11話:霧の帰還
王都の喧騒から馬車で数日、険しい山道を越えた先にある聖マルコ修道院は、世俗から切り離された静寂の中にあった。 標高の高いこの地では、朝霧が生き物のように石造りの回廊を這い回り、外界の色彩をすべて乳白色に塗り潰していた。
早朝の礼拝を告げる鐘の音が、湿った空気の中に重く響き渡る。 ルーシー・オルコットは、修道女の見習いが身につける簡素な白い衣装を纏い、誰もいない回廊をゆっくりと歩いていた。彼女の手には革表紙の聖典が握られているが、彼女が唱えているのは神への祈りではなかった。
(王都からの定期便が遅れている……。父上の計画が最終段階に入った証拠ね)
彼女の思考は、聖句よりも鋭く、そして冷ややかだった。 修道院での生活は、表向きは慎ましく、清貧を旨とするものであった。しかし、オルコット公爵家からの莫大な寄付金、実質的な滞在費と口止め料のおかげで、彼女には特別室が与えられ、食事や暖房に不自由することはなかった。修道院長をはじめとする聖職者たちは、彼女を傷ついた令嬢として腫れ物に触るように扱い、同時に、彼女の背後にある公爵家の財力を崇めていた。
ルーシーは回廊の柱に手を置き、霧の向こうを見つめた。 ここに来て数週間。彼女はただ、静かに待っていた。 感情に任せて王家を罵ることも、不遇を嘆いて涙を流すこともない。ただ、父ローレンスが王都という盤面で駒を動かし、王家という駒を追い詰めるのを、盤外から計算し続けていたのだ。
「ルーシー様」
背後から、遠慮がちな声が掛かった。 振り返ると、修道院長が立っていた。老齢の彼女は、普段の厳格な表情を崩し、隠しきれない動揺と緊張を顔に張り付かせていた。
「朝の瞑想をお邪魔して申し訳ありません。……お客様です」
「客、ですか?」
ルーシーは眉一つ動かさずに問い返した。予想されていたことだ。
「はい。その……王都からの正式な使者として、ガードナー辺境伯家の紋章を掲げた馬車が到着されました。辺境伯令嬢、セシリア様ご本人がお見えです」
「そうですか」
ルーシーは短く答えた。声のトーンは、明日の天気を聞くときと変わらなかった。 だが、その瞳の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。 セシリアが来た。それも、王家の使者としてではなく、辺境伯家の旗を掲げて。 それは、すべてが終わったことを意味していた。
「お通しください、院長様。客間でお待ちします」
「は、はい。直ちに」
修道院長が慌ただしく去っていく背中を見送りながら、ルーシーは小さく息を吐いた。 白い息が霧に溶ける。 彼女は聖典を閉じ、その冷たい表紙を指でなぞった。
「チェックメイトね」
修道院の客間は、石壁に囲まれた質素な部屋だったが、暖炉には火が入り、上等なハーブティーの香りが漂っていた。 ルーシーが椅子に座って待つこと数分。重い木の扉が開かれ、金属のこすれる音が響いた。
「ご無沙汰しております、ルーシー」
入ってきたのは、辺境伯令嬢セシリア・ガードナーだった。 彼女の姿は、この神聖な場にはあまりにも不釣り合いだった。埃にまみれた革鎧、肩にかけられた分厚い毛皮のマント、そして腰には長剣。王都の夜会で見せていた洗練された令嬢の姿はどこにもなく、そこには戦場から直行してきた騎士の姿があった。
肌は日焼けし、王都にいた頃よりも引き締まっている。その瞳には、国境の寒風に晒され、血と鉄の匂いを嗅いできた者特有の、鋭く冷たい光が宿っていた。
「遠路はるばる、ご苦労様です、セシリア」
ルーシーは立ち上がり、優雅に迎えた。修道女の服を着ていても、その所作は公爵令嬢のままである。
「座って。粗茶ですが、温まりますわ」
