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灰と霧  作者: ルーシー・オルコット
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3話:門は閉じられた

王都の中央市場は、かつて王国の心臓部とも呼べる場所であった。 夜明けと共に各地から荷馬車が集まり、新鮮な野菜の青い匂い、焼きたてのパンの香ばしさ、そして何より、商人たちの活気に満ちた怒号と笑い声が交錯する、生命力の塊のような場所だったはずだ。


だが、あの「断罪の夜」から数日が過ぎたこの朝、市場を覆っていたのは、まるで墓地のような陰鬱な静けさであった。


朝靄が立ち込める中、老舗の香辛料店「東方の風」の店主グスタフは、腕組みをして空っぽの陳列棚を睨みつけていた。

本来ならば、この棚には南方の島々から運ばれてきた黒胡椒、シナモン、ナツメグといった高価な香辛料が山積みされ、鼻孔をくすぐる異国の香りで満たされているはずだった。しかし今、そこにあるのは、うっすらと積もった埃と、売れ残った質の悪い乾燥ハーブの束だけだ。


「……また、来ないのか」


グスタフは独り言のように呟いた。その声は、朝の湿った空気に虚しく吸い込まれた。 彼の店の前を、顔見知りの仲買人が通りかかった。いつもなら大声で冗談を言い合う仲だが、男は目を伏せ、逃げるように通り過ぎようとした。


「おい、ちょっと待てよ!」


グスタフは慌てて声をかけた。


「港の様子はどうなんだ? 公爵領からの定期船は? 俺の注文したナツメグは、もう一週間も遅れてるんだぞ!」


仲買人は足を止め、困り果てたように帽子を脱いで頭を掻いた。


「勘弁してくれよ、グスタフの旦那。俺だって商売あがったりなんだ。港は今、完全に麻痺してる」


「麻痺してるだと? 嵐でも来たって言うのか」


「嵐ならまだマシさ。通り過ぎれば終わるからな。……税関だよ。公爵家が管理してる港の役人たちが、突然、検閲を強化し始めたんだ。『伝染病の疑いがある』とか『書類の書式が古い』とか、難癖をつけて荷下ろしを許可しない。船は何日も沖合で待機させられっぱなしだ」


隣で店を広げていた織物商が、会話を聞きつけて顔を出した。彼もまた、顔色が悪い。


「うちもだ。最高級の絹織物が、倉庫で眠ったままだそうだ。湿気でカビが生えちまうよ。……噂じゃ、公爵領の商会連合が、王都向けの出荷を意図的に止めてるって話だぜ」


「まさか。商人が商売を止めてどうするんだ。奴らだって損をするだろうに」


「それがな……」


織物商は声を潜め、周囲を警戒するように見回した。


「公爵様が、損失補填をしてるらしい。商会には一銭も損をさせないから、徹底的に王都を干上がらせろって命令が出てるって噂だ」


グスタフは背筋に冷たいものが走るのを感じた。 それが事実なら、これは一時的な物流の遅延ではない。王都という巨大な胃袋を標的にした、組織的な兵糧攻めだ。


市場の入り口付近では、王都の貴族屋敷に仕える料理人や執事たちが、血相を変えて走り回っていた。彼らは手に主君からの買い物リストを握りしめているが、その顔には絶望の色が濃い。


「おい、仔羊の肉はないのか! 今夜の晩餐会に必要なんだ!」


「申し訳ありません、北からの肉が入ってこなくて……」


「ワインは? 公爵領産の赤ワインがないと、旦那様がお怒りになる!」


「どこを探しても一本もありません!」


貴族の使用人たちの悲鳴のような声が、市場の空虚な空間に響く。 王都の貴族たちは、その優雅な生活の大部分を、オルコット公爵家が支配する交易ルートと、その領地からの産品に依存していた。公爵領は王国の物流の要衝であり、そこが閉じれば、王都は陸の孤島と化す。


