5話:希望に飢える
王都の朝は、かつてのような希望の光ではなく、鉛色の絶望と共に訪れた。 石畳の路地には、夜の間に冷え切った遺体のように、うずくまる人々の姿が増えていた。彼らは皆、痩せこけ、虚ろな目で曇天を見上げている。
公爵家による「物流調整」が始まってから二週間。王都は、巨大な棺桶と化しつつあった。 市場からは食料が消え、わずかに残った小麦の価格は、平時の十倍にまで跳ね上がっていた。パン一斤が銀貨一枚。それは貧困層にとっては、数日分の稼ぎに匹敵する金額であり、もはや生きるための糧を手に入れることすら叶わぬ夢となっていた。
中央広場に面した老舗のパン屋「麦穂亭」の前には、夜明け前から長蛇の列ができていた。 寒風に震えながら並ぶ人々は、ボロ布のような衣服を纏い、その顔色は土気色をしている。誰も言葉を発しない。ただ、店の扉が開くその一瞬を、飢えた獣のような眼差しで待ち続けていた。
ギギィ、と重い音がして、店の扉が開いた。 店主が顔を出したが、その表情は苦渋に満ちていた。彼の後ろの棚には、焼き上がったパンが並んでいるが、その数はあまりにも少なかった。
「……すまない、皆さん」
店主は、か細い声で告げた。
「今日の販売は、これだけだ。小麦粉の在庫が……完全に底をついた。公爵領からの荷馬車が、今日も来なかったんだ」
その言葉は、凍りついた池に石を投げ込んだかのように、群衆の中に波紋を広げた。 絶望は、一瞬にして怒りへと変わった。
「ふざけるな!」
列の半ばにいた男が叫んだ。
「俺たちは昨日から何も食ってねぇんだ! 金ならある! なけなしの金をかき集めてきたんだ! パンを売れ!」
「無いものは無いんだ! 俺だって売りたいさ! でも材料が届かないんだよ!」
店主も涙ながらに叫び返した。 その時、群衆の中から鋭い声が上がった。
「王家は何をしているんだ!」
一人の男が拳を突き上げた。彼の目は、飢えと憎悪で異様にぎらついていた。
「王太子様は、聖女様を選んだんだろう? 聖女様には奇跡の力があるんだろう? だったら、なんで俺たちはこんなに腹を空かせてるんだ! 聖女の祈りでパンの一つも焼けないのかよ!」
その声は、乾いた藁に落ちた火種のように、瞬く間に燃え広がった。
「そうだ! 聖女がいるのに、なんで公爵様の機嫌を損ねるようなことをしたんだ!」
「辺境伯様もいなくなったって噂だぞ! 北から蛮族が攻めてきたら、誰が俺たちを守ってくれるんだ!」
「俺たちの命より、王太子様の恋遊びが大事だってのか!」
不満は怒号となり、怒号は暴力の衝動へと変わった。 誰かが石を投げた。ガチャン!という音と共に、パン屋の窓ガラスが砕け散る。それを合図に、理性を失った群衆が店になだれ込んだ。
「奪え! パンをよこせ!」
「俺たちの分だ!」
悲鳴と破壊音が広場に響き渡る。 暴動の火の手は、このパン屋だけにとどまらず、瞬く間に隣の商店、その隣の酒場へと延焼していった。 王都の至る所で、飢えた民衆が略奪者へと変貌し始めていた。
王宮の「西の塔」。 その高層にある窓から、ヘンリー王太子は眼下の王都を見下ろしていた。 いつもなら美しい街並みが広がるはずの場所に、あちこちから黒い煙が立ち上っている。風に乗って、ガラスが割れる音や、人々の怒号が微かに聞こえてくる。
ヘンリーの顔色は、死人のように蒼白だった。彼は窓枠を握りしめ、ガタガタと震えていた。
「嘘だ……こんなはずはない……」
彼の後ろに、マリアが立っていた。彼女もまた、恐怖に瞳を揺らしていた。
「ヘンリー様……あの煙は……」
「暴動だ」
ヘンリーは呻くように言った。
「民衆が……僕たちの民が、暴れている。なぜだ? 僕は正しいことをしたはずだ。悪意ある旧弊な貴族を排除し、純粋な君を選んだ。それは国を良くするための決断だったはずだ。なのに、なぜこんなことに……」
