2話:草叢の蛇
王宮の謁見室。壁や天井の装飾にはふんだんに金箔が用いられ、王国の富と権威を象徴する場所であった。
普段であれば、ここは諸外国の使節や功績を上げた臣下を迎え入れる栄光の場であるが、今、この空間を支配しているのは、窒息しそうなほどの重苦しい沈黙と、冷や汗の匂いだけだった。
国王バートラムは、ビロード張りの玉座に深く沈み込むように座っていた。 一夜にして急激に老け込んだかのように、その頬はこけ、目の下には濃い隈が刻まれている。彼は額に手を当て、何度も浅い呼吸を繰り返していた。
(公爵令嬢ルーシーの修道院入り。辺境伯令嬢セシリアの即時帰還……)
頭の中で、昨夜の悪夢のような光景が反芻される。 息子である王太子ヘンリーが放った「解任」という言葉。それは単なる婚約破棄ではなく、王家を支える二本の巨大な柱を、自らの手でへし折る音に他ならなかった。
「陛下……」
側近の声が、張り詰めた糸のように鋭く響いた。王はビクリと肩を震わせ、虚ろな目を上げた。
「神殿長ニコル猊下が、お見えになりました。至急の謁見を求めておられます」
王は乾いた唇を舐め、力なく頷いた。
「……通せ。彼だけが、今の私の心の支えかもしれぬ」
重厚な扉が音もなく開き、神殿長ニコルが姿を現した。 彼は純白の法衣を身に纏い、その胸元には黄金で刺繍された聖印が輝いている。足音を立てずに絨毯の上を進むその姿は、まるで天上の世界から降り立った使者のように神々しく見えた。
彼の顔には、慈愛に満ちた穏やかな微笑みが浮かんでいる。だが、その灰色の瞳の奥底には、獲物の弱り具合を見極める鷹のような、冷たく計算高い光が潜んでいた。
ニコルは玉座の前に進み出ると、流れるような優雅な所作で片膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「陛下におかれましては、昨夜の心労、いかばかりかとお察しいたします。あの騒動……誠に痛ましいことでございました」
ニコルの声は、最高級の楽器のように心地よく、王の疲弊した心に染み渡った。
「聖女マリア様が受けられた心ない仕打ち。そして、それを正そうとしたヘンリー殿下の勇気ある行動。……しかし、世の俗人たちは、神の愛よりも己の利益や家柄を優先し、殿下の高潔な決断を批判していると聞き及びます。嘆かわしいことです」
王バートラムは、縋るような目つきでニコルを見つめた。誰かに自分の息子の行動を肯定してほしかったのだ。
「ニコル殿……そうか、神殿はヘンリーを支持してくれるか。公爵と辺境伯が動揺し、王家から離反しようとしている今、国が揺らぎかねん。
私は……どうすればよいのだ。ヘンリーの判断は、あまりにも性急すぎたのではないかと、不安でたまらないのだ」
王の声は震えていた。一国の王としての威厳はすでに崩れ落ち、そこにはただの怯える老人がいるだけだった。
ニコルは同情の色を表情に浮かべながらも、内心では嗜虐的な喜びを感じていた。 (落ちたな。王家の権威は地に落ち、王は判断能力を失っている。今こそ、神殿が長年待ち望んだ『種』を蒔く時だ)
ニコルはゆっくりと顔を上げ、諭すように語りかけた。
「陛下、ご安心ください。神殿は、神の代理人たる王家陛下の、絶対的な正義の味方でございます。しかし、陛下もご覧になった通り、オルコット公爵やガードナー辺境伯といった強大な力を持つ貴族は、その力ゆえに傲慢になり、時として神の意思にすら逆らおうとします」
「う、うむ……。彼らの態度は、確かに不遜であった」
「左様でございます。今こそ、彼ら俗世の貴族たちの不浄な影響力を削ぎ落とし、聖女マリア様の神聖なる力で王国の権威を再構築すべき時。
……そのためには、いくつか『神のご加護』を具体的な形にする必要がございます」
王は、藁にもすがる思いで身を乗り出した。
「どうすればよいのだ、ニコル殿。具体的に策を講じてほしい。神殿の知恵を貸してくれ」
ニコルは「待っていました」と言わんばかりに、懐から数枚の羊皮紙を取り出した。それはすでに用意されていた文書だった。
「まず第一に、マリア様の地位についてです。現在は単なる『副妃候補』、しかも男爵家の庶子という立場。これでは、公爵派閥の貴族たちから侮りを受けるのも無理はありません」
ニコルは一枚目の羊皮紙を王に差し出した。
「マリア様を、神殿が正式に認定する『国を導く守護聖女』として叙任し、王太子妃と同等、あるいはそれ以上の宗教的権威を持つ地位を与えるべきです。これにより、マリア様への批判や不敬は、即ち『神に対する冒涜』となります。いかなる大貴族といえど、神に弓引くことはできません」