「ルーシー様が修道院へ追いやられた報復か……」


誰かがぽつりと呟いた言葉が、波紋のように広がっていった。 一週間前まで、誰もがヘンリー王太子の「真実の愛」を噂し、夜会でのスキャンダルを面白おかしく語っていた。だが今、彼らの目の前にある現実は、愛や正義といった甘い言葉では腹が膨れないという、残酷な事実だった。


「感情に任せて公爵を怒らせた結果がこれかよ……」

「公爵閣下は、本気で王都を潰す気なんじゃないか?」


市場に漂うのは、商品不足への不満だけではない。王家に対する不信と、底知れぬ恐怖が、霧のように人々の足元に絡みつき始めていた。


王宮、「青の間」。 ここは普段、王と少数の側近だけで国政の重要事項を協議するために使われる会議室である。窓からは王都の美しい街並みが一望できるはずだが、今日は分厚いカーテンが閉ざされ、昼間だというのに重苦しい空気が充満していた。


円卓の上には、無数の報告書と、右肩下がりの線が描かれたグラフが散乱している。 財政卿は、ハンカチで額の汗を拭いながら、震える手で一枚の書類を読み上げていた。


「……以上が、今週の市場調査の報告です。公爵領およびその影響下にある地域からの物資搬入量は、先週比で八割減。特に香辛料、絹織物、貴金属、そして建築用木材などの高付加価値商品の入荷は、ほぼ完全に停止しております」


国王バートラムは、眉間を指で揉みほぐしながら、うめくような声を出した。


「八割減だと……? たった数日で、そこまで落ち込むものなのか」


「はい、陛下。公爵家の統制力は、我々の想像を絶しております。彼らは単に止めたのではありません。まるで水門を閉じるように、正確に、そして徹底的に物流を遮断しました。その結果、王都の物価は高騰。輸入品に関しては、すでに価格が三倍から五倍に跳ね上がっております」


「五倍……!」


王は絶句した。それはもはや、庶民の手が届く価格ではない。いや、下級貴族でさえ悲鳴を上げるレベルだ。


「さらに深刻なのは、税収への影響です。取引が成立しなければ、市場税も関税も入りません。このままでは、王家の金庫は一ヶ月も持ちません。衛兵への給与支払いにも支障が出る恐れが……」


バン!


突然、激しい音が響き渡り、報告が中断された。 円卓の一席に座っていたヘンリー王太子が、拳でテーブルを叩きつけたのだ。彼の顔は怒りで赤く染まり、その目は血走っていた。


「卑怯だ! なんて卑怯なやり方だ!」


ヘンリーは立ち上がり、父親である王に向かって叫んだ。


「これは明らかに、ローレンス公爵による嫌がらせです! ルーシーを修道院へ送ったことへの、陰湿な復讐だ! 王家の威信を傷つけただけでなく、罪のない王都の民を人質に取るなど、貴族の風上にも置けない!」


ヘンリーの隣には、真新しい聖女の法衣に身を包んだマリアが座っていた。彼女はヘンリーの剣幕に怯え、小さく肩を震わせていた。


「ヘンリー様……」


「父上、こんな逆賊を野放しにしておくわけにはいきません! 直ちに王家直属軍を公爵領へ派遣し、港と街道を強制的に解放させるべきです! 正義は我々にあります!」


王バートラムは、息子の短絡的な発言に頭痛を覚えた。


「座れ、ヘンリー」


王は疲労を滲ませた低い声で言った。


「軍を動かせば、それは内戦だ。公爵家は私兵団を持っている。しかも、彼らの装備は王軍よりも新しいという噂だ。戦闘になれば泥沼化し、周辺諸国につけ込まれる隙を与えることになる。……それに、大義名分がない」


「大義名分がないですって!? 公爵は王都を飢えさせているんですよ!」


「公爵は、『海賊の出没』や『疫病対策』を理由に通関を厳しくしているだけだ。書類上はな。あくまで『王都の安全のため』という建前を崩していない。これを武力で突破すれば、王家こそが法を破る暴君として糾弾される」


