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灰と霧  作者: ルーシー・オルコット
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1話:策謀の序曲

王立学園の卒業パーティーという名の断罪劇が幕を下ろした翌朝、王都の空は鉛を流したように重く曇っていた。

昨夜、王宮の大広間で繰り広げられた華やかな、しかし残酷な宴は、まるで熱病の見る夢のように消え去り、その後に残されたのは、肌を刺すような湿った冷気と、貴族たちの間に漂う得体の知れない不安だけであった。


まだ太陽が顔を出す前の、薄暗い早朝。王都の貴族街にあるオルコット公爵邸の裏門から、一台の馬車がひっそりと滑り出た。 公爵家の紋章すら塗り潰された、目立たない黒塗りの箱馬車である。

御者は平服を纏い、蹄には布が巻かれて音を殺していた。それはまるで、罪人が逃亡するかのような、あるいは死体を運ぶ霊柩車のような、陰鬱な空気を纏っていた。


馬車の中で、公爵令嬢ルーシー・オルコットは背筋を伸ばして座っていた。 彼女が身につけているのは、昨夜の王家の威信を誇示するような深紅のドレスではない。

生成りの粗末な布地で作られた、修道女見習いが着る簡素な衣服であった。一切の装飾が削ぎ落とされたその姿は、彼女の美貌を隠すどころか、かえってその彫刻のような冷たい美しさを際立たせていた。


断罪からわずか数時間。夜も明けきらぬうちの出立だった。


向かいの席には、幼い頃からルーシーに仕えてきた侍女のリーザが座っている。彼女は膝の上で固く手を握りしめ、馬車の車輪が石畳を軋ませるたびに、ビクリと肩を震わせていた。

彼女の目には、主君を不当に奪われたことへの憤りと、これから向かう先への恐怖で涙が溜まっていた。


「ルーシー様……」


リーザが震える声で沈黙を破った。


「本当に、このままでよろしいのですか? 昨夜の今日で、このような……まるで罪人のような扱いで王都を追われるなど、あんまりです。公爵閣下は、なぜお止めにならなかったのですか!」


ルーシーはゆっくりと視線を窓の外へ向けた。カーテンの隙間から、見慣れた王都の街並みが、薄墨色の霧の中に沈んでいくのが見える。

彼女の表情は、能面のように静かだった。怒りも、悲しみも、そこにはない。あるのは、ただ計算式を解く学者のような、静謐な思考だけだった。


「リーザ、落ち着きなさい。これは『追放』ではないわ」


ルーシーの声は、朝の空気のように澄んでいた。


「これは『配置転換』よ。私がこのタイミングで、誰の目にも触れずに、しかもあえてこのような粗末な身なりで修道院へ入る。この事実こそが、父上にとって最強の武器になるの」


「武器、でございますか?」


「ええ。王家の感情的な断罪に対し、公爵家は一切の反論をせず、娘は自ら身を引いて恭順の意を示した。……表向きはね。

 これにより、王家は『従順な臣下を虐げた』という完全な悪役になる。私が可哀想であればあるほど、父上は王家に対して、道義的にも政治的にも優位に立てるのよ」


ルーシーは手元のロザリオを指先で弾いた。それは祈りの道具ではなく、時間を計るための道具のようにも見えた。


「王家の不当な裁定に、その場で感情的に抗えば、それは『不敬』となり、王家に介入の口実を与える。けれど、私が被害者として聖域に篭れば、父上は外から、誰にも邪魔されることなく王家の首を絞めることができる。父上も、そうお考えだからこそ、この馬車を用意されたのよ」


「では、公爵閣下は……ルーシー様をお見捨てになったわけではないのですね?」


ルーシーは微かに口角を上げた。それは安心させるための笑みではなく、共犯者が交わすような冷ややかな笑みだった。


「捨てる? まさか。オルコット家は、使える駒は最後まで使い切るわ。私が修道院へ向かうこの道は、敗走路ではない。王家への報復という巨大な包囲網を完成させるための、最初の一手なのよ」


馬車は王都の分厚い城門をくぐり抜けた。門番たちは眠たげで、このみすぼらしい馬車の中に、昨夜まで王太子の婚約者だった女性が乗っているとは夢にも思わなかっただろう。

ルーシーは二度と後ろを振り返らなかった。彼女の視線は、すでに盤上の次の一手を見据えていた。


一方、王都から北へと伸びる街道筋では、全く異なる光景が展開されていた。


早朝の寒風が吹きすさぶ街道を、一団の騎馬隊が疾走していた。先頭を行くのは、辺境伯令嬢セシリア・ガードナーである。 彼女は馬車などという軟弱な乗り物は選ばなかった。

