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灰と霧  作者: ルーシー・オルコット
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エピローグ 勝利は幸福を意味しない

あの火刑から数年の月日が流れた。 王都の空を覆っていた死の灰と絶望の霧は、時という風によって吹き払われ、表面上は穏やかな日常が戻ってきていた。


中央市場は、かつての飢餓が嘘であったかのように、物資で溢れかえっていた。 公爵領の港から絶え間なく運び込まれる新鮮な魚介類、南方の島々からの珍しい果実、そして山と積まれた小麦粉の袋。香辛料の香りが漂い、色とりどりの織物が風に揺れている。


「安いよ、安いよ! 公爵閣下の特別な計らいによる特売だよ!」


商人の威勢の良い声が響く。だが、そこには以前のような無秩序な活気はなかった。 市場の四隅には、公爵家の紋章をつけた私兵団が鋭い視線を光らせて立っている。彼らは治安維持という名目で、価格の不正操作や、王家への不満を口にする者がいないか、常に監視の目を光らせていた。

市民たちは豊かな食料を手にし、笑顔を見せてはいたが、その声のトーンはどこか抑制され、羽目を外すことを恐れているようだった。


「……豊かな時代になったな」 「ああ。パンが食える。それだけで十分さ」 「余計なことは考えるな。公爵様に感謝していれば、明日の食事には困らないんだ」


人々は、自由と引き換えに手に入れた「安定」という名の飼料を、黙々と噛み締めていた。 それは、ヘンリー王太子がかつて夢想した「愛と正義の王国」とは対極にある、冷徹な計算と規律によって管理された「巨大な工場」のような世界であった。


王宮の大広間「鏡の間」。 かつてヘンリーが断罪劇を演じ、すべての崩壊が始まったこの場所で、今日は新たな時代の幕開けを告げる儀式が執り行われていた。


新国王トレバーの戴冠式である。


広間は、王国の威信をかけた豪華絢爛な装飾で埋め尽くされていた。真紅の絨毯、金糸のタペストリー、そして天井から降り注ぐシャンデリアの光。 だが、そこに集う貴族たちの表情は、祝祭の喜びに満ちたものではなかった。彼らは皆、張り詰めた緊張感を纏い、互いの腹を探り合うような視線を交わしている。


「王家派閥の生き残りは、末席か……」


「公爵派の席次は最前列だな。わかりやすい序列だ」


囁き声さえ、冷ややかな空気に吸い込まれて消えていく。


玉座の前。 大司教……かつてのニコルではなく、公爵によって選任された、実直だが操りやすい老齢の男が、震える手で王冠を捧げ持っていた。


その前に跪いているのは、新王となるトレバーである。 彼は豪奢な王衣を身に纏っていたが、その背中はどこか小さく、頼りなげに見えた。 彼の顔立ちは兄ヘンリーによく似ていたが、その瞳には光がなかった。まるで、自分の意志をどこかに置き忘れてきたかのような、深く、静かな虚無が漂っている。


大司教が王冠をトレバーの頭上に載せた。 ずしりという重みと共に、トレバーはゆっくりと立ち上がり、振り返った。


「新国王、トレバー陛下万歳!」


儀礼的な歓声と、計算された拍手が広間を満たす。 トレバーは、その歓声を受け止めながら、無表情のまま口を開いた。


「……親愛なる国民よ」


その声は穏やかだったが、抑揚に欠けていた。彼は手元の羊皮紙、公爵ローレンスが前日に渡し、一字一句間違いなく読み上げるよう命じた原稿に視線を落とした。


「我が王国は、長きに渡る混乱と試練を乗り越え、今日、ここに新たな時代を迎える。過去の過ちは正され、無秩序は排除された」


トレバーの視線が、貴賓席の最前列に立つ一人の男に向けられた。 公爵ローレンス・オルコット。 彼は漆黒の礼服に身を包み、腕を組んで新王を見上げていた。その表情は、国王に対する敬意というよりは、自分が作り上げた精密な機械の動作確認をする技術者のようだった。


「この平和と繁栄は、ひとえに公爵ローレンス・オルコット閣下、および辺境伯カスパル・ガードナー閣下の、揺るぎない忠誠と強力な支援によるものである。余は、両閣下と共に、法と秩序に基づいた統治を約束する」


「法と秩序」。 それは、かつてヘンリーが叫んだ「愛と正義」を完全に否定する言葉だった。 会場の貴族たちは、一斉にローレンスの方を向き、深々と頭を下げた。王への礼ではなく、真の支配者への服従の儀式であった。


トレバーの演説が終わると、彼の隣に一人の女性が進み出た。 新王妃、ルーシー。 彼女は、オルコット家の象徴である深紅のドレスを纏い、髪には大粒のルビーを散りばめたティアラを戴いていた。 その美しさは、数年前の断罪の夜よりもさらに研ぎ澄まされ、近づく者さえ切り裂くような冷ややかな威厳を放っていた。


