宮という権力の中枢は、今や腐り落ちる寸前の果実であり、そこに群がる虫たちさえも、次々と離れていこうとしていた。


国王バートラムの執務室。 王は、侍従長からの報告を聞き終えると、深い椅子に体を沈め、天井を仰いだ。


「ヘンリーとマリアの関係は、完全に破綻したか……」


王の声は枯れていた。


「愛の力で国を救うと言っていた二人が、互いを罵り合い、責任を押し付け合っているとは。……滑稽な話だ」


王は自嘲気味に笑った。 彼は、ヘンリーの廃嫡を考え始めていた。 精神的に不安定になり、民衆の支持を完全に失った王子を、これ以上王位継承者としておくことはできない。だが、廃嫡したとして、その先に希望はあるのか?


「公爵ローレンス……。お前は、ここまで計算していたのか」


王は呟いた。 公爵は、直接手を下すことなく、ただ状況を整えただけだ。物流を止め、支援を断つ。それだけで、未熟な愛と正義がいかに脆く崩れ去るかを、残酷な実験のように証明してみせたのだ。 王家の権威失墜は、公爵の描いたシナリオ通りに進んでいる。


一方、王都の大聖堂。 その奥にある豪華な神殿長室で、ニコルはグラス片手に窓の外を眺めていた。 ここからは、王宮の尖塔が見える。


「ふふっ、聞こえてくるようだぞ。王太子と聖女の悲鳴がな」


ニコルは上機嫌だった。 彼のもとには、王宮内の密偵から逐一報告が入っていた。ヘンリーがマリアを罵倒し、マリアが孤立している現状は、ニコルにとって好都合極まりなかった。


「王家は自滅する。ヘンリーはもう使い物にならん。だが……聖女マリアという『ブランド』は、まだ利用価値がある」


ニコルはグラスのワインを揺らした。深紅の液体が、蝋燭の光を反射して妖しく輝く。


「ヘンリーがマリアを捨てれば、マリアは完全に神殿に依存せざるを得なくなる。彼女を『王家の無能さに翻弄された悲劇の聖女』として演出すれば、民衆の同情を神殿に集めることができる」


ニコルの計算は、常に「いかにして神殿の、そして自分自身の権益を最大化するか」という一点に置かれていた。 王家が倒れても、公爵が実権を握っても、民衆の精神的支柱である神殿さえ無事なら、どうとでもなると彼は踏んでいた。


「公爵ローレンスも、王家とは金銭や地位で和解し、宗教的権威までは手出しできまい。私がマリアを傀儡として操り、公爵と交渉すれば、神殿は新たな支配体制の中で、より強固な地位を築けるはずだ」


ニコルは自分の策略に酔いしれていた。 だが、彼は致命的な見落としをしていた。 彼が相手にしようとしている公爵ローレンス・オルコットという男が、既存の「権威」や「常識」といったものを、いかに冷徹に、そして論理的に解体する力を持っているかを。


公爵にとって、神殿などというものは、利用価値があるうちは生かしておき、邪魔になれば躊躇なく切り捨てる、単なる「組織」に過ぎなかったのだ。


そして数日後。王都を覆う灰色の雲の下で、物語は決定的な局面を迎えようとしていた。 公爵邸の執務室で、ローレンスは一通の書状を前に、静かにペンを走らせていた。


「王家との交渉の機は熟した」


彼は呟いた。 王都の備蓄食料は尽きかけ、暴動は常態化し、王太子は狂気に陥った。 相手が完全に膝を屈する瞬間を見計らい、ローレンスは最後の一手を打つ準備を整えていた。


それは、王家を救済するためではない。 王家を完全に「去勢」し、オルコット家の傀儡として作り変えるための、冷酷な外科手術の開始であった。


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