愛馬である巨大な黒鹿毛に跨がり、その身体は昨夜のドレスではなく、使い込まれた革鎧と、防寒用の分厚い毛皮のマントで覆われていた。腰には、飾りではなく実戦用の長剣が佩かれている。


彼女の後ろには、一族の騎士団長である老練な騎士エルウィンと、数名の精鋭騎士が控えており、その一行は、あたかも敵襲の報を受けて緊急出撃する部隊のような殺気を帯びていた。


「セシリア様、少しペースを落としてください! 王都を出てから、まだ一度も休憩を入れておりません!」


エルウィンが馬を寄せ、風切り音に負けない大声で叫んだ。彼の顔には、主の健康を案じる色と、あまりに急な展開への戸惑いが混ざっていた。


「王都を離れるのは良いとしても、これではまるで夜逃げですぞ。辺境伯家の威信に関わります」


セシリアは手綱を握る手を緩めることなく、鋭い視線だけでエルウィンを制した。その瞳は、王都の社交界で見せていた退屈そうなものとは異なり、獲物を狙う鷹のようにギラついていた。


「黙れ、エルウィン。威信? そんなものは平和ボケした王都の貴族に食わせておけ」


セシリアは吐き捨てるように言った。


「ヘンリー殿下の判断は、殿下一人の戯言ではない。あれを王が黙認し、止めなかった時点で、王家全体の意思決定だ。

 王家が『辺境の守り手』を不要とし、飾り物の聖女を選んだのだ。ならば、私たちが王都に義理立てする必要など、爪の先ほどもない」


「しかし、正式な挨拶もなしに……」


「挨拶? 昨夜の会場で十分に済ませたさ」


セシリアは鼻を鳴らした。馬の蹄が乾いた土を蹴り上げ、その音が彼女の苛立ちと決意を代弁するように響く。


「急ぐぞ。王都の軟弱な空気を吸っているだけで反吐が出る。私が領地に戻り、父上に報告するまでが、王家への最後の奉公だ。……そして、そこからが本当の『教育』の始まりだ」


彼女にとって、王都の華やかな社交とは、実戦の役には立たない、ままごとに過ぎなかった。ドレスの裾を踏まないように気を使うことよりも、剣の間合いを見切ることの方が遥かに重要だ。

セシリアの目は、遠く霞む北の地平線を睨んでいた。そこには彼女の故郷があり、王国の喉元を守る、あるいは突き刺すための、最強の軍事力が眠っている。


「王家が盾を捨てたのだ。ならば、その盾がどうなるか、身をもって知るがいい」


同じ頃、王宮の「太陽の間」。 本来であれば朝議が行われる時間だが、今日の空気は重苦しく澱んでいた。国王バートラムは玉座に深く沈み込み、目の下に濃い隈を作っていた。昨夜の騒動の後、彼は一睡もできていなかった。


彼の前には、数名の主要な側近たちが並んでいたが、誰もが床の一点を見つめ、口を開こうとしなかった。


「……昨夜の出来事は」


王が、しわがれた声で口火を切った。無理に威厳を取り繕おうとしているが、その指先が小刻みに震えているのを隠しきれていない。


「確かにヘンリーの軽率な判断であった。若さゆえの暴走だ。王太子として未熟だったと言わざるを得ない。

 ……だが、公爵家と辺境伯家は、建国以来、代々この王国に仕えてきた忠実な臣下である。娘たちの名誉を傷つけた代償は、後日、金品や新たな称号で埋め合わせればよい」


王は自分自身に言い聞かせるように、言葉を重ねた。


「彼らが王家に反旗を翻すなど、あり得ないことだ。数百年の忠誠があるのだぞ? 少し時間を置けば、頭を冷やし、また以前のように仕えてくるだろう」


その楽観的な言葉に対し、沈黙を守っていた財政卿が、意を決したように一歩前に出た。彼は痩せこけた神経質そうな男だったが、その目は現実の数字を見据えていた。


「陛下。……恐れながら申し上げます」


財政卿の声は震えていたが、内容は冷徹な事実だった。


「『忠誠』とは、一方的な献身ではございません。それは契約です。王家が彼らの権利と名誉を守るからこそ、彼らは王家に剣と金を捧げるのです。昨夜、殿下はその契約書を、衆人環視の中で破り捨てたも同然なのです」


王の眉がピクリと動いた。


「公爵オルコットは王国の経済の要、物流の心臓を握っております。辺境伯ガードナーは国防の盾。彼らを同時に、しかもあのような侮辱的な形で切り捨てるのは、自殺行為です。

 両家からの報復を想定し、ただちに対策を……公爵領の資産凍結や、辺境伯軍への監視強化を命じるべきかと」


「馬鹿な!」


王は立ち上がり、声を荒げた。


「そんなことをすれば、それこそ彼らを敵に回すことになる! 刺激するなと言っているのだ! ヘンリーは、マリアという聖女を守るために行動したのだぞ?