「そんな……屁理屈じゃないですか!」


ヘンリーは悔しさに唇を噛んだ。彼にとっての世界は、善と悪、正義と悪党という単純な二元論で構成されていた。公爵のような、法と経済を武器にした「見えない暴力」は、彼の理解の範疇を超えていたのだ。


マリアがおずおずと口を開いた。


「あ、あの……私のせい、なんでしょうか。私が、ルーシー様を……」


彼女の目には涙が溜まっていた。その儚げな姿を見て、ヘンリーの怒りの矛先は、公爵への憎悪とマリアへの庇護欲へと変わった。彼はマリアを抱き寄せ、優しく背中を撫でた。


「違う、マリア。君は何も悪くない。君は被害者なんだ。悪いのは、己の既得権益を守るために国を脅かす公爵だ。……大丈夫、僕が必ず君を守る。公爵の思い通りになんてさせない」


その光景を、財政卿は冷めた目で見つめていた。 (愛だの正義だので、腹は膨れんのだよ、殿下……)


彼は咳払いを一つして、さらに残酷な報告を続けた。


「……陛下、もう一つ、極めて懸念すべき情報が入っております」


財政卿は声を潜めた。


「公爵領の商会が、王都へ送るはずだった物資を、大量に『北』へ……ガードナー辺境伯領へ流しているとの報告です」


王の動きが止まった。


「……なんだと?」


「それも、市場価格を大きく下回る、破格の優遇価格で取引されているとのこと。武器、鉄鉱石、食料、さらには火薬の原料まで。辺境伯領は今、かつてないほどの物資で溢れかえっております」


王バートラムは背筋が凍る思いがした。 公爵は、単に王都を干上がらせているだけではない。王家のもう一つの脅威である辺境伯に餌を与え、その力を肥え太らせているのだ。


「公爵と辺境伯が……手を組んだというのか?」


「明確な同盟宣言はありません。しかし、これは経済的な連携です。公爵は辺境伯に対し、『王家に頼らずとも生きていける』という実利を提供しているのです」


王は沈黙した。 これは、感情的な喧嘩ではない。ローレンス公爵は、王家の権威という幻想を、経済という冷徹な現実で包囲し、窒息させようとしているのだ。王は初めて、自分が敵に回した男の恐ろしさを、骨の髄まで理解した。


同時刻、王都から離れたオルコット公爵領。 その中心都市にある公爵邸の執務室は、王宮の混乱とは対照的に、水底のような静けさに満ちていた。


ローレンス公爵は、窓際に置かれたチェス盤の前に座り、一人で盤面を見つめていた。 盤上には、黒のキング(王家)が、白のポーンやルーク(経済と軍事)によって完全に包囲されている局面が再現されていた。


ノックの音がして、商会長が入室してきた。彼は深々と一礼し、報告書を差し出した。


「閣下。王都向けの『輸出調整』、順調に進んでおります。王都の物価指数は、想定通り急上昇中。貴族たちからの悲鳴が、私どもの支店に殺到しております」


ローレンスはチェスの駒を指で弄びながら、報告書に目を通した。表情筋一つ動かさないその顔は、能面のようだ。


「……ぬるいな」


ローレンスは短く言った。


「まだ貴族たちは、隠し持った備蓄で食いつないでいる。本当に悲鳴を上げるのは、それが尽きる二週間後だ」


「はっ。……それと、辺境伯領への支援物資ですが、カスパル辺境伯より感謝の書状が届いております。『いただいた火薬と食料があれば、王都の方を向く必要がなくなった』と」


