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灰と霧  作者: ルーシー・オルコット
11/14

10話:地に堕ちた

狂熱の夜が明け、王都を照らしたのは、希望の朝日ではなく、鉛色の空から降り注ぐ死の雪であった。


昨夜、王都中央広場で燃え盛った巨大な炎は、聖女と呼ばれた一人の少女の肉体と共に、民衆の理性を焼き尽くした。そして今、その名残である黒い煤と白い灰が、風に乗って街全体を覆い尽くしていた。屋根も、石畳も、そして枯れかけた街路樹も、すべてが灰色に染まり、王都はまるで巨大な墓標のように沈黙していた。


民衆たちの熱狂は去っていた。 彼らは昨日、喉が裂けよとばかりに叫び、マリアに石を投げつけたが、一夜明けて残ったのは、依然として空っぽの胃袋と、後味の悪い罪悪感、そして「生贄を捧げたのだから、今日こそはパンが届くはずだ」という、縋るような期待だけであった。


しかし、市場は沈黙を守ったままであった。 公爵領からの荷馬車は一台も現れず、港には船影ひとつ見えない。 マリアというスケープゴートを焼き殺しても、王国を蝕む根本的な病巣、すなわり公爵による経済の窒息と、辺境伯による国境の放棄は、何一つ解決していなかったのである。


王宮の「青玉の間」。 かつては王国の繁栄を語る場であったこの会議室もまた、灰色の沈黙に支配されていた。 窓の外から吹き込む風が、微かな焦げ臭さを運び込み、室内の空気を澱ませている。


国王バートラムは、玉座に深く沈み込んでいた。 その姿は、数週間前とは別人のように小さく見えた。かつて王者の威厳を誇った金髪は白く褪せ、頬はこけ、目は落ち窪んでいる。彼は震える指先でこめかみを押さえ、うわ言のように呟いた。


「……静かだ」


その場に控える側近たちは、誰も答えることができなかった。 この静けさは、平和の訪れではない。王家の威信が完全に死滅したことによる、弔いの静寂であることを、誰もが理解していたからだ。


「マリアの火刑で、民衆の怒りは収まったようだ。広場からのシュプレヒコールも聞こえなくなった。……神殿長ニコル殿の判断は、結果として、王家を一時的な崩壊から救ったということになるのか」


王は自分自身に言い聞かせるように言った。そうでも思わなければ、自らが選んだ聖女を見殺しにした罪悪感に押し潰されそうだったのだ。


「父上」


静寂を破ったのは、王の隣に立つ新王太子、トレバーであった。 彼は兄ヘンリーのような華やかさも、激情も持たない青年だったが、今の王家において唯一、現実を直視できる冷静さを保っていた。


「一時的な救済に過ぎません。民は今、腹を空かせて待っています。今日中に食料が届かなければ、昨日の熱狂は、倍の憎悪となって再び我々に向けられるでしょう」


トレバーは、一枚の羊皮紙を王に差し出した。


「公爵閣下からの返事が届きました」


王バートラムは、ビクリと肩を震わせた。その羊皮紙に押されたオルコット家の封蝋が、まるで死刑執行書の烙印のように見えたからだ。


「……読め」


王は力なく命じた。


トレバーは封を切り、感情を抑えた声で読み上げた。


「……『王家からのご提案、拝受いたしました。我が娘ルーシーを新王太子の正妃として迎え入れたいとの由、公爵家としても、王国の安定と未来を憂い、前向きに検討する用意がございます』」


王の顔に、微かな安堵の色が浮かんだ。 検討するという言葉は、拒絶ではない。公爵は、まだ王家を見捨ててはいなかったのだ。


「おお……! ローレンスは、許してくれたのか! ルーシー嬢が戻れば、公爵家との絆は修復される。物流も戻るはずだ!」


しかし、トレバーは羊皮紙から目を離さず、淡々と続けた。


「……『ただし』」


その一言が、王の安堵を瞬時に凍りつかせた。


「『ただし、この婚姻を成立させ、王国の秩序を回復させるためには、病巣の完全な切除が必要不可欠と考えます。よって、公爵家は以下の三点を、和解の絶対条件として要求いたします』」


