表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰と霧  作者: ルーシー・オルコット
5/14

4話:門は開かれた

王国の西端に広がるガードナー辺境伯領。 そこは、王都の人間が想像するような牧歌的な田園風景とは無縁の地であった。荒涼とした岩肌が露出する山々が連なり、北からの冷たく乾いた風が常に吹き荒れている。この地において、土地とは耕すものではなく、守るべき砦の土台であった。


領都の中心にそびえる黒岩城。その名の通り、黒い岩石を積み上げて築かれた無骨な城塞の門を、一隊の騎馬がくぐり抜けた。


「おかえりなさいませ、お嬢様!」


出迎えた古参の兵士たちが、槍の柄を地面に打ち付け、一斉に敬礼する。彼らの目には、王都を追放された令嬢への同情など微塵もない。あるのは、戦場から生還した戦友を迎えるような、力強い信頼の眼差しだけだった。


セシリア・ガードナーは馬から降りると、砂埃にまみれたマントを翻し、無言で頷いた。彼女の顔つきは、数日前の王都での夜会とは別人のように引き締まっている。


「父上は?」


「作戦司令室におられます」


セシリアはドレスに着替えることもせず、革鎧のまま城の回廊を大股で歩いた。石造りの廊下には装飾画など一枚もなく、あるのは歴代当主が使用した武具と、古びた戦勝旗のみである。


重い鉄扉を開けると、部屋の中央にある巨大な地図卓を囲み、数名の指揮官たちが険しい顔で議論を交わしていた。その中心に、一際大きな体躯の男がいた。 辺境伯カスパル・ガードナー。 顔の左半分には古傷が走り、その眼光は猛禽類のように鋭い。彼は娘の姿を認めると、議論を止め、短く手を上げた。


「人払いを」


指揮官たちが一礼して退出し、重い扉が閉まる音が響いた。静寂が戻った部屋で、カスパルは娘を抱きしめることもなく、ただ静かに言った。


「早かったな、セシリア。王都での茶番劇、聞き及んでいる」


「申し訳ありません、父上。私の力不足で、ガードナー家の名に泥を塗りました」


セシリアは直立不動で頭を下げた。だが、カスパルは鼻を鳴らした。


「泥? いや、お前が被ったのは泥ではない。王家の腐った脂だ。よくぞ斬り捨てて戻ってきた。あの場で泣いて慈悲を乞うような娘なら、私はお前を勘当していただろう」


カスパルは地図卓に視線を戻した。そこには王国の北西部全域が描かれており、赤い駒と青い駒が無数に配置されている。


「ヘンリー王太子は、我々を『不要』と断じた。王都の貴族どもは、我々が流す血のおかげでワインが飲めることを忘れたらしい。……ならば、思い出させてやるのが流儀というものだ」


カスパルは一枚の羊皮紙をセシリアに差し出した。そこには、オルコット公爵家の封蝋が押されていた。


「公爵ローレンス殿からの密書だ。内容はシンプルだ。『辺境伯領の産物を相場の三割増しで買い取る。代金は武器、火薬、そして保存食で支払う。ただし、王都へ向かう隊商の護衛は一切不要』とな」


セシリアは目を見開いた。


「それは……実質的な軍事支援、そして王都への物流封鎖への協力要請だな?」


「ああ。公爵は経済で王都を殺す気だ。我々には、そのための『舞台』を整えろと言っている」


カスパルは地図上の北端、国境線に沿って並べられた五つの青い駒を指差した。それは、長年王国を異民族の侵入から守ってきた「北方五砦」を示していた。


「セシリア。お前の帰還祝いだ。この五つの砦から、全守備隊を撤収させろ」


「撤収……か? しかし、それでは防衛線に穴が開くだろう」


「穴を開けるのではない。扉を開け放つのだ」


カスパルは無造作に、地図上の青い駒をすべて払い落とした。駒が床に転がり、乾いた音を立てる。


「王家からの支援金は、ここ数年滞っている。砦の維持費は莫大だ。王家が我々を『騎士』ではなく『田舎の番犬』扱いするなら、番犬は餌をくれぬ飼い主のために吠えたりはしない。……砦を破却し、放棄する。これは『財政難によるやむを得ない軍縮』だ」


セシリアの口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。


「承知した。王都の皆様に、国境の風通しの良さを体験してもらうとしよう」


数日後。王都の王宮、「軍議の間」。


早馬でもたらされた一通の報告書が、爆弾のように会議室の空気を吹き飛ばした。 国王バートラムは、震える手でその羊皮紙を握りしめていた。


「『北方防衛ラインの維持が困難となったため、本日をもって第一から第五までの砦を放棄、機能を停止する』だと……? カスパルは何を考えている! 正気か!」


王の絶叫に、同席していた軍事卿が、脂汗を流しながら地図を広げた。


「へ、陛下。これは極めて深刻な事態です。北方五砦は、山脈の切れ目を塞ぐ栓のような役割を果たしておりました。これがなくなれば、北の荒野に住む騎馬民族『グル族』や、武装野盗団が、何の障害もなく雪崩れ込んでまいります!」


