【2038年1月19日】 第6章
目の前の俺は、しょんぼりとうつむいているのに対し、俺の頭の中は呑気なものだった。
――やり直せる。うまくやれば成功する未来が待っている。普通? いや、逆に変えたらおもしろいことになるんじゃないか。
そんな軽い高揚に浸っていた。
すると目の前の自分がハッと顔を上げて言った「てか、このあとどうするの?」
「……確かに」
まさか子供の俺にまともなことを言われるなんて。
両親や姉が瓜二つの俺らを見たら、どうなるか。パニックは必至だ。
「それに、俺、このあと友達と遊びに行かないと」
目の前の俺が付け足した。
「えっ?そうなのか?」
「うん」
「……始業式だから早く帰って来たんだもんな」
これは迂闊だった。とにかくいまは、もう一人の自分とどうするかを打ち合わせするしかない。
「わかった、ここから先は何が最適かを一緒に考えよう」
俺は九歳の自分を見据えて言った。
「でも、いまは押し入れに隠れるしかないでしょ」
目の前の俺がそう言った。
「押し入れに? いやいや、ずっとそこは勘弁してくれ。 しかも押入れは母ちゃんが開けにくることよくあるだろ」
「じゃあどうするん?」
「だから、それを考えようって言ってるんだろ」
俺は少し苛立ちを感じた。目の前の子供の自分が何も考えてない思考にもそうだが、これは自分に対しても少し苛立ちを感じてしまう。
俺は少し間を置いて言った。「……そもそも見た目は一緒なんだから、バレないだろ」
「あー……そうか」
案外すんなり納得してくれるんだな。さすが子供だ。
「外で遊んでる間、俺は家で普通に過ごす。みんなに話しかけられても、うまく合わせるよ」
「えー、バレない?」
目の前の俺は心配そうに眉をひそめた。
「大丈夫、四十九年も生きてりゃ、多少は演技も板についてる」
そう言ってみせたものの、自信があるわけではない。
「じゃあ、俺が友達と遊んで帰ってきたら?」
そこで言葉が詰まる。確かに、帰ってくる時間なんて読めやしない。
「……いいさ、もう開き直ろう」
俺は息を吐いた。
「とにかくお前が帰って来たら、すぐ部屋に戻ってこい。そこで二人して三人のところへ行って、“バーン!”と、二人揃って登場して驚かせる。びっくりさせて申し訳ないけど、早い段階で説明した方がいい」
「……それって、ただのドッキリじゃん」
「でも、いつかは必ずバレる。だったら最初に全部ぶちまけたほうがいいだろ? 俺はそう思う」
目の前の俺はぽかんと口を開け、それから呆れたように言った。
「四十九歳のくせに……」
「なんだよ、それが俺なんだぞ。お前は俺だ。 むしろ早いうちに家族には理解させることで、変な苦労が減るぞ」
目の前の俺は「うぅん」と納得するよりかは仕方なく頷いている感じだった。
「とにかくまずは目の前のことを少しずつ解決するしかない。それが家族だ。家族の理解を得る。そして友達……まぁ友達はまだいいな」
「友達は無理だよ……てかもう遊んでくるから」
目の前の俺はそっけなく言う。
「……わかった、気をつけて」
すると、目の前の俺はきょとんとしていた。
「ん? どうした?」
「いや、別に……行ってくるよ」
目の前の自分は顔をそむけ、わずかに頬を赤くしながら急ぎ足で階段を下りていった。
――なんだ?