セシリアはマントを脱いで従者に渡すと、どかっと音を立てて椅子に腰を下ろした。
「感謝する。辺境から王都、そして王都からここへ。馬を乗り潰す勢いで走ってきたのでね。喉が渇いていた」
セシリアは出されたハーブティーを一気に飲み干した。その豪快な仕草を見ながら、ルーシーは静かに切り出した。
「貴女が直接来たということは……父からの報告以上の『成果』があったということかしら?」
セシリアはカップを置き、口元を拭った。そして、ニヤリと笑った。それは友に向ける笑顔ではなく、共犯者に向ける獰猛な笑みだった。
「ああ、全て終わった。掃除は完了だ」
セシリアは淡々と、しかし確信に満ちた声で報告を始めた。
「まず、王家。ヘンリー元王太子は廃嫡された。公式発表は『精神の錯乱』だが、実態は公爵閣下の経済封鎖に耐えかねた王バートラムによる、トカゲの尻尾切りだ。王自身も心労で倒れ、退位は時間の問題だろう。……王家は、完全に白旗を上げた」
「報告通りね」
ルーシーは表情を変えなかった。
「ヘンリー殿下の『愛』は、小麦の値段の前には無力だったようね」
「無力どころか、毒だったな。……そして、神殿長ニコル。彼も退場した」
「ニコル殿が? 彼は王家か侯爵家に媚びて、最後まで生き残るタイプだと思っていたけれど」
「欲をかきすぎたのさ。彼は公爵閣下に取り入ろうとして、マリアを火刑にした。だが、その裏切り行為が閣下の逆鱗に触れた。『一度主人を噛んだ犬は、二度噛む』とな。異端審問権を剥奪され、全財産を没収された上で、今は王都の地下牢でネズミと仲良く暮らしているそうだ」
ルーシーは軽く頷いた。父ローレンスの判断に、一点の曇りもないことを確信した。
「父上らしいわ。論理に合わない不確定要素は、徹底的に排除する。ニコル殿の日和見主義は、新しい秩序には不要なノイズでしかなかったということね」
「そして……聖女マリアだ」
セシリアの声が、一段低くなった。
「彼女は、王都の中央広場で焼かれた。ニコルが主導した異端審問の結果だ。『王家をたぶらかした魔女』として、数万の民衆の歓声の中で灰になったよ」
部屋に一瞬、沈黙が落ちた。暖炉の薪がパチリと爆ぜる音だけが響く。 かつて同じ学園で学び、同じ男を巡って対立した少女の無惨な死。しかし、ルーシーの瞳に哀悼の色は浮かばなかった。彼女は、ただ事実としてそれを受け止めた。
「……皮肉なものね」
ルーシーは静かに言った。
「彼女は最後まで『愛』を叫んでいたのでしょう? でも、飢えた民衆が求めていたのは愛の言葉ではなく、怒りをぶつける対象だった。彼女の『聖なる愛』とやらは、民衆の憎悪と、神殿の権力欲という現実の炎には勝てなかった」
「ああ。彼女は最後まで理解していなかったようだ。自分が甘い恋物語のヒロインではなく、政治という巨大な機械に巻き込まれた、ただの部品だったということを」
セシリアは冷ややかに言った。二人にとって、マリアの死は悲劇ではなく、必然的な帰結でしかなかった。力なき理想、計算なき感情が、権力闘争の中でどうなるかという、確固たる教訓に過ぎない。
「ルーシー」
セシリアが、真剣な眼差しでルーシーを見つめた。
「貴女はあの卒業パーティーの夜、濡れ衣を着せられながらも、一切の弁明をせず、自らこの修道院へ身を引く決断をした。あの時、多くの者は貴女が負けたと思っただろう」
セシリアは身を乗り出した。
「だが、あれこそが最強の一手だった。貴女が『可哀想な被害者』として聖域に篭ったことで、公爵閣下と私の父は、王家に対して『道理』という最強の武器を手に入れた。王家を孤立させ、経済と軍事で首を絞めるための大義名分を、貴女が作ったのだ」
「……買い被りすぎよ、セシリア」
ルーシーは自嘲気味に微笑んだ。