ヘンリー王太子が、顔を真っ赤にしてテーブルを叩いた。


「裏切りだ! これは王家に対する明確な反逆行為だ! ガードナー辺境伯を捕らえろ! 父上、すぐに討伐軍を!」


王の隣で、マリアがおろおろとヘンリーの袖を引いた。


「ヘンリー様、落ち着いて……。きっと何かの間違いですわ。話し合えば……」


「間違いなものか! 奴らは僕たちを脅しているんだ!」


軍事卿は首を横に振った。


「討伐軍など不可能です、殿下。辺境伯軍は王国最強の精鋭。しかも彼らの本拠地は天然の要害です。攻め落とすには王軍の五倍の兵力が必要ですが、今の我々にそんな余力はありません」


「じゃあどうするんだ! このままでは奴らが王都に攻め込んでくるぞ!」


「いえ、辺境伯は攻めてきません」


軍事卿は、震える指で地図上の一点を指し示した。


「ご覧ください。辺境伯の居城『黒岩城』は、街道から外れた高地にあります。砦がなくなって異民族が南下した場合、彼らは堅固な城をわざわざ攻めたりはしません。彼らが狙うのは、もっと略奪しやすく、豊かな土地……すなわち、ここです」


軍事卿の指が、辺境伯領の南東に位置する平野部をなぞった。


「ここは、王家派閥に属する中小貴族たちの領地です。辺境伯という盾を失った彼らは、裸で狼の群れに放り出されたも同然。……辺境伯は、異民族の矛先を、意図的に王家派閥の領地へと誘導したのです」


「なっ……」


王バートラムは言葉を失い、玉座に崩れ落ちた。 自らの手は汚さず、敵を利用して王家の支持基盤を破壊する。それはあまりにも合理的で、悪魔的な戦略だった。


「即座に王軍を北へ派遣せよ! 異民族を食い止めるのだ!」


王が叫んだが、答えたのは重苦しい沈黙だった。 財政卿が、死人のような顔色で一歩進み出た。


「陛下……無理です」


「何が無理なものか! 国の一大事だぞ!」


「金が……ありません。公爵による経済封鎖で、税収は激減しております。兵を動かすための食料も、馬の飼料も、武器の修繕費も、どこにもないのです。王都の市場価格は五倍。兵站を維持するだけで、国庫は六日で空になります」


「そんな……」


八方塞がりだった。 公爵が首を締め、辺境伯が腹を刺す。二つの報復は、見事に連動していた。


ヘンリーが焦燥に駆られ、狂ったように叫んだ。


「神殿だ! 神殿長ニコルに頼め! マリアの聖なる力があれば、蛮族など恐るるに足りないはずだ! そうだろう、マリア!」


話を振られたマリアは、ヒッと息を呑んだ。 彼女の顔から血の気が引いていく。


「わ、私……?」


「そうだ! 君は守護聖女だ。君が戦場に立ち、光を放てば、蛮族どもは恐れをなして逃げ出すはずだ。君の愛で、兵士たちを鼓舞するんだ!」


ヘンリーの目は、現実を見ていなかった。彼は物語の中の英雄のように振る舞おうとしていたが、その要求はマリアにとって死刑宣告に等しかった。 彼女の持つ「聖女の力」とは、小さな傷を癒やしたり、疲労を回復させたりする程度のものだ。数千の騎馬兵が押し寄せる戦場で、何ができるというのか。


「む、無理です……ヘンリー様。私には、そんな力は……」


「何を言っているんだ! 君は聖女だろう? 僕が認めた聖女だろう! できないはずがない!」


ヘンリーの叱責に、マリアは震え上がり、ただ涙を流して首を振るしかなかった。


王バートラムは、頭を抱えて呻いた。


「……まずは、使者を送れ。辺境伯に、砦の再建を命じるのだ。どんな条件でもいい、話し合いに応じさせろ」


数日後。辺境伯領の入り口にある関所。 王家の紋章を掲げた豪華な馬車が、立ち往生していた。


王の勅命を帯びた使者の男爵が、顔を真っ赤にして関所の兵士に怒鳴り散らしている。


「無礼者! 私は国王陛下の名代であるぞ! 直ちに道を開けろ!」


関所を守る兵士たちは、微動だにせず、冷ややかな視線を使者に向けていた。彼らの装備は真新しく、十分に手入れが行き届いている。公爵家からの支援物資が潤沢にある証拠だった。


隊長格の兵士が、面倒そうに鼻をほじりながら答えた。


「何度言えばわかるんだ。領主様は現在、領内の『害虫駆除』で多忙を極めておられる。王都からの急な来客に対応する暇はない」


「害虫だと!? 国王の使者を何だと思っている!」


「害虫とは、もちろん領内に入り込んだネズミのことさ。……ああ、それと、領主様からの伝言だ。『王都からの軍事支援物資と滞納された補助金が全額支払われるまで、王家とのいかなる交渉も行わない』とな」


