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灰と霧  作者: ルーシー・オルコット
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9話:香木を薪に

それは、神に仕える者にあるまじき、背徳的で残酷な計画だった。 だが、ニコルにとって信仰とは、権力を得るための道具に過ぎなかった。彼は躊躇なく、その道具を「薪」として燃やすことを決めた。


「準備をせよ。直ちに。異端審問権に基づき、『聖女マリア』を逮捕する」


神官長は、この突拍子のない命令に驚愕し、血の気が引いた顔をした。


「に、ニコル猊下! 聖女を、でございますか? 我々が神の御声として民衆に推し、王宮に送ったはずでは……」


「その聖女こそが、王国の危機を招いた『魔女』であったと、神は昨夜、私に啓示されたのだ」


ニコルは顔を上げ、その瞳で神官長を射抜いた。その目は、信仰心ではなく、純粋な権力欲と狂気を宿していた。神官長は、これ以上問うことは許されないと悟り、震えながら頷いた。


「この火刑は、単なる断罪ではない。王家が守り通した聖女が魔女であったという事実を、公爵と民衆の脳裏に焼き付け、王家の威信を地の底に叩き落とすための、最大の政治的儀式だ。神殿は、公爵の和解の前提を破壊する。速やかに動け。一切の躊躇は許されない」


ニコルの怒号が、地下の闇に響き渡った。


翌朝。王宮の「北の塔」。 幽閉されたヘンリー王太子のもとに、一人の神官が訪れた。彼はニコルの腹心であり、人の心を操る話術に長けた男だった。


ヘンリーは、部屋の隅でうずくまり、虚ろな目で壁を見つめていた。数日間の幽閉生活で、彼の精神は限界を迎えていた。


「殿下……。お可哀想に」


神官は、慈悲深い声で語りかけた。


「なぜ、このような仕打ちを受けねばならないのですか。殿下は何も悪くないのに」


ヘンリーは、縋るように顔を上げた。


「そ、そうだ……僕は悪くない。悪いのは……」


「ええ、存じております」


神官は、ヘンリーの耳元で甘く囁いた。


「すべては、あの女のせいです。マリアのせいです」


「マリア……?」


「はい。彼女は聖女などではありませんでした。彼女は……人を惑わす妖術を使う『魔女』だったのです」


「魔女……?」


「思い出してください。彼女に出会う前の殿下は、聡明で、誰からも愛されていました。しかし、彼女が現れてから、殿下はおかしくなってしまわれた。それは、彼女が殿下に『魅了の魔法』をかけたからです」


「魅了の……魔法……」


ヘンリーの瞳が揺れた。 それは、彼にとってあまりにも都合の良い真実だった。自分の失敗も、愚かさも、すべて「魔法をかけられていたから」という理由で免罪されるのだ。


「そうだ……! そうだったんだ!」


ヘンリーは叫んだ。


「僕の頭の中に、霧がかかったようになっていた! 全部あいつの妖術だったんだ! あいつが僕を操って、国をめちゃくちゃにしたんだ!」


神官は、満足げに微笑んだ。


「やはりそうでしたか。……殿下、その真実を、民の前で証言していただけますか? 殿下の名誉を回復し、魔女を裁くために」


「ああ、証言する! 僕は被害者だ! あの魔女を殺してくれ!」


ヘンリーは狂気じみた笑顔で頷いた。 彼は知らなかった。その証言が、かつて愛した女性を灰にし、自分自身を永遠の汚名の中に沈めることになるということを。


その夜。マリアの部屋。 彼女は、窓の外の暗闇を怯えながら見つめていた。王宮の外からは、依然として民衆の怒号が聞こえてくる。


「怖い……。早く朝になって……」


彼女は毛布にくるまり、震えていた。 その時、ドアが激しく叩き破られた。


「きゃあっ!」


武装した神殿騎士たちが、雪崩れ込んできた。彼らの手には、抜き身の剣と、重々しい鎖が握られている。


「聖女マリア! お前を『国家反逆罪』および『異端の妖術使用』の容疑で逮捕する!」


「え……?」


マリアは言葉を失った。 逮捕? 異端? 何を言われているのか理解できない。


「な、何を言うの! 私は聖女よ! 神殿長様が認めてくれたじゃない!」


「黙れ! これは神殿長ニコル猊下の厳命だ!」


騎士の一人が、マリアの腕を乱暴に掴み上げた。


「お前は聖女の皮を被った魔女だ! 王太子殿下をたぶらかし、国を飢えさせ、異民族を引き入れた元凶だ! その罪、火をもって浄化せねばならん!」


「違う! 離して! ヘンリー様! 助けて!」


マリアは必死に抵抗したが、屈強な男たちには敵わなかった。彼女は冷たい鎖で縛り上げられ、部屋から引きずり出された。


「嫌ぁぁぁ! 私は悪くない! 私は何もしてない!」


彼女の悲鳴が王宮の廊下に響き渡ったが、誰も助けには来なかった。かつて彼女に傅いていた侍女たちも、衛兵たちも、皆冷ややかな目で彼女を見送った。 彼らにとっても、マリアは自分たちの生活を壊した憎き敵だったのだ。