 神殿もマリアを支持している。聖女の奇跡があれば、王家の権威は揺るがん! 経済も軍事も、王家の権威の前にはひれ伏すのだ!」


財政卿は口を閉ざし、深く頭を下げた。だが、その表情は「もはやこれまで」という諦めに満ちていた。他の側近たちも互いに視線を交わし、王の言葉が現実逃避に過ぎないことを悟っていた。

王は「希望」を語っているのではない。ただ、破滅的な現実を直視する恐怖から逃げているだけだった。


その頃、玉座の間の裏手にある王太子の私室では、全く異なる空気が流れていた。 朝日が差し込む部屋で、ヘンリー王太子はマリアの手を取り、ソファに並んで座っていた。

テーブルには最高級の茶葉で淹れた紅茶と、焼き菓子が並んでいる。外の世界の不穏な空気など、ここには存在しないかのようだった。


「これでよかったんだ、マリア。ようやく、君を虐げる者はいなくなった」


ヘンリーはマリアの指先に口づけを落とし、うっとりとした表情で彼女を見つめた。


「ルーシーとセシリアの嫉妬は、王家を蝕む毒だった。彼女たちは、古い時代の遺物だ。権力や武力を笠に着て、君のような純粋な存在を認めようとしなかった。

 だが、これからは違う。君がいてくれれば、この国は愛と優しさに満ちた、新しい理想郷になるんだ」


マリアは頬を染めて頷いた。「はい、ヘンリー様……」


しかし、彼女の視線は時折、泳ぐように窓の外へと向けられた。 彼女の心の奥底には、昨夜のルーシーの、あの人間を見る目とは思えない冷たい視線や、セシリアの吐き捨てた「ドレスのシミがどのような価値を持つのか」という言葉が、小さな棘のように刺さったまま抜けずにいた。


(本当に、これでよかったの? 公爵様や辺境伯様は、怒っていないのかしら……)


だが、目の前の王太子の輝かしい笑顔と、「聖女」として崇められる心地よさが、その小さな不安を甘い砂糖菓子のように包み込んで隠してしまった。彼女は不安を振り払うように、ヘンリーの腕にしがみついた。


王宮の外、貴族街の空気は、王宮内の甘い雰囲気とは対照的に、張り詰めた恐怖に満ちていた。


王家への忠誠心よりも、己の領地と生存を何より重視する中堅貴族たちは、夜が明けても眠ることなく、情報収集に奔走していた。ある伯爵の邸宅では、派閥を超えた数人の貴族が集まり、密談が交わされていた。


「信じられんな。あの公爵令嬢ルーシーを修道院送り、辺境伯令嬢セシリアを追放とは……王太子は正気か? 彼は国の両翼を、自らの手でへし折ったのだぞ」


恰幅の良い男が、汗を拭いながら唸った。


「公爵オルコットが黙っているはずがない。あの男は『氷の計算機』だ。感情で動く男ではないが、損得には誰よりも敏感だ。

 娘の名誉という『資産』を傷つけられた落とし前は、必ずつけさせるだろう。もし公爵が経済を揺らげば、王都の貴族社会は一瞬で干上がるぞ」


「辺境伯ガードナーもだ」


騎士上がりの男爵が、青ざめた顔で杯をあおった。


「国境の守りが緩めば、北の異民族が雪崩れ込んでくる。奴らは待ってましたとばかりに南下するだろう。そうなれば、我々の領地が最初の餌食だ。

 ……聖女マリアの癒やしの力? ふん、傷は治せても、蛮族の剣を止めることはできんよ」


部屋の隅に座っていた老貴族が、重々しく口を開いた。


「王家は、二大貴族を同時に敵に回した。これは、ただの婚約破棄騒動ではない。王国の崩壊の序曲だ。ヘンリー殿下の愛など、我々の命を救う力のない、ただの幻想に過ぎん」


密談は続き、貴族たちの間では、沈みゆく泥船である王家を見限り、公爵家や辺境伯家へといかにして取り入るか、その算段が囁かれ始めていた。


同じ夜。王都の喧騒から隔絶された、オルコット公爵邸の最奥にある執務室。 分厚いカーテンが閉め切られた部屋には、書類が山のように積まれた重厚なマホガニーの机があり、その奥に公爵ローレンス・オルコットが座っていた。


部屋には暖炉の火の爆ぜる音と、ペンが紙を走る乾いた音だけが響いている。 ローレンスは、娘ルーシーから託された短い手紙を読み終えると、それを蝋燭の炎にかざした。紙片は一瞬で黒い灰となり、暖炉の中に吸い込まれていった。