「なっ……! そんな金、今の王家にあるわけがないだろう!」


「ならば、帰れ。ここは戦場に近い。あんたのような綺麗な服を着た人間がうろついていると、流れ矢に当たるかもしれんぞ?」


兵士たちが一斉に槍を構え、威嚇の音を鳴らした。 使者は悲鳴を上げ、逃げるように馬車を走らせた。


そして、悪夢は現実となった。


北方五砦が放棄されたという情報は、風よりも速く北の荒野を駆け巡った。 「南の豊かな土地への扉が開いた」 その知らせを受けた異民族「グル族」の騎馬隊と、それに乗じた武装野盗団は、雪崩を打って南下を開始した。


彼らは辺境伯の堅固な領地を巧みに避け、防御の手薄な、王家派閥の中小貴族領へと殺到した。


とある子爵領の村。 平和だった農村は、一夜にして地獄絵図と化した。 夜明けと共に現れた騎馬の群れは、畑を踏み荒らし、穀物庫を強奪し、家に火を放った。


「助けてくれ! 誰か!」


「騎士様は! 王軍は来ないのか!」


村人たちの悲鳴と、燃え盛る炎の音が交錯する。 領主の館に逃げ込んだ子爵は、窓から燃える村を見て、震える手で王都への手紙を書いていた。


「辺境伯の軍が動かない! 奴らは高台から見ているだけだ! 陛下、王太子殿下、助けてください! 我々を見捨てないでください!」


しかし、その手紙が王都に届く頃には、館もまた炎に包まれているだろう。


王都の王宮には、連日、悲痛な報告が雪崩れ込んでいた。


「バクスター男爵領、壊滅!」


「ランドール伯爵領にて、大規模な略奪発生! 難民が街道に溢れています!」


「王軍の派遣はまだですか! このままでは全滅です!」


会議室で報告を聞くたび、王家派閥の貴族たちの顔色は蒼白になり、やがてそれは王家への不信と怒りへと変わっていった。


「王家は、私たちを守る力がないのか?」


「辺境伯を怒らせたせいで、私たちが生贄にされたんだ」


「聖女マリア? あんな小娘のために、我々の財産と領民が灰になっているのか!」


王バートラムは玉座の上で小さくなっていた。 彼は理解し始めていた。ヘンリーの「愛」を守るという個人的な感情論が、国家の安全保障という土台を破壊してしまったことを。


一方、辺境伯領の北端。 かつて「第三砦」と呼ばれていた場所は、いまや瓦礫の山と化していた。 爆破された城壁の残骸の上に、セシリア・ガードナーは立っていた。


吹き荒れる風が、彼女のマントを激しく叩く。 眼下には、遥か南の平野から立ち上る黒煙が見えた。それは、王家を信じた者たちが流す血の狼煙だった。


「ひどい光景だな」


背後から父カスパルの声がした。 セシリアは振り返らずに答えた。


「ああ。だが、必要な光景だ」


「同感だ。痛みを知らぬ者に、守りのありがたみはわからん。奴らは長年、我々が築いた堤防の内側で、安全を当然のものとして享受してきた。堤防が壊れた時、どうなるか……高い授業料だが、払ってもらわねばな」


カスパルは懐から望遠鏡を取り出し、南の空を眺めた。


「公爵からの補給物資は潤沢だ。我々の領民と兵は、誰一人として飢えていないし、傷ついてもいない。王都がどうなろうと、ガードナーの領地だけは盤石だ」


セシリアは足元の瓦礫をブーツで踏み砕いた。 そこには、かつてこの砦を守るために散った兵士たちの魂が染み込んでいる。それを無駄にしたのは、辺境伯家ではない。王家だ。


彼女は遠く、霞んで見えない王都の方角に向かって、冷ややかに呟いた。


「王都は遠いな、ヘンリー殿下」


その声は、風音に混じって消えたが、呪詛のように鋭かった。


「貴方は言ったな。『愛と正義』と。では、見るがいい。貴方の愛が招いた結果を。貴方の正義が守れなかった現実を。……国境の戦場では、愛などという寝言は、矢一本すら防げないのだ」


セシリアは踵を返した。 彼女の背中には、一切の迷いも、王家への未練もなかった。


「行くぞ、父上。異民族どもが腹一杯略奪して帰る頃に、我々が出向いて『掃除』をする。恩を売るのは、それからで十分だ」


「ああ。王家が泣きついてくるまで、高みの見物といこう」


二人の影が、荒涼とした大地に長く伸びていた。 王都では食料価格の高騰による飢餓が始まり、地方では戦火が広がる。 王国は今、公爵と辺境伯という、自ら切り捨てた両翼によって、内側と外側から同時に食い破られようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