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灰と霧  作者: ルーシー・オルコット
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プロローグ:破滅への宴

王国の威信を天に示すかのような、壮麗な夜であった。


王都の中心に鎮座する王宮、その中でも最大の広さを誇る「鏡の間」は、今宵、眩いばかりの光の洪水に満たされていた。天井高く吊るされた巨大なクリスタルのシャンデリアは、数千本の蝋燭の炎を抱き、磨き上げられた大理石の床にその煌めきを無限に反射させている。

楽団が奏でる優雅なワルツの旋律は、絹が擦れる衣擦れの音や、洗練された貴族たちの笑い声、そして最高級のクリスタルグラスが触れ合う軽やかな音色と混ざり合い、この世の春を謳歌する祝祭の空気を醸成していた。


ここは王立学園の卒業パーティー。国内外の要人や、次世代の王国を担う若き貴族たちが一堂に会する、社交界の頂点とも言える場である。


しかし、その華やかな喧騒の下には、ある種の緊張感が、見えない糸のように張り巡らされていた。広間に集う人々の視線は、無意識のうちに、そして時には露骨な好奇心を込めて、ある三人の女性へと注がれていたからだ。


一人は、この夜会の主役である王太子ヘンリーの隣に寄り添う、法衣男爵の庶子マリア。彼女は真珠色に輝く豪奢なドレスを纏い、その儚げな美しさは、まるで風に揺れる白百合のように周囲の庇護欲を掻き立てるものであった。


そして、その対極に位置するのが、王太子の正面、広間の最前列に立つ二人の令嬢である。


公爵令嬢ルーシー・オルコット。 王国の経済をその掌中に収めるオルコット公爵家の嫡女であり、王太子の正婚約者。漆黒の髪を一分の隙もなく結い上げ、深紅のドレスを纏ったその姿は、彫刻のような完璧な美しさを誇っていた。

彼女の立ち姿には、呼吸をする際の方すら計算されたかのような、一切の無駄がない。扇を持つ手の角度、背筋の伸び、瞬きの回数に至るまで、彼女は「未来の王妃」としての理想を体現していた。


その隣には、辺境伯令嬢セシリア・ガードナー。 北方の過酷な国境線を守る武門の家系、ガードナー辺境伯家の娘であり、王太子の副妃候補。彼女は質実剛健な家風を表すような、飾り気こそ少ないが極めて上質な、夜空のような紺色のドレスに身を包んでいた。

その立ち方は舞踏会のそれというよりは、何時いかなる時も剣を抜ける騎士のそれに近く、鋭い眼光は周囲の貴族たちの軟弱な笑顔を射抜くかのように光っていた。


本来ならば、彼女たち二人こそが王国の両翼となり、王太子ヘンリーの治世を支える盤石の柱となるはずだった。


だが、運命の歯車は、唐突に、そして暴力的な音を立てて狂い始めた。


指揮者のタクトが止まり、ワルツの最後の一音が消え入るのと同時だった。大広間の中央、玉座に近い一段高い壇上にいた王太子ヘンリーが、手を挙げて静寂を求めたのだ。彼のいつもの柔和で人好きのする笑顔は消え失せ、そこには張り詰めた緊張と、何らかの使命感に燃える瞳だけがあった。


ヘンリーは隣に立つマリアの震える肩を抱き寄せると、会場の隅々まで響き渡る声で宣言した。


「静粛に! 皆、聞いてくれ!」


ざわめきが波が引くように収まり、数千の瞳が壇上に集中する。ヘンリーは、眼下に立つルーシーとセシリアを、まるで汚らわしいものを見るかのような目つきで一瞥し、大きく息を吸い込んだ。


「本日、この佳き日をもって、公爵令嬢ルーシー・オルコット、そして辺境伯令嬢セシリア・ガードナーを、我が婚約者の地位、および副妃候補の地位より解任する!」


その言葉が放たれた瞬間、会場の空気が凍りついた。時が止まったかのような静寂。誰もが我が耳を疑い、隣の者と顔を見合わせることもできず、ただ呆然と立ち尽くした。解任。それは単なる婚約破棄ではない。王国の権力構造を根底から覆す、政治的な暴挙に他ならなかった。


玉座に座る国王バートラムの手から、グラスが滑り落ちそうになった。王は顔色を土気色に変え、わなわなと震える手で玉座の肘掛けを掴み、立ち上がろうとした。


「へ、ヘンリー…貴様、何を…」


しかし、王の弱々しい制止の声は、ヘンリーの激情によってかき消された。ヘンリーの背後に隠れるように立っていたマリアが、そっと一歩前へと進み出たからだ。彼女の大きな瞳には、照明の光を巧みに計算したかのような大粒の涙が浮かび、今にもこぼれ落ちそうに揺れていた。


「うっ、うう…」


静まり返った広間に、マリアの嗚咽が漏れる。それは弱々しく、しかし、観衆の同情を引くには十分すぎるほど可憐な響きを持っていた。彼女は震える指先で目元を拭い、絞り出すような声で訴え始めた。


