おれじゃない!
「あの、お客様。お加減が悪いのですか……?」
……おれは絶句した。お加減が悪いのですか、だって? 悪いのですか? はあ!? ――と、喉まで込み上げた怒声をどうにか飲み込んだ。
だが客室乗務員の女は、おれの怒りにまったく気づいていない。眉を寄せ、作ったような困った顔で言葉を続けた。
「他のお客様から、何度もお手洗いに立たれるのが気になると申されまして……。もしよろしければ、おなかのお薬をお持ちしましょうか?」
おれは乗務員の胸ぐらをつかんだ――もちろん、頭の中でだ。おれは常識を弁える男だ。それでも今回ばかりは本気で怒鳴りそうになった。
そこを必死で堪え、ただ深く息を吐くだけに留めた。そして、喉の奥から絞り出すように答えた。
「いや、大丈夫です……」
大丈夫です――。なんて恨めしい言葉なんだ。さっき「大丈夫」と言ったせいで、この地獄が始まったのだ。
乗務員は柔らかく微笑み、丁寧に頭を下げて去っていった。おれも小さく会釈し、仕方なく席へ戻る。“隣に死体が眠っている”席へ。ああ、思い出すだけで腹が立つ……。
出張の帰り、格安航空会社の機内。座席は通路を挟んで一列四席。おれはその通路側に座っていた。
離陸後、しばらくすると機内にはのどかな空気が漂い、おれもウトウトしかけた――そのときだった。
「がっ! あ、ぐっ……!」
窓側に座っていた男が突然苦しみ始めたのだ。いや、苦しんだのかどうかすらわからない。声をかける間もなく、男は目を見開いたまま動かなくなった。
おれは慌てて乗務員を呼び、ほどなくして機内にアナウンスが流れた。(「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」 このセリフを聞けたのは、正直ちょっとうれしかった)
やがて、老人の医者がよたよたと現れた。お前こそ途中で死ぬんじゃないか、と言いたくなるようなその医者は、男の脈を取るとすぐに首を横に振った。「残念ですが……すでにお亡くなりになっています」
やや芝居がかった口調だった。だが、それを茶化す者などおらず、乗客の間に驚愕のざわめきが広がり、すすり泣く声も聞こえた。
男は一人旅だったらしい。持病の有無など詳しい事情は不明だが、医者は「おそらく心臓発作だろう」と言った。
おれは濡れ衣を着せられることもなく――驚きのあまり、そんな心配をする余裕もなかったが――ただ、その男を哀れんだ。
だがそれも、ほんの束の間だった。乗務員たちがひそひそと話し合い、やがて通路に立っていたおれに声をかけてくるまでの……。
「あの、お客様……大丈夫ですか?」
「ええ、まあ……驚きましたよね……」
「はい……。それでは、通路に立ったままでは危険ですので、お席にお戻りください」
「はい……ん?」
「どうぞ、お座りください」
「いや、あの、こちらの方は……?」
おれは手のひらで遺体を指し示した。
「そのまま?」
「はい……空席がなく、このままということで……」
「じゃあ、ずっと? 到着まで? 死体の隣に座るってことですか?」
「申し訳ございません。床に寝かせるわけにもいきませんので……」
「まあ、それはそうですけど……」
「大丈夫ですか?」
「……まあ、はい……大丈夫です」
そう言うしかなかった。周囲から視線を向けられており、ここで文句を言えば白い目で見られるのは明白だった。代案もなく、おれは死体の隣に戻るしかなかった。
だが、その居心地の悪さときたら比類がない。そもそも席が狭い上に、ひじ掛けは共用。膝がぶつかることもしばしば。今は死体を窓際に押しやっているが、その存在感は肌で感じられる。
ちらと横を見ると、先ほど二列前の席に座る老婦人が気を利かせて顔にかけた、花柄のハンカチが目に入った。そのひまわりの模様がちょうど目の位置に重なっていて、こっちを見ているような気分になる。
おれは何度も席を立ち、トイレに逃げ込んだ。だが四度目に戻ろうとしたところで、ついに乗務員に止められたのだ。
お加減が悪いか? ああ、悪いとも。胸の奥がむかむかして吐きそうだ。二度とこの航空会社を使わないよう、上司に進言しよう。……却下されるのは目に見えているが。
「あの、すみません……」
おれは通りがかった乗務員を呼び止めた。
中年の女の乗務員が手を腹の前で組み、卑しい坊主のような作り笑いを浮かべて立ち止まった。
「はい、なんでございましょう」
「本当に他に空席はないんですか?」
「ええ、申し訳ございませんが満席でして……」
「親子連れは? たとえば、子供を膝に乗せてもらうとか……」
「ふっ」
乗務員は小さく鼻で笑った。細めた目の奥に冷たい光がちらりと覗いた。たぶん、こう思ってるのだろう。『これだから子育て経験もない未婚の男は……』と。もちろん、おれだって子供を長時間膝に乗せるのが無理なことくらい想像できるが、隣に死体があるのだ。断られるとわかっていても、口にせずにはいられなかった。
乗務員は軽く会釈して去っていった。
気にしないようにしよう。もう、そうするしかない――おれは自分にそう言い聞かせ、目を閉じた。なに、大したことじゃない。この短時間で腐るわけでもないし、武勇伝が一つできたとでも思えばいい。会社に戻ったら、少し脚色して話してやろう。そうだな、おれが咄嗟の処置で命を取り留めたが、結局――
「……オエップ」
は……? 今……。
おれは死体に視線を向けた。そしてすぐ反対側へ振り返った。通路を挟んで隣の席の中年の女が、怪訝そうにおれを見ていた。おれが首を横に振ろうとした瞬間、女はそっと視線を逸らした。
おれは死体に再び目を戻した。見た限り、変化はない。だが確かに今、ゲップしなかったか……?