彼女は優雅に、完璧な角度で一礼し、玉座の横に立った。 その視線が、会場全体をゆっくりと一巡する。 かつて彼女を断罪された憐れな令嬢と呼び、嘲笑った貴族たちは、今や彼女と目が合うことさえ恐れ、床を見つめて震えていた。


(これが、私たちの勝利です。父上)


ルーシーは心の中で、静かに呟いた。 彼女の視線が、父ローレンスと交差する。父は微かに顎を引き、満足げな笑みを浮かべた。それは娘への愛情ではなく、最高傑作の駒に対する称賛の笑みだった。 その隣には、軍装に身を包んだ辺境伯カスパルと、その娘セシリアが立っていた。セシリアもまた、ルーシーに向かって小さく敬礼を送った。


敵は排除された。 ヘンリーは廃され、マリアは焼かれ、ニコルは堕ちた。 そして今、ルーシーはこの国の頂点に立った。


だが、胸の奥に広がるのは、達成感という温かいものではなく、広大な雪原に一人で立っているような、底冷えする孤独感だった。


戴冠式が終わり、王宮のバルコニーでの国民へのお披露目も済んだ後。 王と王妃は、控室へと戻った。 重い扉が閉められ、二人きりになった瞬間、トレバーの肩から力が抜けた。彼は王冠を乱雑にテーブルに置き、長椅子に深く沈み込んだ。


「……疲れた」


それが、新国王の第一声だった。


ルーシーは、侍女にお茶の用意を命じることもなく、自らポットを手に取り、カップに注いだ。


「お疲れ様でした、陛下。演説は完璧でございました。父も満足しているでしょう」


「ああ、そうだな。一箇所も噛まなかったよ。……まるで役者のようだ」


トレバーは自嘲気味に笑い、出された紅茶を一口すすった。


「ルーシー。……いや、王妃よ。これからの予定は?」


「午後は財務評議会との会合です。公爵領からの関税撤廃に関する最終署名が必要です。その後、辺境伯領への復興支援予算の決裁。夜は、新たに叙任された貴族たちとの晩餐会となっております」


ルーシーの口から出るのは、すべて政務の話だけだった。 「体調はいかがですか」とか「今夜はゆっくり休みましょう」といった、夫婦らしい言葉は一つもない。


トレバーもそれを期待していなかった。


「わかった。署名の書類はどこだ? 目を通さずにサインすればいいのだろう?」


「はい。内容は全て、父と私が確認済みですので」


トレバーはペンを取り、ルーシーが差し出した書類の山に、機械的に署名を始めた。 その姿を見下ろしながら、ルーシーは思った。 この人は、私を恐れている。 そして、私もこの人を愛することはないだろう。


二人の間にあるのは、契約という冷たい鎖だけ。 ルーシーが生むであろう子供もまた、公爵家の血を引く次の王として、このシステムの一部に組み込まれる運命にある。


「……ルーシー」


署名の手を止めず、トレバーがぽつりと呟いた。


「兄上は……ヘンリーは、今どうしているのだろうな」


「塔の別邸におられます。十分な食事と、衣服は与えられております」


「そうか。……幸せだろうか」


「正気を失っているのですから、ある意味では幸せかもしれません。現実を見なくて済むのですから」


ルーシーの冷たい返答に、トレバーはペンを止めた。


「……僕たちは、正気だからこそ、この地獄を直視し続けなければならないのか」


「地獄ではありません、陛下。これは『秩序』です」


ルーシーはきっぱりと言い切った。 トレバーは苦笑し、再びペンを走らせ始めた。


その日の夕刻。 すべての公務を終えたルーシーは、王妃の居室の窓辺に立っていた。 夕闇が迫る王都は、霧に包まれていた。街の灯りが一つ、また一つと点り始めるが、その光は以前のような暖かさを失い、どこか寒々しく見えた。


ルーシーは、遠く北の方角を見つめた。 そこには、友であり、戦友であるセシリアがいるはずだ。


辺境伯領、黒岩城。 吹きすさぶ北風の中で、セシリア・ガードナーは城壁の上に立ち、荒野を睨みつけていた。 彼女の隣には、かつて王都で共に過ごした侍女の姿はなく、無骨な副官が立っているだけだった。


「北西の集落から報告! 再び野盗の襲撃あり! 被害軽微なれど、家畜数頭が奪われました!」


「……ちっ、またか」


セシリアは舌打ちをした。 異民族との講和は成立し、公爵の支援で砦は再建された。だが、一度崩れた治安を完全に戻すには、長い年月と多大な血が必要だった。 「開かれた扉」から入り込んだ悪意は、簡単には拭い去れない。