胸の奥で引っかかり、すぐに気づく。
あぁ、そうか。
“気をつけて”
そんな当たり前の言葉なのに、子どもの頃は言った記憶がない。
ありがとうも、ごめんなさいも、どれも喉の奥でからまって出せないまま、いつも口ごもっていた。だからこそ、大人になった俺の一言が、図らずもあいつの心を照らしてしまったのだ。
「はぁ……成長っておもしろいな」
誰に向けるでもなく、ふっと笑いながらつぶやいた。
やがて玄関の扉が開き、閉まる音が響くと、静けさが戻った。
俺はそっと、二階の窓から覗き込むようにあいつの後を追った。
すぐに端からマウンテンバイクにまたがり、ペダルを勢いよく踏む。小さな背中が颯爽と道路を駆け抜けていき、やがて角の向こうへ消えたのを、確認する。
「よし、無事に行ったな」
肩の力が抜け、ようやく自由に歩き回れる気楽さが広がる。
「さて……桜井新一の建物探訪といきますか」
まずは部屋をぐるりと見渡す。
俺の部屋はもともと九畳ほどの広さがあったが、タンスで仕切られ、半分は両親の寝室、もう半分が俺のスペースになっている。
壁や天井はまだ新しく、木の匂いがほんのりと残っていた。
「この当時はまだ家が建って……六年くらいか。たしか幼稚園の頃にできたんだったな」
呟きながら部屋を出ると、階段を挟んだ反対側には姉の部屋がある。
ふと足を止めると、リビングを見下ろせる吹き抜けがあったことを思い出した。部屋に侵入した時は気付かなかったが、ここは俺が高校生くらいの時に、大工技能の資格を持っている叔父が足場を組んで床を作ってくれたのだ。
あの頃は広々とした空間で、母親の「しんいち、ご飯ー」という声がよく響いていた。
思春期の頃には、部屋で何かをコソコソやっても丸聞こえだったと思うと、妙に恥ずかしい。実家は構造的に音が響きやすい家だった。
階段を下りると右手にトイレ、正面奥に玄関。
玄関から外へ伸びるアプローチは、昔はただの砂利道だったが、後に叔父がコンクリートでしっかり整えてくれた。さらに成人後には駐車場に屋根まで付けてくれたのを覚えている。
吹き抜けといい、身内に大工仕事ができる人がいるのは、こういう時つくづく心強い。
玄関を入ってすぐ右手には和室。
その隣は父の仕事場で、さらに奥にリビングが続く。リビングの隣にはもう一つの和室があり、家全体が緩やかにつながっている。
ダイニングへ足を運ぶと、カウンター式のキッチンが目に入った。
俺はすぐにキッチンに行き冷蔵庫を開けてみると、カルピスや麦茶の入ったピッチャーが鎮座しているのを見て、思わずコップに注ぎ、一気に流し込む。冷たさが喉を落ちていく感覚に、思わず目を閉じる。
「……うまい」
奥にヨーグルトを見つけては、勢いよく取り出し、棚の引き出しからスプーンを取って口に運んだ。砂糖を入れないこの酸味がいまは好きだ。当時はグラニュー糖を入れて甘いフルーツヨーグルトをよくおやつに食べていたのを思い出した。
ヨーグルトを食べながらカウンターの方を見ると封が開いていないようなカステラがあった。
もうここは”俺の家”だと思うと抵抗なんてもんはなく、無我夢中でカステラを頬張った。
しっとりとした生地が口の中に広がり、子どもの頃の記憶が一気に押し寄せる。
「……カステラって、こんなに旨かったっけ」
誰もいない家の静けさの中で、俺はすっかり時を忘れていた。
カステラの甘さを口の中で転がしながら、ふと奥の和室に目をやると、そこに鎮座していたのは、懐かしい日立のブラウン管テレビだった。角ばった筐体、分厚いガラス、妙に重そうな存在感。
リモコンはテーブルに置かれていたが、自然と足はテレビの方へ向かう。
指先でバネのように沈む電源ボタンを押すと、「ボフッ」という小さな音とともに画面の端がじわじわと明るくなった。
映し出されたのは夕方のニュース番組。キャスターの髪型も、流れるテロップの書体も、どこか時代を感じさせる。
俺はリモコンを取らず、テレビ本体のチャンネルを切り替えてみた。
画面には『ちびまる子ちゃん』の初期の再放送が映る。少し粗い画質、丸っこいキャラクターの声が部屋に響く。
さらにチャンネルを変えるとCMが。それは永谷園の麻婆春雨に和田アキ子が登場し、力強い声で宣伝している。
「そっかー、このときはアッコさんやってたかぁ」
思わず口の中でつぶやく。
続いて流れたのは、オレンジジュース「なっちゃん」のCMだった。田中麗奈のあどけない笑顔が、画面いっぱいに広がる。
「懐かしい……なっちゃんといえば田中麗奈だよな」
胸の奥に懐かしさが込み上げてくる。
映像と音と匂いが重なり合い、四十年前の空気がそのまま蘇ってくるようだった。