王は文書を受け取り、その内容を目で追った。なるほど、と彼は思った。公爵家や辺境伯家からの報復を恐れていたが、「神の権威」という盾があれば、彼らも手出しできなくなる。
「確かに……。神殿だけでなく王国が認めた聖女という絶対的な地位があれば、貴族たちも口を噤むだろう」
「仰る通りです。神聖なる権威は、俗世の嫉妬に勝ります」
ニコルは微笑みを深め、間髪入れずに二枚目の羊皮紙を差し出した。
「次に、民衆の不安を取り除く策です。公爵家は王国の物流を握っております。彼らがへそを曲げ、王都への物資を止めるようなことがあれば、民は不安に駆られましょう」
王の顔色がさっと青ざめた。それが一番の懸念だった。
「それを防ぐために、神殿が動きます。王都周辺にある王家直轄領のうち、特に肥沃な農地の一部を『神殿領』として寄進していただきたいのです」
「な……農地を?」
王は躊躇した。直轄領からの収益は王家の財布そのものだ。それを手放すことは、王家の財政を弱体化させることになる。
「陛下、これは単なる寄進ではありません。神殿がその土地を管理し、そこで採れた作物を直接、王家と神殿の名の下に民衆へ施すのです。
『聖なる施し』として。公爵が物流を止めても、神殿が食料を配れば、民衆は飢えることなく、むしろ公爵の横暴から自分たちを守ってくれる王家と神殿に感謝するでしょう。これは、公爵の経済的圧力に対する、最強の防衛策なのです」
ニコルの言葉は巧みだった。王家の財産を削る提案を、「王家を守るための防衛策」としてすり替えたのだ。経済に疎く、公爵の影に怯える王にとって、それは魅力的な提案に聞こえた。
「……公爵の経済封鎖に対抗するためか。やむを得ぬかもしれん」
ニコルは王の迷いが見えた瞬間、畳み掛けるように最後の一枚、最も重要な文書を突きつけた。
「最後に、これが最も重要でございます。ルーシー嬢やセシリア嬢のように、神の愛を否定し、聖女を侮辱する『獅子身中の虫』は、貴族社会にまだ潜んでいます。彼らは王家の温情につけ込み、再びマリア様を害そうとするでしょう」
「ううむ……」
「陛下、彼らを裁くのは王立裁判所ですが、裁判官の多くは貴族出身。公爵家の息がかかった者もおりましょう。これでは公正な裁きは望めません。そこで」
ニコルは声を潜め、悪魔の囁きのように言った。
「『聖女への不敬』および『王家への反逆』を取り締まるための特別権限……すなわち『異端審問権』を、従来の王立裁判所から切り離し、神殿に移譲していただきたいのです」
謁見室の空気が凍りついた。 控えていた側近たちが、思わず息を呑む音が聞こえた。 異端審問権。それは、証拠や法の手続きを簡略化し、宗教的な理由をもって容疑者を拘束・尋問・処罰できる強力な権限だ。
これを神殿に渡すということは、王家が持つ司法権の一部、それも貴族を統制するための最強の切り札を、外部組織に明け渡すことを意味する。
「それは……あまりにも大きすぎる権限だ、ニコル殿」
さすがの王も難色を示した。
「私が貴族を裁けなくなるということではないか。王権の弱体化に繋がる」
ニコルは表情を崩さなかった。彼は一歩前に進み、王の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、反論を許さない圧力が宿っていた。
「陛下。今は平時ではございません。公爵と辺境伯という二大勢力が、王家に牙を剥こうとしている非常時なのです。王家単独で彼らを抑え込めますか? 無理でございましょう。
神殿という『神の法』を持つ第三者が、王家の剣となり盾となって初めて、彼らの野望を挫くことができるのです。……それとも、陛下は、ヘンリー殿下とマリア様が、またあの心ない貴族たちに傷つけられるのを、指をくわえて見ているおつもりですか?」
王バートラムは言葉を失った。 頭の中では、公爵の冷徹な経済封鎖と、辺境伯の武力蜂起という二つの悪夢が渦巻いている。彼は自分の力に自信を持てなかった。
誰かに守ってほしかった。 「神殿の後ろ盾」があれば、この国は持続できる。自分は責任を負わなくて済む。そんな甘い錯覚が、毒のように彼の思考を麻痺させていった。
長い、重苦しい沈黙の後、王は深いため息をついた。それは、王としての最後の矜持を吐き出す音だった。
「……わかった。ニコル殿の言う通りだ。私は、この三つの要求を全て承認する」
「おお、陛下……!」
ニコルは大げさに感極まった声を上げ、深々と平伏した。