トレバーは息を吸い込み、公爵が突きつけた冷酷な要求を読み上げた。


「『第一に、現在、神殿が不当に保持している王都周辺の農地および免税特権の即時剥奪。第二に、王家から神殿へ移譲された異端審問権の、王家への即時返還。そして第三に……神殿長ニコルの解任と、その身柄の拘束』」


会議室に、戦慄が走った。 側近たちが息を呑み、顔を見合わせる。


王バートラムは、目を見開き、絶句した。


「な、何を……何を言っているのだ? 神殿長ニコルを? 彼は、昨日の火刑を主導し、暴動を鎮めた功労者ではないか!」


トレバーは静かに首を横に振った。


「公爵閣下にとって、マリアの火刑は功績ではありません。……あれは、王家の顔に泥を塗り、公爵との和解を妨害しようとした、ニコル殿の最後の悪足掻きであったと、公爵閣下は見抜いておられるのです」


「悪足掻き……?」


「はい。ニコル殿は、王家と公爵家が手を組むことを恐れ、我々の信用を失墜させるために『王家が魔女を匿っていた』という事実を捏造し、喧伝しました。公爵閣下は、その裏切り行為を許すつもりはありません。……そして何より」


トレバーは視線を羊皮紙に戻し、最後の一文を読み上げた。


「『己の保身のために主君を売り、民衆を扇動して火を放つような危険分子を、新体制の枢軸に残すことは、王国の安全保障上の最大のリスクである』……と」


王は椅子に背を預け、天を仰いだ。 公爵ローレンスの狙いは明白だった。彼は、王家を屈服させるだけでなく、この混乱に乗じて肥大化した「神殿」という第三勢力を、根こそぎ刈り取るつもりなのだ。 マリアの火刑という混乱を逆手に取り、邪魔者を一掃する。それは、あまりにも合理的で、徹底的な掃除だった。


「……公爵は、王家を丸裸にする気か。神殿という盾さえも奪い、完全に、実質的に、王家を掌握しようとしている……」


王の声は震えていた。 だが、拒否権などなかった。公爵の機嫌を損ねれば、王都は今度こそ飢え死にする。


「……わかった」


王は、魂が抜けたような声で言った。


「ニコルを……切れと言うのだな」


同時刻。王都の公爵邸。 その執務室には、王宮と同じような灰色の光が差し込んでいたが、そこに漂う空気は絶望ではなく、氷のように澄み切った静謐さであった。


ローレンス・オルコットは、壁一面に広げられた王都の地図の前に立っていた。 彼の手には、赤いインクを含んだペンが握られている。


「マリアの灰は、王家の真の終わりを象徴する」


ローレンスは、地図上の王宮の位置に、小さな×印を書き込んだ。 それは感情的な落書きではない。権力構造の変化を記録する、事務的なマーキングだった。


「神殿長ニコル……。彼は、自分が賢いと過信していた。王家を裏切り、マリアを焼き殺すことで、私に『王家の不道徳さ』をアピールし、和解を阻止できると踏んだのだろう」


ローレンスは振り返り、控えていた側近に語りかけた。


「だが、彼は致命的な読み違いをしていた。私は道徳家ではない。王家が魔女を匿っていようが、無能であろうが、それが『利用価値』を上回るコストにならない限り、どうでもいいことだ」


側近が恭しく頷いた。


「左様でございます。むしろ、ニコルの暴走により王家の権威が失墜したことで、閣下が王家をコントロールするコストは大幅に下がりました」


「その通りだ。彼は意図せずして、私に最大の利益をもたらした。……だが」


ローレンスの瞳の奥に、絶対零度の光が宿った。


「一度主人を裏切った犬は、二度裏切る。彼は状況次第で、次は私に牙を剥くだろう。異端審問権などという強力な武器を、あのような日和見主義者に持たせておくことは、私の設計する新秩序において許容できないリスクだ」