数日後。王都中央広場。 そこには、巨大な処刑台が組まれていた。台座の周りには、乾燥した薪が高々と積み上げられ、油の匂いが漂っている。


広場を埋め尽くしたのは、数万の民衆だった。 彼らの目は飢えで窪んでいるが、その奥には異様な興奮と殺気が渦巻いていた。彼らは娯楽を求めていたのではない。「生贄」を求めていたのだ。自分たちの不幸のすべてを背負って燃えてくれる、わかりやすい悪役を。


「魔女を出せ!」 「殺せ! 殺せ!」


地鳴りのようなシュプレヒコールの中、鎖に繋がれたマリアが引きずり出された。 数日間の地下牢生活で、彼女の美しいドレスはボロ布となり、肌は汚れ、髪は絡み合っていた。かつての可憐な面影はどこにもない。


彼女は処刑台の柱に縛り付けられた。


「痛い……やめて……」


マリアは泣き叫んだが、その声は民衆の怒号にかき消された。


壇上に、神殿長ニコルが姿を現した。彼は荘厳な法衣を纏い、神の代弁者のような顔で民衆を見下ろした。


「静粛に!」


ニコルの声が響き渡ると、広場は一瞬静まり返った。


「哀れな子羊たちよ。神は汝らの苦しみをご存知だ。そして、その苦しみの原因がどこにあるかも、神は示された!」


ニコルは、柱に縛られたマリアを指差した。


「この女こそが、諸悪の根源である! 聖女を騙り、妖術で王太子を操り、公爵家と辺境伯家を追放し、この国に飢餓と戦乱をもたらした『異端の魔女』である!」


「おおお……!」


民衆がどよめいた。


「証人を喚問する! ヘンリー・ウィンザー!」


幽閉されていたヘンリーが、ふらふらと壇上に現れた。 彼は憔悴しきっていたが、その目は異様にぎらついていた。彼はマリアを見下ろし、顔を歪めた。


「ヘンリー様……!」


マリアが救いを求めて名前を呼んだ。だが、ヘンリーの口から出たのは、呪いの言葉だった。


「……魔女め」


ヘンリーは叫んだ。


「こいつがやったんだ! 僕の頭に変な魔法をかけて、ルーシーを追い出させたんだ! 僕は操られていたんだ! こいつが全部悪いんだ!」


「聞いたか!」


ニコルが叫んだ。


「元王太子殿下ご自身が証言された! これこそが動かぬ証拠である! この女は、王家の慈悲を踏みにじり、国を滅ぼそうとしたのだ!」


「殺せ!」「焼き払え!」


民衆の興奮は最高潮に達した。石や腐った野菜が、雨のようにマリアに投げつけられる。


「違う……違うの……!」


マリアは首を振った。


「私はただ、愛されたかっただけなの……! 綺麗なドレスが欲しかっただけなの……! どうして私が死ななきゃいけないの!」


彼女の叫びは、あまりにも幼稚で、利己的だった。それが、民衆の怒りにさらに油を注いだ。


「パンも食えない俺たちの前で、ドレスだと!?」 「死ね! 悪魔!」


特別観覧席には、国王バートラムと新王太子トレバーが座っていた。 バートラムは、手すりを握りしめて震えていた。


「……ニコルめ。ここまでやるか」


王は悟っていた。 これは正義の裁きではない。神殿による「王家への当てつけ」だ。 王家が承認した聖女を、王家の目の前で処刑する。それは、「王家には人を見る目がない無能な集団だ」と公言しているに等しい。


だが、王には止める力がなかった。民衆の支持は完全に神殿側にあり、今ここで処刑を止めれば、暴動の矛先は王家に向く。


「……見届けるしかない」


王は目を背けたくなる衝動を堪え、処刑台を凝視した。


一方、広場の隅にある貴賓席。 そこには、漆黒の公爵服に身を包んだローレンス・オルコットが座っていた。 彼は、熱狂する群衆と、怯えるマリア、そして勝ち誇るニコルを、オペラでも鑑賞するかのように無表情で眺めていた。