「『公爵家の名誉をお守りください』……か」


ローレンスは、独り言のように呟いた。その声には、怒りも悲しみもなかった。あるのは、任務遂行を確認するような冷徹な響きだけだ。


「よくやった、ルーシー。お前のあの場での言葉と、即座の撤退は、完璧な大義名分だ。これで私は、誰に気兼ねすることもなく、王家の喉笛に手をかけることができる」


彼は卓上のベルを鳴らした。音もなく執事が現れ、続いて公爵家の経済活動を取り仕切る商会連合の長が入室した。商会長は、公爵の前に深々と平伏した。


ローレンスは椅子に深く背を預け、組んだ指先を見つめながら、淡々と指示を下し始めた。


「これより、王都に対する『物流調整』を開始する」


「……調整、でございますか」


「そうだ。あくまで自然な経済変動を装え。まず、王都向けの輸出品、特に貴族が好む南方の香辛料、東方の絹織物、そして建築用の加工木材……これらを『在庫不足』または『輸送事故』として処理し、供給量を現在の三割まで落とせ」


商会長が息を呑んだ。「三割……それは、市場がパニックになります」


「構わん。次に、公爵家が管理する主要な港湾および関所において、王都行きの荷物の通関検査を厳格化しろ。書類の不備、荷質の再検査、検疫の徹底。理由はなんでもいい。とにかく足を止めろ。新鮮な魚や野菜が腐るほど時間をかけろ」


ローレンスの言葉は、まるで明日の天気を語るかのように平坦だったが、その内容は王都の首を真綿で締めるような残酷なものだった。


「そして、ここが重要だ。王都へ行かなくなった物資は、すべて北へ回せ。ガードナー辺境伯領へは、既存の契約価格から二割引き……いや、輸送費をこちら持ちで三割引きで卸せ。武器、鉄鉱石、食料、すべて最優先で北へ送れ」


商会長は震える手でメモを取りながら、額に脂汗を浮かべていた。これは単なる商売ではない。経済を用いた戦争行為だ。だが、公爵の目は絶対零度のように冷たく、逆らうことなど許されない威圧感を放っていた。


「承知……いたしました、公爵閣下。すべて、直ちに実行いたします」


商会長が逃げるように退出した後、ローレンスは立ち上がり、壁に掛けられた王国の地図の前に立った。彼は王都の位置に指を置き、そこから伸びる街道筋をなぞるように北へと指を滑らせた。


「王家よ。お前たちは、『公爵家は王家のおかげで富を得ている』と勘違いしていたようだな」


ローレンスの唇に、薄く、冷酷な笑みが浮かんだ。


「逆だ。王家が贅沢をできていたのは、私がそれを許していたからに過ぎない。経済という名の血液が止まれば、心臓たる王都がどうなるか……その身をもって学ぶがいい」


これは、感情的な復讐などという生ぬるいものではなかった。 それは、王国という巨大なシステムの基盤を握る者による、論理的で不可避な制裁。公爵が蛇口を閉めれば、王都は干上がる。それだけの単純な理屈が、今、実行に移されたのだ。


その頃、ルーシーを乗せた馬車は、王都から半日の距離にある、霧深い山間の聖マルコ修道院に到着していた。 苔むした石造りの門の向こうには、俗世とは隔絶された静寂が広がっていた。公爵家からの莫大な寄付を受けた修道院長が、揉み手をするような卑屈な笑みを浮かべて出迎えた。


「おお、ルーシー・オルコット様! 公爵閣下からのご寄付、誠に感謝いたします。ここは貴女様の新しい、安らかな居場所となります。神の静かな愛が貴女を守るでしょう」


ルーシーは修道院長に、公爵令嬢としての完璧な一礼を返した。


「よろしくお願いします、院長様。私はただの罪深き身。神に祈りを捧げる静かな時間を求めて参りました」


案内された簡素な個室。石の壁と小さなベッド、机があるだけの部屋で、一人になったルーシーは、窓の鎧戸を開け放った。

冷たい山の空気が流れ込み、彼女の頬を撫でる。 彼女は遠く、霞んで見えなくなった王都の方角を眺めた。その瞳には、かつての婚約者への未練も、追放された悲壮感もなかった。

あるのは、任務を開始した工作員のような、鋭く研ぎ澄まされた決意だけだった。


「父上、私は配置につきました」


ルーシーは小さく呟いた。


「この修道院は、私の牢獄ではありません。ここは王家の目が届かない、私の聖域であり、司令部です。……さあ、始めましょう。王家の破滅と、公爵家による新たな支配の物語を」


彼女の白い修道服が風に揺れる。それは、王都に落ちる白い影のように、静かに、しかし確実に広がる崩壊の予兆であった。

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