ローレンスはペンを置き、懐中時計を確認した。 秒針が時を刻む音が、ニコルの命運をカウントダウンしているように響く。


「直ちに神殿長ニコルを王宮に召喚させろ。名目は何でもいい。『論功行賞』とでも伝えておけば、尻尾を振ってやってくるだろう」


「承知いたしました。……ニコル殿の処遇はいかがなされますか? 処刑いたしますか?」


「処刑?」


ローレンスは意外そうに眉を上げた。


「なぜ殺す必要がある? 死ねば殉教の理由をでっちあげ英雄になるかもしれん。……生かしておけ。全ての権力と財産を剥奪し、地下の暗闇の中で、自分の愚かさを反芻させ続けろ。それが、彼のような権力の亡者にとって、死よりも重い罰となる」


それは、慈悲ではなく、最も効率的な廃棄処理の決定であった。


一時間後。王宮の謁見室。 重い扉が開かれ、神殿長ニコルが入室した。 彼の足取りは軽く、表情は喜色に満ちていた。純白の法衣を翻し、彼は勝利者として王の前に進み出た。


(勝った。私の賭けは成功した)


ニコルは確信していた。 マリアの火刑は成功した。民衆は熱狂し、王家の権威は地に落ちた。公爵は、魔女を匿っていた王家との和解を拒絶するはずだ。そうなれば、王家が生き残る道は、神殿の権威に全面的に依存することしかない。


「陛下!」


ニコルは芝居がかった動作で跪いた。


「神の正義は成されました! 魔女マリアは灰となり、王都の穢れは浄化されました。これでもう、公爵閣下も王家を軽んじることはできますまい。神殿の威光が、陛下をお守りしたのです!」


ニコルは顔を上げ、期待に満ちた目で王を見た。 さらなる領地、さらなる権限、そして感謝の言葉を待っていた。


しかし、玉座に座る国王バートラムの表情は、能面のように冷たかった。 その隣に立つトレバー王太子も、氷のような視線をニコルに向けている。


「……ニコル殿」


王の声は低く、感情が削ぎ落とされていた。


「大儀であった。……だが、王家は判断した。今回の騒動において、神殿の権限はあまりにも肥大化しすぎたと」


「は……? 何を仰いますか?」


ニコルの笑顔が凍りついた。


「神殿の権益は、王国の法と秩序を乱す不当なものであった。よって、王命を下す」


王は、震える手を太腿に押し付け、宣言した。


「神殿長ニコル。貴殿に預けていた異端審問権を、直ちに王家へ返還せよ。さらに、王都周辺の神殿領の半分を、飢餓対策および公爵派閥への領地再分配のため、王家が接収する」


ニコルは耳を疑った。 世界が反転したようなめまいに襲われる。


「へ、陛下……正気ですか!? これは神の意志に逆らう行為です! 私は王家のために尽くしたのですよ! マリアという魔女を焼き、民衆の怒りを鎮めたではありませんか!」


「黙れ!」


トレバーが一喝した。


「貴様が焼いたのは魔女ではない! 王家の威信だ! 貴様のパフォーマンスのせいで、王家は『魔女を匿っていた愚か者』として世界に恥を晒したのだ! それを功績だと? 笑わせるな!」


「そ、そんな……! あれは王家を守るために……!」


ニコルは狼狽し、後ずさった。 その時、謁見室の脇にある扉が静かに開き、一人の男が入室してきた。 足音一つ立てず、影のように現れたその姿に、室内の空気が一瞬にして凍りついた。


公爵ローレンス・オルコット。 彼は喪服のような黒衣に身を包み、一切の感情を排した瞳で、ニコルを見下ろしていた。


「こ……公爵、閣下……」


ニコルの喉から、ひきつった声が漏れた。 なぜ彼がここにいる? 王家との和解は決裂したはずではなかったのか?


ローレンスは、ニコルの疑問になど答える価値もないとばかりに、静かに、そして絶対的な冷酷さをもって言葉を投げかけた。


「神殿長。……見苦しいぞ」


「か、閣下! お待ちください! 私は、私は貴方のために……! 王家のような腐敗した組織ではなく、貴方のようなお方にこそ、この国は相応しいと……だからこそ、マリアを……!」


ニコルは必死に弁明した。プライドをかなぐり捨て、床に這いつくばって公爵の靴に縋ろうとした。


しかし、ローレンスはその手を汚らわしげに避けた。


「私のために?」


ローレンスの口元が、三日月形に歪んだ。それは嘲笑だった。


「勘違いするな。君がやったのは、私への忠誠ではない。自分の値打ちを吊り上げるための、浅ましい自己保身だ」


「ち、違います! 私は……!」


「君は、廃嫡されたヘンリー王子を唆し、マリアを魔女に仕立て上げ、民衆を扇動した。……その手口は鮮やかだったが、あまりにも品がない。そして何より、君は『契約』という概念を理解していない」