マリアは震える手で自分の胸元を押さえた。
「もしかして……私のせいですか? 私が、ルーシー様を追い出したから……みんな怒っているんですか?」
「違う!」
ヘンリーは振り返り、マリアを強く抱きしめた。それは彼女を安心させるためというより、自分自身の崩れそうな心を支えるためのようだった。
「君は何も悪くない! 悪いのは公爵だ! あいつが物流を止めたからだ! これは卑劣な陰謀なんだよ。君を悪者に仕立て上げるための、汚い罠なんだ!」
「でも……」
「大丈夫だ、マリア。僕が必ず君を守る。正義は必ず勝つんだ」
ヘンリーは繰り返したが、その言葉は空虚に響いた。彼の腕の中で、マリアの身体は冷たく硬直したままだった。
同時刻、王宮の大会議室。 そこは、戦場のような緊迫感に包まれていた。国王バートラムは玉座に座り、頭を抱えていた。彼の周りを、側近たちが慌ただしく行き交い、次々と最悪の報告をもたらしていた。
「陛下! 中央通りで商店の焼き討ちが発生! 衛兵隊だけでは鎮圧できません!」
「南門付近に貧民街の住人が集結中! 数は三千を超えます! 『パンをよこせ』と叫んでおります!」
「食料庫の備蓄は残りわずかです! 貴族への配給を優先すれば、市民への放出分はありません!」
王バートラムは、血走った目で財政卿を睨みつけた。
「どうなっているんだ! 公爵への説得はまだか! 物流を再開させろ!」
「使者は送っておりますが……公爵閣下は『海賊被害の調査中』の一点張りで、面会すら叶いません。これは明確な意思表示です。王家が音を上げるまで、締め続けるつもりです」
財政卿の声は絶望で掠れていた。 このままでは、王都は内側から崩壊する。暴徒が王宮の門を破るのも時間の問題だった。
「陛下……」
財政卿がおずおずと提案した。
「もはや、王家の力だけでは民の怒りを抑えきれません。……神殿に頼りましょう」
「神殿?」
「はい。神殿長ニコル殿に要請し、『聖なる施し』を行っていただくのです。神殿の権威と、聖女マリア様の奇跡があれば、一時的にでも民衆の関心を逸らし、暴徒を鎮めることができるかもしれません」
王は唇を噛んだ。神殿に借りを作ることは避けたかったが、もはや背に腹は代えられなかった。
「……すぐにニコル殿を呼べ。彼の力に縋るしかない」
神殿長ニコルが王宮に到着したのは、それから一時間後のことだった。 彼は王の要請を聞くと、深く頷き、慈悲深い聖職者の顔で言った。
「陛下、ご心痛お察しいたします。この混乱は、王家に対する試練であり、同時に、信仰なき民への警鐘でございましょう。神殿は全力を挙げて、迷える子羊たちを導きましょう」
ニコルの口調は穏やかだったが、その瞳の奥では冷徹な計算が走っていた。 (王家の失態による暴動……。これを神殿が鎮めれば、民衆の支持は完全に我々に移る。公爵の経済制裁すら、神殿の権威を高めるための舞台装置に過ぎん)
「ただし、陛下。ただ食料を配るだけでは足りません。民は『希望』に飢えているのです。聖女マリア様ご自身に、民の前に立っていただきましょう。彼女の聖なる光こそが、最高の鎮静剤となります」
その日の午後。王宮前の中央広場に、神殿の聖歌隊と神官たちの行列が現れた。 広場を埋め尽くしていた数千の群衆は、一瞬静まり返った。 神官たちは、神殿領で収穫された小麦で作られたパンを積んだ荷車を引いていた。その香ばしい匂いが、飢えた人々の鼻腔を刺激した。
そして、行列の中心には、純白の聖衣を纏ったマリアがいた。 彼女はヘンリー王太子にエスコートされ、特設の壇上に上がった。震える足を必死に隠し、彼女はニコルに言われた通りの「慈悲深い聖女」の微笑みを作った。
ニコルが両手を広げ、よく通る声で宣言した。
「王都の民よ! 鎮まりなさい! 神は汝らを見捨ててはおらぬ! ここに、守護聖女マリア様の愛と、神殿からの恵みをもたらした!」