そのとき、”ドン”と外の気配を拾った。俺はハッとして窓の外をそっとのぞくと、車庫段差スロープの音に続いて、車のエンジンが止まる。駐車場に戻ってきたのは、母だった。
――来た。
母が買い物袋を抱えて車から降りてきていた。
(慌てるな、慌てるな……)
自分に言い聞かせながら、一旦座り込むと、なぜか姿勢は正座に。
さっきまでは『大丈夫、四十九年も生きてりゃ演技くらいできる』なんて大見得を切ったくせに、いざ本番が迫ると心臓が妙に落ち着かない。
「とりあえず、このままテレビを見ていても変ではないよな?」
”ガチャッ”と、玄関の扉が開いた。
次いで、こちらへ真っ直ぐ近づいてくる足音が畳を震わせた。
「おかえりー」
その声を聞いた瞬間、甘いカステラに舌を奪われていた喉が勝手に固まった。
顔を向けられず、視線を画面に縫いつけたまま、かろうじて声を絞り出す。
「……ただいま」
返事は思春期特有の素っ気なさを纏っていた。だが、もしかしたらその不器用さが、かえって当時の俺らしさを演じる結果になったのかもしれない。
母は買い物袋を台所に置き、洗面所で手を洗い、うがいをしてから冷蔵庫に食材をしまい始めた。
すると母は、ちらりとこちらに目をやる。
「おいー、しんいち、カステラこぼさないでよ」
小さな注意。
そして一瞬の間を置いて、母の目が俺の服に止まった。
「……その服、前からあったっけ?」
ドクン、と心臓が跳ねる。
そうだ、この服は2038年から持ってきたもの。ダボついたシルエットに、親が選ぶはずもない色。
「うん」
短く返すと、母は深追いせず、テレビを見ている俺を通り過ぎ、窓を開け放ち、ベランダに出て、干してあった洗濯物を淡々と取り込み始めた。
(……バレてないんだ)
まぁ、見た目は九歳の俺だからな
取り込む母の横顔を、気づけばじっと見つめていた。
今と違って肌は張りがあり、声にも力がある。皺も疲れも見えない。
あまりの違和感と同時に、どうしようもない懐かしさが胸の奥からこみ上げてきた。
――なぜか涙腺がじわりと揺るむ。
「……なんだ?」
自分でも理由のわからない震えが、声に混じっていた。
俺はそっとテレビの電源を落とした。
長く浸っていると、おかしなことになってしまう。気持ちを立て直すために洗面所へ行って、冷たい水で顔を洗う。ひんやりした水滴が頬を伝い落ち、少しずつ理性が戻ってくるのを感じた。
とはいえ、このままリビングにいるのは危険だ。姉や父が帰ってきたら、さすがに動揺が隠せない。俺は二階の自分の部屋に戻ることにした。
窓辺に立ち、ときおり外を覗く。
ちょろちょろとランドセルを背負った小学生の高学年や、制服姿の中学生が家々に帰っていくのが見える。
夕方の空気が、少しずつ町全体を包み込んでいた。
そのとき、玄関の扉が開く音が響いた。
「ただいまー」
高めの声が家に広がる。
――姉の声だった。
階下から響いたが、俺は部屋を出なかった。
いまは顔を合わせるのは避けるべきだ。
下手に外へ出るわけにもいかないし、テレビを見に和室へ戻るのも気が落ち着かない。
この当時、俺のやることといえば、外で遊ぶか、テレビゲームをするか――ほとんど二択だ。つまり今の俺には、やることがない。
ふと頭に浮かんだ。和室にラジコンやゲームボーイ、九〇年代に一世を風靡したスーパーヨーヨーなんかも置いてあったはずだ。けれど、今はあそこへ戻る気にはなれない。
代わりに勉強机の引き出しを探ってみることにした。
出てきたのは複数の匂い消しゴムやたくさんの鉛筆ばかりで、大したものはない。ちょっと”あれ”を期待していたが、まぁ、小四の頃だ。そんなもの、まだあるわけない。
思い返せば、初めてそれに手を出したのは中一の頃だった。
土曜の昼下がり。小さなアディダスの黒いポシェットを肩にかけ、挙動不審で三本松のセブンまで向かった。
例の物を吟味せずサッと掴み、他の雑誌でカモフラージュしながらレジに持っていき、たしか親からもらった小遣いで会計を済ませたと思う。
帰る道中も「俺はすごいことをした」と感じながら帰ったのを今でも覚えている。
家に戻ると、心臓がバクバクしたまま部屋に駆け込み、震える指先でページをめくった。
あの時の、体が宙に浮いたような異様な感覚――要るのか要らないのか、早すぎる経験だ。
……とにかく俺は、それに関してはどうしようもなく早熟で拗らせた子供だった。
現実に戻り、再び別の引き出しを探ってみると、奥から出てきたのはコロコロコミックの束だった。
ページを開くと、独特のインクの匂いがふわっと立ちのぼる。