まじまじと見つめていると、前の席から咳払いが聞こえ、おれはビクッと跳ねた。
「違うんだけどなあ……」
とりあえずそう呟いてみた。本当におれがゲップしたわけじゃないのに、なんたる濡れ衣だ。
かといって、死体がゲップするなんて……いや、そうか。これが死後反応というやつか。筋肉が弛緩して、体内のガスが漏れたのだ。正しいかは知らないが、そう思えば納得できる。
ハンカチが少しずれていたので、指先でそっとつまんで元の位置に戻してやった。
――プ~ゥブボッ、ブプピピピピ……
は……?
おれは反射的に通路のほうへ振り返った。さっきの女が汚物でも見るような目でおれを見ていた。前の席からはまたいくつか咳払いが聞こえた。さらに、抑えた笑い声も混じる。
違う、違う、おれじゃない。こいつだ、この死体だ。しかも、下痢のときの音だ。大丈夫なのか? 今に漏れ出すんじゃないだろうな……。そうなったところで損害をこうむるのは航空会社だが、巻き添えを食うおれもたまったもんじゃない。そして何より、誤解されたままでは、あまりにも腹立たしくて屈辱的だ。
「あの、すみません……」
「はい?」
おれは通りがかった乗務員を呼び止めた。さっき、おれがこれ以上トイレへ行くことを咎めた女だ。
「その……この死体、いや、ご遺体からガスが漏れているみたいなんですけど……」
「ガス?」
「はい、ゲップとか、屁とか……」
「屁? ……あー、やっぱりおなかのお薬を持ちしましょうか?」
「え?」
「ふふっ」
「ははっ」
「ぷー」
「こらっ」
機内のあちこちから笑いが漏れた。乗務員も頬を引きつらせ、笑いをこらえていた。おれの顔は一気に熱くなった。
「いや、ちょっと待ってください。何を勘違いしているのか知りませんけど、おれじゃないんですよ!」
「はい、ふふっ。失礼いたしまーす」
乗務員は意地の悪い笑みを浮かべたまま去っていった。なんて質が悪いんだ。格安なだけある。ああ、もう知ったことか。こいつが糞を漏らして席を汚したとしても、おれは知らん。そのときは、ほら見たことかと煽ってやろう。臭い臭いと騒いで掃除させ、駄々をこねて、そうだ、コクピットに席を移してもらおう。どうせ副機長なんて大した仕事はしていないだろう。おれが座ったっていいはずである。
おれは鼻から長く息を吐き、背もたれに体を預けた。すると、かすかに鼻を突く臭いがした。もしかすると、すでに少し漏らしているのかもしれない。
おれはそっと男の股のあたりに視線を落とした。湿ってはいないようだが……。
おれは死体の腹に手を伸ばした。
――ぐぎゅるる……
腹を押すと、低い音が鳴った。前の席からまた小さな咳払いがした。後頭部がわずかに動き、こちらを気にしているのがわかる。
おれは気にせず、続けて三回、腹を押した。若干の反発はあったものの、指はずぶりと腹に沈んだ。
――ピ~プ~
また屁が出た。ただ今度は控えめな音で、他の乗客に聞こえたかは微妙だった。さらに数回押すとピシュ、プシュと湿った音が続いた。
ふわりと糞の臭いが漂ってきて、おれは顔をしかめた。
「ウェ……」
今度はやや上を押した。するとゲップが出た。どうやら、今のは胃のあたりだったらしい。となると、もっと下か。
おれは身を乗り出した。その拍子に、死体の頭がおれの肩に触れた。舌打ちし、頭を押して窓のほうへ追いやる。だが、しまったぞ。今度は尻がこっちに向いた。これではもろに食らうことになる。
おれは死体の頭を掴み、元の位置に戻そうとした。だが、どうもうまくいかない。体がふにゃりと前のめりになってしまうのだ。後ろに下げると横を向き、また戻せば倒れそうになる。芯のないやつだ。
いや、まずいぞ。こんなところを誰かに見られたら神経を疑われる。焦って戻そうとするがうまくいかず、おれはだんだん苛々してきた。そもそも、お前のせいでこうなってるんだぞ――
「クソッ!」
やった。つい、やってしまった。気づいたときには、拳が男の腹を叩いていた。
――ブビブブブビビビビビビブブブブビビブブブ……!
直後、見事な屁が機内中に轟いた。同時に凄まじい悪臭が広がった。乗客はどよめき、服が擦れる音がそこかしこからし、椅子の軋む音も混じった。何人か立ち上がり、背伸びしてこちらを見ているのだろう。
だが、おれは死体から目を離せなかった。男のズボンがみるみるうちに濃い色へと変わっていく。尿も漏らしたらしく、それが座席にまで滲んでいった。
誰かの悲鳴が上がった。慌てた足音が迫り、おれが顔を上げたちょうどそのとき、乗務員が駆け寄ってきた。
おれは勝ち誇った笑みを浮かべ、口を開いた。
「ほら、この死体が――」
「こいつがやったんだ!」
その瞬間、ハンカチが床に落ちた。振り向くと、死体の男が青白い顔でおれを見ていた。
白目を剥き、次の瞬間、男はぐしゃりとおれの膝に崩れ落ちた。
おれは漏らした。