「閣下……」


傍らに控える商会長が、青ざめた顔で囁いた。


「よろしいのですか? これは、神殿の暴走です。王家の顔に泥を塗る行為です」


「構わんよ」


ローレンスは、手すりの上で指を組んだ。


「ニコルは、これで王家と私の和解を阻止できると思っているのだろう。『王家は魔女を匿っていた』という事実を突きつければ、私が王家を見限ると計算したのだ」


「では、和解は……?」


「愚かなことだ」


ローレンスの口元に、冷酷な笑みが浮かんだ。


「彼は気づいていない。私が求めているのは『道徳的な潔癖さ』などではないということに。……むしろ好都合だ。王家の権威が地に落ちれば落ちるほど、私が王家を傀儡として支配しやすくなる」


ローレンスにとって、マリアの火刑は、ニコルが意図した和解の妨害ではなく、王家弱体化の仕上げとして映っていた。ニコルの必死の抵抗さえも、公爵の手のひらの上で踊る道化の芝居に過ぎなかったのだ。


「さあ、見せてもらおうか。愚者の末路を」


処刑台の上で、ニコルが高らかに宣言した。


「神の怒りを鎮めよ! 浄化の炎を!」


彼が合図を送ると、松明を持った処刑人が薪に火を放った。 油を含んだ薪は、瞬く間に燃え上がった。


「嫌ぁぁぁ! 熱い! 熱いぃぃぃ!」


紅蓮の炎がマリアの足を舐め、白い聖衣を焦がしていく。 彼女の絶叫は、広場の隅々まで響き渡った。


「ヘンリー様ぁぁぁ! 助けてぇぇぇ!」


ヘンリーは、炎に包まれるかつての恋人を見ても、顔色一つ変えなかった。いや、むしろ安堵の表情すら浮かべていた。これで自分の罪はすべて消える、と信じ込んでいるかのように。


「私は悪くない……! 私は神に選ばれた聖女なのよ……! なんで……なんでぇぇぇ!」


マリアの声が、炎の轟音にかき消されていく。 黒い煙が空高く昇り、王都の空をさらに暗く染めていく。


民衆は歓声を上げた。 彼らはマリアが死ぬことで、明日からパンが手に入ると信じていた。飢餓も、貧困も、すべて魔女と共に燃え尽きると信じていた。 それは悲しいほどの錯覚だったが、今の彼らにとって唯一の救いだった。


数十分後。 悲鳴は途絶え、処刑台には黒く焦げた柱と、炭化した何かだけが残された。 風に吹かれた白い灰が、雪のように王都に降り注いだ。


「……終わったか」


国王バートラムは、力なく呟いた。 彼は知っていた。焼かれたのは一人の少女だけではない。王家の威信、そして王国の良心そのものが、灰になったのだと。


広場の熱狂が冷めやらぬ中、ローレンス公爵は席を立った。


「行くぞ」


「はっ。……どちらへ?」


「王宮だ。ニコル君に礼を言わねばな。……王家の最後のプライドを焼き払ってくれたことにな」


ローレンスの背中は、燃え盛る炎を背にしても、氷のように冷たく、そして絶対的な支配者のオーラを放っていた。


遠く離れた山間。 聖マルコ修道院の礼拝堂で、ルーシーは一人、祈りを捧げていた。 ステンドグラスから差し込む光が、彼女の横顔を照らしている。


遠くから、弔いの鐘の音が聞こえてきた。 風に乗って運ばれてきたその音は、王都での祭りの終わりを告げていた。


ルーシーは早馬で送られて来た報告書を手にゆっくりと目を開けた。 その瞳は、硝子玉のように静かで、何の感情も映していなかった。


「……終わったわね」


彼女は小さく呟いた。


「マリア。貴女は最後まで、自分が物語の主役だと信じていたのでしょうね。……でも、現実は物語じゃない。貴女の『愛』も『涙』も、空腹の前では何の役にも立たなかった」


ルーシーは立ち上がり、祭壇の蝋燭を吹き消した。 ふっと煙が立ち上る。


「さようなら。……私の踏み台になってくれて、ありがとう」


彼女は振り返ることなく、礼拝堂を後にした。 その足取りは軽く、王都への帰還、すなわち王妃としての新たな戦場への旅立ちを、静かに待ち望んでいるかのようだった。


王都には灰が降り積もる。 それは、旧き時代の終わりと、冷徹な論理が支配する新時代の幕開けを告げる、死の雪であった。


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