「パンだ……!」 「食い物だ!」
群衆がどよめき、前に押し寄せようとする。神殿の衛兵が槍でそれを制した。
「まずは祈りを! 聖女マリア様の癒やしの光を受けよ!」
マリアはおずおずと前に進み出た。彼女は杖を掲げ、震える声で詠唱を始めた。
「……大いなる光よ、傷つきし者たちを癒やしたまえ。ヒール!」
彼女の杖から淡い光が放たれ、広場の前列にいた数人の怪我人である暴動で傷ついた者たちを包み込んだ。切り傷が塞がり、痛みが引いていく。 それは確かに魔法であり、奇跡の一端だった。
「おお、傷が治った!」 「聖女様だ! 本当に聖女様だ!」
一瞬、広場に歓声が上がった。ヘンリーは壇上で胸を張り、「見ろ、これが僕の選んだ聖女だ」と言わんばかりの表情を浮かべた。マリアもまた、人々の称賛の声に安堵し、表情を緩めた。
だが、その空気は長くは続かなかった。
「……で、パンは?」
誰かが低い声で言った。
神官たちが配り始めたパンは、確かに上質なものだった。だが、その量は圧倒的に少なかった。神殿領の収穫など、数十万の人口を抱える王都の需要に対しては、砂漠に撒く水滴ほどの量でしかなかったのだ。
数百個のパンは、瞬く間に配り尽くされた。 しかし、広場にはまだ数千人以上の飢えた人々が残されていた。
「おい、終わりかよ!」 「俺は貰ってねぇぞ!」 「子供が腹を空かせてるんだ! もっと出せ!」
群衆の失望は、期待が大きかった分だけ、より激しい憎悪となって跳ね返ってきた。
後方の群衆の中に、地味な身なりの男が紛れ込んでいた。彼は公爵家から送り込まれた扇動工作員だった。男は周囲の空気を読み取り、絶妙なタイミングで、腹の底から響くような大声を上げた。
「ふざけるな! たったこれだけか! 俺たちは見世物じゃねぇんだぞ!」
その声に、周りの男たちが同調した。
「そうだ! 傷が治ったって、腹は膨れねぇんだよ!」
「聖女様はいいよな! そんな綺麗な服を着て、丸々と太ってやがる!」
マリアは息を呑んだ。自分に向けられた言葉の棘に、身体が竦む。
「あいつのせいだ……。あいつが公爵様を怒らせたから、パンが無くなったんだ!」
工作員がさらに煽る。
「そうだ、あの女は聖女じゃねぇ! 王子をたぶらかして国を傾けた『魔女』だ!」 「魔女だ! 魔女を追放すれば、公爵様も許してくれるはずだ!」
「魔女!」「魔女!」「パンをよこせ!」
称賛の歓声は、瞬く間に呪詛の合唱へと変わった。 群衆の目は血走り、殺気を帯びていた。彼らは柵を押し倒し、壇上へと殺到し始めた。
「ひっ……!」
マリアは悲鳴を上げ、後ずさった。石が飛んできた。それは彼女の頬をかすめ、白い聖衣に赤い血の筋を作った。
「下郎ども! 控えろ! この方は未来の王妃だぞ!」
ヘンリーが剣を抜いて叫んだが、怒り狂った民衆には何の効果もなかった。むしろ火に油を注いだだけだった。
「王妃だと? 俺たちを飢えさせる王妃なんていらねぇ!」
「引きずり下ろせ!」
ニコルは顔色を変えた。 (まずい。これでは神殿まで巻き込まれる)
「撤収だ! マリア様をお守りしろ!」
ニコルは叫び、神官たちと共にマリアを囲んで王宮へと逃げ帰った。壇上には、空になったパンの籠と、民衆の憎悪だけが残された。
王宮に戻ったマリアは、自室のベッドでガタガタと震えていた。 頬の傷の手当ても拒み、ただ頭を抱えて泣きじゃくっていた。
「怖い……怖い……。みんな、私を殺そうとしていた……」
「マリア……」
ヘンリーが彼女の背中に手を置こうとしたが、マリアはビクリと身体を縮めた。
「ヘンリー様……私、魔女って呼ばれました。国を傾けた魔女だって……。私はただ、あなたにお慕い申し上げただけなのに。どうしてこんな目に遭うの?」
「許さない……!」
ヘンリーは拳を握りしめ、血が出るほど唇を噛んだ。