ローレンスの口元に、微かな、しかし残酷な笑みが浮かんだ。


「カスパル殿も、ようやく腹を決めたか。王家という首輪が外れた猛獣が、どちらを向いて牙を研ぐか……見ものだな」


「しかし閣下、よろしいのですか? 王都の民の中には、本当に飢えに苦しむ者も出てきております。これ以上締め付ければ、暴動が起きるやもしれません」


商会長の懸念に対し、ローレンスは盤上の黒のポーンを指で弾き飛ばした。駒が床に落ちて、乾いた音を立てる。


「民が飢えるのは、私のせいではない。無能な王と、愛に溺れた王太子が、国の舵取りを誤った結果だ」


彼の声には、一切の慈悲が含まれていなかった。


「王都は、このまま三ヶ月もてば良い方だろう。ヘンリー殿下が声高に叫ぶ『愛』とやらが、飢えた民衆の腹を満たせるかどうか……社会実験としては興味深いがな」


ローレンスは立ち上がり、窓の外を見た。彼の領地は豊かで、港には船が行き交い、市場は活気に満ちている。王都の窮状とは別世界だ。


「経済とは血流だ。それを握る私が、この国の心臓だ。王家など、ただの飾り物に過ぎん。……続けろ。王都が干からびて、私の足元に這いつくばるまで」


王都の夜は、いつもより暗く感じられた。 燃料の高騰により、街灯の数が減らされ、家々の窓から漏れる明かりも心なしか弱い。


下町にある古びた酒場「大猪の牙」では、仕事にあぶれた男たちが、薄められた安酒を煽りながら管を巻いていた。


「けっ、今日もパン屋に行列かよ。一つ買うのに銀貨二枚だと? ふざけてやがる」


「公爵様の船が来ないんだとさ。なんでも、王太子殿下が公爵令嬢を追い出したせいで、公爵様がお怒りなんだとよ」


「王太子様は何をやってるんだ。聖女様、聖女様って、女の尻ばかり追いかけてないで、俺たちの食い扶持をなんとかしろってんだ」


男たちの一人が、ドンとテーブルを叩いた。


「そうだ! 聖女様は奇跡の力があるんだろ? だったらパンの一つでも増やしてみせろよ! あの豪華なドレス一枚ありゃ、俺たち一ヶ月は腹一杯食えるぞ!」


「王家は俺たちを見捨てたんだ。聖女を守るために、国を売ったんだよ」


不満は、アルコールの熱と共に膨れ上がり、具体的な憎悪へと変わりつつあった。 「王家のせいだ」「聖女のせいだ」。その囁きは、やがて王都全体を飲み込む轟音となる予兆を孕んでいた。


貴族社会もまた、静かに、しかし確実に亀裂が入っていた。 公爵派閥に属する貴族の屋敷には、裏ルートを通じて公爵領からの物資がこっそりと届けられていた。彼らは豊かな食卓を囲みながら、公爵への忠誠を新たにする。 一方で、王家派閥の貴族たちは、高騰する物価に悲鳴を上げ、借金を重ね、やがてこう囁き合うようになる。


「王家についていても、破滅するだけだ……」


その夜、王宮の最上階にあるバルコニーで、国王バートラムは一人、暗く沈んだ王都を見下ろしていた。 かつては宝石箱のように輝いていた夜景が、今は歯が抜けたように暗い。


「……静かすぎる」


王は独り言ちた。 市場の喧騒も、宴の音楽も消えた。あるのは、不気味なほどの静寂だけ。 だが王は知っていた。この静寂は平和ではない。爆発する寸前の、張り詰めた沈黙なのだと。


「ローレンス……お前は、ここまでやるのか」


王は自分の震える手を握りしめた。 公爵の静かな経済封鎖は、確実に王国の首を絞めている。だが、王が恐れるべきはそれだけではなかった。


北の空。 そこには、経済の冬よりもさらに恐ろしい、血と鉄の嵐が近づいていることを、王はまだ知る由もなかった。


風が吹き抜け、王のマントを揺らした。その風は冷たく、まるで死神の息吹のように、王の肌を粟立たせた。

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