「私はただ、泥仕合が嫌いだっただけ。あの場で泣き喚いてヘンリー殿下に縋ったところで、見苦しいだけでしょう? ……私は、オルコット家の娘として、最も効率的で、最も王家にダメージを与えられる撤退戦を選んだだけ」
「それができたのは、貴女だけだ。物語で語られる悪役令嬢のようなショボい嫌がらせではなく、貴女は『国の基盤』を使って復讐を果たした」
セシリアは懐から、一通の封書を取り出した。 漆黒の封筒に、金色の公爵家の紋章が輝いている。
「ローレンス公爵閣下からの、正式な書状だ」
ルーシーはそれを受け取った。封筒の重みが、彼女の手にずっしりと沈んだ。それは紙の重さではなく、そこに込められた責任と権力の重さだった。 ペーパーナイフで封を切り、中身を取り出す。 流麗な筆跡で記された、父からの指示。
『王家は降伏した。トレバー新王太子の正妃として、王都へ帰還せよ』
そして、その後に続く詳細な指示の数々。神殿領の接収、公爵派貴族への利権配分、王宮人事の刷新……。それは結婚の祝福などではなく、占領軍司令官への着任命令書そのものであった。
ルーシーは最後まで読み終え、手紙をテーブルに置いた。
「……父上は、私に『王家を乗っ取れ』と仰っているのね」
「そうだ」
セシリアは肯定した。
「トレバー殿下は、ヘンリーと違って常識人だが、政治的な力はない。王家はすでに形骸化している。これからの王国を動かすのは、公爵閣下の『頭脳』と、ガードナー家の『武力』だ。
……そして、王宮の内側から、傀儡となった王族を管理し、実際に政治を行うのが、新王妃となる貴女の役目だ」
それは、甘い新婚生活など存在しない、茨の道だった。愛のない夫と、冷徹な父の間に立ち、国家という巨大なシステムを運営する孤独な戦い。
「……わかっているわ」
ルーシーは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。 霧が少し晴れ、遠くの山並みが見え始めていた。
「私が真に望んだのは、復讐よりも『秩序』よ。ヘンリー殿下とマリアが目指した、感情と無責任な愛が支配する世界は、遠くない未来民を飢えさせ、国を焼いたでしょうね」
彼女は振り返り、セシリアを真っ直ぐに見つめた。
「愛では、人は救えない。人を救うのは、計算された物流と、維持された治安、そして法による統治……すなわち『論理』よ。私は、この国を二度とあのような混沌には戻さない。そのためなら、私は喜んで愛のない王妃になりましょう」
その言葉には、少女の夢見るような響きは微塵もなかった。あるのは、統治者としての覚悟と、氷のような冷徹さだけだった。
「リーザ!」
ルーシーが呼ぶと、控えていた侍女が飛んできた。彼女の手には、すでに準備されていた衣装が抱えられている。
「この修道服を下げなさい。……公爵令嬢のドレスを用意して」
「はい、ルーシー様! お待ちしておりました!」
侍女の声が弾んだ。 ルーシーは、純白の修道服を脱ぎ捨てた。それは、彼女が一時的に纏っていた「被害者」という殻を脱ぎ捨てる儀式のようだった。
代わりに袖を通したのは、公爵家の権威を象徴するような、深紅のベルベットのドレス。首元には大粒のルビーが輝き、その光は彼女の瞳にある冷たい炎と共鳴していた。
鏡の前に立ったルーシーは、かつての王太子の婚約者ではなく、王国の支配者の顔をしていた。
「行きましょう、セシリア。新しい王国の、最初の王妃として」
「御意。……貴女の背中は、我ら辺境の騎士が守ろう」
二人は修道院の回廊を歩いた。その足音は、石畳に高く響き、静寂を切り裂いていった。
修道院の門前には、公爵家の紋章が入った豪華な馬車と、セシリアが率いてきた辺境伯騎士団が整列していた。 騎士たちは、現れたルーシーに対し、王族に対するそれ以上の敬意を込めて一斉に抜剣し、敬礼を捧げた。 それは、新しい女王への忠誠の誓いであった。