「陛下の英断に、神の祝福がありますように! これで王家は救われます。神殿は全霊をもって、マリア様と王家をお守りいたします」
床に伏せたニコルの顔には、隠しきれない歓喜の笑みが張り付いていた。 (愚かな王だ。恐怖に支配され、自ら王冠の一部を差し出した。これで神殿は、王家と対等、いや、それ以上の権力を手に入れた)
謁見が終わり、ニコルが退室した後、王バートラムは脱力したように玉座に背を預けた。 彼は側近たちに向かって、掠れた声で命じた。
「文書を整えよ。神殿への守護聖女の地位授与、農地特権の移転、そして異端審問権の移譲……。即座に実行せよ」
側近たちは顔を見合わせた。 その目には、「終わりだ」という絶望の色が浮かんでいた。
王の決定は、王家の権力を切り売りし、神殿という制御不能な怪物を解き放つ行為に他ならなかった。だが、王の決定は絶対である。誰も諫言することはできなかった。
王宮の回廊を歩くニコルの足取りは軽かった。 彼は私室に戻ると、王から受け取った承認文書を机の上に広げ、喉の奥でくつくつと笑った。
「公爵も辺境伯も、所詮は俗物。王家は臆病者。……最後に笑うのは我々だ」
彼はワイングラスを手に取り、窓の外に広がる王都を見下ろした。
「聖女マリアは、最高の『看板』だ。彼女が清らかであればあるほど、我々の権力は正当化される。貴族どもが王家を潰し、経済が混乱しても構わん。
むしろ混乱すればするほど、民衆は救いを求めて神殿に群がる。……我々は、王権に代わってこの国を支配する、新たな統治者となるのだ」
彼の瞳は、純粋な信仰心ではなく、どす黒い権力欲の炎で燃え上がっていた。
一方、王宮の奥深くにある薔薇の庭園。 そこは外界の緊張とは無縁の、美しく整備された楽園だった。色とりどりの薔薇が咲き乱れる中、王太子ヘンリーと聖女マリアが寄り添って歩いていた。
ヘンリーはマリアの肩を抱き寄せ、興奮した面持ちで語りかけた。
「聞いたかい、マリア? 父上が神殿の提案を受け入れたよ。君は正式に『守護聖女』になるんだ!」
「守護……聖女……」
マリアは言葉を反芻した。それはあまりにも大きく、重々しい響きだった。
「そうだよ。これで君への不敬は神への冒涜になる。ルーシーやセシリアのような意地悪な連中も、もう二度と君に指一本触れられない。
神殿が持つ異端審問権が、君を守る最強の盾になるんだ。……ああ、よかった。これで本当に安心だ」
ヘンリーは心底安堵したように微笑み、マリアの髪にキスをした。彼は本気で信じていた。権威というラベルさえ貼れば、中身が伴わずとも世界は従うのだと。
マリアはヘンリーを見上げて微笑み返した。 「はい、ヘンリー様。ありがとうございます……」
しかし、彼女の胸の奥には、鉛のような重たいしこりが残っていた。 彼女が望んだのは、ヘンリーと結ばれ、みんなに愛されるお姫様のような生活だった。だが、いつの間にか話が大きくなっている。
守護聖女、異端審問、神殿領……。難しい言葉が飛び交い、彼女の周りには、愛とは異なる、冷たくて硬い政治の壁が築かれつつあった。
(私、ただ幸せになりたかっただけなのに。どうしてこんなに寒気がするのかしら……)
風に揺れる薔薇の棘が、ふと鋭い牙に見えた。マリアは身震いし、ヘンリーの腕をさらに強く掴んだ。
王宮の外では、情報に通じた貴族たちの間で、噂が燎原の火のように広がっていた。
「聞いたか? 王が神殿に司法権を売ったらしいぞ」
「神殿長ニコルが、王権の主要な権益を奪い取ったんだ。王家は完全に狂った」
「公爵と辺境伯が動いた矢先に、神殿という虎を野に放つとは……。これで三つ巴の共食いだ」
街の空気は淀み始めていた。 国王バートラムは、公爵と辺境伯という目に見える脅威に怯えるあまり、自らの懐に寄生虫を招き入れたことに気づいていなかった。
そして数日後。 王都の中央市場で、最初の異変が起きた。 それは王家と神殿が結託し、自分たちの安全を確信して祝杯を挙げていた直後のことだった。
いつものように公爵領から届くはずの荷馬車が、一台も来ない。 市場の棚から、高級品が、そして日用品が、少しずつ、しかし確実に消え始めたのだ。
それは王家の権威を守るためではなく、王家を経済的に窒息させるために振り下ろされた、公爵ローレンスの冷徹な鉄槌の始まりであった。
"A snake in the grass"とは、一見すると無害で親切そうに見えるけれど、実は裏で悪意を持って人をだましたり、裏切ったりするような「油断ならない人」「陰険な人」「裏切り者」を意味する慣用句です。獅子身中の虫。