「これは暴徒化した愚民どもの妄言ではない。公爵の手の者が扇動しているんだ。マリア、君は悪くない。君は尊い聖女だ。僕が必ず証明してみせる!」
ヘンリーの言葉は熱を帯びていたが、マリアの心には届かなかった。 彼女が見たのは、公爵の陰謀という抽象的なものではなく、かつて自分に優しくしてくれた下町の人々が、鬼のような形相で石を投げてくるという、生々しい現実だった。
その夜、王宮にさらなる凶報が届いた。 財政卿ではなく、軍事卿が、全身煤まみれの伝令を連れて会議室に飛び込んできた。
「陛下! 北方より緊急報告です!」
伝令の兵士は、息も絶え絶えに報告した。
「異民族の大部隊が……南下を続けています! ガードナー辺境伯軍は沈黙を守ったまま……。王家派閥のパイロン男爵領、およびその周辺の村々が、略奪を受け壊滅しました!」
「なんだと……!」
王バートラムは椅子から崩れ落ちそうになった。
「男爵は……?」
「行方不明です。おそらくは……」
伝令は言葉を濁したが、その意味は明白だった。
その場に居合わせた中堅貴族の一人が、耐えきれずに叫び声を上げた。
「陛下! 私の領地もすぐ近くです! このままでは私の家族も領民も皆殺しにされます!」
「軍を! 直ちに軍を派遣してください!」
貴族たちが口々に叫ぶ。だが、王は力なく首を振ることしかできなかった。
「……金がないのだ。兵糧も、馬も……」
「金がない!? 聖女の衣装を作る金はあるのに、我々を守る金はないとおっしゃるのですか!」
一人の伯爵が、王に向かって吐き捨てるように言った。
「王家は、我々の命よりも、あの小娘の虚飾を優先した。……もはや、王家には期待できませんな」
その言葉を皮切りに、数人の貴族が無言で会議室を出て行った。彼らの足が向かう先は明白だった。公爵家、あるいは生き残りをかけて独自に辺境伯と交渉するためだ。
王家という船から、ネズミたちが逃げ出し始めていた。
神殿の奥の院。 神殿長ニコルは、苛立ちながら部屋を歩き回っていた。
「くそっ、あの無能な民衆どもめ。せっかくの演出を台無しにしおって」
彼は爪を噛んだ。 聖女マリアの人気を利用して権力を握る計画が、想定外の飢餓によって狂い始めていた。民衆は「癒やし」よりも「パン」を求めている。だが、神殿にはこれ以上の食料備蓄はない。
「こうなれば、もっと派手な奇跡が必要だ」
ニコルは呟いた。
「疫病だ。飢餓が進めば、必ず疫病が流行る。その時こそ、マリアの治癒魔法の出番だ。数千人を一度に救うような大規模な奇跡を演出し、民衆をひれ伏させるのだ」
彼はマリアの負担など一切考慮していなかった。彼女が魔力切れで倒れようと知ったことではない。神殿の権威さえ保てればそれでいいのだ。
その夜、王都は炎に包まれた。 暴徒と化した民衆は、王宮の門前に押し寄せ、松明を掲げて叫び続けた。
「魔女を出せ!」 「王家を倒せ!」 「パンをよこせ!」
王宮の衛兵たちが必死に門を押さえているが、その彼ら自身の顔にも、飢えと疲労、そして王家への疑念の色が浮かんでいた。
王宮のバルコニーから、王バートラムはその光景を眺めていた。 赤々と燃える炎が、王都の闇を焼き尽くそうとしている。それは、数百年にわたって続いてきた王国の繁栄が、灰燼に帰す光景に見えた。
「これが……私の代で終わるのか」
王は独り言ちた。 隣には誰もいない。側近たちも、家族も、皆それぞれの恐怖と絶望に囚われ、王の孤独を癒やす者はいなかった。
ヘンリーの部屋では、マリアがベッドの隅で耳を塞いでいた。 「魔女を出せ」という叫び声が、壁を越えて聞こえてくる。
「ヘンリー様……」
彼女は助けを求めてヘンリーを見た。だが、ヘンリーは窓の外を睨みつけ、ブツブツと公爵への呪詛を呟いているだけだった。彼の目は虚ろで、そこにマリアを気遣う優しさはもうなかった。
愛が現実の重みに押し潰され、ひび割れていく音が、暴動の喧騒の中に静かに響いていた。