四月号にはポケモンの新作――金・銀という独占情報が載っていた。
「……金銀? そんなのあったっけか」
思わずつぶやいてしまう。
そして誌面には、まだ見ぬポケモンのシルエットや新しいマップのイラストが描かれ、子どもたちの期待を煽る記事が堂々と掲載されていた。
気づけば、当時のようにワクワクしながら読み始めてる自分がいた。
ミニ四駆やビーダマンの記事、ギャグマンガの連載が詰め込まれていて、あの頃の空気まで蘇ってくる気がした。
時々窓から外をのぞき、あいつが帰ってくるかどうかを伺いながら、俺はしばらくその時間を有意義に潰していた。
すっかり日が暮れて、外は闇に包まれていた。
時計を見ると、もう十七時三十分を回っている。
(あいつ、遅いな……)
窓の外を覗くと、ライトを点けた自転車が一台、こちらに近づいてくるのが見えた。薄暗くてわかりにくいが、なんとなくのシルエットであいつだとわかった。
声をかけようかと思ったが、ここでトラブルが起きるとまずいので俺はじっと部屋で待った。やがて玄関の扉が開き、階段を少しずつ、ゆっくり上がってくる気配がする。ぎこちなく忍び足で――音を消そうとしているのかもしれないが、逆にその足音がよく響いている。
ドアが少し開き、あいつが顔をのぞかせた。
「おう、どこまで遊んできた?」
「コミに行ってきたんだよ」
(コミ――コミュニティセンターのことを、みんなそう呼んでいる)
「こっちはやることなくて、コロコロの四月号を繰り返し見てたよ」
「ずっと?」
もう一人の自分は怪訝そうな顔をしている感じだった。
「……母ちゃんと姉ちゃんいるけど、どうだった?」
「うーん、母ちゃんとは少し話した。でも姉ちゃんにはまだ会ってない」
「ふうん……」
「父ちゃんがまだ帰ってないからとりあえず来るまで待とう。そしてから一緒に登場ということで……ああ、そうだ。階段を上がる時、咳払いを三回しながら来て。じゃないと誰だかわかんないし、心臓に悪い」
「はは、はいはい」
そのとき、一階から母の声が飛んできた。
「風呂沸いたから、どっちか入ってー!」
二人して同時にドキッとした。俺は思わず小声で言う。
「どうする?」
すると、もう一人の俺が耳をかきながら答えた。
「あっ、でも姉ちゃん音楽聴いてて気づいてないから……俺が先に入ってくるよ」
「そうか。じゃあ頼んだ」
俺はそう言って部屋に残る。というより、ここで待機する他ない。
しばらくすると、姉の部屋から音楽がふっと消え、ドアが開く音と同時に足音が廊下に広がった。思わず心臓が跳ねたが、そのまま階段を降りていった。
(こんなに緊張が続いたら、心臓がもたないな……)
しばらく経つと、咳払いを三回しながら階段を上がってくるあいつが戻ってきた。ドアを開けると同時に、廊下の奥から油の匂いがふわりと流れ込んでくる。
「今日の飯、何?」
「コロッケ」
「おう!コロッケか」
俺は母の作るコロッケが好きだった。特別変わった味付けではないが、お袋の味というやつだ。しかし喜んでいる暇はない。このあと家族に説明したところでどういう展開になるか。
そこへ――車庫の段差を越える「ドン」という重たい音が響く。
――父が帰ってきた。
玄関の扉が開く音がして、すぐに声が響いた。
「ただいまー」
この瞬間から、あとは全員が揃って食卓に集まるまでの流れを見守るだけだ。
俺ともう一人の俺は、改めて顔を見合わせる。
「……じゃあ、予定通り。最後は二人一緒に“登場”ってことで」
「うん」
「絶対に慌てるなよ」
「わかってるって」
そんなやり取りの最中、下からガラガラと水音が響いてきた。
父のうがいの音だ。しかも最後は喉の奥に溜まった痰を吐き捨てるような、あの濁った音。
思わず俺はぼそりとつぶやいた。
「……いまの俺みたいだなぁ」
子どもの俺は顔をしかめていた。
「お前もそのうち、あーなるんだぞ」
笑って言うと、子どもの俺は小声で「うそー」と半信半疑な顔でつぶやいた。
リビングから父特有の足音を響せ、テレビからニュースらしき音声が聞こえた。
いつもの夕飯までのリラックスタイムだろう。
やがて、風呂場の戸が開いて姉が上がってくる気配がし、家中が一時的に落ち着いた感じがした。
その間にもキッチンからは油の音や食器のぶつかる音がしていて、もう少しで料理が出来上がる気配が漂ってくる。
これが桜井家のいつもの流れだったと思うと、また懐かしい思いに浸ってしまう。
そのとき、リビングから母の声が響いた。
「しんいち、ご飯ー」
――いよいよか
俺ともう一人の俺は互いにうなずき合い、階段へ向かった。