馬車に乗り込み、扉が閉ざされる。 御者が鞭を鳴らし、車輪が回り始めた。聖マルコ修道院の霧が、徐々に後ろへと流れていく。
揺れる馬車の中で、セシリアが口を開いた。
「ルーシー。一つだけ忠告しておく」
「何かしら?」
「トレバー殿下は、今回の廃嫡騒動と火刑を見て、完全に心を閉ざしているそうだ。彼は父王バートラム陛下以上に、公爵閣下を……そして貴女を恐れているだろう」
セシリアは、窓の外の騎士団を眺めながら続けた。
「彼は、貴女を妻としてではなく、公爵家から送り込まれた『監視者』として見るはずだ。夫婦の情愛など、期待しない方がいい」
「……ええ、承知しているわ」
ルーシーは扇を開き、口元を隠した。
「ヘンリー殿下のような、感情に振り回される政治はもう懲り懲りよ。トレバー殿下が私を恐れ、私の言葉にただ頷いてくれるなら、むしろ好都合だわ。……愛などという不確定な要素は、統治の邪魔になるだけ」
「ふっ、頼もしいな。まさに『氷の王妃』だ」
セシリアは短く笑った。 王都への道中、二人が交わした会話は、昔話や宝石の話ではなく、今後の税制改革、国境警備の予算配分、そして粛清すべき貴族のリストについてであった。 その会話には、一切の熱情がなく、ただ冷徹な実務だけがあった。
数日後。王都の城門が見えてきた。 かつては活気に溢れていた王都だが、今はまだ暴動の傷跡が残り、灰色の空気が漂っていた。 公爵の物資開放により、飢餓は脱しつつあったが、街全体が恐怖と静寂に支配されていた。
城門を通過するルーシーの馬車を、民衆たちは無言で見送った。 歓声もなければ、ブーイングもない。ただ、絶対的な権力者が帰還したことへの、畏怖の眼差しだけがあった。
王宮の謁見室。 新王太子トレバーは、玉座の脇に立ち、窓からその行列を見ていた。 彼の隣には、すでに実権を失い、病人のように老け込んだ父王バートラムがいる。
「……戻ってきたか」
バートラムが、枯れ木のような手で窓枠を握りしめて呟いた。
「ルーシー嬢の帰還で、王家は生き残る。公爵の支援で、国は持ち直すだろう。……だが、忘れるな、トレバー」
バートラムは、自嘲気味に笑った。
「あの馬車に乗っているのは、王子の花嫁ではない。……王家を管理するために派遣された、公爵家の総督だ。我々は、今日から彼女の、そして公爵の傀儡となるのだ」
トレバーは、静かに目を伏せた。
「父上。……それでも、国が平和になり、民が飢えから解放されるのなら、私は喜んでその糸に操られましょう」
トレバーの言葉には、諦めと、微かな自己犠牲の覚悟が滲んでいた。 彼は知っていた。兄ヘンリーが夢見た「愛」の代償が、いかに高くついたかを。ならば、自分は「愛」を捨て、「服従」を選ぶことで、せめて王家の血を繋ごうと決めていた。
城門をくぐり、王宮の前庭に馬車が止まる。 扉が開かれ、ルーシー・オルコットが降り立った。 彼女を出迎える貴族たちは、一斉に平伏した。その背中には、冷や汗が流れていた。かつて彼女を嘲笑った者たちは、今や恐怖に震えながら、彼女の慈悲を乞うている。
ルーシーは、王宮を見上げた。 そこには、かつて自分が追い出された場所とは思えないほど、重苦しく、冷たい空気が漂っていた。 だが、それこそが彼女が望んだ「秩序」の色だった。
「ただいま戻りました」
ルーシーは誰に言うでもなく呟いた。
「さあ、始めましょう。感情のない、正しい王国の統治を」
彼女の足音と共に、王国は新たな時代へと足を踏み入れた。 それは、情熱やロマンとは無縁の、冷徹な論理と計算によって支配される、安定した、しかし凍てつくような冬の時代の始まりであった。