「出撃する。私が直接指揮を執る」


セシリアはマントを翻し、剣を掴んだ。 その手には、無数の小さな傷跡と、剣だこが刻まれている。 王都の夜会でグラスを傾けていた手は、今や敵の血で濡れることを躊躇わない戦士の手になっていた。


「ドレスのシミ……か」


彼女は馬に跨がりながら、ふと過去の言葉を思い出した。


「あの頃の悩みなど、なんと平和で、くだらないものだったか」


彼女は王都の華やかさを思い出すことは二度となかった。彼女にとっての現実は、この冷たい風と、鉄の重みだけだった。彼女は公爵の忠実な同盟者として、王国の盾となり続ける。たとえその心が、北の凍土のように凍りついてしまっても。


一方、王都の外れ、光の届かない塔と石牢の中に、かつての栄華を極めた者たちがいた。


「違う……違うんだ……。僕は悪くない……」


ヘンリー元王太子は、汚れた藁の上に座り込み、虚空に向かって話しかけていた。


「マリア……魔女め……。お前が僕を騙したんだ。お前さえいなければ、僕は王になれたのに……。ルーシー、許してくれ。僕は魔法にかかっていたんだ……」


彼は壁に頭を打ち付け、泣き、そして笑った。 彼の世界では、まだ彼は被害者であり、いつか誰かが助けに来てくれるという妄想の中に生きていた。


その数部屋隣の独房。 そこには、かつての神殿長ニコルがいた。 彼は、提供された粗末なパンにも手を付けず、鉄格子の向こうの闇を睨み続けていた。


「なぜだ……。私の計算は完璧だったはずだ……」


彼の髪は白髪になり、頬はこけていたが、その目だけは未だにギラギラとした執念の光を宿していた。


「公爵は……なぜ私を殺さない? なぜ私を生かしておく?」


「お前が死んで英雄になるのを防ぐためさ」


看守が冷たく言い捨てた。


「お前はここで、自分の愚かさを噛み締めながら、忘れ去られて死んでいくんだ。それが公爵閣下のお慈悲だよ」


「お慈悲だと……! これは拷問だ! 殺せ! いっそ殺してくれ!」


ニコルの絶叫が地下通路に響いたが、誰も耳を貸す者はいなかった。 生かされたまま、すべての権力と尊厳を奪われる。それは、権力亡者であった彼にとって、地獄の業火で焼かれる以上の苦しみであった。


かつての国王バートラムは、離宮での隠居生活を送っていた。 病床に伏した彼は、窓から見える庭園を眺めながら、静かに涙を流していた。


「私が……私が弱かったから……」


彼は、息子を狂気に追いやり、聖女を見殺しにし、国を売り渡した罪悪感に苛まれながら、ゆっくりと死に向かって歩んでいた。


夜が深まり、王宮は静寂に包まれた。 ルーシーはまだ窓辺に立ち尽くしていた。 ガラスに映る自分の顔は、驚くほど無表情だった。 それは、かつて幼い彼女が憧れた「賢明で慈悲深い王妃」の顔ではなく、父ローレンスと同じ、「冷徹な支配者」の顔だった。


「勝者はいたわ」


ルーシーは呟いた。


「父上は全てを手に入れた。私も、セシリアも、望んだ地位と力を得た。マリアを排除し、王権を掌握し、国を安定させた。……完璧な勝利よ」


彼女は自分の胸に手を当てた。そこには心臓の鼓動があるが、温かさは感じられなかった。


「けれど……ここには『勝利』はあっても、『幸福』はない」


愛を求めて暴走したヘンリーも、聖女という物語に溺れたマリアも、権力を貪ったニコルも、皆が悲劇的な末路を迎えた。


そして、彼らを断罪し、論理と秩序を選んだルーシー自身もまた、玉座という名の、黄金で飾られた孤独な牢獄に囚われた霧のような実体のない王妃、公爵の法と秩序の統治を反映させるための駒だった。


そして権力の頂点に立った父の公爵ですら、未だに混乱の芽がくすぶる王国の立て直しに奔走し、地位にふさわしい豪奢な生活も栄華をも享受する余裕は無い。


彼女は、マリアが焼かれた広場の方角を見た。そこにはもう何も残っていない。ただ暗い闇が広がっているだけだ。


「それでも、私は進むわ。この冷たい秩序だけが、民を生かし、国を保てる唯一の道なのだから」


ルーシーは背筋を伸ばし、踵を返した。 広大な寝室には、夫である王の姿はない。彼女は一人、冷たいシーツの中に身を横たえた。


王国は続くだろう。 トレバーとルーシーの治世は、歴史書には「安定と繁栄の時代」として記されるだろう。 数字の上では豊かで、争いのない、完璧な時代として。


だが、この冷たく澄み切った秩序の下で、心から笑っている者は、誰一人としていなかった。 灰と霧の彼方で、物語は静かに、そして凍りついたまま幕を閉じた。


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