「ル、ルーシー様は…私に、学園の廊下で何度も仰いました。『身の程を知れ、汚らわしい平民上がり』と…。私の教科書を隠し、挨拶をしても無視し、周囲の方々に私を無視するよう命じられたのです…」


マリアは言葉を詰まらせ、ヘンリーの胸に顔を埋めた。ヘンリーは彼女を庇うように強く抱きしめ、ルーシーを睨みつける。マリアはさらに顔を上げ、涙に濡れた瞳でセシリアの方を見た。


「それに…ヘンリー様が私のために贈ってくださった、あの大切な真珠色のドレス…前回の夜会で、セシリア様はわざと赤ワインをぶちまけました。

 私は悲しくて、恥ずかしくて…。セシリア様は冷たく笑って、『戦場の泥よりはマシでしょう』と…私を見下したのです!」


会場のあちこちから、息を呑む音が聞こえた。「まさか」「あの公爵令嬢が」「辺境伯令嬢ならやりかねない」といった囁きが、さざ波のように広がる。


ヘンリーはそのざわめきを「正義への賛同」と捉えたようだった。彼は勝ち誇った表情で、さらに声を張り上げた。


「聞け、貴族諸君! 彼女たちの行動は、単なる女同士の嫉妬や嫌がらせの範疇を超えている! 未来の王族となるべき聖女マリアに対する陰湿な迫害であり、ひいては王家が認めた『聖女』の権威を貶める、公然たる不敬である!

  私は、この国の未来を担う王太子として、このような陰湿な悪意を持つ者たちを、決して私の隣に置くわけにはいかない!」


王太子の言葉は熱を帯び、自らの行いが絶対的な正義であるという陶酔に満ちていた。彼は、自らの決定が王国の根幹である公爵家と辺境伯家を同時に敵に回すことの意味を、全く理解していないようだった。


一方、断罪された二人の令嬢は、嵐のような非難の中にあっても、彫像のように微動だにしなかった。


ルーシーは、表情筋一つ動かさず、ただ静かにヘンリーとマリアを見つめていた。その瞳は、怒りや悲しみといった感情の色を一切映しておらず、まるで目の前の出来事をデータとして処理しているかのような、無機質な静けさを湛えていた。彼女の手元の扇は、指一本分たりとも狂いなく、定位置に収まっていた。


セシリアもまた、動揺を見せなかった。彼女は軽く顎を引き、蔑むような視線を壇上の二人に投げていた。その目は、目前の茶番劇を、退屈な道化の芝居でも見ているかのように冷ややかだった。


国王バートラムは、宰相に肩を抑えられながら、絶望的な表情で息子を見つめていた。今ここで王子を怒鳴りつければ、王家の内紛を諸外国の要人に晒すことになる。王は進退窮まり、ただ脂汗を流すことしかできなかった。


やがて、ルーシーが動いた。 絹の擦れる音が、静寂の中で不自然なほど大きく響く。彼女は一歩、優雅に前へと進み出た。その歩みは、断罪された罪人のものではなく、玉座へと向かう女王のそれであった。


彼女はゆっくりと扇を閉じ、そのパチリという乾いた音で、会場の視線を一身に集めた。


「承知いたしました、ヘンリー殿下。」


ルーシーの声は、鈴を転がすように美しく、しかし氷のように冷たかった。広間の隅々にまで透き通るその声には、一切の震えが含まれていない。


「私、ルーシー・オルコットは、殿下が仰る『不当な嫉妬心』とやらで、マリア様に不快な思いをさせたというご判断を、王家の決定として受け入れます。

 王太子の裁定に異を唱えるつもりは、毛頭ございません。」


彼女は深く、完璧な角度でカーテシーを行った。その姿があまりにも美しく、堂々としていたため、ヘンリーは一瞬、言葉を詰まらせた。ルーシーは顔を上げ、マリアへと視線を移した。

その瞬間、マリアは蛇に睨まれた蛙のように身体を硬直させた。ルーシーの瞳には、敵意すらなく、ただ「無価値なもの」を見るような虚無があったからだ。


「しかし、一点だけ訂正させていただきます。」


ルーシーは淡々と言葉を続けた。


「私の行動は、公爵家の一員として、また殿下の筆頭婚約者として、王家の威信を、素性の知れぬ平民上がりの振る舞いによって貶められないようにするための、最低限かつ教育的な指導でございました。

 それを『いじめ』と解釈されるのであれば、もはや私に王族をお支えする資質は欠けていると言わざるを得ません。」


会場がざわついた。彼女は謝罪しているようでいて、暗に「王太子の判断基準が低俗である」と批判したのだ。


ルーシーは、それ以上ヘンリーにもマリアにも関心を示さなかった。彼女はくるりと踵を返し、広間の壁際に立つある一点を見つめた。そこには、彼女の父、公爵ローレンス・オルコットが立っていた。


ローレンスは、騒然とする会場の中で、ただ一人、異様なほどの静けさを保っていた。腕を組み、表情を消し、娘の視線を真正面から受け止めている。親子の間で、視線による無言の会話が交わされたのは、ほんの一瞬のことだった。