ローレンスは、ニコルを見下ろして言った。


「王家から恩恵を受けながら、王家を裏切り、その背中を刺した。……一度飼い主を噛んだ犬を、私が新しい番犬として雇うと思うか? 君のような裏切り者は、私の論理的な統治において、最も排除すべき不具合だ」


ローレンスが指を鳴らした。 控えていた近衛兵たちが、一斉にニコルに飛びかかった。


「ひっ! 離せ! 私は神殿長だぞ! 神の代弁者だ!」


ニコルは暴れたが、屈強な兵士たちにねじ伏せられ、床に顔を押し付けられた。


「神罰が降るぞ! 貴様ら、地獄に落ちるぞ!」


「地獄か」


ローレンスは冷ややかに言った。


「もしあるとすれば、そこは君のような強欲な人間が行く場所だろう。……連れて行け。王都の地下牢、最も深い独房へな」


「公爵! 待ってくれ! 話せばわかる! 私はまだ役に立つ! 異端審問権も、神殿領も、全部あんたにやる! だから……!」


ニコルの絶叫は、衛兵によって引きずられていくにつれて遠ざかり、やがて重い鉄扉が閉まる音と共に断ち切られた。


謁見室に、再び静寂が戻った。 だが、それは先ほどまでの重苦しいものではなく、嵐が過ぎ去った後のような、空虚で乾いた静けさだった。


王バートラムは、全身の力が抜けたように玉座に座り込んでいた。 彼は、自分の手を汚すことなく、公爵の命令一つでかつての盟友を葬り去ったのだ。


「……終わったか」


王は呟いた。 神殿長ニコル。王権に食い込み、国を操ろうとした怪物は、あっけなく退場した。しかし、その後に残ったのは、より巨大で、より冷徹な支配者であった。


ローレンスは、王に向き直り、優雅に一礼した。


「賢明なご判断でございます、陛下。これで、王都の癌は切除されました」


「……ああ。そうだな」


王は力なく頷いた。


「約束通り、物流は再開していただけるのだろうな」


「もちろんです。私の商会には、すでに指示を出しております。明日から徐々に、王都の市場に活気が戻るでしょう」


ローレンスは微笑んだが、その目は笑っていなかった。


「ただし、急激な供給は市場を混乱させます。……まずは公爵家と懇意にしている貴族、そして新体制に協力を誓った者たちから順に、配給を行うことになりますが、ご了承いただけますね?」


それは、「王家ではなく公爵に忠誠を誓った者だけが生き残れる」という、露骨な選別の宣言だった。 王は唇を噛み締めたが、反論する言葉を持たなかった。


王宮の外では、神殿長の失脚と逮捕のニュースが、風よりも速く貴族社会を駆け巡っていた。


「神殿が潰されたぞ!」


公爵閣下が、神殿の権益をすべて没収したらしい!」


「王家は公爵の言いなりだ。……急げ! 公爵邸へ挨拶に行くんだ!」


王家派閥の貴族たちは、雪崩を打って公爵派へと寝返り始めた。 昨日の今日で、王家の権威は完全に消滅し、王都の支配権は、音もなく、しかし確実にオルコット公爵家へと移行していた。


数日後。 新王太子トレバーは、窓辺に立ち、王都の風景を眺めていた。 市場には荷馬車が行き交い、人々の顔には生気が戻りつつある。公爵の支配の下、秩序と食料は戻ってきたのだ。


「……これで、王国は安定するのか」


トレバーは独り言ちた。 安定はした。だが、それは王家の意志によるものではなく、公爵という巨大なシステムの一部として組み込まれた結果に過ぎない。


「私は、王になるのではない。公爵家の代理人になるのだ」


彼はその事実を、静かに、そして諦念と共に受け入れていた。 彼の背後にある机の上には、一通の書状が置かれていた。それは、公爵令嬢ルーシー・オルコットの王都帰還予定を知らせるものであった。



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