ルーシーは、父に向かって、王族に対するよりもさらに深く、そして優雅に一礼をした。それは、彼女の忠誠の対象がどこにあるのかを、満座の中で示す行為だった。


「父上。」


ルーシーの声が、凛と響く。


「王家の判断は覆りません。よって、これ以上、私という『汚点』が存在することによって、オルコット公爵家の崇高な名誉が傷つけられ、不当な介入を受ける事態を避けるため、私ルーシーは、自発的に王都を離れ、聖マルコ修道院へ入ることを決意いたしました。」


会場から悲鳴に近い驚きの声が上がった。修道院入り。それは社会的な死を意味するが、同時に、王家との関係を完全に断絶するという、強烈な拒絶の意思表示でもあった。


ルーシーは続けた。


「貴家におかれましては、王家に対していかなる感情も挟まず、ただ粛々と、公爵家としての義務と権利を、契約と法のっとって果たされますようお願い申し上げます。」


『粛々と、義務と権利を』。 その言葉に含まれた真意を理解した者は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。それは父ローレンスに対する、「王家への情け容赦ない、徹底的な報復」を許可する合図に他ならなかったからだ。


ローレンス公爵は、娘の言葉に対し、わずかに顎を引いて頷いただけだった。だが、その瞳の奥には、氷河のような冷徹な光が宿り、王太子を見据えていた。


ルーシーが下がると、間髪入れずに辺境伯令嬢セシリアが顔を上げた。


彼女の反応は、ルーシーのような洗練されたものではなかった。彼女は鼻を鳴らし、露骨な嘲笑を浮かべてヘンリーを見た。


「ヘンリー殿下。いや、元婚約者殿。王家の決定、確かに承りました。私は直ちにこの窮屈なドレスを脱ぎ捨て、辺境伯領へ戻ります。」


セシリアは、マリアの方へ一歩踏み出した。マリアが「ひっ」と小さな悲鳴を上げて後ずさる。セシリアはマリアを睨みつけるのではなく、哀れむような目で見下ろした。


「おい、そこの『聖女』。」


セシリアの声は低く、ドスの効いたものだった。


「貴様が言う通り、私は貴様のドレスにワインをかけたかもしれん。だがな、辺境の地では、『王都の華やかな社交のしきたり』や『ドレスのシミ』よりも、『一撃の重み』が重要視されるのだ。

 私には、貴様のような、涙と媚びで男を操るような戦法は肌に合わんのでな。」


セシリアは腰に手を当て、会場全体に聞こえるように言い放った。


「聖女と目される貴女の、その『無私の愛』とやらが、オークや蛮族の爪牙から、この王国の国境線を守り抜けることを心よりお祈り申し上げる。

 辺境の戦場で、ドレスにぶちまけたワインのシミが、一体どのような価値を持つのか……ぜひ、貴女自身のその愛らしい目でお確かめになるといい。」


それは明確な脅しであり、皮肉だった。「私がいなくなれば、誰が国境を守るのか」という事実を、彼女は突きつけたのだ。


「それでは、失礼」


セシリアは王太子に頭を下げることすらせず、短く告げると、軍人のような鋭い回れ右をした。彼女はドレスの裾を蹴り上げるようにして歩き出し、会場の入り口付近に待機していた一族の騎士団長へと目配せをした。


「行くぞ、エルウィン。こんな茶番劇、一秒たりとも付き合っていられん。」


「はっ!」


騎士団長と数名の精鋭騎士たちが、ガシャンと音を立てて広間の床を踏み鳴らし、セシリアの後ろに続いた。その一団が去っていく姿は、舞踏会からの退場というよりは、敵地からの撤退作戦のように迅速かつ統率が取れていた。


ルーシーもまた、侍女を伴い、静かに、しかし決して振り返ることなく会場を後にした。彼女の背中は、最後まで完璧な公爵令嬢としての威厳を保っていた。


残されたのは、凍りついた大広間と、状況を理解できずに立ち尽くす人々だけであった。


国王バートラムは、顔面蒼白で椅子に崩れ落ちた。「終わった…」と唇を震わせる彼の声は、誰にも届かなかった。


壇上のヘンリーだけが、自分が成し遂げた「正義」に酔いしれ、マリアの肩を抱きながら満足げに微笑んでいた。


「見たか、マリア。悪は去った。これで僕たちの愛を邪魔する者はいない」


しかし、会場の貴族たちは、もはや王太子を称賛する者など一人もいなかった。賢明な者たちは、青ざめた顔で計算を始めていた。公爵家の経済力と、辺境伯家の軍事力。国の両輪とも言える二大勢力を、王家は自らの手で切り捨て、侮辱し、追放したのだ。


シャンデリアの光は変わらず煌びやかに降り注いでいる。だが、その光はもはや温かさを失っていた。


誰もが肌で感じていた。この宴は、ただの卒業パーティーではない。 これは、王国の崩壊へと続く、最初の、そして決定的な、冷たい宴となったのだと。


ざわめきすら消えた大広間に、グラスの氷が溶けて崩れる音だけが、不気味に響き渡った。

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